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弁護士 堤 淳一

2019年02月25日

太平洋の覇権(29)-----幕末の嵐

(丸の内中央法律事務所事務所報No.34, 2019.1.1)

 幕府の対外政策

 □ 18世紀の後半になると日本の近海に各国の船舶の往来が繁くなった。ロシア、イギリス、アメリカ、フランスなどの諸国の他、国籍不明の船舶が漂着し、或いは交易を求め、捕鯨船が薪炭の供給を求めるなど、頻りに近海を航行するようになり、19世紀嘉永年間(1848年~)には益々その度を増した。
そのような次第で幕府にとって外来船の来航は予期されない出来事ではなく、ペリーの来航も予想を遠く外れた出来事ではなかった筈である。
 □ 幕府は度々外国船の漂着に対する対策を樹てたが、それは時々によってその内容が変更されている。
    • 寛永三年令(1626年) 異国船が漂着したときにはただちに臨検を行い、これが拒否された場合には攻撃して乗組員の斬り捨てを可とする。臨検を受け入れたなら穏便に上陸させ幕府に指示を仰ぐ。
    • 文化三年令(1806年)(薪水給与令) 異国船に薪水・食料を供給するが、上陸は許さず、速やかに出航を勧告する。抵抗した場合は打ち払うも可とする。
    • 文化四年令(1807)(ロシア船打払令) ロシア船を発見次第発砲して追い払い、近づいてきたら乗組員を捕縛、もしくは斬り捨ても可。漂流船に相違ない場合はそこに留めて幕府に指示を仰ぐ。
    • 文政八年令(1825年)(異国船打払令) すべての異国船を発見次第追い払う。異国船が接近した場合には撃沈するも可とし、もし乗組員が上陸した場合には捕縛し、斬り捨ても可。
 □ 1842(天保13年)6月、オランダから、アヘン戦争(1839-1842)における清国の敗北が決定的であるとの報を得るや、7月幕府は老中2名を含む海防職を置くと共に、文化三年の薪水給与令(すべての異国船を垣船で包囲し、薪水・食料を給与するが上陸は許さず、帰国するように説得する)を復活し、かつ江戸のみならず全国の海岸についても防備を始めた。この対策は全国の大名にも命じられていたが、幕府内の政変(老中水野忠邦の失脚)によって不十分なままになった。

 ペリー来航と幕政

 □ その後幕府はオランダ風説書によりペリーの来航の知らせを受け、彦根、川越、会津、忍(おし)ら各譜代大名に江戸湾防備を急遽行わせたが、いかにも手薄であり、結果として1853(嘉永6)年に易々と米艦隊の江戸湾進入を許したのである。幕府がペリー艦隊を江戸湾へと進入を許したことは国辱であり、過去における幕府の海防政策が無益であったことを露呈したものであるとして世論は沸騰した。
 □ このとき老中首座として外交の衝にあたったのは阿部正弘(伊勢守。備後福山藩主)であった。阿部は、1843(天保14)年に25歳の若さで老中になり、1845(弘化2)年に老中首座に抜擢された譜代大名のホープであった。
 ペリー来航という未曾有の事態に際会し、本来は、将軍のイニシアチブにより政策の転換が図れればそれに越したことはなかったが、ペリー来航の年に急逝した将軍家慶を嗣いだ家定はその統治能力が疑問視され、早くも「将軍継嗣問題」が取り沙汰されている状況で、将軍主導の対応は期待できなかった。
 将軍家定は幼少の頃罹患した天然痘の後遺症としてあばたが顔に残っており、奇癖があって人と接することが上手と言えず、三度の結婚にもかかわらず子がいなかった。そのため就任後早くも継嗣の問題が幕府内の派閥争いとなって浮上してきたのである。即ち一橋慶喜(慶喜)を推す水戸斉昭(一橋派)ら、徳川慶福(紀州藩主)を推す阿部ら(南紀派)とに分かれていたのである。
 □ 阿部はペリーが来航するとすぐの7月に御三家末席である水戸藩の徳川斉昭(なりあき)を「海防参与」という前例のない役職(外交顧問)に就けて幕政にコミットさせた(斉昭は1857(安政4)年まで在職する)。阿部は当時老中の最若年であり、斉昭を海防参与職にすることによって自らの権威付けと精神的支援を必要としたのであろうか。
 □ 幕府行政への参加は、古くから譜代大名の専権であり、徳川本家、尾張、水戸のいわゆる御三家は、あくまで将軍家の系嗣を確保するための備えに過ぎず、幕政には容喙しないのを原則としていた。しかし徳川斉昭の幕閣への任用によって、水戸藩ないし斉昭は、後に「水戸学」の影響を受けた過激な尊皇攘夷派を抱え込む水戸藩や長州藩を中心とした過激な暴力的尊攘原理主義者たちの拠りどころとなった。 又斉昭は日本の行方に深い関心を持ち、政治的発言の機会を得ようとする大大名の有志連合の核となり、幕閣の政策決定を牽制することとなった。
 事実、後に斉昭は老中の人事に介入し、2名の老中を罷免させ、結果として阿部を老中首座から引き摺り下ろす。

