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弁護士 堤 淳一

2007年10月31日

太平洋の覇権(3) -----スペイン/ポルトガルの衰退日本の「鎖国」

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

前回のあらすじ

東洋に対するポルトガルとスペインによる侵略の波は、両国を合邦したスペイン王国の艦隊がイギリスに敗れたことをきっかけに徐々に鎮静するようになった。そして日本は鎖国への途を歩みはじめる。

本稿は本誌№50に載せた「太平洋の覇権(1)-----地理上の発見の時代」及び丸の内中法律事務所事務所報№11に載せた「太平洋の覇権(2)-----スペイン/ポルトガルの衰退」の続きである。これまでの記事は当事務所ホームページ(http://www.mclaw.jp/)に発表してあるので興味のある方はご覧いただだければ幸甚である。

日本人奴隷の輸出

 日本の事実上の国王である豊臣秀吉は1578年に、九州地方にあって未だ恭順しない諸侯を討ち滅ぼすべく大坂から出陣した。その出征途中において秀吉はポルトガル人が日本人を奴隷として海外に連れ去っていることを知り、激怒したと言われている。博多に凱旋した秀吉はイエズス会の準管区長であったガスパル・コエリヨに対し詰問状を突きつけた。
 詰問状は、宣教師たちが①人民へキリスト教を強制しようとしているか、②社寺の破却・僧侶らに対する迫害をしているか、③牛馬食を日常的にしているか、④日本人(奴隷)の買取に関与しているかという4点について釈明を求め、④においてはポルトガル人が奴隷としてなぜ日本人を連れ去るのかの理由、日本人にして遠隔の地に売られていった日本人の返還、もし不可能な場合は現時点において奴隷として売るために身柄を保管している日本人の釈放をも求めたのである。もちろん日本人奴隷を海外に連れ去っているのはポルトガル人だけではなかったに相違ない(征明作戦の間に日本人商人の手による朝鮮半島経由の朝鮮人奴隷取引もあった)。しかし、奴隷取引の主役はポルトガル人であること、その支配的地位にあるのはイエズス会であるという認識に基づき、上記のような問責状を発したと考えられる。事実イエズス会は、後述するようにポルトガル国王による禁令が発せられる前は公に奴隷の輸入を認めていたのである。

 

 同時に秀吉は宣教師に向けて「定」を発した。「定」は5箇条から成り、①日本は神国であるところ日本人はキリスト教国より邪法を授けられていること、②キリシタン諸侯を教唆して、神社仏閣を破壊していることは天下の御法度に背くこと(諸侯と宣教師が結託して治外法権的に振舞うことの停止)、③宣教師らは20日以内に日本から退去すべきこと、④「黒船」(ポルトガル船。この当時すでに異国船は「黒船」と呼ばれていた)による交易は長期的に保障すること、⑤ポルトガルの一般商人その他宣教師以外の者の来航は引続き認めること、を定めていた。このうち④と⑤については日本の侵略がポルトガル商人と宣教師が一体となって進められているという実情に照らすと、交易による利益のみを都合よく得ようとした不徹底なものであった。
 秀吉はまた諸侯に向けて11箇条の「覚」を発した。そのうち①~⑤及び⑨は地位の高い諸侯がキリスト教信者になる際は「公儀」の「御意」(許可)を得なければならないが、下層の民については自由であることを定め、建前としては信仰の自由を保障するものであった。しかし⑥~⑧においてはかつて一向宗が「現世」の権力に対抗したと同じおそれから、諸侯が領内の人民をキリスト教へ改宗するよう慫慂することは国内統一の大いなる障礙になると述べられている。織田信長の幕下にあって秀吉の同僚であった徳川家康が三河の国において一向宗の抵抗に遭ったこと、主君の信長の時代における長島の戦い、加賀の国における反乱と鎮圧、石山本願寺の戦などにおいて、秀吉自身も幕将として辛酸を舐めた経験から、異教に対して恐怖心を抱いたがゆえに定められたものであろう。⑩と⑪に、先のコエリヨ宛の詰問状と同じ日本人奴隷の売買と牛馬の食用の禁令がみえるが、いずれも耕作用労働力の確保に主眼があったのであろう。
 これらの禁令や命令は同日付で矢継ぎ早に発せられているが、その翌日(1587年6月20日)に博多の箱崎に置かれていた九州征討の司令部に、在陣していた諸将を集合させ、キリシタンは一向宗の「坊主が下賎の民の心をとらえたのと違って、宣教師は大名、貴族をひきつけているので」一向宗よりもいっそう危険である旨を述べ、キリシタンへの警戒を訓示した。

