• 事務所概要
  • 企業の皆様へ
  • 個人の皆様
  • 弁護士費用
  • ご利用方法
  • 所属弁護士

弁護士コラム・論文・エッセイ

弁護士コラム・論文・エッセイ

ホーム弁護士コラム・論文・エッセイ堤弁護士著作 一覧 > 太平洋の覇権(21) -----北米大陸の探検と植民
イメージ
弁護士 堤 淳一

2014年08月01日

太平洋の覇権(21) -----北米大陸の探検と植民

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

新大陸の「発見」

 太古アメリカ大陸にはインディアンと呼ばれるモンゴロイド系の人々が住んでいた。これらの人々はここ30年程前まではアメリカインディアンと呼ばれていたが、現在では「インディアン系アメリカ人」とか「先住アメリカン」と呼ばれるようになっている。
 これらの先住民はおそらくB.C.25,000年頃から12,000年頃にかけてアジアから、ユーラシア大陸とアメリカ大陸を隔てるベーリング海峡を渡って移住してきたと考えられる。ベーリング海峡は陸地をなしており、いまよりずっと渡りやすかったと考えられている。
 これらの北から移ってきた人々は次第に中米から南米に広がっていき、後にヨーロッパ人がアメリカに渡ってきたときは中南米と北米の人口比は10対1の割合で前者の数が多かったといわれている。

 いうまでもなく本稿が扱おうとしているアメリカ大陸の探検と植民に関係を持つ最大の出来事は、コロンブスを代表格とする冒険的航海者たちによる大西洋横断航海であるが、現在ではコロンブスよりもすでに500年も前にノルマン人(ヴァイキング)が北アメリカの大西洋岸に到達していたことが確実視されている。
 ヴァイキングは8世紀頃から北海を中心に北大西洋を股にかけて活躍した北欧系民族の総称であり、ヨーロッパ大陸にも侵入した。そして9世紀にはアイスランドに移住し、980年頃にはグリーンランド南岸に植民を開始した。
 さらにいまのアメリカ東端にあるニューファウンドランド、ノヴァ・スコシアからニューイングランド地方に広がっていったと推定されるが、この地方のヴァイキングがその後どのような運命をたどったか、またグリーンランドの植民地もどうなったかは定かでない。おそらく15世紀には衰亡してしまったと考えられる。
 こうしてコロンブスより前にアメリカに至った人々が何人いようともそれは歴史に埋もれ、足あとを残すのみであり、世界史を変えるほどの大きな変動を起こすことはなかった。

コロンブスの第1次航海

 これに比し、コロンブスが行った航海といくつかの島々の発見は、それを契機として、世界史に大変動を惹き起こし、その惹きおこした変動のゆえにこそ大事件とされ、その名が記憶されることになるのである。
 コロンブスの航海は、スペインの新世界征服の欲望と、競争者であるポルトガルの動きとの微妙なバランスのうえに成り立って行われた目的的な行為である。スペインの新世界に対する関心は、スペインのレコンキスタ(イスラム教からの領土回復)の延長線にある領土拡幅と十字軍的情熱(ジハード)を伴った新しい冒険と、儲かる事業の企画として構想しうるものであり、それゆえイザベラ女王はコロンブスの企てのパトロンとなった。もしスペインが援助を与えなければポルトガルがコロンブスの後楯となった可能性もある。
 コロンブスは1492年の春、ウエルバ近くのリオ・ティント河畔の小さな港町であるパロス―その港はギニア航海の根拠地であり船舶は有力者であるビンソン一家によって握られていた―において、ビンソン一家を説得し、約60トンの"ニーニャ"、同規模の"ビンタ"、及びナウ船(カラベル級船舶よりはひとまわり小さい)で、2隻の僚船の倍ほどの"サンタマリア"の3隻について、傭船契約を締結し、同年8月3日にバロス港において解纜した。

