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弁護士コラム・論文・エッセイ

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弁護士 石黒 保雄

2007年08月25日

阪神大震災の記憶

 本年7月16日日曜日午前10時13分、いわゆる新潟県中越沖地震が発生した。この原稿を書いている8月1日現在で、この地震による被害は、死者11名、重軽傷者1957名、住宅損壊は22,852棟に達するとのことである。上記地震に関するその後の報道においては、専ら柏崎刈羽原子力発電所の安全性が大きくクローズアップされているが、ライフライン及び交通の遮断に関する情報、避難場所となっている体育館の映像あるいは仮設住宅の建設などのニュースに接するたびに、私自身が体験した阪神・淡路大震災(以下、「阪神大震災」と言う。)の記憶が思い出される。あれから早くも12年以上が経過しているが、常々この体験をありのままに文章に残しておきたいと考えていたので、この機会と思い以下に記憶を辿ってみることとする。

阪神大震災との遭遇

 阪神大震災は、平成7年1月17日火曜日午前5時46分に発生した。当時、私は司法修習生として、平成6年8月から実務修習地である神戸に赴任中であった。神戸では、三宮と神戸に挟まれた地域である元町にワンルームマンションを借りて住んでいた。そこは、15階建ての15階に部屋があり、西側のベランダからは神戸港やハーバーランドが見えるという絶好のロケーションであった。
ところで、平成7年1月15日日曜日は成人の日と重なっていたため、翌16日月曜日が振替休日であった。そこで、私は、15日に東京で開かれる友人の結婚披露宴に出席した後、翌16日の夜行バスを利用して17日早朝に神戸へ戻り、そのまま裁判修習のため裁判所に登庁することとした。

 16日午後10時頃にJR横浜駅を出発した夜行バスは、順調に高速道路を走行し、予定どおりであれば17日の午前6時半頃にJR三宮駅に到着するはずであった。
ところが、阪神高速道路の上を走行中であった17日午前5時46分、夜行バスのリクライニングシートの上で眠っていた私は、突然、下から突き上げるような物凄い衝撃を受けて目を覚ました。まさに体が浮き上がるような感じであり、その直後からは激しい横揺れに襲われた。私は、自分の荷物が頭上の網棚から落下してくる様子を見た瞬間、寝惚けた頭のまま、反射的に取らなくてはと思い立ち上がった。しかし、荷物はキャッチできたが、激しい揺れのために立っていられるはずもなく、荷物とともに座席横の通路に叩き付けられてしまった。

 私は、揺れがおさまるとすぐに席に戻り、カーテンを開けて対向車線を見た。まだ夜が明けておらずあたりは真っ暗であったが、すぐ前方に軽トラックが完全に横転し、荷台の荷物が散乱している様子が見えたため、これは凄まじい地震が来たんだなということが理解できた。現在であれば、すぐに携帯電話を取り出して誰かに電話をしたり情報収集を行うところであるが、当時は携帯電話が出始めた頃で、所有している人の方が圧倒的に少なく、当然、司法修習生の立場にある私も持っていなかった。その代わりとはいえないが、ラジオ付きのカセットテープ用ウオークマンを持ち歩いていたため、すぐにNHKラジオをつけてみたところ、確かに大きな地震が発生した模様であるが、細かな情報はまだ不明とのことであった。

 しばらくすると、高速バスの運転手がバスを下りて路面の状態を見に行ったが、間もなくバスに戻ってきて、「道路がガタガタでこれ以上動けないので、運転を中止する。近くに高速の入口があるので、そこまで歩いて高速道路から出て欲しい」旨を述べた。バスの乗客は15名前後であったが、私も含め口々に「大変なことになりましたね」、「電車は大丈夫でしょうかね」などと話しながら、暗い中連れだって深江の入口を逆行して下りていった。

 しかし、その頃から、NHKラジオが次第に各地の震度を報じるようになり、大阪が震度4、京都は震度5であったことが判明した。しかし、神戸の震度についてはいつまでたっても報じられず、おかしいなと思っているうちに、次第に夜が明けてきて、周囲の状況が見えてきた。ところが、それは、これまでの人生において見たことがない惨状であった。

震災直後の神戸市内

 まず、家という家がことごとくその形を崩していた。原形をとどめている家もあったが、至るところに倒壊してしまった家が見られた。そして、完全に潰れたアパートや、真ん中の階層部分が潰れたマンションもあちらこちらに見られた。道路には大きな亀裂が生じ、水が噴き出しているところもあった。

 時刻にすればまだ午前6時20分頃であったと思うが、町中が静まりかえっていた。私を含めバスを下りた乗客は、最寄りの駅であるJR摂津本山駅を目指して歩いていたが、このような光景を目の当たりにして、誰もが黙り込んでしまった。
そして、私は、JR摂津本山駅が見えた途端、この地震の本当の恐ろしさが身に染みて感じられた。すなわち、駅舎がぺしゃんこになっていたのである。バスの乗客たちは、このような状況で電車が動くはずがないことを悟り、そこで三々五々自宅を目指して歩くことになった。

 しかし、私の場合、自宅のある元町まで、そこから約10キロメートル以上歩かなければならなかった。幹線道路である国道2号線を、時間にすればおよそ3時間かけて歩いたと思うが、その行程において目にした状況は余りにも衝撃的であった。
今になっても思い起こされるのは、道路に面したワンブロック全体が大火事となっていながら、救急車も消防車も来ることがなく、ただ大勢の人たちが呆然と燃えさかる炎を見ていた姿である。私は、道路を挟んだ反対側を歩いたが、4車線分の距離を越えて押し寄せる熱風に、一瞬真冬であることを忘れた。
また、地震により動いた家が道路一車線分はみ出していたり、ショールームの割れたガラスが道路一帯に散乱していたり、阪神電鉄の高架が崩れ、電車が大きく脱線していた様子などは、今でも忘れることができない。