 宣教師によるキリスト教の布教は、のちのセスタ講、ミゼルマルジア・マンフラリア(慈善組)と呼ばれるようになる組織が、貧者、病人、罪人の救済を目的として、農・漁民をはじめ多方面の民に対して浸透し、宣教師たちはこれら日本人に対し、ヨーロッパの技術や天文・気象に関する知識を与えた。そのため、キリスト教はイエズス会が狙った層よりも遙かに下の層の民の心を引きつけていた。そしてこれらの組織の運営は民の寄進によって支えられた。また領国支配の手法として真の信仰にかかわりなく、キリスト教への転向を標榜した大名も現れていた。

 上述した日本人奴隷のことに関してであるが、ポルトガル国王シバスチアンは既に1571年に勅令を発して日本人を捕らえたり奴隷とすることを禁じていた。しかして、在日イエズス会は秀吉の詰問に対応してか、1596年日本人の奴隷取引を行うものは破門するとの禁令を発し、1597年4月にはインド副王がポルトガル国王の名において第2次の勅令を発し、いかなる日本人をもマカオに連れて来てはならない旨を定めた。またイエズス会は1598年に第2次の禁令(破門令)を発し、また1600年頃にはポルトガル国王によって第3次の勅令が発布され、第1、2次の勅令の有効性を確認した。このことは前号に述べたとおりである。
 しかし、多くの場合罰則は定められておらず、その有効性に疑問があったが、それよりもこれらの禁令や勅令は日本人奴隷に対する人道的な配慮に基づくものではなく(そもそもそのような観念がその当時におけるキリスト教界にあったかどうかも疑わしいが)、ポルトガル人宣教師が日本の奴隷少女と同棲に耽り、宗教心を失うことのおそれと、目に余る奴隷取引がキリスト教会に対する悪評を買っては布教上好ましくないという政治的配慮によるものであった。

 しかしこの禁令はあまり効果がなかった。日本の国内においても、諸侯による領国経営の失敗から子を身売りする両親達が増加したという背景があったし、またポルトガル側にもゴアに在住していた商人たちの反対があったからである。ゴアの商人たちは、売られてゆく日本人をキリスト教国が受け入れない場合には、これらの者はイスラム教徒の住む近隣諸国へ連れ去られて回教徒になってしまうが、これはキリスト教会にとって不都合であるなどと、ポルトガル国王に抗議してもいる。これに対しポルトガル国王は合法的で相当なる理由があれば日本人奴隷の所有を禁ずるものではなく、無条件で奴隷を解放することは自分の意思ではないとして、神と自分(国王)に奉仕する者たちの判断にまかせるという、殆ど無責任ともいうべき回答をした。

