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ホーム弁護士コラム・論文・エッセイ堤弁護士著作 一覧 > 太平洋の覇権(27) ----- 日本の開国
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弁護士 堤 淳一

2018年01月22日

太平洋の覇権(27) ----- 日本の開国

内中央法律事務所事務所報No.32,2018.1.1)

太平洋を望む

□ アメリカは西海岸においてメキシコを打ち負かしてカリフォルニアを手に入れ、遂に太平洋に達した。
 カリフォルニアから西を望めばそこには太平洋が洋々として広がり、アメリカの更なる西漸を促すかのようである。つとに大西洋岸のボストンやニューヨークから南アメリカ大陸を南へ出て、喜望峰を廻り、太平洋に入って大圏航路に乗ってはるばる支那大陸に渡り、清の貿易商人と交易して巨利を博している仲間たちがいる。
 何といっても我らアメリカ人は「明白なる天命」を課せられているのだ。過去においてスペインの海であった太平洋を我がものにしようではないか。
 やがて、西漸の波は長い間外国との通商を拒否してきた日本へも押し寄せるのであるが、それはもうすぐである。
□ 西漸の波に乗って日本へやって来るのはアメリカ合衆国海軍のエースであるマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)准将。日本人によって「くろふね」と呼ばれるようになる蒸気艦に坐乗してやって来た。
 ペリー来航の話の前に、蒸気艦船とそれによる技術の歴史を瞥見しておこう。

蒸気機関の船舶への応用

□ 蒸気機関の嚆矢と目すべきものはニューコメン (Thomas Newcomen)によって、1712年に発明された鉱山の排水水揚用のエンジンである。しかしこの機関は馬力が少なく、そのため実用の範囲が制限されざるをえなかった。
 その後イギリスのエンジニアであったジェームズ・ワットはニューコメンの蒸気機関を改良し、新方式の蒸気機関を発明し、1769年に特許を取得した。ワット以降の蒸気機関は著しい発達を遂げ、蒸気船、蒸気機関車などの交通機関や自動織機に利用され産業革命の原動力となると共に、石炭を動力の主役に押し上げた。
□ 蒸気船の推進装置は蒸気機関、ボイラ、推進器で構成されている。 
 推進器は当初櫂を蒸気で動かす方法が外輪(paddle wheel)にとって代わられ、やがて後に発明されるスクリュー(screw)に換装され、これにより蒸気船の推進力は著しく増大した。
□ 蒸気船の世界で最も早く実用化に成功したのはフランスのクロード・フランソワ・デュ・ジュファイ・ダボン公爵らであると言われており、1778年z公爵が作った船は長さ13メートル、排水量182トン、長さ45.3メートルの外輪船であり、バイロスカーフ(火の船)と称した。この船はリヨン付近のソーヌ河を僅か15分だけ川上へ航行した。
 アメリカでも1787年にジェームズ・ラムジという商人がポトマック河に蒸気船を走らせた。同年、コネチカットの時計師ジョン・フィッチはドイツ人ヨハン・フォートと共同で12本の櫂を蒸気で動かす船を造ってデラウェア河を8ノットの速力で走った。
 1807年にロバート・フルトンが船の中央舷側の両側に外輪(paddle wheel)を配置し、これを推進力とするクラーモント号を建造し、(時速8キロ、排水量約80トン、蒸気機関20馬力)ハドソン河でニューヨークとオルバニー間の商業運航を開始した。動力にはワットの蒸気機関が用いられた。
□ 初期の小型蒸気船は速度も遅く非経済的で河川における輸送ぐらいにしか使えなかった。蒸気機関もまだ効率が悪く、搭載可能な石炭だけでは航海日数が20日を超えるような長距離の汽走は困難であった。そこで帆と蒸気機関とを併用して走ったり、出入港時や無風状態では蒸気機関のみで走ることになるが、そうでない時や風向きの良いときは石炭の節約のため帆だけで走ることもあった。
 しかし帆走装置の補助機関であった蒸気機関はやがて1880年代の後半から1890年代に至って海の主役の座をかちえることになる。

