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弁護士 堤 淳一

2015年01月01日

太平洋の覇権(22) -----北アメリカにおけるイギリス植民地の拡張

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

ニューヨーク、デラウェア、ニュージャージー

 ハドソン川の河口に臨むメリーランドとニューイングランドの植民地(マサチューセッツ、ロードアイランド、コネティカット、ニューハンプシャー、ヴァーモントの諸地域をまとめてそう言う)の間には、ニューアムステルダムというオランダの開拓地があった。そこに住みついた最初の開拓者はスウェーデン人だったが、スウェーデンは隣の自領にあるニュージャージーへの入植者をないがしろにしたためニューアムステルダムも立ち枯れとなり、オランダ植民地に吸収され、この地の支配権はやがてオランダに移っていった。
 その後チャールズ2世の治世下(1660-1685)において戦われた第2次英蘭戦争(1665-1667)に敗北したオランダは1674年にニューアムステルダムをイギリスに割譲し、イギリスは同地をニューヨークと名付けた。ニューヨークの名はチャールズ2世の弟であるヨーク公にこの地を直営地として与えたことに因む。そのようなこともあって、ニューヨークは、設立当初からニューイングランドや北部一般のピューリタニズムとは繋がりがなかった。実際のところニューヨークはニューイングランド地域からはずっと隔離されており、ニューヨークが一種のコスモポリタン的な性格を帯びているのはそのせいかもしれないのである。
 ニューアムステルダムとともに、メリーランドと大西洋の間にある小さなプランテーションであるデラウェアがイギリスに割譲された。
 イングランドは同時期にニューヨークとデラウェアの間にある係争中の地域の所有権も主張した。後にこの地域はニュージャージーという植民地となった。

ペンシルバニア

 1681年、メリーランドの北に新たに植民地を建設するため、ウィリアム・ペンがチャールズ2世から勅許を与えられた(チャールズ2世がウイリアムズの父親に対する褒美の未支給分を補償する意味があったためと言われている)。ペンシルバニアは新しく入手したニュージャージーとニューヨークの間にあり、その所属するクウェーカー教徒の避難場所にするため、ペンが用意していたものである。というのもクウェーカー教徒たちは、すべての宗派から(中でもニューイングランドのピューリタンの開拓者から)猛烈な迫害を受けていた。ペンはクウェーカー教徒に理解を示し、植民地の総督としてペンシルバニアの基礎を築いた。
 ペンは、先住民たちを、自由に契約を交わす、完全な人権をもった商売相手として扱った。必要とする土地は公正な取引で買い取り、先住民たちと交わした契約は、どの条項も、これを遵守した。

カロライナ、ジョージア

 同じチャールズ2世の治世に、ヴァージニア南部へと広がる地域の開拓が始まった。新しいプランテーションは「カロライナ」(「英国王チャールズ1世又は2世の」という意味で「カロライン」)と呼ばれた。
 イングランドは、かねて北東アイルランドにプロテスタント系の植民地を創設したが、イングランドの手工業者の保護に過度に傾く法を制定したため、これらの多数の入植者はアイルランドを棄ててアメリカへ旅立ってしまった。彼らは南北のカロライナへ、そしてペンシルヴァニアやヴァージニアへ押し寄せ、さらにそれよりも西に開拓されたジョージアという新しい植民地にまであふれ出したのである。そのような次第で、カロライナとジョージアには、ピューリタンの伝統が、ニューイングランドほどではないけれども根強く残っている。

アメリカ植民地の沿革

 スペインがアメリカ大陸を「発見」した初期の地域に金銀の鉱山はなかった。金銀は後に100年ほどしてブラジルで発見され、さらに300年もたってから北アメリカにも金鉱が発掘されゴールドラッシュを招いたが、いずれもずっと後世の話しである。しかし金銀を得るため西まわり航路によるアジア貿易の航路を見つけ出すという奇妙な夢につき動かされて新大陸にまずスペイン人の植民地ができた。
 スペインはアメリカ大陸を発見したことを理由に大陸全体に対する領有権を主張した。海軍力を背景にしたポルトガルがブラジルに植民地を建設することを妨げることはできなかったが、当時のスペインは各国にとって脅威の的であり、当初ヨーロッパ諸国は新大陸に植民地の建設を手控えたほどである(フランスが1560年にフロリダへ入植しようとしてスペイン軍に屠られた話しは前に書いた)。しかし1588年にアルマダ無敵艦隊がイングランドに敗北し、かつ暴風に遭難して戦力を喪失すると、他の諸国による植民地の建設を妨害する力を失った。