 コロンブスは西へ西へと進めばやがてはインドへ達するとの確信に支えられていた。コロンブスが見たいかなる地図にも、彼が到達した「新大陸」も、後にマゼランが進入した太平洋も描かれてはいなかった。
 この小船隊は注意深く北緯28度線に沿って西進し、次第に南進をはじめ、10月12日、ある珊瑚礁の島―サンサルバードール島(バハマ諸島中のワトリング島)―を発見した。その後エスパニョーラ島を発見したコロンブスは、フェルナンド王とイザベラ女王に代わってこの島の領有を宣言し、その後旗艦サンタマリア号の座礁事故も与って、上陸した地点に砦を築き(座礁したサンタマリヤは解体されて砦の資材に使われた)、新世界で初のスペイン植民地を創始した。
 その植民地はナビダーと命名され、志願した水夫39人が残された。様々な艱難の末、2隻になったコロンブス艦隊は翌年3月にリスボンに帰国を果たし、コロンブスは4月には「大洋の提督」及び「インド地方副王」に任ぜられた。
 「新大陸が発見された」との報告は―コロンブスが印度であったと確信していたこの地が後に印度でないとわかったにせよ―スペイン中を驚喜させたばかりでなく、コロンブスの1492年8月から7箇月にわたる航海は地球に対する人類の知識における一大転機となった。

コロンブスの第2~第4次航海

 その後コロンブスは1493年9月25日、第2次航海へと出発する。今度は17隻(1500人)の威風堂々たる艦隊であった。艦隊はこの航海によってドミニカ島を発見し、次いでエスパニョーラ島に居留地を設けてイザベラと命名し(その後この第1次航海時の植民地は全滅してしまった)、その後キューバ本島、ジャマイカ島などキューバ諸島の南岸全域を探検するなどの航海を行い、6ヵ月後にスペインへ帰国した。
 次いでコロンブスは、1498年の春に6隻の艦隊を以ってベネズエラとトリニダードを発見し、北米大陸と南米大陸の結節部にあるホンジュラス北岸へと近づいた。このまま進めばコロンブスはアメリカ本土への上陸一番乗りを果たすところであった。
 更に1502年春、コロンブスによる最後の航海が4隻の艦隊によって行われた。この航海はニカラガ沿岸から、コスタリカ(現在のパナマ運河があるあたり)まで進出し、その後コロンブスはエスパニョーラ島へと帰還し、1504年、イサベラ女王の死(1504年11月24日)の直前、スペインに辿り着いた。
 長年にわたる航海はコロンブスの身体を蝕み、1506年5月、彼はスペインにおいて歿した。

 コロンブスの業績は、新大陸を発見したという功績と、インドはおろか金銀も遂に発見できなかったという失敗との2つの評価において、またその性格のゆえにか、毀誉褒貶相半ばするものがあったようで、晩年のコロンブスは不遇であったとされる。不当に権利を剥奪されたとも言われ、彼がその保有を誇りとしていた西方探検の認可状が、スペイン臣下なら誰でも、厳重な条件をクリアしさえすれば得ることができるとした1495年の国王の布告はコロンブスをいたく失望させた。

"小発見者"たちの航海

 しかしてかかる渡航の布告に基づき15世紀末には次々に探検家たちが大西洋に乗り出した。彼らはそれにより地理上の大いなる発見に貢献し、「小発見者」と呼ばれた。小発見者とは以下の通りである。

  • アロンソ・デ・オヘータとファン・デ・ラ・コーサ(コロンブスの部下)・・・ギアナを経て、アラカイホ湾へと船を進めた(1499年)。
  • アメリゴ・ヴェスプッチ・・・マラカイボからマルガリータ島を踏査(1499年)
  • ペラロンソ・ニーニョ(水先案内人で、第1次航海における"ビンタ"の船長)・・・・マルガリータ島との交易(1500年)
  • ビセンテ・ヤニェス・ビンソン・・・ベルナーブ(南米の東にバルジ膨満した部分)でブラジルを発見(1499年)
  • ディエゴ・デ・レペ・・・・ブラジル海岸を南下(1499年)
  • ロドリゴ・バスチダス(セビーリャの公証人)とファン・デ・ラ・コーサ・・・ベネゼラへ航海(1500年)