外輪からスクリューへ

□ 推進装置に用いられる外輪は艦船が大型になるに従いその直径は長くなり、後に日本へやってくるサスケハナ号に装置された外輪の直径は9.45mであった。
 外輪を装備した蒸気船の欠点は外輪の一部が水面上にあらわになるため、外輪を装備した軍艦の場合そこを砲撃により損壊されると推進力を失ってしまうことにあった。
□ スクリュープロペラは1800年代の初頭から多くの研究者によって開発が進められたが、1836年にイギリスのスミスとスウェーデン人のエリクソンがプロペラに関する特許を取得した。
 軍艦にスクリューが装備されたのは1843年にエリクソンがアメリカ海軍のために設計したプリンストン(木造、1046トン)を以って最初とし、イギリス海軍のそれは1843年に完成したラトラー(木造、867bmトン)が最初のスクリュー艦であった。
 軍艦にとってスクリューの利点は、推進装置が吃水線下にあるので砲撃を受けにくいこと、推進軸が水面下にあるので蒸気機関を吃水線の下に設置できることなどにあり、徐々にスクリューの需要が増加した。

鉄造船

□ 最初に鉄製の蒸気船がはじめて外洋を航行したのは1822年に英国で建造されてドーバー海峡を横断し、パリのセーヌ河を航行したアーロン・マンビー(116bmトン、50馬力)である。
 初めて大西洋を渡った鉄造船は1843年7月に完成した英国のグレート・ウエスタン汽船のグレート・ブリテン(満載排水量3675トン、12ノット、全長86.87m)である。グレート・ブリテン号はスクリュー推進であり、初めての鉄製かつスクリュー装備という栄誉をかち得た。
 その成功に刺激され、キュナード社(ブリティッシュクイーン(772総トン))やP&O社(シャンハイ号、(546総トン))などが挙ってスクリューを採用した。

艦載砲

□ 軍艦に搭載する大砲は16世紀中頃から、安い価格の一体鋳造型の砲ができるようになって以来、19世紀の中頃までの約300年間、球形をした鋳鉄の弾丸(中実球型弾丸(shot))を砲口から装填する前装滑腔砲(smooth bore muzzle loading gun) が使用されてきた。射程は発射用の火薬の量にもよるが、大体2,000~3,000ヤード(約1,830m~2,740m)位であった。
□ 1855年に英国のアームストロングが従来の一体鋳造の前装滑腔砲とは全く異なる後装施条砲(breech loading rifle gun)を発明した。
 この大砲の構造は鍛造された鋼で砲身の内筒を作り、内筒の上に錬鉄を巻いて補強し、砲身の内部に螺旋状の溝を作る。砲弾は椎の実型をした長弾で、鉄の表面に鉛が被せてあり、これが内筒の溝にくい込むようになっているので弾丸に回転運動が与えられ、弾道が安定して命中率が高まった。砲弾は砲尾から装填され、尾栓のハンドルを廻して火門栓を押しつけて砲身内の気密を保った。そのためガス漏れがなくなり射程も大きく伸びた。火薬量にもよるが、3800~4000ヤード(約3,420~3,600m)に達した。
 アームストロング砲が初めて実戦に用いられたのは、薩英戦争(1863年)においてであり、その後日本にも輸出され、戊辰戦争(会津若松城攻めなど)に使用された。

砲弾

□ 1820-1830年代にフランス陸軍のペキザン将軍(M.Paixhans)が球型弾の内部に火薬を詰めた信管を付けて着弾と同時に砲弾が炸裂する炸裂弾(shell)と、炸裂弾の発射を可能にする大砲(シェルガン)を開発し実用化した。
 炸裂弾の効果は1853年11月ロシア艦隊(戦列艦6隻)とトルコ艦隊(フリゲート7隻、その他小艦艇5隻)との砲撃戦において実証され、この時ロシア艦隊から発射された炸裂弾によってトルコ艦隊は全滅した。
□ この炸裂弾の破壊力から軍艦を守るため、舷側に厚い鉄板を張って船隊の破損を防ぐという考えが生まれた。
 最初に航洋艦に装甲板(armor)を張った装甲艦(ironclad)を建造したのはフランス海軍で、1859年に建造された木造装甲艦グロアール(5630トン、備砲36門)であり、イギリス(1861年)、アメリカ(1862年)によって次々に装甲艦が建造されてゆく。