 こうして、1600年代に入るとイギリス、フランス、オランダ、デンマーク、スウェーデンなど外洋に面した港を有するヨーロッパの国々はこぞって新大陸に植民地を建設しようとした。
 しかし最終的にはイギリスが北アメリカにおける植民地支配の第1等の勝利者となる。その原因はどこにあるのであろうか。アダム・スミスの所説を参照しながら考えてみることにする。

 イギリスの植民地の多くは、開拓地を設立し運営するための持株会社に与えられた国王の勅許にもとづいて設立された。その嚆矢となるのは1606年にジェームズ1世によるヴァージニア植民地である(1606年に勅許が与えられ1624年植民地化)。引続いて勅許にもとづく夥しい数の植民地が北米大陸に生まれた。

 イギリスの植民地は当初、フランス、スペイン、ポルトガルに比べて特に多かったわけではない。しかし、これら3国の植民地に比べて土地の改良と耕作についてはるかに優位性があった。
 第1に、すべての入植者はある期間内に所有地のある一定の比率以上の土地を開発する義務を負っていた。
 第2に、土地について長子相続が認められず(例えばペンシルバニア)、これが認められる地域においても土地の所有は封建的な隷属関係から切り離されており、譲渡も簡易であったため、何世代かを重ねると、小規模な画地に分割されることができた。土地の大規模所有は土地開発を妨げる最大の理由である。ポルトガル植民地のように土地が少数者により所有されていたのでは、多くの者が豊富で安い土地を手に入れるという条件を満たしえない。
 第3に、入植者に対する税が軽いために生産物農地に占める入植者の取り分が高かった。イギリスの入植者は本国の行政負担から免れていた(但し後にそうでなくなる)。スペインとポルトガルにおいては教会も住民に大きな負担をかける原因となっていた。

生産物の輸出入の方式

 第4に、余剰生産物(自らの消費量を超える部分)の販売についてイギリスの植民地は他のヨーロッパのそれよりも厚遇されていた
 他の国では植民地貿易を本国で独占しようとしたか、或いは植民地貿易をすべて独占企業に任せていた。入植者にはすべてヨーロッパ製品を独占企業から購入させ、余剰生産物はすべて独占企業に売るよう義務づける。当初オランダがそうであった(但し18世紀には停止している)。デンマーク、フランスも同様の方式を採用し、ポルトガルは1750年代にこの方式を採用した。
 また独占企業を設立せず、植民地との貿易をすべて本国の一港に制限し、指定された時期に指定された船による貿易のみを許可する方法もあった。この方法は何人もの商人が資本を出し合って、許可された船を仕立てるのだから全員の協力を必要とするがゆえに結果的に独占と同じようになる。スペイン植民地やポルトガル植民地においてこの例をみることができ、入植者は法外な金額で商品を買うことを余儀なくされた。

 これに対して本国のどの港でも、通常の通関手続をとりさえすれば特別の許可を得なくても、誰でも貿易を行えるようにしている国もある。この場合には港は各地に分散しているので、全員が協調行動をとるのは不可能である。ここまで自由な政策がとられていれば、植民地は適正な価格で生産物を販売でき、ヨーロッパ商品を購入できる。