禁教令と鎖国

 話は若干前後する。
 秀吉は前回述べたような征明政策をめぐる経緯もあずかってポルトガル(1580年以降はスペイン王国領となったので、以下に「ポルトガル」と表記した叙述は、参考にした原典に「ポルトガル」と表記されているのでそのようにしてある箇所もある。描写の時点いかんによっては「スペイン/ポルトガル」を意味する場合もあるので、時点に注意してご判読いただきたい)と決別することを決意するのであるが、前々回に述べたように1596年にサンフェリペ事件(マニラを発したガレオン船が土佐藩領に漂着した事件)が起こった。ところがその乗組員がスペインは植民地を作る場合まず宣教師を現地に送り込んで原住民を宣撫し、それが成功するのをみて軍隊を派遣して占領支配する、といったようなこと------  多分に事実に合致している------  を供述したということが秀吉の耳に入った。このことを引き金に1597年にいわゆる「二十六聖人事件」が起き、長崎在住の6人のスペイン人宣教師(イエズス会士以外のグループも含む)と20人の日本人信者が処刑された。
 以後日本とスペインとの関係は極度に緊張した。この頃から秀吉の豊臣政権のキリスト教に対する政策は「禁教」へと向かうかに窺われたが、秀吉は1598年に歿する

 豊臣秀吉の死後、政権の承継を希望した徳川家康は1603年にミヤコから離れた関東平野の地に政庁(幕府)を開いた(ただし実質的に権力基盤が安定するのは秀吉の愛妾が生んだ豊臣秀頼が亡ぼされた(1615年)後のことである。
 徳川政権は当初、都市(江戸)建設と叛乱分子の対策に苦労したため、外交政策については確たる方針を持ちえないまま、前政権における交易政策を継続していた。しかし徐々に異国との交流に消極的になり、1633年に幕府の許可を得た船舶(奉書船)以外の船舶による外国への渡航を禁止すること、1634年には海外通商の制限、1635年に日本人の渡航・帰国の全面禁止、1636年ポルトガル人と日本人の混血児らの追放などを貿易官庁の長官である長崎奉行宛に相次いで通達した。
 この通達は日本人に対する、いわば内向けの禁令であったが、1639年にはポルトガル籍のガレオン船の日本への渡航を停止すること、もし渡航する船舶があるときはこれを破却し、乗組員を速やかに斬罪に処すべき旨を日本の南西部(九州、四国、及び中国地方)の諸侯宛に発した。
 その原因は1637年~38年にかけて長崎地方において発生した叛乱(島原の乱)にあると言われている。それまで徳川幕府は前政権におけると同様、ポルトガル/スペインが行う貿易がキリスト教布教と一体となっていることを承知のうえで通商(ポルトガルによる明国産品の中継貿易など)を黙認していたが、島原の乱において叛乱軍が示した抵抗のすさまじさに驚愕し、キリスト教を放任するとやがては幕府の根幹を揺るがしかねない事態に立ち至ると考えた。
 つまり、幕府は島原の乱がポルトガルと結びついていると考えていたのである。1639年のポルトガル船の渡航停止令は受命者である諸侯に対し沿岸の防備に努めることを命じた。対スペイン/ポルトガルとの有事を想定し、防禦態勢を取ることを命じたのである。総司令官は姫路の首長である松平良明をもってあて、異国船来航に際しては、軍隊を率いて予定戦場に急行すべきものとされ、九州に大勢力を持つ諸侯を中心にして侵攻してくるポルトガルの軍隊に対処する一方、領土内においてキリスト教徒が使嗾する叛乱に対する警備を厳重にすべきことを命じていた。

 スペイン/ポルトガルは1640年にマカオから使者を送り貿易の再開を請願したが、幕府は使者の悉くを斬罪に処した。これは同時にスペイン/ポルトガルに対する宣戦布告を意味するところから、報復を予定し、九州の諸侯に命じて沿岸警備にあたらせ、大坂に備置された武器庫も臨戦のため整備された。
 ところで当時の日本の軍備はどの程度の規模であったろうか。