 阿部の「言路洞開(げんろどうかい)」策と攘夷論

 □ 阿部は、1853(嘉永6)年7月、ペリーからフィルモア大統領の親書を提示されるや、これを和訳させ、謄本を譜代大名はもとより幕臣、諸大名、諸藩士から町方に至るまで広く一般に開示し、決定的なことには朝廷にも奏聞した。
 □ 阿部の"諮問"に対して寄せられた意見書は、諸大名から約250件、幕臣からは約500件に達したといわれ、その大部分は、「要求の受け入れ、やむなし」「できるだけ引き延ばすべし」という類のもの(消極的開国論)であったようであるが、我国には目下対抗できる軍事力がないという認識において共通していた。
 □ ペリーの来航に当面して取沙汰された対外世論は、攘夷論、消極的開国論、積極的開国論などに大別される。
 アヘン戦争が1839年に勃発しており(~1842年)、また既述した通り1846年から1848年にかけて米墨戦争が行われ(本紙31号)、これらのことはつとにオランダを通じ日本にも伝わっていた。
 アヘン戦争において清国側は武備において著しく旧式であったが、米墨戦争において、メキシコ軍は相当程度の銃砲を備えていながらアメリカ軍に敗れた。ましてや武備がととのわず、海軍も持たない幕府や諸藩がアメリカと戦端を開けば、我国の敗北は明白であった。
 けだし外部からの支援が期待できない以上、攘夷論は籠城論であり、今、攘夷戦争に踏み切れば負けるという認識がこの時点における武家社会の共通認識であった。それにもかかわらず何故その後、攘夷論が高まりやがて幕政を揺るがすことになったのか。
 1つには政府は17世紀以来、鎖国を対外政策の祖法と言われるまでに扱い、鎖国以外の政策を抑圧してきた。攘夷論は当面、鎖国維持の主張であったから、世論となりやすかった。また政策の中枢にあった阿部が攘夷論を声高に唱える水戸斉昭と提携したから、攘夷論は正統な政策(いわゆる正論)であると考え易かったのであろう。
 攘夷論の如き極論がこの時期にわき起こったのは対外危機に遭遇したときに国が1つにまとまるために避けられない一種のヒステリー現象であり、かような現象はこの時期の日本に限ったことではない。