「航海法」による制限

 イングランドは、植民地建設の初期のプリマス会社が解散(1608年)して以来、この政策をとりつづけてきた。フランスも原則としてこの政策を採ってきている。植民地が余剰生産物を輸出する際にも、イングランドは一部の商品についてだけ、輸出先を本国に限定する政策を採っている。これらの商品は航海法か、その後に制定された条例に列挙されており、列挙品目と呼ばれた。航海法(Navigation Acts)は1651年にクロムウェルの議会によって制定されたもので、イングランドの植民地貿易を主としてオランダから守るためのものであった(航海法は、1849年から1854年にかけて廃止されるまでの間、徐々に形をかえ存続する)。その趣旨はイングランドの貿易はイングランド船籍を有し、かつその乗組員の過半数がイングランド人(植民地人を含む)である場合にのみ許すべきものとする点にあった。列挙品目以外の商品は非列挙品目と呼ばれ、他国に自由に輸出できたが、輸出にあたってはイギリスか植民地の船を使い、船主と、船員の4分の3以上がイギリス国民でなければならないものとされた。
 もっともアメリカと西インド諸島にあるイギリス植民地の間では、列挙品目、非列挙品目ともに完全な自由貿易が許可されていた。

輸出商品の制限

 列挙品目には2つの種類がある。
その1は植民地の特産品であり、本国では生産できないか、ほとんど生産されていない商品である。
糖蜜、コーヒー、ココア豆、タバコ、ピメント、生姜、鯨の髭、生糸、綿花、ビーバーなどの野生の動物の毛皮、インディゴ、ファスティクなどの植物性染料がある。これら商品の輸出先を本国に限るのは、第1に、イギリスの商人がこれらの商品を植民地で安く買えるようにして本国で売る際の利益率を高めるためであり、第2に、植民地と他のヨーロッパ諸国の問で有利な中継貿易を確立し、これらの商品をまずイギリスに輸入した後にヨーロッパ各国に再輸出するようにして、この貿易の中心、即ち植民地商品の集散地の地位をイギリスが確保するためである。
列挙品目の第2は植民地の特産品ではないし、本国でも生産されているが、本国の需要の大部分を満たせるほどではなく、主に外国からの供給に頼っている商品である。ここに入る品目には、船のマスト、帆桁、船首用材木、タール、ピッチ、テレビン油といった造船用のすべての資材、銑鉄と棒鉄、銅鉱石、家畜の生皮と皮革、炭酸カリがある。
 第2の種類の商品については、本国内で生産される同じ種類の商品の販売には打撃を与えず、外国からの輸入品の販売にだけ打撃を与えるように輸入を管理することができるとみられている。関税が適切であれば、植民地から輸入した商品がかならず本国の商品よりは少し高いが、外国からの輸入品よりは大幅に安くすることが可能だからである。

 非列挙品目には、アメリカと西インド諸島にとって特に重要な商品、つまりすべての種類の穀物、木材、塩漬け食品、魚などがある。
砂糖は当初、列挙品目であり、イギリスにしか輸出できなかったが、1731年、砂糖生産者の主張が認められ、世界のどの国へも輸出できるようになった。しかし、事実上イギリス植民地で生産される砂糖はその後も、概ねイギリスとその植民地だけに輸出されている。ラム酒は重要な輸出品であり、植民地はこれをアフリカに輸出し、その代価をもって奴隷を購入した。

植民地への商品の輸出と関税

 イギリスは、植民地にとって特に重要な商品の一部(列挙商品)の輸出市場を本国市場だけに限定する見返りとして、本国市場でこれらの商品のいくつかを優遇する政策をとっている。その方法として、他国からの同様の商品の輸入に高い関税を課す場合もあるし(砂糖、タバコについて植民地を優遇)、植民地からの輸入に奨励金を支給する場合(植民地の麻、亜麻、造船資材)もある。
また、イギリスでは外国商品の輸入にあたってほとんどすべての品目に重い関税が課されていたので、関税を上乗せした価格で再輸出しようとしても、独立した外国がそれを輸入するはずがない。このため、再輸出にあたって関税をある程度まで払い戻さなければ、中継貿易は成り立たない。そこでイギリスは輸入品を他国に再輸出する際に、輸入に際して支払われた関税の一部を関税の納税者へ払い戻しており、ほとんどの品目で少なくとも半分、たいていは半分以上、ときには全額が払戻の対象になった。

