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弁護士 堤 淳一

2010年01月10日

太平洋の覇権(10) -----大航海時代に至るまでのポルトガル

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

先史時代

 ポルトガルは北と東をスペインに接し、南と西は大西洋に面して細長い矩形をなし、イベリア半島全体の6分の1近く(約88,940㎡)を占める。その北と南では気候環境が大いに異なり、北部は「湿潤イベリア」と呼ばれ、高降雨、高湿度、南は「乾燥イベリア」呼ばれる地中海性気候帯に属する。北は石造りの家屋、南は粘土で固められた家屋が風景を彩り、農耕方式も家族構成も北と南では様々な違いがある。
 BC1000年頃にはフェニキア人が銅と錫を求めて地中海からイベリア半島に住みつくようになり、BC600年頃にはギリシア人がその後を追ってやって来た。ギリシア人は先住民をイベロ族と呼んだ。BC900年から650年にかけて半島内陸部にはピレネー山脈を越えてケルト人が侵入し、鉄器文明をもたらした。ケルト人はライ麦と大麦を伝え、イベリア半島の内陸部に住むようになった。その一方でBC3-2世紀には北部にはスペインに連なるカストロ文化が生まれたが、地中海文明の影響を受けて南部に比べて遅れていたといわれる。

ローマ帝国による支配

 BC201年、第2次ポエニ戦争でカルタゴを破ったローマがイベリア半島に進出する。主として内陸部の原住民によるローマ人の進出に抵抗もあったが、BC133年にはスキピオによるイベリア半島の支配がほぼ完成し、ユリウス・カエサルがBC61年半島のローマ化を促進し、ポルトガル南部にも3都市(リスボン、サンタレン、エヴォラ)を建設した。イベリア半島への進出から約200年を経たBC19年北部一帯の征服によりイベリア半島は完全にローマの支配下に入った。
 ローマはポルトガル地方を、ほぼ南北の真中を流れるドーロ川の以北と以南の2つに分け、南部を更に2分して属州として統治した。 ローマ文明は先住民であるイベロ族、ケルト・イベロ族の社会経済、文化の構造に圧倒的な変化をもたらした。
 半島の経済開発が進み、土地は共有制から私有制へと変化し、半島各地に道路が建設され、橋が架けられ、水道が敷かれた。道路の発展は交通を便利にし、統一的な行政組織が整備された。言語は俗ラテン語が共通語として使用され、やがてはガリシア・ポルトガル語へと変化してゆく。
 AD1世紀頃にはキリスト教が伝わり、3世紀にキリスト教がローマにおいて国教化されると、先住民の宗教は次第にキリスト教に吸収されてゆく。

ゲルマン民族の侵入

4世紀後半にヨーロッパ東部にゲルマン民族の移動がはじまり、この動きは5世紀にイベリア半島に達し、411年にゲルマン民族のスエヴィ族はポルトガル王国を建国した。少数民族である彼らは圧倒的多数を占めていたヒスパノ・ロマーノ人に自らを適応させ、被支配者達はゲルマン人による国政に参加した。
 他方、415年からフランスのトゥールーズを根拠地としていた西ゴート王国はフランク族に敗れ、トレドに遷都する。その後585年に西ゴート国王レオヴィギルドはスエヴィ王国を斃しイベリア本島を征服した。ゴート人はゲルマン人とヒスパノ・ロマーノ人を統一しようとして「西ゴート法典」を公布したが同化は進まず、やがてローマ帝国の解体とそれに続く王家の内紛と混乱の中で弱体化してゆく。

イスラムによる支配

711年、西ゴート王室の内紛に乗じてイスラム軍がイベリア半島に侵入し、わずか数年のうちに半島の大半をその支配下におき、キリスト教勢力は半島の北端のカンタブリア山脈以北および北西部ピレネー山脈の山麓に追いやられた。ローマの進出に比べてかくも短期間にイスラム教徒が半島を支配しえたのは少数派のゴート族が軍事を独占し、ヒスパノ・ロマーノとの間との融合が不完全であったこと、このような社会構造が脆弱であったことに因り民衆の暴動が生じたこと、イスラム教徒が寛容政策をとり貴族達もイスラムへの改宗と納税を条件に土地その他の財産を安堵されたことなどのほか、イスラム教徒の文化的優越性が寄与したものと言われている。
 征服されたヒスパニアは、ダマスカス・ウマイア王朝の総督領エミラートに編入され、コルドバに首都が置かれた。レコンキスタと呼ばれる国土回復運動を経てイスラム勢力がイベリア半島から完全に駆逐されるのは1492年のことで、その間約770年にわたって半島はイスラム勢力によって支配されもしくはその文化的、政治的影響の下におかれた。イスラムによる支配は、第1期総督支配期(711-929年)、第2期コルドバ王朝期(929-1031年)、第3期太守国分裂期(1031-1238年)、第4期グラナダ王国期(1238-1492年)の4段階に分けられる。

第1期 総督支配期(711-929)

支配者として侵入してきたのはアラブ人、ベルベル人であり、ともに遊牧民で農耕を知らなかった。そして少数派でもあったため、ゴート人の行政組織や社会経済組織を受容し、住民にはある程度の自治権を与えた。改宗を肯んじないキリスト教徒についてもあえて弾圧を加えることもなく、イベリア半島北部においてキリスト教を守り続ける者(モサラベという)も許容された。
 750年にアフリカからアラビア半島を経てインド亜大陸の西部にまで迫る大版図を有していたウマイア朝が崩壊する。その折イベリア半島に逃れてきたアブドゥルラフーマンが、イスラムの本拠であるダマスカスの宗教的権威に服しつつも政治的に独立した地位を確立した。しかしその治世に対抗し9世紀にはキリスト教徒が、そして10世紀初頭にはアラブの貴族までがコルドバの支配に反抗しはじめた。