兵 士

 豊臣政権は全国に検地を行い租税(年貢)の取立の基礎となる農地の米の作付けと生産高を全国的に掌握することに努めたが、検地は同時に兵員の動員の基礎をなし、検地のノートは同時に兵籍簿の用を足したと思われる。検地は税の増徴を目的としただけではなく、国家の統一と海外派兵を視野に入れた豊臣政権の骨幹をなす極めて重要な政策だったのである。
 政権の支配が全国に及んで以降は、諸侯が豊臣家から賜った領地の米の生産高(知行高)に応じた兵を徴募に応じさせることを基本とすることを定めた。例を挙げればここにAという大名がおり、その知行高は13,000石(1石は約180㍑)とされていたとする。そこから「無役」と称する、大名毎に個別に定められた基礎控除分(例えばA家については2,000石とするが如し)を差し引き、徴兵対象高11,000石を基準として550人を軍役に服するものと定めるが如くである。
 この人数は概ね100石につき5人の割合となる。この割合が「本役」(定員)であり、すべての動員についてすべての地域から定員が徴発されたわけではなく、時宜に応じ地域別に「半役」(50%)、「六人半役」(65%)、「七人役」(70%)などの実徴兵率を定めて徴募することとされていた。
 ところで1598年(秀吉の歿年)の統計によると日本国内66箇国の総石高は1,860万石であるとみる説がある(幾分多目かという気もする)。それに上記の割合を掛けるとおよそ全国から93万人の徴兵が可能であることになる。
 もともと石高はひとりの人が1年間に消費する米の分量を基準に定められたもので(その点、メートル法が地球の大きさをもとに作られた単位であるのとは発想を異にする)、総石高は大雑把ではあるが、日本の人口を図る目安となる。そうすると人口1,850万人に対し約5%の兵を徴募しうる計算となり、この数字は20世紀になって日本が戦った大東亜戦争時の動員割合(人口7,500万人に対し358万人で4.7%の動員)にほぼ匹敵する。
 もっともこの数字と異なり、徳川政権になって定められた「御軍役人数制」(1649年)によると、例えば10万石の大名の動員すべき人数は2,155人とする規定があるようで、それによれば徴兵割合は2%である。

火 力

 鉄砲についてはどうであろうか。すでに記したように(第1回)、1543年にポルトガル人によって種子島にもたらされた鉄砲はまたたく間に日本国内で内製化され、諸大名に普及した。
 ポルトガル人が日本人に鉄砲を与えたとき、彼らは日本が鉄砲の有力な買付先になると思ったかもしれない。しかし日本には昔から砂鉄を用いて刀を鍛造する技術があり、これに日本人の旺盛な好奇心が寄与して、それまで日本人が目にしたことのない螺子(ねじ)の製造には大変苦心を強いられたものの、40年の間に鉄砲を内製化してしまったのである(図1参照)。鉄砲は種子島をはじめとし、薩摩、近江(国友)、和泉(堺)などの各地で生産された。いったん技術や産品を輸入するやたちまちこれを内製化してしまう風潮は、遙か後の21世紀になっても同様であるのは、日本人を語るうえで極めて興味深いものがある。
 織田信長が武田勝頼と戦った長篠の戦(1573年)において織田軍は約2,000丁(もっと少なかったとする説もある)の鉄砲(火縄銃)を用いたとされている。この戦いは小銃による戦の典型であると同時に、司令部直轄の機動部隊を巧みに利用した戦であることはよく知られている。特に銃を一斉射撃に用いる発想は当時におけるスペイン軍によっても用いられていなかった新機軸であった(ただし、銃を携帯した歩兵を三列横隊に並べ、三段に分けて次々に発射する戦法についてはその可能性をめぐって大きな議論がある)。
 徳川政権になってから定められた上記軍役人数制は10万石の大名が鉄砲350挺を装備することを命じている。日本の総石高が1,850万石であるとすると、これも大雑把であるが全国に6万4千余の鉄砲があった計算になる。この当時日本は世界でも有数の鉄砲保有国になっていたのである。但し、鉄砲の弾丸用の鉛や硝石などは日本においてわずかしか産出されず、その調達は対外交易(特にポルトガル)への依存度が高かった。従って日本とポルトガルの戦が長期にわたるとした場合には第三国(明国)からこれらを輸入するとしても、弾丸不足は覆い難くなったであろう。