 こうして10年そこそこの間に、4次にわたるコロンブスの航海とその後コロンブス以後の小発見者たちによる航海によって、ホンジュラス(中米)からベルナンブコ(南米)に至る海岸線が連続的に解明され、かつキューバ海域の島は残らず発見された。

 スペイン人エステバン・ゴメスは1524年から25年にかけてノヴァ・スコシアから出発してカリブ海まで順次南下する航路を経て測量を行い、帰還後「その地は快適で有用港がある」と書いたが、スペインのコンキスタドール征服者たちは「将来性豊かな農業に適した土地」だけでは意味を持たず、そんな土地はヨーロッパにもある、とばかり金銀の如きもっとはっきりした眼のくらむ魅力を持つものでなければ関心を示そうとしなかった。

 以上いずれにせよこれらの航海は沿岸航海であり、植民事業や港への進入は果たせなかった。ただ長年待望されていた金銀は北米からは産出されないことは確かな事実として広まった。
 その後スペインの関心は次第に中南米へと移ってゆく。
中央アメリカや中南米に比較すると、北米大陸はルネッサンス期の探検記録の中では小さな役割を果たしていたものに過ぎない。中南米のようにインカやアステカのような帝国も富める文化もなかったことがその原因となって北米大陸は16世紀を通じて相対的な沈滞の中に置かれた。

コロンブス前後

 ところでポルトガル人はアメリカ大陸に対しコロンブスより先に遠征を企てたのであろうか。
 1473年、国王アフォンソ(フェリペ1世の妻ファナの父)によってジョアン・ヴアス・コルテ・レアルが新しいコッド・フィッシュ鱈の土地を求めて、ニューファウンドランド、ラブラドールないしはグリーンランドへ航海を行ったと伝えられているが確かなことは証明されていない。

 英国人はブリストルの港からアイルランドの西岸からアイスランドへ航海し、魚と塩を商っていた。 1490年ジェノヴァ生まれでヴェネツィア国籍のジョン・カボットはレヴァント地方で貿易商をしていた関係で西廻りのインド航路の問題に強い関心を持っていた。1496年ヘンリー7世(1485-1509)の特許状を得て、3ヵ月の航海の末、海上に陸地を発見したとするが、おそらくニューファウンドランドの南岸沿いを航行したらしいとするほか、その航路ははっきりしていない。
 カボットもご多分にもれずアジアへ到達したいと願っており、1498年に2度目の航海に乗り出したが、西インド諸島にあったスペイン人を刺激させるおそれのある地域(カリブ海であろうか)まで進出したものの、アジアへの進出は失敗に終わった。しかし唯一の収穫はニューファウンドランドのグランドバンク大浅瀬と呼ばれる優良な漁場を発見したことにあり、後にここに各国の漁船が殺到することになったことである。

 1520年ジョアン・アルヴァレス・ファグンデス(ポルトガル人)が今日のカナダ最南端に注ぐセント・ローレンス河を遡航し、ほぼ時を同じくしてフランスのフランソワ1世(1515-1547)がアジア航路を発見すべくジョヴァンニ・ダ・ヴィラツィーノ(フィレエンツェ人)を派遣した。ヴェラツィーナはノースカロライナ海岸で陸地を発見し、今日のニューヨーク港の辺りまで進入した。彼はその後今日のメイン州のあたりまで航行し1524年にディエップ港へ帰国した。

