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弁護士 堤 淳一

2007年08月25日

太平洋の覇権(2) -----スペイン/ポルトガルの衰退

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

前回のあらすじ

太平洋は太古から地球に存在していたが、それをヨーロッパの白人が発見し、自分たちの世界に紹介し始めたのは15世紀に入ってからである。太平洋を取り巻く地域には白人種が生まれる前からいくつもの文明が栄えていた。その富において、当時貧しかったヨーロッパをはるかに凌ぐ地域もあった。香辛料をはじめとするヨーロッパにはない食用や嗜好に適する産品もあった。船舶の発達によってすぐれた運送手段を獲得したヨーロッパ人は競ってこれらの地域を侵略し、富と人とを奪った。そのさきがけとなったのは東周航路をとるポルトガルであり、西周航路をとるスペインであった。その侵略の波はやがて中国(明)と日本にも押し寄せる。

本稿は塚本企業法実務研究会誌"BAAB"№50、 46頁以下に載せた「太平洋の覇権(1)-----地理上の発見の時代」の続きである。「前回」の記事は当 事務所 ホームページ(http://www.mclaw.jp/)に発表してあるので興味のある方 はご覧いただだければ幸甚である。

イエズス会

 ポルトガルとスペインによる侵略の尖兵となったのは軍隊と商人であるが、それに劣らず強い影響力を持ったのは、キリスト教の布教を目的とする伝道師であった。最も著名なグループはイエズス会(カトリック教会の男子修道会)と呼ばれる一団である。イエズス会は1534年にイグナティウス・ロヨラを筆頭とする7名の同士によって創立され、1540年にはローマ教皇パウルス3世の公認を得るや、たちまちのうちに先発のクルユニー会(910年設立)、フランシスコ会(1209年)、ドミニコ会(1216年)を押さえて、フロリダ、メキシコ、ペルー、エチオピアをはじめ世界中に進出した。会員数は創立以来40年で5000名に増加した。
 イエズス会がもっとも重視していた海外布教地はポルトガル領東インド(当時の「東インド」という概念はインド大陸を含むが〔図1〕に示すような広い地域を指すこともあった)であり、イエズス会がインド管区(ポルトガルが占領したゴアに因んで「ゴア管区」とも呼ばれた)と定めた領域にある地域であった。

 このように布教の領域と世俗の支配領域が重なったのはイエズス会が「王室布教保護権」の制度によって、ポルトガル王室の保護を受けて布教活動を行ったがゆえである。ポルトガルは1494年と1496年にスペインとの間に締結したトルデシリャス条約によって中近東から東南アジア、日本に至る広範な領域において排他的な航海領域を設定し(前号参照)、そこに含まれる海域や大陸、島嶼に対する航海、征服、貿易、布教を独占的に行う権利を手中にしていた。カトリック布教はゴアを拠点としてポルトガルという国家と修道会とが「教俗一体」となって推進する国家プロジェクトの重要な役割を果たした。

 イエズス会の組織はイエズス会総会長―総会長顧問―巡察師―管区長―準管区長―布教長という風にヒエラルキー化されていた。日本への最初の足跡を誌したイエズス会士はよく知られているようにフランシスコ・ザビエルであり、1549年に鹿児島に上陸し、京都に入ったが、1559年に当時の日本国王である足利義輝から布教制札を得ている。またイエズス会は九州地方に勢力を持っていた大友宗麟とも協力関係を持ち1551年に布教の許可を得る。宗麟は足利義輝と接触し、その助言を得てイエズス会は畿内での布教活動をやや規模を広げた。1570年に開港した長崎港には、貿易船(ナウ船)が盛んに来航し、イエズス会もここに拠点を設けた。こうしてイエズス会は日本を「下地区」(肥前、肥後)「豊後」、「都」の3つの布教地区に分割して活動を行った。キリスト教の洗礼を受けた諸侯も次第に増えていった。
 1582年頃キリスト教徒は日本全国に15万人に達し、そのうち豊後地区には1万人、下地区11万5000人が集中していて、1590年にはその2倍に達していたといわれている。