 そうしたわけで1763年までは、アメリカ植民地に再輸出する際にも独立国に再輸出する際と同様に関税が払い戻されていた。しかしジョージ3世治世(1760-1820)の1764年(後述の七年戦争終了の翌年である)の法律によって、この優遇措置が大幅に縮小され、こう規定された。即ち「ヨーロッパまたは東インドで産出、生産、製造された商品が王国内からイギリスの植民地又はアメリカの入植地に輸出される場合には、旧臨時関税(注:1660年チャールズ2世の時代に制定)はいかなる部分であっても払い戻さない。但し、ワインと白地の綿織物は例外とする。」と。法律が制定される以前には、外国商品のうちかなりの部分は本国でより植民地での方が安く買えた可能性があったが、それが駄目になってしまった。

植民地の自治

 スペイン、ポルトガル、フランスは、植民地を専制支配していたのに対し、イギリスの植民地は、貿易を除くすべての点で、本国の住民と同じ権利を認められ、本国の住民と同じように、入植者代表の議会によってこの権利が保障されていた。植民地議会は植民地政策を維持するための課税権を持つ唯一の機関だと自ら主張しており、住民を代表する議会が行政当局(総督府)より高い権威を持っているものとされたのである。このような保障は後に独立戦争を起こす際の精神的支柱となった。

16世紀中頃のイギリス支配地域

イギリスによるフランスの駆逐―七年戦争

 17世紀後半から18世紀にかけて、イギリスの植民地はマサチューセッツからフロリダの手前まで広がりをみせていた。フロリダはまだスペイン領だったが、スペインはもはやイングランドの手ごわいライバルではなかった。フランス人は、1世紀にもわたり粘り強く戦争と外交を繰り返したことによって、スペインの国力を消耗させ、1567年以降はフロリダを手に入れていた。
 他方、フランスは北アメリカに2つの地盤を持っていた。その1はルイジアナであり、もう一つはメーン州の北、セント・ローレンス川の河口にあったカナダである。この2つの植民地をアメリカ大陸の心臓部まで拡大して合流させ、イギリス人が大西洋沿岸へ入植するのを抑制し、イギリスの勢力が西部へと広がるのを防ぐ効果を期待していた。

 イギリスとフランス両国の競争は18世紀前半になると益々その度を加え、「七年戦争」が勃発すると、公然たる軍事行動が始まった。
 七年戦争は一方をプロイセン、イギリス(及びその植民地)、ポルトガル等とし、他方をフランス、スペイン、オーストリア、ロシア、スウェーデンとする戦争(Seven Years' War)であり、1756年から1763年に戦われた。戦いはヨーロッパ及びその植民地でも繰りひろげられ、北アメリカ大陸での戦いはフレンチ・インディアン戦争と呼ばれた。先住民(インディアン)と同盟を結んだフランス軍を相手に、イギリス人が戦ったところからこの呼称がついた。戦況は一進一退だったが、後半に入ってイギリス側が優勢となり、1763年にフランス側が降伏して戦闘は終了した。イギリス軍が優勢な軍隊を保有しえたのは、イギリス植民地から召集された将兵の力も大いに与っていた。そのような指揮官の中に、後にアメリカ合衆国の初代大統領となるジョージ・ワシントンがいた。

 戦争処理はパリ条約(1763年)によって行われ、フランスはケベックなどカナダの領土と、ルイジアナのうち、ミシシッピ川以東、アパラチア山脈までの地域(後に北西地域と呼ぶ)をイギリスに割譲し、ミシシッピ川以西をスペインに割譲した(仏領ルイジアナは、七年戦争においてフランスがスペインとの同盟を頼んだことの代償として、既に1762年にスペインに譲渡されていた)。こうしてアメリカ大陸では、フランスは既にイングランドのライバルではなくなったのである。これにより、フランスは北アメリカ大陸から完全に撤退し、一部の商業都市を除いたインドの植民地を放棄した。
 そのほか、イギリスはスペインにマニラとハバナを返還するかわりに、フロリダを獲得した。

