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弁護士 堤 淳一

2007年04月20日

太平洋の覇権(1) -----地理上の発見の時代

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

前書き

地球の表面積は509,994,900㎢であり、そのうち70%にあたる361,059,000㎢が海である。太平洋の総面積は165,240,000㎢であると計算されており、その面積は地球上の海の46%、地球の表面積の32%にあたる。
 この広大な大洋には何万という島があり、人類が文字を持っていなかった時代から、多分無数の人たちが筏・丸木舟・葦舟などのボートを操り、この大海原を海流に乗って往き来していたにちがいない。しかし、この海は人類が文字を持つに至ってずっと後の15世紀になっても白人種によって知られていなかった。
 以下に述べるところは、ヨーロッパの白人種がこれら太平洋の島々に太古から住んでいた「先住民」を容赦なく殺し搾取し、太平洋を我がモノにした簡単な歴史の説明と、それが太平洋の西に存在する日本に及ぼした影響の考察である。白人種が太平洋を分割し、支配した歴史の流れは1868年に徳川政府を終わらせ、やがて大日本帝国を産み出した。大日本帝国は1945年に滅びるまでの約80年間、太平洋を舞台とする列国競争に参加し、特に第1次世界大戦が終わった1919年からの26年間はアメリカ合衆国や大英帝国と覇を競った。
 太平洋は現在あらたに地政学的な意味を獲得し、国際関係にその重要性を保ち続けている。日本人が太平洋に興味を持つことは日本が将来における方針を考えるうえで極めて有益なことであるに違いないと思われるのである。

珍重された香辛料

太平洋の問題を語るためにはなんと言っても、後に地理上の発見(geographical discoveries)の時代と呼ばれる15世紀から16世紀にかけての時代に遡らなければならない(註:日本では大航海時代という。以下日本人になじみの深い「大航海時代」の名で一貫する)。
 15世紀までのヨーロッパにおける交易は地中海を中心に、イスラムやヴェネツィア商人の強い影響下にあった。これらの地域は地中海貿易によって大いに繁栄したが、そのもととなる貴重な交易品の一つに東洋の島々から産出される胡椒や肉桂(シナモン)があった。
 大航海時代はこの香辛料の争奪戦をテコにしてポルトガルとスペインがインド・東南アジアにおける覇権を争った戦争の時代であった。日本人にとってはたかが香辛料と思われるような産品のためになぜ世界を揺り動かす大航海時代が始まったのか。
 香料は食品用の「香辛料」、化粧用の「香料」、香や線香の原料となる「香木」に分けられるが、香料貿易の対象とされたのは香辛料であり、その主な産地はアラビア海に面したインド南部、アラバール島であり、この地は胡椒、肉桂(シナモン)を産出する。またモルッカ諸島の限られた島々には「丁香(丁子)」「肉荳蒄(ナツメグ)」が産出される。
 モルッカ諸島は農業には不適切な地であり、島民は香料と引換えに食料や衣類を手に入れた。このため古来ジャワ商人がモルッカの香料をジャワに運び、そこからインドなどの商人がヨーロッパ、西アジア、アフリカ、中国に輸出していた。
 ヨーロッパ人が香辛料を必要とする理由は、肉の臭みを落とすと共に、香料が肉の腐蝕を防ぐ作用をもっていることにある。
長い冬の間に家畜を養うに足るだけの穀物を用意できない以上、秋には家畜を屠殺しなければならない。冷蔵装置のないまま、その肉を1年の間保存する手段としては、燻製、塩漬、香辛料漬けなどの処理法があるにとどまる。調理に際しては傷んだ風味を隠すために大量の香辛料が用いられた。また香辛料は別の目的で使用された。強い香辛料には細菌やウィルスを殺したり弱めたりする働きを持っていたので、それゆえ香辛料は嗜好品というよりむしろ生活必需品でもあった。