アメリカ蒸気艦隊

□ アメリカ海軍は1815年世界最初のフルトンによって建造された蒸気軍艦であるデモロゴス(2,475bmノット)砲20門、後にフルトンと改名)を装備した。しかし海軍当局は蒸気船をあまり評価しなかったため、当時ニューヨーク基地指令であったペリーは、1837年にフルトンⅡをワシントンに回航し、大統領や議会の有力者にPRした。そのせいもあってアメリカ海軍はミシシッピ(1841年)、ミズーリ(1842年)の2艦を建造した。
 その後アメリカは、1846年5月に勃発したアメリカ・メキシコ戦争(前号14頁)において蒸気艦の威力が実証されると、議会は4隻の新造艦の建造を可決する。サスケハナ(1850年、3824トン、外輪式)、ポウハタン(1852年 3865トン、外輪式)、サラナック(1850年、2200トン、外輪式)、サンジャシント(1851年、2200トン、スクリュー式)である。
 このようにアメリカ海軍が1850年代前半に保有していた航洋蒸気艦の数は1840年代前半の停滞のため十指にも満たず、イギリスが1850年代に57隻の蒸気船と117隻のスループ帆船を保有していたのに比べると、イギリスに対して著しく劣勢であった。ペリー艦隊が日本来航のために率いた蒸気船は後述の通り3隻であり、まさにアメリカ海軍が力瘤を入れた壮挙であることが判る。

外国船の日本への来航と打払令

□ 最も早い時期に日本に接触したアメリカ人は、1791年毛皮貿易商人のケンドリッグ配下の船員であるとされており、次いでナポレオンのフランス帝国に併合されていた当時オランダ人が出島における交易にためアメリカ船を雇ったと言われている。そのほかロシア人を装って長崎まで入り込んだオケインという名の船乗りもいた。またデヴィッドポーターなる軍人が遠征隊を派遣して日本に開国を迫るようマジソン大統領に進言するが無視された。1810年代のことである。
 その他国家意思にもとづくとはいえない外国船の日本への接近(漂着を含む)は枚挙にいとまがない。
□ ところで日本はと言えば、徳川幕府は1825年に文政の「異国船打払令」を発し、日本に接近する諸外国船は「無二無念に」打ち払うよう命じていた。アメリカ人はこのことを知らずにいたので、日本の海岸に漂着したアメリカの捕鯨船の船員は捕らえられ拷問にかけられたり、十字架を無理矢理踏まされたりした。こうした幕府の政策にアメリカの国会議員は政府が何らかの対策をとるように働きかけた。
 他方、徳川幕府は折から起こったアヘン戦争(1840-1842)によってイギリスの艦船や大砲の実力を知り、1842年には天保薪水令を発令して難破船に対し最低限の救護を与えるよう法令を改めた。
 アヘン戦争に刺激されたポーク大統領は支那に派遣していた使節に権限を委譲して、日本との通商を結ばせようとして1846年にジェイムス・ビットル司令官を派遣したが彼は予備知識もなく長崎湾に入り込み不面目なまま打ち払われた。1849年には捕鯨船船員の乗員15名が捕らわれているとの情報を得てアメリカ艦隊プレブル号のグリン船長が長崎においてその引渡しを受けることに成功した。