 江戸幕府主要職制表(20190225_3).jpg

 日米和親条約

 □ しかしてこの時期においては幕閣は攘夷論に影響を受けることはなかった。リーダーシップをとって時局を乗り切る自信があったようである。
 当初阿部は当時の幕府官僚の大方がそうであったように開国に反対の立場に立っていたが、いざ当局者となると現実を直視せざるを得ず、先述した"諮問"に対する回答を背に漸進的に列強と外国関係を持つことを容認する立場へと変わっていったように窺える。
 □ こうして阿部はペリーが来航した1853(嘉永6)年の7月、「国禁を取捨するは遺憾なりと雖も軽率にこれを拒絶し兵端を開き国家を危機に陥れる我国の長計に非ず」としてペリーが要求する国書受け取りの閣議決定に漕ぎつけた。
 そして1854(嘉永7年。この年改元あって安政元)年ペリーが再度来航した際(3月31日)、日米和親条約を神奈川において締結した(このことについては本紙31号に書いた)。

 日露・日英和親条約

 □ アメリカの来訪と前後して4隻のロシア艦隊が1853(嘉永6)年7月に長崎に入港し、アメリカと同様、ロシア国皇帝の国書の受け取りを要求した。国書は樺太・千島列島の日露国境を定め、日本との交易を欲し、プチャーチンを使節として交渉を行いたい旨を要求していた。阿部は西丸留守居役の筒井正憲、勘定奉行川路聖謨(としあきら)外2名の官僚を応接掛として折衝にあたらせた。
 交渉は下田において同年11月以降、折りから起こった東海大地震にもめげず進められ、1854(安政元)年12月22日に日露和親条約が成立する。
 □ また1854(嘉永7)年、イギリス東印度艦隊司令官スターリングが4隻の艦隊を率いて長崎に入港し、英露両国が同年7月以来交戦状態(クリミア戦争)にあったため、日本に戦時局外中立の立場を取らせるべく条約を締結することを求めた。しかし、当時我国には戦時局外中立の観念はなかったため、結局1854(嘉永7)年8月23日に、アメリカとのそれを踏襲する条約が長崎奉行との間に締結された。
 この間の動きはまことに慌ただしい。
 □ 阿部は1855(安政2)年、アメリカ、ロシア、イギリスの3国との間に和親条約を締結したことを孝明天皇に奏聞した。天皇はこれらの条約が単に欧米諸国と誼(よし)みを通じることを声明したのみで、通商等、国の権益には触れていなかったため、一応の満足の意を表明した。

 安政の改革

 □ ところで阿部は1854(安政元)年に日米の交渉が一段落した4月10日に、諸事に不手際があったとして辞職願を提出する(ペリーが神奈川を抜錨して去るのは4月18日である)。しかし将軍に慰留され、その数日後に続投することになり(辞意はゼスチャーであり、慰留により政権を安定させる狙いもあったかもしれない)、以後安政の改革に着手する。
 阿部は、列強と外交関係を持つことによって技術導入を図り、先々列強に対抗しうる国家体制を創り上げるというビジョンを、老中登庸以来徐々にではあるにせよ持つようになっていったことは確かである。

 種々の施策

 □ 阿部は老中首座となった年に、幕府の外交・防衛政策の研究・審議・立案などに当たらせるため、海岸防禦御用掛、通称海防掛を設置し、組織の強化を図った。長年鎖国政策を採っていたため、外交部局がなかったからである。
 日米和親条約の締結に踏み切ったことをはじめ、講武所や長崎海軍伝習所の設立、西洋砲術の導入・推進、大船建造の禁遏(きんあつ)の緩和など、陸・海軍の創設計画、蕃書調書の開設、優秀な官僚の登庸などその施策は「安政の改革」と言われ、この後の幕府、日本を支える基を創った。
 □ そして従来幕政に参加することを得なかった外様大名への幕政参加にも踏み切った。江戸湾防備の失敗は、砲台の建設費をはじめとする防備体制を命じられた譜代大名の財政能力の不足にも起因していた。 しかし開国した以上、全国のどの海岸に外国船が来航するかもしれない。今後の国防は譜代・外様を問わず全大名の動員に依存することを余儀なくされると考えられたからである。つとにペリー国書・書簡の開示や徳川斉昭の登庸にみる如く、阿部の方針は全大名依拠体制(いわば挙国一致体制)への移行を指向するものであった。
 また1856(安政3)年における将軍家定と島津斉彬(なりあきら)養女篤姫との縁組などに例を見る如く、外様大名との結合にも腐心した。このような結合は、外様の雄藩である薩摩藩島津斉彬に積極的な幕政参加を許す結果となった。
 また阿部は朝廷との結合をも強化しようと試みた。1854(嘉永7)年、御所の火災に際しての経済的援助や大砲を製造するための梵鐘改鋳令(ぼんしようかいちゆうれい)の奏請などがその例である。