大航海時代の「真相」

さはさりながら、もう少し考えてみよう。香辛料が肉の味付けをよくし、またその腐蝕を防ぐ作用があったから、スペインやポルトガルがこれを争って輸入したということは、新鮮な肉が容易に手に入りにくかったことを示している。後世、産業革命を経て、ヨーロッパは世界文化の中心に躍り出たけれども、本稿が取り扱っている時代は、民族や宗教をめぐる皆殺しの争いが続いていた。
 人類の発生した地は中部アフリカであるというのが今のところ定説であるようで、世界地図をみれば判るように、中国を除けば、人類の最も古いとされている文化は赤道を中心に低緯度の地帯に東西に広がっている。この拡がりは気候の温暖とも関係がある。地中海を起点としてみると、エジプト、アラブ、メソポタミア、インドのイスラム圈(およびヒンズー圈)であり、この最東端にシャム(タイ)やマラッカや香料諸島がある。当時ヨーロッパは文化の中心でもなんでもなく、そこに住む人々は先進文化圏から追われた食い詰め者ではなかったか、あるいは白人は黒人の突然変異種であり、黒人によって人種差別された人々の末裔であったとする説がある。
 ヨーロッパは比較的高緯度の地域にあり、先進文化圏に比べて寒冷の地で森林も多かったから、土地の生産性は低く、たわわに農産物が生産されうる肥沃の土地ではなかった。
 こうした貧困と絶えまざる争いの中で、よりよい土地を求めて海へ出ようとする意欲が、特定の民族が生まれたとしても不思議ではない。後にスペインもポルトガルもそしてその他の諸国も植民政策を始める。もし人々がその生まれた土地で、豊かに平穏に暮らすことができたならば、誰が海を渡って先住民のいる他人の土地を侵すであろうか。大航海時代はこうしたヨーロッパ諸国の生き残りをかけた戦いの面も保有しているのであり、海洋ロマンにのみ支えられた冒険の時代ではなかったのである。

香料諸島

 香料諸島はフィリピン-ボルネオ-ニューギニア-フィリピンの線で作られる三角形の内側の島々から成るモルッカ諸島とその周辺を言い、現在ではインドネシア共和国領となっている。 

香料諸島

当時これらの香辛料はその輸送費が莫大で、ヴェネツィアの香料の価格はインド出荷価格の25倍にも達したという。モルッカから船でインド洋を横断してインドに至り、ペルシャ湾に入ってスエズ地峡に渡り、陸路でカイロに着く。そして再びアレクサンドリアから船でヴェネツィアまで運ばれるという長大な旅であるうえ、この旅程には暴風雨もあり、海賊、盗賊も待ち構えている。こうしたことを考慮に入れれば価格の昂騰も肯けようというものである。

西まわりのスペイン

15世紀末までイベリア半島はイスラムの地であったが、1492年にスペインがイスラム教徒を駆逐してキリスト教のものにしてから、スペインはインドと香料諸島へ至る新しい海路の啓開をめざし始める。
 もしアジア大陸の沿岸航海と陸路を経るルートでなく、別の格安のルートで香料諸島へ到達し、中間マージンを排除して大幅に削減されたコストで香辛料を入手することができれば、これによる利益は格段に大きいものとなり、巨利を博することができると考えたのである。つまり、大航海時代は香料の輸送ルートの開発競争だったのである。 1492年にコロンブスがインドであると信じてカリブ海のサン・サルバルドル島に到達したことを契機として、太洋に向けての膨張に弾みがついた。
 コロンブスの派遣行は周知の通り西進である。当時発行されていたポピュラーな世界地図はエンリクス・マルテスの世界地図であるが、東方にあるアジアについては海岸線が不確かであり、地図の東端は巨大な半島で表されていた(第1図の通り)。
その地こそが憧れのインドであり、イベリアから西進すれば「インド」へ到達できると彼が信じたとしてもこれを責めることはできない。
 コロンブスは1492年に、現在メキシコ湾と称呼されている湾の内にある諸島(現在ではいわゆるインドと区別するため、「西インド諸島」と称呼される)へ到達し、以後3回の航海を経験し、様々な理由から不遇のうちに歿するまで、彼が発見した地をインドだと信じていたと言われている。
 エンリクス・マルテクスの世界地図にもコロンブスが頭に描くそれにも「アメリカ大陸」は存在しなかったのである。因みにアメリカが大陸であるという説を唱えたのは、コロンブスと同様西進して南アメリカを探検航海したアメリゴ・ヴェスプッチ(イタリア人)であり、その名にちなんで「アメリカ」の名がつけられたとされている。
 コロンブスが西インド諸島に到達して間もなくスペインはこの地を征服し、次いで1521年にメキシコにあったアステカ帝国、1524年にユカタン半島にあったマヤ帝国、そして1532年にはペルーのインカ帝国の人々を殺し、略奪し、3つの帝国を滅ぼした。やがてスペインはメキシコを植民地にし、ここに産出される大量の銀を手に入れ、またインカ帝国及び周囲のコロンビア、ボリビアに産する金を手に入れた。またスペイン人は、当時ヨーロッパで貴重品であった砂糖(白い黄金と呼ばれた)を得るため沿岸地帯を一大プランテーションにし、インディアスを使って生産した。さらにコーヒー、ココア、茶なども同様にして生産し、これらの品々はヨーロッパ人の嗜好を一変させ、需要の大拡大によってスペインは巨利を博することができた。こうしたことによってスペインは大いに潤い、16世紀の前半にはヨーロッパ最強の国になった。