〔図1〕火縄銃

火縄銃

出典:井手正信「江戸の侍グッズコレクション」(里文出版 平10)の挿図を模写

船 舶

 大型船舶については信長が建造した安宅船が知られている。1578年に当時戦っていた毛利家の海軍に対抗するために7隻が建造されており、長さ22~23m、横幅13m(数字については見物した僧侶の日記によるので検証が必要である)の木造鉄装船である。秀吉の麾下にあった加藤清正がその20年後に建造した朱印船は長さ36m、横幅9mであり、他にもほぼ同規模の船が建造されていることから、スペイン軍艦船に匹敵する大型軍船が存在していたことは確かであり、またこうした船舶を多数建造する潜在的能力を有していたことも窺い知ることができる。
 滞日していた宣教師オルガンチーノは信長の安宅船の大きさに驚きを隠さず、これが大砲3門と無数の精巧な長銃によって武装されていたなどと報告している。

日西もし戦わば

 スペインは当時ヨーロッパ随一の陸軍国であり、同時に海軍国にもなっていた。もしこれが日本(とくに九州地方)へ侵攻軍を派遣し、徳川幕府が編成する陸海軍と戦った場合はどうなったであろうか。―――全くの仮定であるが、火力は問題にならない程スペインに分があったであろう。以前にも書いたが、ガレオン艦の舷側から発射する艦砲射撃は要塞戦におけると同等の威力を持つものであり、日本にはこれに堪えうる要塞も、従って要塞砲もなかったから長崎や博多等の都市はたちまちのうちに灰燼に帰したであろう。日本における砲の開発は緒についたばかりであり、当時は野砲の類も極めて貧弱であった。
 船舶の能力もスペインが優勢であったろう。即ちスペインのガレオン艦は複数のマストを持ち、帆を備え、主帆(メインセール)と補助帆(スタンスルやジブ)との組み合わせと操艦の技術により、ある程度風上にも進むことが可能であるなど、艦の進退が自由で機動性に富んでいた。これに対し、和船はマスト一本を有するのみで操艦は主帆一枚と櫓に依存していたために艦の運動性が比較にならない程劣っていたであろう。また和船は縁(へり)継ぎ船と言って特定の形に切った多数の平らな板を釘や鎹(かすがい)で継ぎ合わせて作られていたため船体それ自体が脆弱であった。
このような事情から洋上でスペイン/ポルトガル艦隊を邀撃することは到底無理であったろう。
 ただし陸戦の場合はどうか。スペイン兵が戦い擦れしているというならば、それに劣らず日本の陸兵も――宣教師も認めるように――長期にわたる内戦によって鍛えられ、精強であったろう。なかんずく、小銃の装備とその集団戦法は上陸してきたスペイン兵を脅かしたに相違ない。軍を統一するために必要な団結心や、将兵の技倆や統率技術に照らしても、スペイン/ポルトガルの侵攻はフィリピンを征服したようには到底ゆかなかったであろう。

 余談を付け加えれば鉄砲が流布したことによってそれ以前に行われていた騎馬による戦いは勢いをなくし、鉄砲と槍を中核とする戦いへと変化しはじめていた。そのため騎乗して刀槍をもって戦う士官達は密集歩兵戦の指揮能力が問われるようになり、その個人的な格闘技倆は相対的に低下した。日本におけるこのような変化は同時代のスペインにおいても同様であり騎士(ナイト)の影響力は鉄砲のそれによってとって代わられるようになっていた。