 私は、高い建物が倒壊している姿を次々と目の当たりにして、果たして自宅のマンションが無事かどうか不安でならなくなった。そして、延々と歩き続け、ようやく午前9時30分ころ、元町の自宅マンションに辿り着いた。
  私は、マンションを見上げ、外観上大きな損傷がないことに安堵し、中に入った。すると、何とエレベーターが作動しており、苦労することなく15階まで上ることができた。

自宅の様子

 しかし、おそるおそる鍵を開けてみると、部屋の様子は一変していた。私は、部屋を有効活用するために、パイプ式のロフトベッドを設置し、その下に机や収納棚などを置いていたが、重さにすれば20キログラム以上のロフトベッド自体が1メートルも移動していた。そして、テレビを始め部屋のもの全てが倒壊し、散乱していた。

 私は、部屋に入ると同時に、電気、ガス、水道を確認した。ガスは止まっていたが、電気は点き、蛇口から水も出た。しかし、私はここで安心し、大きな失敗をした。すなわち、地震の際は、風呂に水を貯めておくことが必須であるにもかかわらず、水道は問題ないものと早合点し、それを怠ってしまったのである。その結果、間もなくマンションの屋上タンクにあった水は底をつき、私は、その夜生活用水がないという状況に苦しむことになってしまった。

 私は、その後マンションを出て近くの公衆電話を探し、実家に電話をして無事を伝え、コンビニエンスストアを探した。独身の一人暮らしであり、全て外食という生活をしていたため、自宅に食べ物が全くなかったのである。
  しかし、自宅近くのコンビニエンスストアは全て閉まっており、30分以上歩き回った後、ようやくシャッターの開いている店を見つけた。停電のため店の中は薄暗かったが、満員電車並みの混雑であり、会計を待つ人が30人以上並んでいた。そして、驚いたことに(よく考えれば停電のため当然のことであったが)、コンビニエンスストアの店員は算盤を使って会計をしていた。しかし、このような状況であったにもかかわらず、商品を万引しようとする輩は一人もいなかった。私は、とりあえず2日分程度の食料と飲料水を確保し、マンションに戻った。

 その日の午後は、阪神大震災を報道するテレビの特別番組を見ながら、マンションの部屋を元通りにすることに費やした。そして、夜になると、マンションのベランダから見える神戸の町並みは、停電の影響で真っ暗であった(私の住んでいたマンションは、自家発電装置が機能していたため、停電にならなかったのである)。ベランダから見える明かりは、神戸から脱出しようとする車のライトと、長田地区の大火だけであった。

神戸からの脱出

 翌朝、マンションから徒歩10分くらいの場所にある神戸地方裁判所を訪れ、今後の修習はどうなるのかについて確認したところ、とにかく実家に戻って連絡を待つようにとの指示を受けた。
私は、テレビからの情報で、大阪まで出れば電車が動いており、京都からは新幹線も運転していることを知っていたため、すぐに神戸を発つことを決めた。幸い、1期上の神戸修習の先輩から原付バイクを譲り受けていたので、ガソリンスタンドを探して給油を行い、お昼前に自宅を出発した。

 神戸と大阪を結ぶ幹線道路としては、国道2号線と国道43号線があるが、国道43号線はその上を走っている阪神高速道路の落下のため通行止めとなっており、大阪への道は国道2号線しかなかった。
しかし、国道2号線は、至るところで道路に段差が出来てスムーズに走れないどころか、神戸から脱出しようとする車、バイク、自転車、歩行者などと、救援のため神戸入りしようとする大阪方面からの車で大混乱の状況であった。もちろん、全地域に亘って停電しているため、信号は一切作動しておらず、交差点では事故を防止すべく、一台一台が交互に通行していた。
  結局、少し走っては停止することを繰り返し、目的地であるJR大阪駅には午後6時過ぎに到着した。約30キロ余りの道程であったにもかかわらず、約6時間を要したのである。

 道中、尼崎を過ぎたあたりから、それほど地震の影響を感じさせない町並みになってきたなと感じていたが、JR大阪駅に着き、地下街を歩いてみて大きなショックを受けた。わずか30キロしか離れていない神戸では電気がない、水がない、食料がない、人によっては家もないという状況であるにもかかわらず、ここでは何もかもが日常どおりであり、地震の影響が全く感じられなかったからである。

 その後、私は、JR京都駅に出て新幹線に乗り、その日のうちに実家のある茅ヶ崎へ帰った。そして、修習の再開の見込みが立った2月2日に再び神戸に戻ったが、水道は復旧していたもののガスが使えず、結局3月下旬まで水で洗髪したり体を洗ったりする日々が続いた。

危機一髪

 後に分かったことであるが、私が阪神大震災に遭遇した地点は、阪神高速の深江の入口から数百メートル大阪寄りの地点であったところ、それからさらに数百メートル大阪寄りの地点では、高速道路が約700メートルに亘って倒壊していた。つまり、あと数秒地震発生が早ければ、逆にあと数秒バスの通過が遅ければ、おそらく倒壊した高速道路からバスごと 地上に投げ出されていたはずである。

 この状況を聞いた担当の刑事裁判官からは、「石黒君。あとは余生を過ごしたまえ」とのお言葉をいただいたが、私自身は、もはや失うものはないという前向きの気持ちを得るに至った。今後も、この気持ちが開き直りにならないように注意しつつ、前向きに生きて行きたいと思う。

以  上

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