イギリスの渡航熱

 ブリストルその他イングランド西海岸の諸港の人々は、エドワード6世の治世(1547-1553)より以前から大西洋へと航海を行っていたが、イギリスの真の海上発展は1550年以降の上げ潮を待つ必要があった。その要因の一つををなしたのはヘンリー8世(1509-47)によるロイヤルネイヴィ英国海軍の創設であった。ヘンリー8世は1536年と39年の2度にわたりカトリック修道院の財産を没収し、得た資金のうち一部を建艦費にあて、瞠目すべきほどに海軍を増強した。国家的戦闘装置の後楯を抜きにしては、英国人の航海活動は不可能であった。
 要因の二は"航海"を鼓吹するプロパガンダの瀰漫であった。「航海し能わぬ海はなく、人の住み得ぬ土地もまたなし」(ロバート・ソーン)という標語はこの時代の熱気を代表する。
 このようなプロパガンダの数は夥しく、そのいずれもが東方貿易の追求を第一目標としていた。エリザベス1世の時代(1558-1603)に入るとアメリカ水域におけるスペイン人との交戦状態や北米への植民が視野に入ってくるが、それは少し先のことである。
 ここでは暫く極北への航海について目を転じてみよう。

北東航路

 ヘンリー8世の時代、イギリスには毛織物業が発展し、毛織商人たちは、国王の特許を得て「冒険商人組合」を組織し、ヨーロッパへ活発に進出したが、東インド等へと至る南廻りの海上輸送はスペイン、ポルトガルによって圧倒されていた。残されたアジアへの途は北アメリカの北辺を迂回する「ノースウエスト・パセージ北西の道」かアジアの北辺を迂回してアジアへ至る「ノースイースト・パセージ北東の道」の提案しかない、と考えられた。メルカトルの北極圏図にもうかがわれるように、16世紀後半ころには、北極を中心とした陸地の周囲には広い海が巡らされ、それが太平洋とも連続してアメリカとアジアの大陸を分かっていると想像されており、そのため結氷や流氷、また北へ向かうほど羅針盤の偏差が著しくなることなどの困難性にもかかわらず北方に進むことが可能であると信じられた。

 当時北極の周辺については殆ど知られていなかったが、メルカトルの北極圏図によれば、旧大陸にも新大陸にも属さない北極には4つの陸塊からなる陸地があり、ジョン・ホールなどの主張によれば、アジアの北岸を東進してタビン岬(想像上の岬)を越えれば陸地は南東に転じ、カタイ(中国)に至りうると考えられていた。そしてカタイの民族は民度も高く、イギリスの毛織物の一大市場となり得ると考えられた。
 このような所説に刺激され、1553年にヒュー・ウイロビーとリチャード・チャンセラーが3隻の船でノヴァヤゼムリア島まで達したが、越冬することができずウイロビーの一隊は全員が死亡してしまった。しかし、チャンセラーは復路モスクワに至ることができ、ロシアとの交易に成功した。
 次いでステファンバローが1556年にカラ海への進入口を発見した。カラ海は1580年のアーサ・ベットとチャールズ・ジャックマンと1594年ウィレム・バレンツ(オランダ人)によってその姿が漸く明らかにされた。

北西航路

 ハンフリー・ギルバートによれば北東航路は遙か北方を迂回しなければならないが、北西に航路をとり、ラブラドルの沿岸を経由すれば海岸線は南西に転じ、スペイン/ポルトガルが採っている喜望峰経由の南方航路よりもたやすくカタイへ至ることができるものと説明された。
 この提案に沿って、1576年マーティン・フロビッシャーがバフィン島南端の或る湾(フロビッシャー湾と命名された)に到達し、1585年にジョン・デーヴィスが海峡(デーヴィス海峡)を、1610年にはヘンリー・ハドソンが別の海峡(ハドソン海峡)を発見した。ハドソン湾は広大で、ハドソンはこれこそ太平洋への途であると信じたが、事実はそうではなかった。
 1616年にはウィリアム・バフィンがデーヴィス海峡を北上してバフィン湾と彼が命名する湾を発見し、1631年にはルーク・フォックスによって北西航路の最後の航海が行われた
 このように地理上の発見の時代の掉尾を飾った北東航路や北西航路は、当時の船舶の構造が結氷した海を越えるのに堪えられず、また船乗りが気象についての知識を欠いていたことも手伝って、いずれの航海も目的を達することはできなかった。