 日本は、イエズス会の創設以来、布教区という最下位の地位にあったが、1550年以降準管区となり、初代の準管区長はガスパル・コエリヨである。その後1611年に日本は管区に昇格し、管区長にはヴァレンチア・ヴァリアーノ(既に1579年に来日)が就任した。
 イエズス会の基本的な財源は①ポルトガル人や現地住民信者からの喜捨、②ポルトガル国王からの給付金、③ローマ教皇からの給付金、④インド国内に所有する不動産の賃貸収入、⑤インド副王からの贈答金品⑥各種の貿易収入から成り立っていたといわれている。

〔図1〕ポルトガルとスペインによる領有

ポルトガルとスペインによる領有

マニラはスペイン、他はポルトガルの根拠地
出典:武光誠「世界地図から歴史を読む方法」(河出書房新社、2002)114頁

スペインとポルトガルの合邦

 スペイン王カルロス1世は1516年にフランス国王フランソワ1世との争いに勝利して神聖ローマ帝国の帝位に就き、カール1世と名乗った。カルロス1世は大航海による富を集め、国内体制を整備したが、フランスやオスマン帝国(イスラム)との度重なる戦争や、神聖ローマ帝国内における深刻な権力闘争の影響を受けて、国家財政を破綻させ、1556年に退位を余儀なくされ、帝位は息子のフェリペ2世によって相続された。

 フェリペ2世はスペイン本国、「地理上の発見」によって新たにスペイン領とした新大陸及び島嶼、イタリアの一部(ナポリ王国)及びネーデルランド(後のオランダ)を領地とした。フェリペ2世の母イサベラはポルトガル王女であり、フェリペは1580年には母方のポルトガルの王位も承継し、こうしてスペインとポルトガルは合邦し、ポルトガルの権益であったアジア貿易をも手に入れることができた。これによりスペインは「太陽の沈まぬ国」となり、当時における世界最強の国となった。

スペインと秀吉の明国侵略計画

 ポルトガルが既に明国貿易に手を出し、日本へも触手を伸ばし始めていたことについては前号で述べた。「大航海時代」におけるポルトガルの征服欲は、キリスト教の布教と軍事力を合わせて行使することによって東洋にも及んできたのである。旧ポルトガルがインドからジャワ/インドネシアにおいて、また旧スペインが中南米において行った征服の事実に照らして明かなように、この波はキリスト教を布教することと「侵略」とが一体となっていた。スペインの次なる侵略は二つの国に照準が合わされた。その一は中国(明)であり、その二は日本であった。

 ヴァレンチア・ヴァリヤーノは1582年「これらの征服事業は霊的な面ばかりでなく、それに劣らず陛下(フェリペ2世)の王国の世俗的な進展に益する」と述べ、中国(シナ)を最大の征服対象とすることをローマ教会に進言している。またマニラ司教であったフライ・ドミンゴ・デ・サラサールは1583年に「このことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くにいる日本人がシナ人の仇敵であって、スペインがシナに攻め入るときには進んでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解するとよい・・・・」と述べている。この勧告には「・・・この点日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすようにとの指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。そうすれば、陛下はこの面で非常に大きな援助をうることが出来よう。その他、この地の原住民(日本人)からもかなりの人数の兵隊を調達できよう」とも述べられている。
 1584年にもとイエズス会日本布教長であったフランシスコ・カブラルはスペイン国王に対し、明国全土の年貢徴収の台帳を作成し、1億5000万人の納税者を確かめる調査を完了したこと、明国は国境守備隊を除けば非武装国家であり、武器は国家に独占されていること、明国内には青銅製の弾丸は一つもないこと、政治の過酷さからすでに叛乱がおこる情勢にあること、日本駐在のイエズス会パードレたちがたやすく日本人2000~3000にものぼる陸戦と海戦に長じた精強で勇敢な兵を参加させることができること、などを書き送っている。
 またコエリヨも1585年にフィリピンのイエズス会に宛て兵隊、弾薬、大砲、食料、現金を十分に備えた少なくとも3~4隻のフラガータ船(フリゲート。ガレオン船に随伴する小型の軍艦で19世紀には巡洋艦へと発展する。)と艦隊の日本派遣を求め、「もしも日本66ヶ国のすべてが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で怜悧な兵隊を得て、一層容易に中国征服を成就することができるであろう」と書き添えた。