日本開国の提案

□ 1849年、ニューヨークのアーロン・パーマ―法律事務所からテイラー大統領の国務長官であるジョン・M・クレイトン宛てに、日本に特使を送り、開国交渉を早急に始めるべきことについての提案があった。プレブル号グリン艦長の長崎における漂流民救出の顚末が雑誌に報道されていたのを好材料ととらえたパーマーは、同年9月に「改訂日本開国提案書」を国務長官に提案する。虐待された漂流民への賠償、悪天候の場合にアメリカ船が避難できる港の提供、アメリカとの間の外交関係を結ぶこと、及び領事の提供、蒸気艦のための石炭基地の提供などを含む条約を締結することを提案し、交渉不調の場合には江戸湾の封鎖も辞さない覚悟で交渉すべきだと主張した。
 パーマーはたんに捕鯨に従事する漂流民の保護のみを目的としていたのではなく、さらに広く捕鯨業界や、鉄道や港湾を始めとしてアメリカ産業が必要とするインフラストラクチャーの整備のための低賃金労働力の確保について関心を寄せ、1848年支那大陸から肉体労働者を「輸入」することをも提唱している。
 1851年フィルモア政権のダニエル・ウェブスター国務長官に対し、東インド艦隊司令官ジョン・オーリック准将から、サンフランシスコに保護されている日本人漂流民を開国交渉の材料に使ったらどうかとの提案がなされた。
 ウェブスター長官はアーロン・パーマーとグリン艦長から、オ-リックが日本とのよりよい交渉について役に立つであろうとの意見を得た。フィルモア大統領はオーリックを交渉役にすることを決断し、日本の将軍宛の信書を起草する。
 オ-リックはサスケハナに坐乗して勇躍広東に向かったが、広東に着くとすぐ解任された。なぜオ-リックが解任されたか真相は明らかになっていない。

砲艦外交

□ 1852年1月24日(嘉永5年1月4日)、オ-リックの後任としてマシュー・ペリー提督が東インド艦隊司令官に任命され、日本開国の交渉使節として日本遠征の準備にとりかかった。
□ ペリー以前にも、既述の通り日本開国の試みはピッドル提督を初めロシアのブッチャーなどによって何度か行われたが、いずれも幕府によってすげなく扱われて失敗に終わった。彼らの準備が十分でなく、日本が交渉を断った場合、戦端を開いてまでも開国を貫徹しようとする強固な意思を欠いていたからである。
□ ペリーの日本遠征の企てが漏洩されると米国のメディアは分裂した。その一は「ペリー艦隊の派遣は日本に対する宣戦であり憲法違反である」とするものであり、その二は「アメリカの捕鯨漂流民が日本人によって残虐行為を加えられた」として、強硬姿勢を説くものであって、後者は多分に世論工作の匂いがするものであった。
 ペリーは日本が四面を海に囲まれていながら海軍を保有していないことを知悉しており、強圧外交を用いても結局日本は交渉に応ずることを予測していたのである。
□ ペリーが準備に取りかかった1852年6月オランダ長崎出島館長ドンケル・クルテウスは「別段風説書」をもってペリー派遣の企てについて報告を行い、併せて日蘭通商条約の締結を提案している。

艦隊編成

□ ペリーの艦隊は当初の計画では次のように蒸気艦5隻を中心に13隻の大艦隊となる筈であった。この計画は当時アメリカ海軍の持てる蒸気艦のほとんどすべてである。アメリカの日本開国に向けた意気込みは壮とするに足りるが、事はそうは行かなかった。
<本国艦隊所属>
蒸気艦:ミシシッピ、プリンストンⅡ、アレゲニー、サン・ジャシント
帆装戦列艦:ヴァーモント
帆装スループ:ヴァンダリア、マセドニアン
<東インド艦隊所属>
蒸気艦:サスケハナ
帆装スループ:サラトガ、プリマス
この他帆装補給艦としてレキシントン、スサンプトン、サプライが加わることが予定されていた。しかし故障続きの艦は除かれ、新規に編成して加えられた艦もありで、結局第一次来航時における蒸気艦はミシシッピ、サスケハナの2隻ほか帆走船艦、第二次来航時にはこれにポウハタンほか帆走船艦を加えた3隻をもって艦隊が編成されることになった。