 堀田正睦の登庸

 □ ところで皮肉なことに阿部が自らの権威付けのために海防参与の職につけた徳川斉昭が、自分の主張する強硬な開国反対路線を、軍事常識を逸脱する空論として批判した老中の松平忠固及び松平乗全(のりやす)に怒りをぶつけ、老中罷免を阿部に要求するなど、幕閣の足並みは大いに乱れる。
 □ 阿部は1855(安政2)年10月、堀田正睦(まさよし)(備中守、佐倉藩主)を老中に任用し、翌安政3年10月後日予想される列強との通商交渉に対処すべく、堀田を外国事務取扱とし、川路聖謨(勘定奉行兼任)や水野忠徳(勘定奉行兼任)、筒井政憲(大目付兼任)、岩瀬忠震(ただなり)(目付兼任)を外国貿易取調掛に任命した。
 そして1855(安政2)年10月、阿部は老中首座を堀田正睦に譲り、自らは老中として閣内に残った。堀田は蘭学を奨励し(蘭癖大名と言われた)、政治的には積極的な対外協調派であり、基本的には阿部と同じ姿勢をとっていた。

 ハリスの赴任

 □ 1856(安政3)年4月21日、日米和親条約に基づき、アメリカ使節タウンゼント・ハリスが総領事として伊豆下田に来航した。ハリスは9月27日に江戸参府を願い出たが拒否された。しかしその後10月21日にこれが叶えられ、江戸城において将軍家定と会見し(その折り水戸の郷士3名が藩を脱してハリスを狙撃しようとしたが、未遂に終わるという事件が起きている。)、26日に堀田老中の屋敷においてアメリカとの条約締結の必要性を説いた。
 □ その後もハリスは、中国におけるアヘン戦争について述べ、英国の侵略論を以て条約の調印を煽った。 やがて日本にも強大なイギリスやフランスの艦隊が現われて、無理難題を吹きかけるだろうと、イギリスの脅威を強調し(英仏脅威論)、それゆえに早急にアメリカと通商関係を持つ必要性をひたすらに説く(アメリカ友邦論)。ハリスは「一人(アメリカ)との間に条約を結ぶのと50数艘の軍艦を引き連れてくるもの(イギリス、フランス)との間に条約を結ぶのとでは格段の差がある」などと恫喝したのである。
 □ 幕府は通商条約締結の意を決し、下田奉行井上清直(きよなお)、目付岩瀬忠震を全権委員に任命し、具体的検討を命じた。両名はハリスの提出した条約の草案について逐条審議を行った。
 会議は13回開かれ、1858(安政4)年1月12日、通商条約14ヶ条、貿易章程7条の草案―すなわち公使の江戸駐在、領事の開港地駐在および国内の旅行を認め、神奈川、長崎、箱館、新潟の5港と江戸、大坂の両都を開いて両国商人の直接取引を許し、貨幣同種類の量目交換を定め、治外法権を承認するなどのことを定めた草案がまとまった。
 因みにこの年6月、阿部正弘が39歳の若さで病死する。就任以来15年にわたる老中職の激務が健康を蝕んでいたであろうことは想像に余りある。