フランス人のカナダ探検

 フランスによるカナダ帝国の建設の功はサミュエル・ド・シャンプランに帰せられることは衆目の一致するところである。シャンプランは1567年頃、ラ・ロシエルの南のブルアージュの港町で生まれ、後にアンリ4世の陸軍の将校となり、その後西インド諸島へ行きたいとの希望を持ってスペインへ行き、1599年にサン・ルカール港において便船を得てプエルト・リコ、メキシコシティ、パナナ、ハバナへとスペイン領の各地を旅行した。
 その後フランスへ還ったシャンプランは、戦友の推挽で幸運にもアンリ4世に拝謁する機会を得、フランソク・デュ・ボングラエによる何度目かの偵察ともいうべき航海に同行することができ、1603年に3ヵ月をカナダに滞在した。そこでボラングエと共にアルゴンキン・インディアンと同盟を結んだ(結局この同盟は150年も続く)。
 シャンプランたちは今日のケベックやモントリオールへと河を遡り、土民たちからこの先には国があること、五大湖のこと、ナイヤガラ瀑布のことなどを聞いて、将来植民地とすることに適していることを知り、またカナダの水路はやがて太平洋へ至るという確信(結局は誤りであったが)を抱いてフランスへ還った。

 1604年、ユグノー(プロテスタント)教団を率いるバモンと共に植民地計画に参加したシャンプランたちは、ノヴァ・スコシアへ達し、ファンディ湾を測量し、パッサマクォディ湾の奥にあるサント・クロア島に植民地を建設した。シャンプランに従っていたブリューレは10数人のインディアンたちと南へ向かい、シムコー湖を経てオンタリオ湖、エリー湖へと達した。その後驚くべきことであるが、ブリュールはエリー湖を超えてサスケハンナ河に到り、流れに乗ってチェサピーク湾まで下り、大西洋へと出た。かくして英領ヴァージア(後述)と仏領カナダとは陸路によって連絡できるようになった。これは今日のペンシルバニア州にあたる地域をヨーロッパ人がはじめて踏破した事業となった。
 フランスはその後20年間にわたってカナダの植民地化につとめ、ピルグリム・ファーザーズがプリマスに上陸した頃(1620年)にはフランス人はセント・ローレンス河やオタワ河の河川系について測量を行っており、五大湖のうち三大湖(ヒューロン、オンタリオ、エリー)を発見した。これとは対照的にイギリスの植民地開拓者たちは名誉革命(1688-89)直前期まで大陸内部の広大な地域を横断したことはなかった。

アメリカ南海岸(フロリダ半島)への植民

 フランスにおけるプロテスタント運動はカトリックと宗教的信条を異にするかなりの勢力を生み、その中から海外植民に適した志願者が現れた。ル・アーヴル、ディエップ、ラ・ロシエールなどの港にはユグノーの数が特に多かったから、海外渡航にはお誂え向きとも言えた。しかし移民計画は宗教的迫害からの逃避という以上の意味を持っていた。
 即ちフランスの北部をなすノルマンディーやブルターニュの諸港は長年にわたってスペイン船に対する私掠活動に従事していた。フランスの私掠活動の得意先ともいうべきスペイン船ルートはフロリダ付近を通っていた。スペイン艦隊が必ず通過するフロリダ海峡においてスペイン艦隊の横腹を突くことが可能な位置に植民地を創るという構想は、フランスの植民にとって戦略的に重要な意味を持った。
 こうした構想は1562年の冬ル・アーブルを出港した2隻の船を率いたフランス人ジャン・リボウによって先鞭がつけられた。この航海はフロリダの偵察航海であったが、翌年リボウは偵察を打ち切って5月にジョージア沿岸(現在のポート・ロイヤル)に砦(シャルムフォールと命名)を築いて植民化しようとした。しかし「植民地」に必要な計画性を欠いていたので、失敗に終わり、再起を期してフランスへ帰るが、故国は、国内において徐々に勢力を持ち始めたプロテスタントとカトリックとの争いがもとになり宗教戦争の嵐(1562年から翌1563年にわたる第1次戦争から度々の休戦を挟んで1598年まで8次にわたった)の中にあった。