 ところで当時日本の国王であった豊臣秀吉はもとの主君であり、日本の総督たる地位にあった織田信長に対し、将来中国大陸に進出するという大風呂敷を広げ、中国への進出を考えていたかもしれない主君の歓心をかうなどのことを平気で行い得た人物であるが、1585年、関白職に就任した年に「日本から唐国(からくに)まで」支配を仰せつけられた旨を家臣の1人に宛てた文書の中で述べている。そして翌1586年には前号にも述べたようにイエズス会の日本準管区長であったコエリヨら宣教師と大阪城において会見している。コエリヨは多分に政治向きの性格であったと言われている人物であり、ポルトガルの軍艦2隻と熟練した航海士の斡旋をするかわりに中国を征服したら全土に教会を建てたいと述べ、秀吉は中国の征服計画のためにすでに軍艦2000隻分の用材の伐採にとりかかっているなどと語った。しかし、余りにも植民地帝国を背景にしたコエリヨらの露骨な物言いに同席した諸侯の1人(高山右近といわれる)は、会談の危険性を感じとり、やがて迫害が加えられるのではなかろうかとコエリヨに語ったという。

 秀吉の征服構想は全国平定の途が拓けていた時期に家臣団に対するいっそうの奮起と統括の効果を期待して公表されたものと考えられ、関白になった秀吉の政権構想の一部となってきた、と考えられる。
そしてこの計画はコエリヨとの会見以後、現実のものとなってゆく。

 1587年秀吉は諸侯に動員令を発し九州へ出陣し数ヶ月で反抗分子を帰順させ、最後に残った島津氏を平げて博多へ凱旋する途次、すでに征服のための渡海作戦の立案を2名の諸侯に命じた。同年5月に博多に帰陣した秀吉はコエリヨに会う。コエリヨはフスタ型船(ただし龍骨を持たないために遠洋航海には役立たないと言われている)に乗って来航してきており、秀吉にも試乗を促した。秀吉は宣教師たちの願いを聞き届け、博多の町割の中に教会の建立を独占的に認めようなどと語ったが、ポルトガル軍船の能力、九州制圧の途中において見聞したキリスト教徒やポルトガル商人団の実情はどのように秀吉の目に映じたであろうか。来るべきポルトガルの侵略を予知し、戦慄したであろう。
 果たして秀吉は博多に帰陣した後、わずか1ヶ月の後の6月、コエリヨのもとに宣教師(バテレン)やポルトガル商人の行為に対する4ヶ条の詰問状をつきつけ、ついで宣教師向けの5ヶ条の「定」を発した(但しポルトガル船による交易は認め、また一般の商人の来航は許すとする不徹底なものであった)。そして日本の諸侯に対しては11ヶ条の「覚」をもってキリスト教禁令を発令し、キリシタン大名の高山右近に棄教を迫り、右近は大名の地位を捨て棄教に反抗したが、小西行長や黒田如水などのキリシタンは棄教に反抗を示さなかった。
 そして前回述べたように秀吉は独自で征明の計画を推進する。フィリピンのポルトガル総督に朝鮮への出兵を促し、それは成功しなかったが、1592年と1597年の2度にわたり朝鮮半島へ独自で兵を出した。もし、秀吉が遠洋航海に堪えうる艦船を保有していたとしたら、態々作戦上困難な陸路を経由せず、東シナ海を渡海して寧波あたりへ上陸したであろう。
朝鮮半島経由の征明作戦は明国本土へ足を踏みいれることさえできず第1段階で失敗に終わり、朝鮮半島における日本軍の暴虐のみが歴史に残った。