 □ 堀田は1858(安政4)年12月15日、全大名にあまねく意見を求め、そして12月29日と30日に諸侯に登城を求め意見を問うた。諸大名の大部分は「もはや通商はやむを得ない」という点では一致していた。しかし、「期限を設けよ」とか「ハリスの求める江戸駐在は拒否せよ」などと、様々な条件を建議する。責任当事者ではなく、それぞれの思惑をもつ者が衆議を行えば、こうなることは必然であったと言える。そして衆議というものは、もっとも安全な策で、また誰もが反対しづらい策、「勅許を得るべし」というところへ行き着く。
 □ 「避戦」を貫こうとする幕府は、条約締結を迫るハリスの意見に傾き、また朝廷に奏請すべきであるとの世論に後押しされた形で、1858(安政5)年1月、堀田は、自ら建言して勘定奉行川路聖謨、目付岩瀬忠震という外交問題のエース級の官僚を伴って上京、勅許を得ようとする。
 □ 堀田は、天皇の勅許を得て一気に事態を収束させるつもりで自信満々で臨んだが、ここで堀田の思惑は蹉跌を来す。孝明天皇が堀田の前に立ちはだかった。孝明天皇の海防に対する高い関心と攘夷に対する希求が政局に影響を及ぼし始める。孝明天皇は、朝廷の権威回復に強い関心を持っており、12年前、1846(弘化3)年にジェームズ・ビッドルがアメリカ使節として浦賀に来航した際には、ビッドルの動向について3か月にわたって幕府に報告を求めたほか、対外問題に積極的に関与する姿勢を見せていた。孝明天皇自身は、よく知られているように外国を極めて警戒しており、強硬な攘夷論者でもあったため、堀田らの世界情勢を踏まえた議論は聴き入れられず、勅許の取得は叶わなかった。
 □ この背景には、天皇をとり巻く公家の中にも、開国もやむなしとするグループと、あくまでもこれを拒むグループの対立があったし、幕府(及びその内部にある対立)と公家の対立とは次元を異にする意見もあった。即ち幕府が倒壊しようと構わない、国内の勢力を朝廷に集め、当面する政治的危機を打開しようとする「対幕強硬派公家」や、在野にあって強硬論を展開するグループ(「志士」と称する過激派グループ)が育ちつつあったのである。
 □ こうした混迷の中、安政5年3月20日、次のような勅諚(ちよくじよう)が発せられた。即ち、
今度仮条約の趣にては、御国威難立被思食(たちがたくおぼしめされ)候、且諸臣群議にも、今度の条々、殊に御国体に拘り後患難測(はかりがたき)の由言上候、猶三家以下諸大名へも被下台命(たいめいをくだされ)、再応衆議の上、可有言上被仰出(ごんじようあるべくおおせいだされ)候事
というもので、要するに衆議のうえ改めて奏請し直すべしというのである。
□ 勅許を得るために上京し、それに失敗した堀田の行動は、幕府への大政委任という伝統的な朝幕関係の原則を弱める結果となった。
 アメリカとの通商条約の素案は、岩瀬忠震、井上清直とハリスとの間ですでにできている。そういう中での堀田の京都工作の失敗は、事態を逆流させるものであった。