 この戦争は1563年のアンポワーズの和平によって一時的には止み、1564年にはさきの航海の副将であったルネ・ド・ロードニエルは第2次遠征隊指揮官に選ばれ、300人の水兵と入植者を率いてフロリダ半島の付け根にあるジャクソンヴィルの近くに植民地の地取りをしたが、叛乱によって進捗しなかった。その後既述のリボウはフランスにおいて復帰を果たしこの地に到るが、おそくとも1530年代から1540年代にはフロリダからミシシッピ河にかけて触手を伸ばし、1565年にはフロリダのセント・オーガスティに植民地を形成していたスペインも黙っていない。ペドロ・メネンデス・アビレスを派遣し、1565年8月にリボウとメネンデスとの戦が起こり、リボウは敗れ、わずか100人ばかりのフランス入植者のみが故国に帰り得たのみで、他はスペイン軍によって屠られてしまった。
 しかし1567年、ドミニク・ド・グールゲ(リボウの友人にしてカトリック)がフロリダに渡りスペイン軍駐屯地を襲い、殲滅という申し分のない復仇を遂げた。

イギリスの植民地計画

 フランス人はスペインの海上的脅威の排除のためにフロリダを選んだのに対し、イギリス人は大洋を横断する距離が短く、当時、緯度が同じであれば(北緯50度前後)気候も同じだと信じられていたが故にニューファンドランド島から、ノヴァ・スコシア方面への関心を寄せていた。

 北西航路(既述)の可能性を主張していたハンフリー・ギルバート卿は運動の末1578年6月、エリザベス1世から、「いずれのキリスト教君主も領有していない遠隔地並びに異教徒の国の総てに対し自由に植民しかつ所有する」ことを許す有効期間6年の特許状を得、これが大英帝国の植民地の歴史の基礎となった。数年の偵察航海の末1583年に至り、ギルバートはセントジョンの入江(ニューファウンドランド島東岸)につき、そこにいたスペイン人、ポルトガル人、フランス人、イギリス人から成る多国籍の漁夫の面前で、この港とその周辺200リーグ以内の領有を宣言した。その後ギルバートは乗船の難破によって歿してしまうが、6年間の有効期間が経過すると、エリザベス女王の特許は彼の異父弟ウオルター・ローリー卿に承継された。
 1584年にローリー卿は麾下の船長らをアメリカに送り出し、彼らはノースカロライナの入江を通過して内海に植民地の適地(ロアノーク島)を発見したと報告した。ロアノーク島は後にヴァージニアと呼ばれる地域の沿岸部にある。1585年ローリーはこの報告を確かなものとするため初の植民艦隊を派遣した。入植者の副総督ラルク・レインは探検隊を指揮してノースカロライナの周辺を測量した。旁々黄金の発見をも目指したであろう。