〔第1図〕エンリクス・マルテクスの世界地図(1489頃)の模写

エンリクス・マルテクスの世界地図(1489頃)の模写

 西ヨーロッパと地中海は正確に描かれているが、アジアから東は茫漠としている。左側(西側)に地図の半分を切りとって貼ってみた。コロンブスがイベリア半島から西進し、辿り着こうとした地は実際には存在しない幻の半島であり、彼はこの地がインドであると信じていたのであろう。ここには太平洋の概念はない。

ガレオン船

 大航海時代に人びとが大海を渡ってゆけたのは当然のことながら、遠洋を乗り切る能力を持つ船があったからである。古来から様々な構造の船(舟)が存在したが、16世紀になるとガレオン(型)が登場した。これはその前のガレー船(櫂と帆を併用)カラック(型)を大型化したものであり、船首と船尾に高い船楼をたて戦闘専門に設計された三層ないし四層の甲板を持った、数百トンから1000トンに及ぶ木造の帆走船である(第2図参照)。ガレオン船は特定の国によって開発されたのではなく、北ヨーロッパ各国で改良されこのタイプに収斂したものである。
 ガレオン船をはじめとする西洋式の船が何故長大な航海に耐えられたかというと、その理由は船隊の構造(竜骨構造)にある。竜骨構造とは、人間の体にたとえれば、仰向けに寝たときの背骨に当たるキール(竜骨)をまず船底の中心線に置き、その左右方向に肋骨に当たるフレーム(肋板と肋材)を取りつけて船底部から舷側部の骨格を造る。そして甲板の高さで左右両舷の肋材を甲板梁(ビーム)で連結して、輪状の枠型の骨を構成し、これを船底、舷側、甲板とも、それぞれ何本かずつの縦通材(ロンギチュージナル)で結んで、全体として船体の形をした籠のような骨組を造り、その外側に外板や甲板の板張りを取り付けて、船体を構成したものである。こうして船体は全体として樽のようになり、沈没や転覆を防ぐことができるようになった。
 ガレオン船の長さと幅および高さの比は6~10:2:1とそれ以前のカラック(型)(同様の比率は3:2:1であり、ずんぐりしている)に比べスマートであったが、依然として保針性に難点があった。高い船楼が風に押されて針路に揺らぎが生ずるためである。そのためイギリスでは船首楼をとりはらって耐洋性と運動性を向上させる試みがなされるなど、各国によって様々な改善が加えられ、帆走性能が向上するに従って商用にも用いられるようになった。因みにコロンブスの航海は、カラック(型)より以前のタイプであるカラヴェル(型)であり、その大きさも150トンくらいであったといわれている。カラヴェル(型)はガレオン以前のポルトガル人も盛んに用いたとされている。