日本への来航

□ 1852年11月24日(嘉永5年10月13日)、故障などのため艦隊の編成が大幅に遅れたため、ペリーはミシシッピ単独でノーフォークを出港し、大西洋、インド洋経由で香港に向かった。途中石炭その他の物資の補給のためマデイラ島(西アフリカ沖合の島)、セントヘレナ島、ケープタウン、モーリシャス島(インド洋)、シンガポールに寄港した。
□ ミシシッピはノーフォークを出港してから136日目(同年3月にポウハタンが米国から香港に向けて出港している)、越年して1853年4月7日(嘉永6年2月29日)香港に入港した。
 ミシシッピが香港に到着するとプリマスとサプライは既に在泊していたが、サスケハナは別任務に赴く文官が乗って上海に出港してしまったので、ペリーは滅法機嫌を悪くした。それはともかく、ペリーはミシシッピ、プリマス、サプライを率いて上海に向かい、そこでサスケハナを取り戻した。
□ ここでペリーは旗艦をミシシッピより大型のサスケハナに変更し、5月23日(旧暦4月16日)サスケハナ、ミシシッピ、サプライの3隻は上海を出航し、沖縄の那覇に向かった(プリマスは警備のためしばらく上海に留まることになり、後で那覇で合流することになった)。
□ 5月26日(旧暦4月19日)、艦隊は那覇に入港した。マカオから直航した帆装スループのサラトガも同日入港した。那覇に在ったサスケハナとサラトガは蒸気船の石炭補給港として予定していた小笠原諸島の調査を行った。
□ この間プリマスが入港し、ここでペリーは最終的に日本遠征艦隊を編成した。蒸気艦はサスケハナとミシシッピの2隻、帆装スループがサラトガ、プリマスの2隻で合計4隻という、当初の予定を大幅に縮小した編成となった。
□ 7月2日(旧暦5月26日)、サスケハナがサラトガを、ミシシッピがプリマスを曳航して那覇を出港し、日本へ向かうが、サプライは那覇に留まることになった。

浦賀沖への投錨

□ 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)の夕刻、日本開国の使命を帯びた米国東インド艦隊司令長官ペリーの率いる4隻の艦隊が相模国浦賀沖に投錨した。
 艦隊の内訳は上記フリゲートのサスケハナ(3824トン)とミシシッピ(3220トン)帆装スループのサラトガ(852トン)とプリマス(989トン)の計4隻であった。帆装艦は蒸気艦に曳航されて入港した。
□ 艦船はいずれも黒いタールを防腐剤として塗布していたため鉄造艦のような印象があるが、実は木造である。しかし、風や潮流に左右されずに江戸湾に易々と進入してきた巨大な黒船を見て当時の人々は大きな衝撃を受けた。浦賀奉行所からの最初の報告では船の大きさは「およそ三千石積み(約200トン)」であった。千石船3隻分というわけである。日本の警備当局は船の大きさについては大きく誤認したことになる。
ペリー艦隊の装備  
□ ペリー艦隊の備砲は第一次来航の4隻を例にとってみると32ポンド以上の砲が合計63門であった(蒸気船にはいずれも炸裂砲弾を装備)。これに対し当時の江戸湾の防備は主として浦賀周辺に合計で99門の大砲が配備されていたが、江戸周辺は無防備といってよい状況であった。しかも99門のうち32ポンド砲以上に相当する大砲は僅か19門であり、射程距離もペリー艦隊の備砲の半分にも満たなかった。蒸気艦で簡単に江戸の町を砲撃できることを見せつけるため、ペリー艦隊は一次、二次の来航時にそれぞれ羽田沖まで進出した。

ミシシッピ第1次航路(往路).jpg

国書の受渡

□ 日本側との折衝のうえ、フィルモア大統領の国書奉呈の場所は久里浜に決まり、7月14日(旧暦6月9日)、大統領国書の伝達式が行われた。
□ 日本側の外交責任者は筆頭老中阿部正弘であり、彼はペリー対策のため有力大名、学者そして一般町民からも意見を徴した。世論に耳を傾けるという姿勢は開幕依頼初めてのことで、やがて幕府は次第に力を落としてゆくのであるが、それは後日の話―。
□ 伝達式のあとペリーの蒸気艦2隻は警戒のため浦賀沖から久里浜に移動した。
 伝達式を終えたペリーは来春再び来航する旨を日本側に通達し艦に戻り、全艦隊を率いて湾内を北上し、夜は小柴沖(現在の横浜市金沢区沖)に停泊した。この地点はペリーによってアメリカ錨地(American Anchorage)と名付けられた。翌日積載している食料が払底しているのを危惧しながらもペリーは測量ボートでさらに湾内を北上して測量を行った。ペリー自身ももミシシッピに乗って北上して、江戸まで7マイルのところまで達し、幕閣を十分に威迫して、アメリカ錨地に停泊中の他艦と合流した。