 井伊大老と無勅調印

 □ ここで将軍家定は、井伊(いい)直弼(なおすけ)(掃部守(かもんのかみ)、彦根藩主)を大老に任命する。1858(安政5)年4月23日、命ぜられて登城した井伊は、将軍家定から直々に就任を伝達された。堀田は罷免された。堀田が江戸へ帰着した僅か3日後のことである。
 井伊の登庸には将軍家定の継嗣問題が絡んでいた。この頃家定に養子をたてて後継者に据えようとする言説が囁かれ、朝廷もこれに言及したとあっては将軍の心は穏やかではない。斉昭がその子一橋慶喜をたてて将軍押籠(おしこ)めの挙に出づるのか、このような家定の気持ちが井伊の登庸に繋がったとみられる。井伊に権力が集まるのは事の流れであったというべきであろう。
 後嗣問題系図.png
 □ 井伊は譜代大名と旗本を中核とする従来の幕府の統治システム・政権運営方針の堅持を重視しており、幕政に混乱をもたらす要因となった阿部の「言路洞開」策や、斉昭の政権参加を許したこと、斉昭の頑強な攘夷論や朝廷に対する情報漏洩・政治工作などを厳しく批判していた。
 □ 井伊は将軍の後継問題はひとまずおき、当面する外交問題に取り組まなければならなかった。勅諚が求めるように諸大名の意見の取りまとめを急ぐ必要があった。
 1858(安政5)年4月、井伊は条約締結についての意見を御三家以下の大名に諮問した。
 井伊は諮問にあたって、天皇に戦争をおこなう意思がないことを強調するとともに、先に朝廷に奏上した方針のほかに選択肢がないと将軍が考えていることも付け加えた。かかる諮問は諸大名が幕府の方針である通商条約締結以外の回答を打ち出させないように誘導したに等しい内容であった。

 日米通商条約

 □ このように井伊が再奏請のための手続をとっている間、かかる悠長なことをしてはいられないような情報が交渉の現場にもたらされた1858年(安政5年)7月23日、下田に入港した米国汽船ミシシッピ号から、天津条約が成立し、清国との戦を終えた英仏両国艦隊が愈々日本に向かおうとしているとの報がハリスのもとにもたらされた(天津条約はアロー号事件に伴う戦争解決のため清国と英仏軍との間に1858年2月に締結されたが、清国によって批准されず、戦いは1860年(北京条約)まで続いたから、ハリスは虚報を入手したことになり、これを告げられた日本代表団も偽情報を掴まされたことになる)。ハリスにとってみれば、英仏両国全権が日本との間に条約を締結すれば、アメリカの先発の労は無駄になる。そこで英仏両艦隊の渡来以前に、準備の整っている日米修好通商条約案の調印が済みさえすれば、他国との条約は、日米条約の枠組の中で成立すると、日本の交渉団に力説した。
 □ 結局6月19日、米艦ポーハタン艦上において日米修好通商条約14ヶ条、貿易章程7則が調印された。日本側委員は岩瀬忠震、井上清直の2名である。
 井伊は、井上・岩瀬を派遣した際には、朝廷工作を行う必要上、できるだけ交渉を引き延ばすように指示していたが、井上・岩瀬の両名は、井伊の指示を無視して、6月18日に交渉を開始するや、その翌日には条約に調印してしまった。これは、既述の通り虚報であったにせよ、清におけるアロー戦争の収拾に見通しがついたイギリスが、近く日本を目指して大規模な艦隊を派遣するという情報を得たため、イギリスの介入を避けるための独断であったと考えられるのであるが、ハリスの虚喝に屈したことでもあった。