 しかしレイン達は農業環境の苛酷な諸条件を無視したことやインディアンとの関係も友好性を欠き、1年も経たぬうちに食糧の欠乏に見舞われた。
 文字通り助け船となったのは西印度諸島方面における私掠活動を成功裡に終えて帰国の途にあったフランシス・ドレイク卿であった。1586年レインとその部下はドレイクの助けを借りてヴァージニアを後にすることができた。
 しかし失敗に終わったローリーの計画は1587年春にジョンホワイトの統率のもとに入植者の一団(婦人を含む)がロアノーク島に到着したことによって承継されたようにみえたが、先の入植者の生存はおろか痕跡すらみられず不成功に終わり、夏に至ってこの一団はイギリスへ帰還を余儀なくされた。その後スペインとイギリスの戦争(イギリスはスペインとの間に冷戦期間を含み1558年-1588年にわたって戦争体制にあり、アルマダ無敵艦隊の邀撃作戦(1588年)に勝利することによって決着がついた)によってヴァージニアとの連絡線は不通となり、ホワイトの再度の抗戦(1590年)も不成功に終わった。

 ロアノーク植民地の失敗と、長期にわたるスペインとの戦争はイギリスの植民地事業を停頓させたが、この間でさえも究極的には植民地を目論む探検航海は不規則ではあったが継続していた。
 1580年代にはペノブスコット湾(ジョン・ウォーカーによる)、1593年にはケイプ・ブレトン島(リチャード・ストロングによる)への航海が行われ、1602年にはアソーレス諸島からマサチューセッツ湾への大西洋横断航海が、サウサンプトン伯(シェークスピアのパトロン)の命を受けたバーソロミュー・コズノールドによって行われる。
 ゴスノールドは原住民との間に交易を行い、毛皮やササフラスの樹皮(強壮と芳香剤)その他の品々をイギリスに持ち帰った。船の航海は徐々にニューイングランドと呼ばれる諸地方への貿易を刺激し、1607年にかけて、メイン海岸、ナンタケット島、ケネベツク河、ペノブスコット湾付近への探検が多くの探検家によって行われた。

ヴァージニア

 1607年クリストファー・ニューポートなる船長が、サラコンスタント号を旗艦とする3隻の艦隊を率い、ジェームズ1世(1603-1625)の勅許を得てヴァージニアへ遠征した。その目的は、恒久的植民地を設立するためであり、ジェイムズ河の左岸にあるジェムズタウンへの入植の成功は、イギリスにとってコロンブスの第1次航海に匹敵する程の重要な出来事であった。
 次いで1608年の夏、ジョン・スミス船長はジェイムズ河と、それが注ぐチェサピーク湾、サスケハーナ河、ポトマック河、ラパハノック河、ヨーク河さらにはペンシルヴェニア南部からノース・カロライナ北部へ、そして内陸部のピートモンド平原に至るまでの広い範囲を航海と遡航によって測量し、重要な地理上の発見をした。
 ヴァージニア植民事業は、順調に進んだわけではない。入植者は三角形の砦を設け、その三つの頂点には大砲を置き防塁をもって外敵から身を護った。食物はわずかで1日5人を養えるほど、飲料水は川から汲んだ水で、水位の高い時は塩からく、水位の低いときは泥や汚れがひどいという有様であった。このような状況においても植民地が亡びなかったのは本国からの移民が後続したことと、近隣に居住するインディアンたちの協力が得られたことによる。入植者たちは農作の方法やこの大陸に適合する生活様式をインディアンから教わった。トウモロコシ、タバコ、ピーナッツ、ココア、やまいも、人参、いんげん豆、タピオカ、かぼちゃ等々であり、中でもタバコはコロンブスがその第1回の航海によってスペインに持ち帰ったが、植民後によるタバコの栽培はたちまちにしてイギリス人を惹きつけた。