千石船とサスケハナの比較trimmed.jpgのサムネイル画像千石船とサスケハナの比較(船の科学館資料を改作)

離日(1)

□ 7月17日(旧暦6月12日)、艦隊は入港時と同じくサスケハナがサラトガを、ミシシッピはプリマスを曳航して江戸湾を出港し、サラトガは上海に向かい、プリマスはサスケハナ、ミシシッピと同じく那覇に向かった。
□ 7月25日(旧暦6月20日)、艦隊は那覇に入港し、しばらく停泊の後、8月1日(旧暦6月27日)香港に向けて出港した。次の日帆装スループのヴァンダリアと出会った。同艦は本国から回航されてきたばかりで、艦隊に合流するため那覇に向かう途中であった。
 同艦からの情報でポウハタンはすでに香港に到着しており、艦隊に加わるための出港準備中であることを知った。しかし、同艦はペリー艦隊が香港に到着する8月7日(旧暦7月3日)の前日に那覇に向けて出港し、ペリー艦隊とすれ違いになったが8月25日(旧暦7月21日)になってようやく香港に戻ってきた。
その後ペリーはマカオに邸宅を構え、遠征記の執筆などして日を費やした。

第2次来航

□ 折柄ロシアも日本を目指しているという情報がペリーのもとに入る。フランスの動きも怪しい。ロシアやフランスに先を越されるのを心配したからであろう、1854年1月14日(嘉永6年12月16日)、ペリーは予定を早めてサスケハナ、ポウハタン、ミシシッピ(以上蒸気艦)と、2隻の帆装補給艦(レキシントン及びサウサンプトン)を率いて香港を出港し、那覇に向かった。 
 1月20日(旧暦12月22日)、艦隊は那覇に入港した(曳航索を途中で切り離された帆装艦2隻は4日遅れで到着)、蒸気艦隊に先行した帆装艦マセドニアン、ヴァンダリア、サプライはすでに到着していた。
 2月1日(旧暦嘉永7年1月4日)、マセドニアン、ヴァンダリア、レキシントン、サウサンプトンの4隻が那覇を出港して日本に向かった。サプライは別任務で上海に赴き、江戸湾で本体と合流することになった。
 2月7日(旧暦1月14日)、ポウハタン、サスケハナ、ミシシッピの蒸気艦3隻が那覇を出港し、2月11日(旧暦1月14日)に伊豆大島付近に到達したが、強風のためその日は大島西方に停泊した。
 翌朝、三浦半島に接近したが、先行したマセドニアンが航路を誤って、鎌倉沖で座礁し、ヴァンダリア他が救助作業を行っているのが発見された。ミシシッピが急行し、ロープでマセドニアンを引っ張り、離礁させた。
□ 2月13日(旧暦1月16日)、蒸気艦3隻はそれぞれ帆装艦ヴァンダリア、レキシントン、マセドニアンを曳航し、サウザンプトンは単艦で浦賀水道を北上し、小柴沖の通称アメリカ錨地に午後2時頃投錨した。
 2月18日(旧暦1月21日)、ペリーは旗艦をサスケハナからポウハタンに変更した。

