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弁護士コラム・論文・エッセイ

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弁護士 筑紫 勝麿(客員)

2017年09月06日

古墳の話

(丸の内中央法律事務所報No.31, 2017.7.1)

はじめに

 私はこの1月まで東横線多摩川駅の近くに住んでいたが、我が家の隣は古墳であった。その古墳の名前は亀甲山古墳(かめのこやまこふん)と言い、国の史跡になっている。国の史跡で立入禁止なので、動物や鳥たちにとっては格好の棲み処になっていて、かつてはキジやタヌキが庭先まで来たことがある。また植物も、あまり人手を入れていないので自然林状態でうっそうと茂っている。お陰で緑豊かな自然を楽しむことができたが、他方で、一年の半分はやぶ蚊の出現などに悩まされた。
 城南地区のこの地域には、亀甲山古墳を初めとして沢山の古墳があり、荏原台古墳群と呼ばれている。多摩川台公園に古墳展示室があり貴重な資料が展示されているが、以下、その資料などに基づいて古墳の話をしてみたい。

城南地区の古墳群

 多摩川下流沿岸、大田区田園調布、世田谷区尾山台・等々力・野毛といった、かつての武蔵国荏原郡と呼ばれた地域には、古墳が数多く分布しており、田園調布を中心とする古墳群は田園調布古墳群、尾山台から野毛にかけての古墳群は野毛古墳群と呼ばれ、まとめて荏原台古墳群と呼ばれている。
 この一帯には、多摩川の水資源と広大で肥沃な平地を利用した、弥生時代以来の生産性の高い農耕社会があり、これを背景とした強力な首長の治める政治的集団が存在していたと考えられている。そして、古墳時代を通じて、この地域が、その首長と一族の墓地として利用されていた。荏原台古墳群では、古墳時代の全期にわたり古墳が築造され続けたが、その中で田園調布古墳群では前方後円墳、野毛古墳群では円墳が多く作られるなど地域によって墳形が異なる傾向がある。

亀甲山古墳

 亀甲山古墳は、大田区田園調布1丁目の多摩川台公園東南部にある前方後円墳で、荏原台古墳群で最大の古墳である。後円部の裾の一部を浄水場建設工事で削平されたほかは、原形をよく留めている。東京都内でも最大の古墳として東国の古代史研究上きわめて重要な位置を占めているとされ、1928年(昭和3年)に国の史跡に指定された。発掘作業が行われていないため出土品がないが、4世紀後半から5世紀前半ころの築造で、当時この地方に勢力があった首長の墓と考えられている。全長107m、前方部の長さ41m、後円部の直径48m、高さ10m。上には樹木が生い茂り、周りに柵があって中には入れない。
 この亀甲山古墳と同規模の大型前方後円墳として、小さな谷を隔てて向き合う形で宝莱山古墳(ほうらいさんこふん)があり、4世紀前半のものとされ荏原台古墳群で最古の古墳とされている。1934年(昭和9年)に宅地造成工事のため後円部が破壊された際に粘土槨が発見調査され、多くの副葬品が出土している。なかでも、四獣鏡(しじゅうきょう)は、中国の獣帯鏡(じゅうたいきょう)を模倣して日本で作られたもので、4世紀を中心に製造されたと考えられ、東日本の初期の古墳に副葬されることが多い。また、槍は、普段、守護兵が保持していた武器で、副葬品としては首長の権威を誇示するという意味が考えられるが、古墳時代前期に副葬され、後期では消滅するため、初期古墳の被葬者の性格をよく示している。1995年(平成7年)の発掘調査では、玉、剣、鏡といういわゆる三種の神器と呼ばれる宝器が副葬されていることから、大和政権との関係が強く感じられる古墳と言うことができる。
二つの古墳はほぼ隣り合わせに存在するが、亀甲山古墳の墳形は前方部がやや開く柄鏡形で、撥形前方部の宝莱山古墳に比べて新しいものであり、宝莱山古墳の次の世代の首長墓と考えられている。

kofun zenkei.jpg

資料1 亀甲山古墳の全景。上方が後円部、下方が前方部。

古墳の右側(西側)は多摩川で上(南)に向かって流れる。

出典)大田区古墳ガイドブック

kofun signtrimmed.jpg

資料2 国史跡 亀甲山古墳の案内板

日本史の中での位置づけ

 日本書紀では、武蔵国造の乱(むさしのくにのみやっこのらん)について、安閑天皇元年(534年)の頃のこととして記載されている。それによれば、武蔵国では、首長になる権利をいくつかの勢力の間で持ち回りしながら、代々の首長が引き継いでいた。しかし、引継ぎをめぐり、北武蔵の笠原直使主(かさはらのあたい・おみ)と南武蔵の笠原直小杵(かさはらのあたい・おき)の対立が起きた。小杵はずるがしこく心が高慢で、密かに上毛野君小熊(かみつけのきみ・おぐま)(今日の群馬県の首長)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は大和政権の朝廷に出向き、助けを願い出た。国家統一を成し遂げようとしていた大和政権は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを喜んだ使主は、横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を屯倉(みやけ)として大和政権に献上したという。この乱の主役の一人の小杵(おき)の本拠地がこの地域でもあったと考えられており、古代史的にも重要な場所となっている。
 田園都市線二子玉川の駅から多摩堤通りを下流に向かって走ると、次第に視界が開け、川の両側が平野地帯になるが、やがて多摩川が左の方に蛇行すると前方に小高い丘が見えてくる。この丘が多摩川台であり、川岸から見ると前にそびえ立つような地形である。一方、この丘の上に立つと、富士山と丹沢山系を遠くに眺め、その手前に広大な平野を一望に見渡すことができる。首長がこの一帯を治めるには誠に都合の良い場所であったのだろう。

musashi-kunitsukurinoran.jpgのサムネイル画像


資料3 南武蔵(多摩川流域)の小杵(おき)は、上毛野(群馬)の小熊(おぐま)と結んで、

北武蔵(埼玉)の使主(おみ)を殺そうとした。これを知った使主(おみ)は大和政権に

助けを求め、大和政権は小杵(おき)を誅した。(出典)大田区古墳ガイドブック

メタセコイア

 余談だが、我が家の近くの多摩川台公園には、メタセコイアの大きな木が二本生えており、東横線からも良く見ることができる。
メタセコイアは、1939年(昭和14年)に関西で、常緑種のセコイアに似た落葉種の化石として発見された。発見者は植物学者の三木茂博士で、セコイアの前に、「変わった」という意味の接頭語であるメタをつけてメタセコイアと命名し、1941年(昭和16年)に学会に発表した。
 当初、化石として発見されたために絶滅した種と思われていたが、1945年(昭和20年)に中国四川省の奥地で生木が発見され、「生きている化石」として世界のビッグニュースとなった。

metasekoiya.jpg資料4 日本のメタセコイヤと古墳展示室(多摩川台公園事務所)

 

 日本には1949年(昭和24年)に譲り受けられ、全国各地に植えられている。日本の気候に良く合って生育が早く、我が家でも種子から実生(みしょう)に育てて友人たちに配ったりしていた。多摩川台公園のメタセコイアもその頃に植えられたとすれば今年で68年になるわけで、夏の緑から秋の黄金色に色彩を変えて、年間を通して私たちを楽しませてくれる。

(了)

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