〔第2図〕 ガレオン船

ガレオン船

スペインの戦闘艦用ガレオン船。この艦は1000トンクラスのものであると言われており、舷窓を通して大砲が発射できるようになっている。

戦闘艦がガレオンへと発展したことによりそれまで船首に備えられていた大砲を船艙に備え(1000トンクラスの艦は48門もの大砲を装備していたと言われている)、舷窓を通して発射することができるようになり、「先住民」に対する侵略に絶大な威力を発揮した。またスペイン艦は馬匹も積載しており、ことにアメリカ大陸において馬は強大な戦力となった。アメリカ大陸の先住民は馬を見たことがなかったからである。

東まわりのポルトガル

ポルトガルはイベリア半島の西端にある南北に細長い国であり、大西洋に面している。面積は狭隘で産物も少ないため、昔から海外への進出に意欲的であった。この国家は代々アフリカの西北岸に沿ってカナリア諸島、ヴェルデ岬諸島、ギニア湾岸に到達し、やがてその勢いは喜望峰に達した(バーソロミュー・ディアスによる)。またヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰を回遊してインド洋に達し、ポルトガルはインド洋貿易を始めた。
 「貿易」という言い方には平和な響きがある。しかし、ポルトガルの進出は無人の海原を征ったわけではない。インドはイスラムとヒンズーの勢力が複雑に交錯する地域であり、インドや東南アジアにはいくつもの王国が存在した。そしてその時々の王国はインド洋の覇権を確保し、貿易を行っていたから、ポルトガルのインド洋侵入はこうしたいくつもの王国との戦いであり、シーレーンの確保をめぐる攻防戦を当然に含んでいた。
 香料諸島においても同様であり、ポルトガルの戦争は先住の王国相互間の利害対立をも利用して激しくかつ巧みに行われた。1500年以降、商船を随伴するポルトガル艦隊は東進してインド西海岸のゴアを奪取したうえマレー半島のマラッカに到達し、マラッカ王朝を征服し、拠点とするやいなや小部隊をインドネシアのバンダ海にまで進出させ1512年には香料諸島のテルナテ島を占拠した。さらに1557年(明の時代)には支那のマカオを獲得し、その触手は日本にも及んだ。1543年、漂着した明国交易船に乗船していたポルトガル人が種子島において、島主である種子島時堯に鉄砲を伝え、明国商人と手を組んで鉄砲火薬の主原料である硝石(硝酸カリウム)を日本の大名に輸出した。
 このようにポルトガルは喜望峰沖を通過する東まわりの航路をとったために、香料諸島へ達する競争にひとまず勝利を得た。ヴァスコ・ダ・ガマによる東まわり航路の発見はポルトガルの国家戦略上の勝利であったのである。ポルトガルのこの航路発見によってリスボンでの胡椒の価格は以前の10分の1に下落し、インド洋-ペルシャ湾-地中海まわりのルートは衰退し、アレキサンドリア、カイロ、ベイルートなどの胡椒は姿を消した。ヴェネツィアの凋落もこの時に始まった。

 

トルデシリャス条約

  

 スペインもポルトガルの後塵を拝してばかりはいない。香料諸島への進出に躍起となった。スペインの西まわりで香料諸島へ向かう戦略はひとまず新大陸(アメリカ大陸)によって阻まれたとは言え、ここを越えさえすれば東まわり航路よりは短期間で香辛料群島へ到達できるのではないかと考えた。
 ところで、1494年、スペインとポルトガルとの間にトルデシリャス条約が結ばれた。アフリカ航路(大西洋航路)開発によってポルトガルとスペインの利害が衝突し、かつはコロンブスの新大陸発見によって両国の利害が大西洋において複雑に絡みあうようになった。

 

新大陸(アメリカ大陸)