メリーランド

 ヴァージニア植民の動機がイギリス国王の勅許によるものであり、スペインと敵対するおそれを冒してなされたものであったとすれば、メリーランド及び後述するピルグリムファーザーズによる植民は、イギリス内部にある宗教的な対立ないし分裂にその原因がある。
 周知のようにイギリスは、プロテスタントである国王を戴き、カトリックとの関係は徹底的にではないにしても敵味方の関係にあった。しかしエリザベス女王(1603年歿)の後を継いでスチュアート朝を興したジェームズ1世とその次のチャールズ1世(1625-1649)はカトリックを公然と許容しないまでも状況次第では好意を示すことを惜しんだわけではなかった。
そのようなわけでボルティモア卿(カトリック教徒)が、アメリカにおいてカトリック信徒が平和で安全に信仰を全うできる植民地を創りたいと願ったときこれに勅許を与えた。こうしてメリーランドにカトリックによる植民地が生まれた。

ピルグリム・ファーザーズ

 一方に迫害されたカトリック教徒がいれば、迫害されたピューリタンもいる。これらのピューリタンたちの多くは、以前、オランダに一時的な避難場所を求めていたが、このオランダの地から、アメリカへ出航したピューリタンがいた。1620年9月のことである。
 船出した船は"メイフラワー号"と呼ばれる2層の甲板を持つガレオン船であり、102人(婦人や子供も含む)のピューリタンが乗船しており、彼らはピルグリムファーザーと自称し、船上で「メイフラワー契約」に署名し、キリスト教徒により理想的な国家の建設を目指したとされる。それはそれで誤りではないにせよ、102人のうちピユーリタン清教徒(エリザベス1世によって確立されたイングランド国教会の改革を主張する一派であり、国教会からは弾圧を受けていた)といえるのは41人に過ぎず、その余は母国での貧困生活に堪えられない「食いつめ者」のイングランド国教徒であり、そのため船中においても又、上陸後も両グループ間にはトラブルがあったと言われている。

 "メイフラワー"は、1620年11月20日、北緯42度、大西洋に突き出たコッド岬に到達し、ニュープリマスに上陸した。
 入植当時の状況は厳しく、先発植民地であるヴァージニアと同様飢餓と病気のため半数が死亡した。それでも越冬できたのは先住インディアンのワンパノアグ族の援助(ピルグリム条約と称する友好条約を締結)のお陰でもあったが、その後入植範囲を拡げるにつれインディアンとの間に土地と食料を巡って対立が生じ、戦闘も生ずるようになった。

ニューイングランド

 こうしたインディアンとの対立抗争、妥協を重ねながらイギリス人入植者たちは、大西洋沿岸にニューイングランドと呼ばれるようになる植民地を築いてゆき、この根から生まれた植民地から、後にマサチューセッツ、コネティカット、ニューハンプシャー、ロードアイランド、そして後のヴァーモントとメーンの諸州が生まれることになる。
そもそも植民地が他国からの人の移動によって生成される社会である限り、人口は、植民の行方にとって最も重要な要素である。移民の流入のみに依存することなく、自然増による人口増加が可能となってはじめて、本国から自立した社会の発展が保証されるのであるが、アメリカにおけるそれはまだ先のことであり、その後150年の時の流れを経なければならなかった。

  ピルグリムファーザーズがマサチューセッツへ上陸した1620年、日本は徳川秀忠の治政下にあった。家光の時代に入ると1633年以降日本は対外交易を極端に制限して、いわゆる鎖国に入る。そうした頃アメリカの国創りは始まったのである。

(未完)

<参考図書>
  • 織田武男「地図の歴史」(講談社、1973)
  • ボイス・ペンローズ「大航海時代―旅と発見の二世紀」(筑摩書房、1985)
  • 紀平英作「アメリカ史はどのように描かれてきたか」(アメリカ史研究入門、山川出版社、P31)
  • 猿谷要「物語アメリカの歴史―超大国の行方」(中央公論新社(中公新書)、1991)
  • C・チェスタトン「アメリカ史の真実―なぜ「情け容赦のない国」が生まれたのか」(祥伝社、2011)
  • 小林幸雄「図説イングランド海軍の歴史」(原書房・2007)

※地図製作 高橋亜希子(1 Div.)

ページトップ