 重要な問題として戦いが日本本土で戦われることに伴う兵站と補給の問題がある。マカオ、マニラの基地から長途の航海を必要とするスペイン軍(東洋においてスペインが保有している兵力はおよそ5000人であったとする説がある)にとって、兵や武器・弾薬を搬送したうえで行われる、多分長期間にわたる戦には途方もない経費を伴ったに違いない。残留していた宣教師(1578年に秀吉が発した追放命令に従わず日本に残留し、武装抵抗を唱える宣教師も多数に上った)の煽動に応じて、ポルトガルに内応する日本人キリスト教徒の抵抗は強かったと思われるが、検地と並行して行われた農民の武装解除(刀狩り)によって叛乱勢力が利用できる武器は一向宗が抵抗を示した時代に比べ激減していたという事情もある。スペイン/ポルトガル軍の兵力も戦いにより消耗し、戦闘の長期化につれて追加派遣の意図も減衰するであろうから、ポルトガル軍による日本の支配は覚束なかったと思われる。
 植民には被植民地域の住民の多くが、植民しようとする国(ないし民族)に帰服ないし同感しなければ成り立たない。日本は折から中央政権によるまとまりを獲得しつつあり、スペイン/ポルトガルによる日本の植民地化は前提を欠いていたと思われる。
 その後1647年、日本との国交再開を求める使者を乗せ、ポルトガル軍艦2隻が再び長崎に来港したが、臨戦体制を敷いた幕府はこれを長崎港内に閉じ込め、国書の受領を拒否した。以後ポルトガルの足は日本から遠ざかった。同時に日本は海外への途を閉じ、後に明国(その後は清国)との交易、ならびにオランダ船に限り出入りを許す長崎の居留地を通じて行うほか、交易をやめ、国際的な舞台から270年間退場するのである。

鎖 国

 このような状態を「鎖国」と呼ぶのは19世紀の初頭にオランダ通詞が「鎖国論」という本を著したのが初めてであるそうで、この用語を用いて徳川政権の外交政策を説明することは不適切ではないであろうが、若干の注釈が必要である。
 まず「鎖国」は日本政府が海外との通商・交易をやめる政策を積極的に掲げて断行されたものではない。既述したように1633年、1635年、1636年の三次にわたる長崎奉行に宛てた通達は、出先機関に対して宛てた事務取扱要領である。(毎年更新して通達がなされた)。1639年の通達は、スペイン/ポルトガルの侵攻に対して防禦態勢を敷くことを想定戦場を担任する諸侯に命じた軍事命令であった。この「有事態勢」はスペイン/ポルトガル船が来航しなくなってからも解除されずに19世紀になって諸外国が日本と「通商」を求めてくるまで引続き、これが幕末における攘夷論の根拠となる。
 日本国中に「日本は鎖国をした」趣旨の通達(「鎖国令」ともいうべきもの)がなされた形跡はない。海外渡航の制限は徐々に人々の口から口へと全国に浸透していったのである。

 「鎖国」は明国における海禁政策の如く、輸入品に対する関税の引き上げや出入国管理を行うことにより外国からの貨物の流入を防ぐことや、内国産業の保護を政策として採用した結果ではない。
 幕府は日本では生産できないもの(典型としては火薬の製造に必要な硝石)や他国から輸入されれば重宝なもの(奢侈品など)を欲しがっていたことは確かである。そのために従来から朱印船をインドシナ半島の港に送り、それらの産品を輸入していた。しかしそこはスペイン/ポルトガルの勢力範囲である。豊臣政権以来非友好的ないし敵視政策をとってきた日本政府がこの海域に朱印船や奉書船を派遣し続けることができるわけがない(その後日本がスペイン/ポルトガルと和平交渉をした形跡はない)。拿捕されるか撃沈されるかの目にあうことは火を見るより明らかである(事実、幕府は1635年に奉書船の派遣をとりやめている)。
 こうして日本は有事態勢を維持した結果、自らの手によって外国製品の日本への流入窓口を狭くしたと言ってよいのである。