 孝明天皇の怒りと水戸降勅

 □ 日米修好通商条約の調印は、同日老中奉書(取次飛脚による)をもって天皇に伝えられた。諸大名へ諮問し、その結果を天皇がみたうえで最終的に対応策を決めることを求めた孝明天皇の希望を無視したかかる調印の報を侮辱されたに等しいと受けとった孝明天皇の激しい怒りが寄せられることになった。当時内大臣であった一条忠香によれば、6月28日、天皇は、「はなはだ御逆鱗の御様子」を隠せず、怒りの余り、関白以下、左大臣・右大臣・内大臣の三役及び議奏・武家伝奏両役に、天皇の位から降りること(譲位)を伝えた。
 □ しかし天皇は周囲の説得に従い、譲位の意思に代え、調印の件につき、三家もしくは大老のいずれかが、「早々上京可有之(これあるべし)」との勅諚を6月29日に幕府に伝えた。これに対し幕府は「三家も大老も差支えあり、老中を上京せしむべしと返答し、7月18日、これが朝廷に達した。孝明天皇は一度ならず二度までも自分の意志が無視されたと感じ、いよいよ譲位の意を固くした。
 参内した議奏・武家伝奏ら4名の公家は、天皇の意思を水戸藩にも降勅させることを進言し、8月8日武家伝奏から京都水戸藩留守居役に対し、幕府の有司を問責し、徳川家を扶助し、内を整え、外夷を受けざるよう周旋すべき旨の勅諚が下された。しかも、これに並行して、朝廷は尾張・薩摩・津・肥後・備前・土浦・加賀・長州・阿波・土佐・福井の各藩主に、勅諚写を伝達するのである。なお、幕府にも同文の勅諚が送られた。このような勅諚や内勅の形をとった天皇から諸大名に対する政治的意思の発動は幕府始まって以来の出来事であり、朝幕関係は完全に裂した。
 □ 旧来の関白・議奏・武家伝奏を通じて朝廷の意思を決定するシステムを変え、水戸降勅にみられる如く、万事天皇の叡慮によって政治を動かそうとする天皇の動きは幕府にとって許し難いものに思えた。

 無勅調印への批判

 □ 朝廷の動きが慌ただしい中、6月21日、御三卿の一橋慶喜と田安(たやす)慶頼(よしより)が不時登城して井伊に面会し、慶喜は勅許なしの調印及び老中奉書での非礼な報告方法を難じた。
 6月24日、福井藩主松平慶永(よしなが)は大老邸に赴き、無勅調印を批判すると共に、継嗣問題に関しても激論した。
 同じ6月24日、慶喜は登城して無勅調印を詰問、同日尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)と水戸藩前藩主徳川斉昭とその子で同藩主の徳川慶篤(よしあつ)が不時登城し、無勅調印と継嗣問題も提起し、将軍の面前で決定せんと主張、さらに慶永を大老とすべしとも発言する。
 □ 無勅調印問題への関心は外様大名にも波及した。山内豊信(とよしげ)は、同6月24日「叡慮を安んぜさせらるる御処置を実施せられたい」との上申書を廻覧した。ところで幕閣は条約を調印してしまった以上、条約を調印するしないとの問題と、後嗣をどうするかの問題とを掛け引きの材料とする必要はなくなった。そして直ちに諸大名に総登城を求め、紀州藩主徳川慶福(よしとみ)を後嗣に指名し、6月25日、久世広周(ひろちか)(老中)の反対を押し切って、反対派の処分を閣議決定した。 即ち、徳川慶勝には隠居・急度慎(きつとつつしみ)(謹慎)、徳川斉昭には急度慎、近親者との書通禁止、徳川慶篤と一橋慶喜には当分登城禁止、松平慶永には隠居・急度慎の処分が下された。
 しかしてこの処分の翌7月6日、徳川家定が病死し、慶福(家茂)が徳川宗家を嗣いだ。
 □ 10月24日、老中間部詮勝は入京して、初参内を果たし、当日、条約調印の次第を文書を以って水戸の陰謀がある折から内乱のおそれがあるので外国への対処ができないなどと弁疏している(但し水戸藩へ勅書を与えたことには触れていない)。井伊や間部は、継嗣問題・条約調印問題・勅諚降下問題のすべてを、徳川の公家・志士達と結託して策謀した反幕一大陰謀だとのシナリオを組み立てて、天皇に翻意させようとしたのである。天皇はこれに対し、幕府はすべて水戸侯のせいにしているとばかり取りあわなかったが、第14代当主として徳川宗家を嗣いだ家茂へ将軍宣する旨を10月25日の朝議で決定し、12月1日宣下式が挙行された。
 □ 天皇家側と間部の間に11月はじめから12月にかけて4次にわたる会議が行われ、12月24日「今後は公武合体して幕府の良法たる鎖国の旧制に服すべし」とする勅命を受けた間部はこれに同意し、天皇は安政5年10月30日(1859年12月2日)参内した間部に対し鎖国への回帰を幕府において約束したので条約調印については細かいことは問わず、「御猶予の御事」として不問に付する態度を表明した。