そこで両国はローマ教皇に仲裁を仰ぎ、その裁可を得て世界を両国の間に分割することによって利害の調整を図ったのである。
 この協定によれば西アフリカ沖のヴェルデ岬諸島の西端から100レグア(約557キロメートル)の地点において北極と南極を結んで領国の支配が及ぶ領域の境界線を定め、その線の西側に発見する土地をスペイン領、東のそれをポルトガル領とすることがとり決められた。しかしこの条約はポルトガルの不服申立によって2年後に境界線を270レグア(約1500キロメートル)西側に移すことに改められた。この境界線は南アメリカ大陸の東側を縦貫しており(西経50度ぐらい)、ポルトガルはブラジルを確保する足掛かりを得た。
 1520年マゼランが太平洋に侵入するまで太平洋は実際よりも小さい程度にしか地図に記載されていなかったことも原因して、スペインとポルトガルが両国の勢力を決めるにあたって、その境界線が北極/南極を越えて地球の反対側に達する(即ち東経130度位)ことに思い至れば、当然境界の対象として検討しなければならない筈のアジアについての言及はなかった。

マゼラン艦隊の世界周航

 しかしスペインは香料諸島がスペインの権益下にある地域の中に存在すると考えた。香料諸島はトルデシリャス条約による境界線より西にあることは確かだったからである。
 こうした確信に支えられ、スペインはマゼランを登用する。マゼランはポルトガル人であり、ポルトガルの「マラッカ攻略」にも参加しアジアの海をよく知悉している航海者であったが、王家との不和が原因となって1517年以降はスペインへ移って王家に仕えた人物である。スペイン王カルロス一世は西まわり航海の必要性を説き、1519年9月マゼランは説得に応じて5隻の艦隊を率いてセビリアを出港し、大西洋を南下した。アメリカ大陸のどこかに海峡を発見し、西まわり航路を啓開するためであったことは言うまでもない。
 1520年1月マゼラン艦隊は南アメリカの南端に海峡を発見し、荒波と烈風を冒して38日間を要してこれを通過し、11月28日に大洋の中に入った。艦隊は現在のチリに沿って2000㎞も北上し、漸く北西に進路を転じた。眼前にはこれまでに想像もしえなかった大海原が広がり、これでの世界地図をもってしては到底理解できない広さであると想像された。マゼランは3ヶ月にわたってこの大洋を航海したが驚くほど少数の島にめぐりあったにとどまった。現トウアム諸島とライン諸島、それにグアム島と思われる島(マリアナ諸島)のみである。
 マゼラン艦隊は1521年3月にフィリピンに到着した。悪戦苦闘の航海によって5隻のうち3隻を喪い、260人の乗組員は115名に減少していた。マゼランはセブ島付近の「先住民」同士の戦争に巻き込まれて横死する。長期間の航海に堪えられる艦も1隻を残すのみになってしまった。艦長に昇格したデル・カーノはマゼランの遺志通りに西進を考え、1522年1月にフィリピンを離れ、途中香料諸島において大量の香料を仕入れ、インド洋を横断して喜望峰を迂回し、9ヶ月を要してスペインに帰着した。持ち帰った香辛料は帰還した艦が一隻であったにもかかわらず、派遣に要したコストを優に償い得たという。
 この3年間にわたる航海による地球一周によって大航海時代は爛熟する。

マゼランの残したもの

マゼランの航海が残した最も重要な意味は、アメリカ大陸とアジアの間に途方もない広大な海が存在することが分かったことである。
 既述の通りトルデシャリス条約に定めるポルトガルとスペインとの境界線をヨーロッパの反対側に伸ばせば東経130度位になるから、スペイン人は当然太平洋はスペインの海であり太平洋を他国の船が航行することは違法行為であると主張した。  広大な海が存在することは西回り航海が香料諸島への距離を縮めることには役に立たないことを意味したけれども、香料諸島へ行こうとするスペイン人は後をたたなかった。しかし太平洋を渡って香料諸島に行くことはできてもあらためて東に向かってアメリカ大陸へ帰る航海は逆風と海流の関係で困難を極め、この企てはほとんど全部が失敗に終わった。
 スペインのカルロス王は西まわり航海による香料諸島への介入を断念し、1529年4月にサルゴッサでポルトガルとの間に条約を締結し、言い値を値切られた揚げ句、35万ドウカードで香料諸島に関する権利を放棄した。