 上述したとおり「鎖国」はキリスト宣教師の「追い出し」と日本におけるキリスト教の殲滅、「外敵」の打ち払いを目的とするものであり、貿易や経済の視点からなされたものではなかった。それゆえ海外交易が乏しくなり、その点では政府も困ったことであろう。しかし徳川政権の政策は極めて保守的であり(政権担当者が強い影響を受けた儒教思想とも大いに関係がある)、政権の基礎をなす「徳川家」の安泰を主眼としていたがゆえに、政権維持のためにはかかる「鎖国」はやむをえないとみなしたのであろう。
 さはさりながら幕府はスペイン/ポルトガルの報復の恐れに恐怖したであろうことも事実であるとみえ、興味深いエピソードがある。
 後にオランダ人が長崎の出島に出入りすることになってからの話であるが、オランダ商館員が1,000キロも離れた江戸にいる将軍に表敬するため「江戸参府」を行うようになった(1609年に始められ、1633年からは毎年行われるようになったが、1790年以降は4年に1度になった)。1826年に江戸参府に随行したフォン・シーボルトはオランダ商館員に対する次のような命令書を将軍からスチルレル商館長が受けとったと誌している。①オランダ人の渡来と交易の認可(更新)、②ポルトガル人と知り合うことの禁止、③キリシタンの者をオランダ船に乗せることの禁止、④ポルトガル人の動勢に関する報告義務、⑤中国船の拿捕の禁止、⑥ポルトガル船と行き合った場合、その日時場所の報告義務、⑦琉球国船の拿捕の禁止。
 前回述べたようにスペイン/ポルトガルは徐々に凋落し、シーボルトの来航時においては世界史的にはみる影もなくなっていたが、幕閣はポルトガル人の影響力をトラウマとしておそれていたのであろう。シーボルトは幕府の時代錯誤に驚いたといい、またしかつめらしくこの命令を受けたスチルレル商館長の態度から、オランダ側が歴史上の事実を隠蔽していたことを知ったという。もっともかかる命令は幕閣の硬直した前例墨守と受けとることもでき、その点は賢明なる読者の判断に委ねることとしよう。

(未完)

〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。なお挿画は丸の内中央法律事務所事務局の高橋亜希子さんを煩わせた。

〈参考文献〉(前回参考にした分を含む)
  • 岸田秀「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」(新書館、2007)
  • 増田義郎「太平洋―開かれた海の歴史」(集英社新書0273D、2004)
  • Attilio Cucari & Enzo Angelucci "Ships"(日本語版、堀元美訳「船の歴史事典」原書房、2002)
  • 清水馨八郎「侵略の世界史」(祥伝社、1998)
  • John Keegan "A History of Warfare" (日本語版、・遠藤利国訳「戦略の歴史―抹殺・征服の技術の変遷、石器時代からサダム・フセインまで」心交社、1997)
  • 小林幸雄「図説イングランド海軍の歴史」(原書房・2007)
  • 井澤元彦「逆説の日本史9 戦国野望編」(小学館文庫、2005)
  • 井澤元彦「逆説の日本史11 戦国乱世編」(小学館文庫、2007)
  • 宮崎正勝「モノの世界史―刻み込まれた人類の歩み」(原書房、2002)
  • H.Kinder & W.Hilgemann "The Penguin Atlas of World History vol. 1" (Penguin Books, 1987)
  • 西岡香織「アジアの独立と『大東亜戦争』」(芙蓉書房、1996)
  • 村田良平「海洋をめぐる世界と日本」(成山堂書店、2001)
  • 高橋裕史「イエズス会の世界戦略」講談社選書メチエ372(講談社、2006)
  • 秦新二「文政十一年のスパイ合戦―検証、謎のシーボルト事件」双葉文庫、日本推理作家協会賞受賞全集73、2007
  • 武光誠」世界地図から歴史を読む方法」(河出書房新社、2002)
  • 藤本久志「天下統一と朝鮮侵略―織田・豊臣政権の実像」(講談社学術文庫、2005)
  • David S. Landes Wealth and Poverty of Nations―Why Some Are So Rich and Some So Poor(邦訳「強国論―富と覇権の世界史」竹中平蔵、三笠書房、2000)

(2007.10.15)

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