日米和親条約

□ ペリーと日本側の交渉場所が神奈川(今の横浜市中区)に決まったので、ペリーは2月27日(旧暦2月1日)に8隻からなる艦隊(レキシントン、サスケハナ、ポウハタン、マセドニアン、ミシシッピ、ヴァンダリア、サウザンプトン、サラトガ)を神奈川沖の1海里以内に横一列に停泊させ、5海里にわたる海岸を大砲の射程距離内に入れるように命令した。
 3月4日(旧暦2月6日)、将軍への贈物(蒸気機関車の模型、電信機、農機具、小銃等)をたっぷり搭載したサラトガが入港した。
 3月8日(旧暦2月10日)、ペリーが約500人の義仗兵に護衛されて神奈川に初めて上陸し、新しく建設された条約館で日本側使節と条約締結交渉を開始した。
 3月19日(旧暦2月21日)、サプライが上海から到着した。これでペリー艦隊は9隻となった。
 3月24日(旧暦2月6日)、サスケハナがマカオに向けて出発した。
□ 3月27日(旧暦2月29日)、ポウハタンに日本側の関係者約70名が招待され、盛大な歓迎会が開かれた。宴席はペリーの部屋(高官用)と後甲板上の2つ設けられたが、両者和気あいあいの内に終了した。
□ 3月31日(旧暦3月3日)、神奈川において日米和親条約(神奈川条約)が調印された。この条約は全部で12箇条から成り、次のような内容であった。
 すなわち、下田・箱館(現在の函館)2港の開港、薪水・食糧の供給、両港での遊歩区域の設定、米国船に必要な物資の購入、米国船漂流民の救助、外交官の下田駐在、最恵国約款の承認等である。この条約には通商は含まれておらず通商を含む条約は1858年7月29日の日米修好通商条約によって締結された。
 4月4日(旧暦3月7日)、アダムス中佐は条約書をワシントンに届けるためサラトガでハワイに向かった。ここで郵便船に乗り換え、パナマ経由でワシントンに向かい7月12日(旧暦6月18日)に到着し大統領に復命した。
 4月10日(旧暦3月13日)、全艦隊は神奈川沖を出港して江戸湾の奥に進み羽田沖まで達した。ここから江戸を遠望した後、小柴沖のアメリカ錨地に戻り投錨した。

離日(2)

□ 4月18日(旧暦3月21日)、ペリーはポウハタン、ミシシッピを率いて神奈川を投錨した。帆装艦はこれに先だって出帆した。艦隊は下田、箱館を巡航して再び下田に寄港した後、那覇を経由して香港に向かった。この間各艦は分担して日本海、小笠原、台湾、フィリピン、清国の寧波、福州、廈門、を巡航した。
□ 7月23日、ペリーは香港に到着したあと、艦隊を解散した。彼自身は本国海軍省に対し、司令官を辞任して帰国したい旨を申し出て受理された。彼はP&O社の郵便船を乗り継いで、11月20日(旧暦10月1日)にオランダのハーグに着いた。この地で娘婿のオランダ駐在アメリカ大使オーガスト・ベルモントの家に12月7日(旧暦10月18日)まで滞在した。この後イギリス経由で帰国の途につき1855年1月12日(安政元年11月24日)にニューヨークに到着した。ノーフォークを1852年11月に出港してから2年2ヶ月ぶりであった。

帰国

□ 遅れて4月23日(旧暦安政2年3月7日)、ミシシッピがニューヨークのブルックリン海軍工廠に到着した。帰りの航路は9月12日(旧暦7月20日)に香港を出港してから太平洋を横断し、南米のケープホーンを廻ってニューヨークに到着したのであった。その翌日、ペリー立ち会いの下に提督旗が降ろされ、彼の日本遠征の任務が終了した。 
□ なおペリーは「ペリー日本遠征記」を著した後1857年に病に伏し、1858年3月4日に死去した。また日本側では1857年8月8日老中阿部正弘が死去している。

《参考文献》
・C・チェスタトン「アメリカ史の真実―なぜ「情け容赦のない国」が生まれたのか」(祥伝社、2011)
・宮崎正勝「モノの世界史―刻み込まれた人類の歩み」(原書房、2002)
・ウォルター・マクドゥーガル(訳:木村剛久)「太平洋世界」(上)(共同通信社、1996)
・渡辺惣樹「日本開国―アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由」(草思社、2009)
・渡辺惣樹「日米衝突の根源―1858~1908」(草思社、2011)
・元綱数道「幕末の蒸気船物語」(成山堂、2004)
・Attilio Cucari & Enzo Angelucci "Ships"(日本語版、堀元美訳「船の歴史事典」原書房、2002)
〈地図・挿画〉高橋亜希子

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