 豊臣秀吉が精神に異常を来し、惑乱の挙句、征明を企てたという説がまかり通っている。しかしこれは彼の政権を倒した徳川政権により作り出された話であって、上に見たとおり、決してそうではなかった。
スペインによる明の征服計画とを綜合して考えてみるときは、両国の大いなる野望の失敗と評するのが公平かもしれない。

スペインの凋落

 しかし、スペインの征明計画は沙汰やみになった。その原因はスペインの国内事情にあり、征明どころではなくなったからである。
 その原因はまず、オランダ(スペイン領ネーデルランド。現在のベルギーをも含む)の独立運動にある。次回以降に述べるようにネーデルランドは海外に進出し、中継貿易業と毛織物工業に精を出し、この地域にはカルヴァン派の新教徒が多く住んでいた。フェリペ2世はここにカトリック教を強制したことにより独立運動が起き、スペイン経済に大きな影響を及ぼしたのである。
 次にスペインの無敵艦隊(アルマダ)と呼ばれたスペインの大艦隊がオランダの独立を援助したイギリスと戦い、壊滅したことによる。アルマダの敗北については次項に述べる。
 こうした戦争による多額の出費が国家財政を破綻させ、スペインは次第に衰退する。そのうえフェリペ2世はスペインに住んでいたイスラム教徒、ユダヤ教徒、新教徒らに迫害を加え、追放を図ったために毛織物産業などに打撃を与えスペイン衰亡のもととなった。
 たしかにスペインには資本が蓄積された。スペインはインカ帝国をはじめ南米からすぐに投資に用いることができる「金」そのものであった。
 スペインはこれを自らの国における産業の育成に使わず贅沢品と戦争に費消した。戦争は不条理と資源不足が生じ、経費がかさむのみである。スペインの「金」はイタリアとの戦争に、またオランダの戦争に費やした。
またスペインはあり余る「金」で何でも買うことができたため、自ら生産することに熱心でなくなった。それにより「金」は流出するばかりで、スペインには富が入ってこなくなった。スペインの輸出品はといえば生産力の低下により停滞し、スペインの商人はやむを得ず他国から輸入した商品に自国の産地表示をして出荷するようになった。アメリカ大陸からの食物もスペインには根付かなかった。前同様、食料も金で買えたからである。外国人に頼るということはその国の技術と企業経営が硬直化するという通則的な例証をスペインは示したのである

アルマダの大敗北

 アルマダとイギリス艦隊の戦いの直接の引き金となったのは、イギリスにおいて私掠行為(privating)に従事し、国民的英雄となっていたフランシス・ドレイク(ドレイクの私掠行為については追って述べる予定にしている)が1587年に20隻の船を率いてスペイン本土のカディス港においてスペイン船30隻を捕獲し、5隻を焼き払った事変(「スペイン国王の髯焦がし」事件)である。この事変より以前にもドレイクは西インド諸島のスペイン植民地を襲ってスペインを度々怒らせる行動を取っていたが、フェリペの膝元における焼き討ち事件はスペインを刺激し、英西両国の関係は極度に緊張した。激怒したフェリペ2世は翌1588年1月、リスボン(旧ポルトガル)に艦隊を終結させ、イギリス側も艦船197隻を国中から掻き集めた(エリザベス女王が34隻、その他民間から163隻)。同年5月20日、スペインのアルマダがリスボンを出港する。その編成はガレオン艦65隻に補給船54隻、ガレー船8隻が随伴する大艦隊であった。
 海戦は7月20日の第1回会戦から7月26日の第4回会戦まで4回にわたり、ドーバー海峡において戦われた。戦闘により失われたアルマダの艦船はわずか4隻にすぎなかったが、総損失は63隻(ガレオン船26隻を含む)の多きに上った。その理由は戦闘後スペイン艦隊はイギリス本島を北へ大きく迂回してスペインのサンタルデルに帰還するまで約1ヵ月間にわたって敗走漂流するのであるが、その間荒天による艦船の沈没が相次ぎ、飢餓そして病気による乗組員の喪失も甚だしかった。