フィリピンへの植民

マゼラン艦隊の帰朝報告を受けたフェリペ2世(カルロス1世を承継)はフィリピン諸島の領有を決意し、数回に亘って遠征艦隊を送り、ポルトガルや明国と争ったが決着しなかった。
 1564年11月ミゲル・ロペス・デレガスピーを司令官とする艦隊がメキシコ(この頃すでにスペインの植民地となっていた)から派遣された。艦隊は兵員200人、船員150人のほか30人の宣教師と官吏を乗せ、1565年2月フィリピンに達し、セブ(ミンダナオ島北部)に司令部を置き、レガスピーは植民地総督となった。モルッカのポルトガルも黙ってはいない。フィリピンに兵を出した。
 レガスピーは現地の諸民族と戦い、調略を施し、かつポルトガル軍とも交戦しつつ、次々に島々を領有し、1571年マニラ(イスラム教徒によって築かれた要塞都市)を占領し、スペイン国王はフィリピン諸島全域をスペイン領に加えた。新領土はフェリペ国王の名に因んでフィリピンと名付けられた。以来スペインは1898年12月アメリカとの戦争(米西戦争)に敗れるまで320年以上にわたってフィリピンを領有する。僅か7年で完成したレガスピーによるフィリピン攻略はスペイン兵の精強さ、その装備する火器の優勢にも負うところが多い(何しろヨーロッパは戦乱の巷であり、スペイン人は戦い擦れしている)が、フィリピンの住民は少なく、統一王国や大部族もなく、抵抗の気構えに欠けていたこと、レガスピーの現地人調略が巧みであったことなどのほか、随伴したカトリック宣教師による現地人宣撫もあずかって力があったと言われている。
 スペイン人がこのような努力をしてまでフィリピン経営に執心したのは、言うまでもなく香辛料が欲しかったからである。しかし、ミンダナオ島にシナモンが産出することが判ったけれども、その価格はポルトガル人が領有する香料諸島において産出される丁字に比して低価格であった。レガスピーはフィリピン経営を貿易のみで支えることに不安を覚えた。しかし、思いがけない歴史の流れがフィリピンを世界史の舞台に押し上げる。
 まずメキシコとフィリピンとの間の航路の発見である。さきに述べたようにメキシコからフィリピンへ到着することは容易でも帰路が覚束ないのではフィリピンを維持することは困難である。この難問の解決に役立ったのが後に大圈航路と呼ばれるようになる新航路の発見である。1565年アンドレス・デ・ウルダネータは、マニラを進発し、まず黒潮に乗って日本列島の近海を北上し、北緯40度のあたりに吹く偏西風をとらえ東航する方法によってメキシコまでの20,000キロを130日で走破した。この思い切った航路の開発によって、往路は低い緯度の航路を通って西進し、復路は大圈航路を使って東進する航路が完成し、メキシコとスペインの距離は格段に縮まり、フィリピンのスペイン領たる重味を持つようになったのである。
 マニラはフィリピンの太平洋航路の起点として発展し、ここに出入りする船はマニラ・ガレオンと呼ばれるようになった。フィリピン航路はメキシコのアカプルコに結ばれていたため、この交易はアカプルコ交易と呼ばれるようになった。
 フィリピンの発展に影響を及ぼした次なる要因は、中国を中心とする東南アジア貿易との関係である。

中国(明国)