 七年戦争とその結果であるパリ条約により、イギリスは、インド亜大陸からフランスその他の欧州列強を全部追い出し、かつ北アメリカを抑えた。さらに太平洋でも、フィリピンのマニラを占領し、ジャワも抑え(後にそれぞれスペイン、オランダ等に返還)、さらにカリブ海や中南米の各地の要衝も占領した。イギリスがほとんど「一人勝ち」を収めたと言ってよい。
 そのため、戦後イギリスに対する脅威感と妬みが、フランスをはじめとするほとんどすべての列強に生じた。後にそのイギリスが、アメリカでの植民地独立運動の泥沼に手を焼く姿をみて、フランス、スペイン、スウェーデン、オランダ、ポルトガル、はてはロシアまでが「好機至れり」とばかり、打ち揃ってアメリカ独立派に肩入れをすることになった。

イギリス植民地の産業と黒人奴隷

 このようにしてイギリスは大西洋に沿って優に1000マイルを超え、緯度にして20度に及ぶ(北緯30~50度)植民地を得た。北と南では気候は異なり、生産される物も労働の質も違っていた。
 南部植民地のヴァージニアとメリーランドはタバコの生産が盛んであり、カロライナ、ジョージア、テネシーといった地域の気候は綿花の栽培に適していた。タバコと綿花は「列挙商品」であり、イギリス本国へしか輸出できなかったから、イギリスの繊維製品の製造業者達は、とてつもない利益を得ることができた。加えて、1733年に「飛びひ杼」、1769年にはアークライトによる水力紡績機が発明され、やがてジェイムズ・ワットが1765年に蒸気機関を発明し、これが紡績機と結合することによって綿織物の大量生産を可能にした。

 他方北部の植民地にはそのような気候の好条件は全くなく、沿岸地域においては徐々にではあるが海運業が盛んになってゆき、とくにボストンとニューヨークの商船貿易は評判を集めるに至っていた。やがてほとんどの大西洋貿易はこれら北部諸植民地の商船によって担われるようになり、中でも効率の良い貿易は奴隷貿易であった。1713年にスペイン承継戦争を終結させたユトレヒト条約によってスペインから中南米のスペイン領植民地に奴隷を供給する独占権(Asiento)を獲得したイギリスは、毎年4800人の黒人を奴隷としてアフリカ(西海岸)から北アメリカのイギリス植民地に供給できることになった。

 綿花とタバコの栽培は西インド諸島の砂糖きびと並んで南部のプランテーションにかなりの黒人労働力の需要を生み出していた。ヨーロッパ各国では既に廃止されていた奴隷の利用が復活し、南部・北部を問わず合法とされた。宗教移民が多かったメリーランド、ペンシルバニア、カロライナですら奴隷に対し良心の呵責も感じてはいなかった。最も純粋である筈のカルヴァン主義の牧師ですら奴隷たちを暗黒の世界から福音の光明の中へ救い出された者として神に感謝を捧げる儀式を行ったほどである。
 ただ北部の諸植民地の方が南部に比べて黒人奴隷の数は少なかった。ただしそれはたんに気候が寒冷でアフリカ生まれの黒人には合わず死亡率が高かったため高需要が生ぜず、そのため黒人奴隷が少なかったからにすぎない。

七年戦争の後遺症としての植民地課税

 七年戦争を通じて、長期にわたって行われた植民地抗争は英仏両国に深刻な経済難をもたらした。イギリスは北アメリカ植民地に対して経済統制を強め、課税を行い、多額の負債の弁済に充てようとしたがこれが裏目に出た。北米移民の反発を招き、アメリカ独立革命が勃発する遠因を作ったのである。
 七年戦争はパリ条約(1763年)によって終結したが、さきに述べたようにその翌年である1764年、ジョージ3世は臨時関税の払戻停止措置によってアメリカ植民地に打撃を与えた。というのもかかる関税法の改定によって、植民地における安価な商品の購買の途が閉ざされてしまったからである。