 安政の大獄

 □ 幕府は此度生じたに各方面において関与した多くの者の取調及び断罪について速やかに対応した。
 公家に対しては自ら首服させる方法をとり、1859(安政6)年1月10日以降、近衛忠煕(ただひろ)、鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)、鷹司政通、三条実万(さねつむ)らが天皇に申し出る形をとり、天皇は辞官、落飾など、各本人の申立てに従って自裁処分を承認した。
 幕府は今回の騒擾を五手掛(ごてがかり)(寺社、江戸町、勘定の各奉行、大目付及び目付の5箇の裁判機関の連合体から成る)によって処分し、強硬な処分方針に反する奉行を罷免、改組のうえ機能させた。各方面の活動分子(例えば西郷隆盛、吉田松陰(しよういん)ら)に追及の手が伸びたが、一連の動きを徳川斉昭が主謀した一大反幕陰謀との筋書きの中に位置づけていた奉行らが、水戸藩への取調べを基本に置いたのは当然のことであった。
 水戸藩士たちは一貫して斉昭の関与を否定したが、橋本左内(さない)(福井藩士)は、君命を受けての活動と主張した。梅田雲浜(うんぴん)とのつながりで嫌疑をかけられていた吉田松陰(長州藩士)は、五手掛がつかんでいなかった間部老中襲撃計画を自ら語り、奉行らの心胆を寒からしめた。
 □ 安政の大獄は、既述した「一橋派」の大名をはじめ、これに与すると思われた川路聖謨や大久保忠寛、岩瀬忠震、永井尚志など阿部正弘により登庸された開明派幕臣も罷免された。さらには、橋本左内や梅田雲浜、頼(らい)三樹三郎(みきさぶろう)、吉田松陰などの尊王攘夷論を説く思想家にも処罰が及んだ。また武士階層に留まらず、青蓮院宮(しようれいいんのみや)尊融法親王(そんゆうほつしんのう)(後に中川宮朝彦(なかがわのみやあさひこ)親王)、先述した、近衛忠煕、鷹司輔煕(右大臣)、一条忠香(ただか)(内大臣)、三条実万(前内大臣。三条実美(さねとみ)の父)など、皇族や上級の公家とその家臣にも累が及ぶ大規模な弾圧事件となった。しかも、橋本や梅田、頼、吉田など10名以上が死刑に処せられており、井伊と対立した人々をきわめて厳しく処断している。
 これらの断罪は、人々の心胆を大いに寒からしめた。

 安政五ヶ国条約体制

 □ このような国内の動乱の中、外交問題は着々と進行し、日米修好通商条約締結の後、雪崩落ちるように1858(安政5)年8月18日、日蘭条約がクルチウスと、8月19日に日露条約がプチャーチンと、8月26日に日英条約がエルジンと、10月9日、日仏条約がグロとの間で締結、しかも最恵国条款により、一国への譲歩は、ただちに他国に均霑する。安政の五カ国条約体制がここに成立した。
 □ こうして1年後の1859(安政6)年6月5日より、日米通商条約にもとづく神奈川・長崎・箱館三港の開港と自由貿易の開始、日本の世界市場への急速な編入が始まるのである。

(未完)

〈参考文献〉
・宮地正人「幕末維新変革史(上)」(岩波現代文庫、2018)
・上白石実「幕末の海防戦略―異国船を隔離せよ」(吉川弘文館、2011)
・門松秀樹「明治維新と幕臣―『ノンキャリア』の底力」(中央公論新社、2014)
・家近良樹「江戸幕府崩壊―孝明天皇と『一会桑』」(講談社学術文庫、2014)
・三谷博「ペリー来航」吉川弘文館、2003)
・田中惣五郎「最後の将軍徳川慶喜」(中公文庫、1997)

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