当時中国は明の時代にあった(明王朝は1368-1644年)。明の前の宋王朝は海上交通や貿易を盛んに行ったが、明朝の時代にはいると海禁政策をとり朝貢貿易に徹する。1405年~33年にかけて鄭和によって行われた7回にわたる南海大遠征は東南アジア、インド洋、ペルシャ湾へ至り、その一部はアフリカ東岸(マリンディ)にまで達したが、その主目的の一つに明国への朝貢を促すことがあったと言われており、基本的に植民政策は視野に入っていなかった。第1回の鄭和艦隊は61隻の軍船と28,000人の乗組員が参加し、軍船の中には長さ140m、幅16mもの巨大船もあったと言われている。
 しかしこの遠征策は明初の永楽帝の死後、たちまちとりやめとなり、明国は対外政策に消極の姿勢をとるようになった。明国の海禁政策は沿岸地域(福建省など)の人々には大打撃を与え、不満勢力が中心となって倭寇(後期倭寇。14世紀に日本人が中心となって活発に行われた前期倭寇とは区別される)の活動が激化した。明国の海禁政策は、マカオや中国沿岸部の島々に中国人や日本人の武装商人による密貿易基地の建設を促し、これらによる密貿易は自由貿易に門戸を開いていた広南(ベトナム)、チャンパ、シャム(タイ)、ジャワなどの地方との間に行われていた。
 こうした情勢の中に「スペイン領フィリピン」が登場したのである。マニラは市場に欠乏していた明の生糸、絹製品や陶磁器、鼈甲等の高価品、それに渇望していた香辛料などを吸収し、スペインはこれを大圈航路を利用してアカプルコに運び、太平洋-大西洋を経てヨーロッパに運んだ
 代金はメキシコ銀で決済され(そのためヨーロッパに価格革命を惹き起こした)、マニラを経て中国に流入し、明は大量の銀を吸収した。因みに日本においても銀が産出され(石見銀山の発掘など)、銀により決済される日明貿易も盛んに行われた。

日本

日本は15世紀後半から統一政権(室町幕府)が影響力を失い、諸侯が乱立する時代にさしかかっていた。この戦国時代と呼ばれる時代は1603年に徳川家康が、それまでの中央政府が存在していた京都(日本列島の中心部にある)から東へ280マイルも離れた辺鄙の地である江戸に政府を設けるまで続いた。
 アジア大航海時代の日本の海外貿易は、室町幕府3代目の将軍足利義満-日本の事実上の国王-が1401年に、明国に朝貢して開始された勘合貿易によって行われた。日本は1639年、明国と同様に海外との通商をやめ、後世において「鎖国」と呼ばれる時代に入るが、それまでの間、琉球王国や明国沿岸の港、台湾などにおいて貿易を行った。明国沿岸における明国との交易が密貿易であったことや倭寇のことについては既に述べた。
 日本人が明国から輸入する品物の中で最大ものは絹であり、マカオのポルトガル人の仲介貿易商人の手によったが、仲介貿易は、1570年長崎の開港にともなって本格化し、その代金として銀が大量に日本から明国に流れ込んだ。
 日本人は東南アジアにも進出し、スペイン領フィリピンのマニラ、広南王国(ベトナム半島)のフェ、ホイアン、アユタヤ王国(いまのタイ)のアユタヤ、プノンペン(いまのカンボジア)などにも日本人町が作られた。これらの日本人の中にはスペイン人の奴隷として日本から連れ去られた者も大勢いた。またマニラからガレオン船に乗ってメキシコやペルーに渡った日本人もいた。
 日本の国王であった豊臣秀吉は、海外に関心を持ち、1586年にイエズス会の会士コエリヨに征明の意図を明らかにし、1591年にはスペイン領フィリピンの総督に使者を送り、日本に朝貢することを勧告し、朝鮮への出兵を促してもいる(事実秀吉は1592年、1597年の2回にわたり明国へ向けて出兵している)。1596年、マニラから進発したガレオン船サンフェリペ号が土佐の国(長宗我部元親領)、浦戸に漂着した。秀吉は同船の積荷を没収し、これを大坂に運搬させた。積荷の財宝は秀吉の目を瞠らせた。彼は日本の東の大海にはかような大船が遊弋していることに驚愕したであろうことも想像に難くない。同時に彼の征服欲はガレオン船の基地であるフィリピンにも及んだかもしれないが、まもなく彼が死んだことによってそのような企てがあったかどうかも知られずじまいとなった。

  

〈訳者のことば〉

明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。なお挿画は丸の内中央法律事務所事務局の高橋亜希子さんを煩わせた。

(2007.4.1)

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