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弁護士コラム・論文・エッセイ

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弁護士 筑紫 勝麿(客員)

2016年09月01日

こんぴら歌舞伎

(丸の内中央法律事務所報No.29, 2016.8.1)

春のこんぴら歌舞伎

桜の季節に、友人夫妻と一緒に四国こんぴら歌舞伎大芝居を見に行った。この夫妻は10年来のこんぴら歌舞伎の大ファンで、全てを手配し案内してくれたので大変ありがたかった。高松空港から、田園風景が広がる春ののどかな讃岐路を走って琴平の町に入ると、多数の幟が出ていて一気に雰囲気が盛り上がった。四国こんぴら歌舞伎大芝居は、このような風景の中で、日本最古の歌舞伎小屋である金丸座で毎年春に行われている。

今年で32回目となる公演では、四代目中村鴈治郎襲名披露が行われ、中村鴈治郎、坂田藤十郎、中村扇雀、市川中車、片岡愛之助などの豪華な出演で、4月9日を初日として24日まで、昼と夜の二部公演が行われたが、このうち一日目の夜と二日目の昼の部を見物した。

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金丸座の正面

こんぴら歌舞伎の魅力は、何と言っても、舞台の役者と桟敷の観客との距離の近さであろう。役者の演技をすぐ近くの升席から見ることができるので、顔の表情や手足の動きが手に取るように分かり、息遣いまでが聞こえてくるようだ。また、義太夫の語りやお囃子もビンビン響いてくる。その臨場感は何とも言えず、身体全部で歌舞伎を感じるようになる。

こんぴら歌舞伎と比べると、東銀座の歌舞伎座の舞台は、遠くから眺めるような感じになり、例えて言えば、室内からガラス越しに花火を見ているような感じになってしまう。

中車、愛之助、四代目鴈次郎

関係者によると、今年のこんぴら歌舞伎は、当代人気の中車や愛之助が出演するというので前評判が高く、公演当日も、「らぶりん」(愛之助のニックネーム)と目が合ったとかで女性のファンが大騒ぎであった。この二人が出演した「あんまと泥棒」は、愛之助が演じる泥棒の威勢の良さと、中車が演じるあんまのしたたかさが面白く、泥棒とあんまの立場が次第に逆転していくにつれて、それぞれの表情が変化していくところが実に味わい深かった。

四代目鴈治郎も熱演で、「幸助餅」では、舞台に向かって右手にある仮花道から左手にある花道まで、舞台に戻らずに、観客席の升席の間にある狭い仕切り板の上をショートカットして走って行って、観客のやんやの喝さいを浴びた。

舞台装置も手作り感があって温もりがあり、例えば「鷺娘」では、天井に仕掛けられた「ぶどう棚」から客席一面に紙吹雪が降ってきたり、「あんまと泥棒」で舞台の場面が夜明け近くになってくると、二階にある明かり窓が人の手で順番に開けられ、自然の光が入ってきて朝が来た情景になるなど、江戸時代の芝居小屋の風情を楽しむことができた。

そして最後に、芝居が終わって木戸をくぐって外に出ると、周りの山々の緑が美しく、自然に囲まれての芝居見物が何とも言えず風情のあるものであった。

江戸時代からの歴史

こんぴら歌舞伎の歴史は、江戸時代に遡り、天保6年(1835年)に常設の芝居小屋が開設された。以来、江戸、上方の役者が出演して人気を博したという。

なぜ、四国・琴平町に芝居小屋ができたかと言えば、金刀比羅宮の力が大きい。琴平町の象頭山(ぞうずさん)の中腹にある金刀比羅宮は、全国に約600社ある金比羅神社の総本宮で、象頭山が瀬戸内海を航行する船の目印になっていたことから、船の守り神として祀られてきた。江戸時代になると、金毘羅参りはお伊勢参りに次ぐ人気となって多くの参拝者でにぎわうようになり、人々が集まるところには芝居はつきものということで、当初は仮設の小屋が作られていたようだが、これが常設の小屋になって金毘羅大芝居が演じられるようになっていった。

ところが、昭和になって金毘羅大芝居の人気が下火になり、芝居小屋が数十年間放置されるような事態になった。しかし昭和45年(1970年)に日本最古の芝居小屋としての価値が認められて、国の重要文化財に指定された。そこから文化財としての保存プロジェクトが動き出し、現在地への移築復元工事が行われた。そして、昔の金毘羅大芝居を復活させようという動きが盛り上がり、昭和60年(1985年)に第1回四国こんぴら歌舞伎大芝居が始まり、今年で32回を数えるに至ったわけである。

海の守り神ー金刀比羅宮

四国・琴平町に来たからには、金刀比羅宮にお参りしようということで、二日目の朝、785段の階段を登って御本宮にお参りした。四方正面造りの本殿は、総ヒノキ造りで釘一本使っていないという。明治11年(1878年)の改築を最後に138年が経過しているが、豪華かつ雅な建築物で、これだけの寄進をした人々の信仰の深さが感じられる。参道の階段脇にも全国の船会社から寄進された石柱が無数に並んでいた。本殿前の広場からは、讃岐平野そして瀬戸内海が見渡せ、広々とした景色が広がる。

金毘羅参りは江戸時代に盛んになり、江戸をはじめ東日本からも人々がお参りに行ったが、いろいろな理由でお参りに行けない人達もいた。そこで、その人達のために代参が行われ、知人などに旅費や初穂料を託してお参りしてもらったわけだが、参拝者の中には「こんぴら参り」と書いた袋を首にかけた犬の姿も見られたという。袋の中に飼い主を記した木札や初穂料、道中の犬の餌代などを入れて、飼い主が讃岐方面の旅人に託したのである。犬は、旅人から旅人へと連れられ、街道筋の人々に世話をされ、やがて「こんぴらさん」にたどり着く。お宮では、御守り札相当の金額を袋の中から納めさせ、御守り札を包装して犬の首にかけ、犬は再び旅人などの世話になりながら、無事に飼い主のもとに戻ったそうである。

このような犬は、特に「こんぴら狗」と呼ばれたが、江戸時代ののどかな風習により、立派に務めを果たしたのだろう。参道脇に「こんぴら狗」の像があるが、この像を見ながら平和な時代に思いを馳せて、思わず口元に笑みがこぼれてきた。

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参道脇にある「こんぴら狗」の像

(了)

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