 次いで同年(1764年)、イギリス首相だったジョージ・グレンヴィルが、印紙税を課して北米のイギリス植民地から税収をあげたいと提案した。この提案は北アメリカで発行された各種印刷物に印紙を貼付することをもって印紙税(stamp duty)の支払義務を課そうというものであり、植民地住民の激しい反発をかった。
 当時のイギリスの政体の下では、臣下に対する国王の権力は絶対であり、植民地住民がかかる課税に有無を言い得る立場にはないと考えられていた。そこで植民地住民たちは、そのような一方的課税の根拠が勅許状(1628年に与えられたマサチューセッツ勅許状など)に書かれていないと申し出たけれども、勅許状には課税を除外するとも書かれていなかった。これらの増税でまかなう支出の大部分は、まずはフランス人から、つぎに先住民から植民地を防衛することに使われたから、公平性の点からみても、植民地への課税は正当化されるという議論が行われた。

 結局この法律(Stamp Act)は1765年に制定され、たちまち大西洋岸の各地で不満が噴出した。イギリスの大臣も議会も、これまで誰一人として植民地に課税しようとした事実がなかったからである。
 不満の理論的根拠は、植民地代表のいないイギリス本国の議会には植民地への課税権はないとする点にあった。暴動や抗議が相次ぎ、植民地住民は印紙税法会議(Stamp Act Congress)を開催して反対の決議を行った。

 グレンヴィルは失脚し、チャールズ・ウエントワースが首相の座に着くと、彼は印紙税法を廃止したが、その後チャールズ・タウンゼント(七年戦争を主導したウイリアム・ピット(大ピット)内閣で蔵相を務めた)がいくつかの植民地課税を提案した。このうち最も影響が大きかったのが茶税であった。印紙税よりも実際的な影響は大きくなかったのだが、植民地住民に招いた憤慨は大きく、商業的なマサチューセッツ植民地が主導的な役割を演じ、関税が課せられた茶はボストン港へ入港するや直ちに海に投げ捨てられた。こうした動きはイギリス本国政府と植民地間の闘争を招き、1770年のイギリス駐屯軍によるボストン植民の殺戮を経て、1773年には「ボストン茶会事件」を機にイギリス側から初めてアメリカへ軍隊が派遣された。

 次いで1774年、イギリス政府は植民地設立の根拠となるマサチューセッツ勅許状(1628年)を破棄して、植民地への課税をはかろうとした。植民地への課税については上述の通り種々の経緯を経てきたが、論争は主に勅許は植民地への課税権を含むかといった解釈論であり、イギリス政府と植民地住民は何とかこの問題に折り合いをつけてきたが、イギリスは愈々権威の拠り所となる勅許そのものを問題視しはじめた。即ちイギリスの大臣たちは、勅許状があれば免税権があるという植民地住民の主張は誤っており、植民地が免税とされるのはイギリス王室の恩寵に基づくものであり、植民地住民があくまで免税を主張するならば、イギリスはこれを取り消し、新たな勅許状を、国王の言うことを聞く者に授けるであろう、というあからさまな植民地住民に対する挑発を行った。
 このような大臣たちの態度は2つの結果をもたらした。1774年の大陸会議(Continental Congress)と、それの明白な論理的帰結である独立宣言(1776年)である。

(未完)

<参考文献>
  • 紀平英作「アメリカ史はどのように描かれてきたか」(アメリカ史研究入門、山川出版社、P31)
  • 猿谷要「物語アメリカの歴史―超大国の行方」(中央公論新社(中公新書)、1991)
  • C・チェスタトン「アメリカ史の真実―なぜ「情け容赦のない国」が生まれたのか」(祥伝社、2011)
  • 中西輝政「国まさに亡びんとす―英国史にみる日本の未来」(文春文庫、2002)
  • アダム・スミス「国富論」(山岡洋一訳、日本経済新聞社、2007)
  • D.S.ランデス(竹中平蔵訳)「強国論―富と覇権の世界史」(三笠書房、2000)

※地図制作 高橋亜希子(1 Div.)

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