 無敵艦隊を破ったのはイギリス海軍の帆船と戦術の優秀性にあったが、同時にイギリスの鋳鉄製の砲と砲弾にあった。ワロン地方の高炉製鉄の技術がサセツクスのウィールドの森に伝えられて急成長した。ウィールドの森は製鉄業に木炭を、帆船を造るための木材を提供した。しかし高炉は大量の木炭を消費する。そこへ持ってきて造船用木材と来てはウィールドの森はこの需要に絶えられず、これらの価格の上昇をもたらした。そのため供給地は北上し、その度に同様の問題に行きあたった。この問題は石炭の利用によって解決が求められたが、今度は製鉄にとって最大の敵である硫黄や燐が妨げとなった。この問題は1709年に石炭を乾留させたコークスを用いることによって大幅に改善されたが、高温操業に必要な送風装置は蒸気機関の発明によるまで水車によってまかなわれた。

 アルマダの壊滅はやがてスペインを凋落に導くもととなる。スペインは世界ではじめての海洋国家であるが本質的には陸軍国家である。それが海洋国家になったのは歴史の弾みとも言うべきもので、ポルトガルが有していた艦隊を吸収したことも与ってアルマダが形成されたのであるが、その壊滅は新大陸から銀を運ぶシーレーンを維持できなくなったことを意味する。スペインはもともと海運と貿易事業を一段低く見る傾向があり、そのために自前の海員を養成することに熱心ではなかった。それに加えてアルマダの壊滅によるシーパワーの喪失という打撃を受けたのではスペインの凋落は運命づけられたと言ってよい。海軍力はいったん壊滅すると再び回復することは著しく困難なのである。スペイン凋落の理由をもう一つ挙げれば、スペインは植民地経営にも不熱心であり、海外で略奪した財宝をスペイン領内に運搬するだけに終始し、国内産業の育成や技術開発に資金を投入しなかったことであると言われている。

(未完)

〈参考文献〉(前回参考にした分を含む)
  • 岸田秀「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」(新書館、2007)
  • 増田義郎「太平洋―開かれた海の歴史」(集英社新書0273D、2004)
  • Attilio Cucari & Enzo Angelucci "Ships"(日本語版、堀元美訳「船の歴史事典」原書房、2002)
  • 清水馨八郎「侵略の世界史」(祥伝社、1998)
  • John Keegan "A History of Warfare" (日本語版、・遠藤利国訳「戦略の歴史―抹殺・征服の技術の変遷、石器時代からサダム・フセインまで」心交社、1997)
  • 小林幸雄「図説イングランド海軍の歴史」(原書房・2007)
  • 井澤元彦「逆説の日本史9 戦国野望編」(小学館文庫、2005)
  • 井澤元彦「逆説の日本史11 戦国乱世編」(小学館文庫、2007)
  • 宮崎正勝「モノの世界史―刻み込まれた人類の歩み」(原書房、2002)
  • H.Kinder & W.Hilgemann "The Penguin Atlas of World History vol. 1" (Penguin Books, 1987)
  • 西岡香織「アジアの独立と『大東亜戦争』」(芙蓉書房、1996)
  • 村田良平「海洋をめぐる世界と日本」(成山堂書店、2001)
  • 高橋裕史「イエズス会の世界戦略」講談社選書メチエ372(講談社、2006)
  • 武光誠」世界地図から歴史を読む方法」(河出書房新社、2002)
  • 藤本久志「天下統一と朝鮮侵略―織田・豊臣政権の実像」(講談社学術文庫、2005)
  • David S. Landes Wealth and Poverty of Nations―Why Some Are So Rich and Some So Poor(邦訳「強国論―富と覇権の世界史」竹中平蔵、三笠書房、2000)
  • 中岡哲郎「技術を考える―東方貿易の転換点とケプラーの三法則」(朝日新聞社「一冊の本」2007.11、44頁以下)
〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。なお挿画は丸の内中央法律事務所事務局の高橋亜希子さんを煩わせた。

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