第2期 コルドバ王朝期(929-1031)

第2期はアブドゥルラフーマン3世が総督に就任して始まる。総督はアラブの反乱分子を征圧し、ダマスカスからも宗教的にも独立して自らカリフを称し、コルドバ王朝時代を築き上げた。10世紀後半にはコルドバ王朝は最盛期を迎え、首都コルドバの人口は10万を算えた。都市部における絹織物、陶器、皮革、武器等製造が盛業し、対岸のアフリカとの交易も盛んに行われた。コルドバを首都とする一帯はアンダルシアと呼ばれジブラルタル海峡、地中海に面した要地であり、後々までもイスラム勢力の核心をなした。現在スペインを構成するアンダルシア自治州となっている。

第3期 太守国分裂期(1031-1238)

1031年に最後のカリフであったヒシャーム3世が死亡するとコルドバのカリフ教国は断絶し、無政府状態となった結果、各地にタイフアと呼ばれる太守国が生まれる。現在ポルトガルとなっている地域はセビリアとバダホスの太守領であった。
 折からイベリア半島北部においてはキリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が進展していた。
 この地域においてレコンキスタの中心となったのはカスティーリャ王国である。カスティーリャ王国は現在のスペインの北部に発祥したアストゥーリアス王国を始祖とする。
 アストゥーリアス王国はその後、レオン・アストゥーリアスあるいはレオン王国と呼ばれる国に発展し、アルフォンソ3世の子オルドーニョ2世(在位914-924)の時代に、山岳地帯から出て首都をレオンに移した。レオン王国はイスラム勢力との戦いの中で次第に勢力を伸長して、やがて王国の中に、後世においてレコンキスタの強力な担い手となるカスティーリャが誕生し、961年にフェルナン・ゴンサーレス(在位923-970)によって独立を果たした。その遙か後世においてカスティーリャ王国はスペイン王国の中核となる。
 1085年アルフォンソ6世がアンダルシア全域を抑えようとしたとき、北アフリカからタイファ諸国の援助要請を受けたムラービト帝国軍が来攻してアルフォンソ軍を破り属州としたが、ムラービトも高度なアンダルシア文化に同化し独自性を喪失してゆく。
 これを機にキリスト教軍が勢いづいて南下を始めるや1145年にアルモアダ帝国軍が北アフリカからイベリア半島に侵入し、1172年にはアンダルシア全域を支配におさめた。しかし全戦域についてみると1212年キリスト教国連合軍(次第に形をととのえつつあったカスティーリャ、ポルトガル、アラゴンなど)がアルモアダ軍を破ったのをきっかけに優位に立ち始めた。
 すなわち、1231年カスティーリャ王フェルナンド3世はコルドバを、ついで1248年にはセビリアを占領した。またアルフォンソ10世は1265年にカデイスを、そしてポルトガル地方においては1249年アフォンソ3世がフアロ、シルヴェスを征服していちはやくレコンキスタを完了した。

第4期 グラナダ王朝期(1238-1492)

こうしてイスラム勢力はアンダルシアのグラナダ王国にとどまるのみとなった。1238年にこの地に生まれたナスル朝はカスティーリャの朝貢国の立場に甘んじながら、アフリカとの交易によって栄え、1492年のカトリック両国(カスティーリャ王国、アラゴン王国の二君連合国)による侵攻によって亡びるまで2世紀半にわたって存続した。

ポルトガルの建国

こうしたイスラム勢力の支配下においてポルトガルは生まれた。以下においてポルトガルの建国に至る歴史をレコンキスタの運動と絡みあわせて略述する。
 南北にわたるポルトガルの海岸線の真中にドーロ川があることは先述した。この川から北へ80kmほどのところにミーニョ川がある。この両川によって区画される地は海岸線から50kmほど東へ行くと山岳地帯になる。この南北80km、東西50kmの一帯が後にポルトガルの中核となる地域の一つである。868年アストゥリアス王国(後にカスティーリャ王国)のアルフォンソ3世はドーロ川の河口の都市であるポルトゥカーレを征服し、その統治権をヴィマラ・ペレス伯に与えた(ポルトカーレ伯領)。
 ところでドーロ川の南100kmほどのところにモンデーゴ川がある。この両川の間の地も東へ行くこと50kmほどで山岳地帯になる。
 この南北100km、東西50kmの一帯がポルトガルのもう一つの核となる地域である。この一帯もアルフォンソ6世によって征服され、いったんイスラムに奪われたが、首邑であるコインブラはレオン王(後にカスティーリャ王国)フェルナンド1世が再び征服、セズナンド伯に統治をゆだねた(コインブラ伯領)。
 この2つの伯領はいずれも旧ローマの属州であったが、1096年にこの地を治めていたアルフォンソ6世によって、女婿であるエンリケ・デ・ボルゴーニャに譲渡された。折からイスラムのムラービト軍が北上中であり、最前線のコインブラ伯領の強化はアルフォンソ6世にとって重要な課題であったのである。イスラム支配の第3期(太守国分裂時代)における出来事である。
 アルフォンソ6世によって行われたこの譲渡は旧ローマ属州のガラエキアの一部をなしていたガリシアからポルトカーレ伯領を分離独立させて、旧ローマの属州であったコインブラ伯領と一緒になされたことから問題が生じた。
 エンリケが死去するとガリシア勢力とポルトカーレ勢力の間に争いが生じたのである。宗教勢力(大司教)と結んだガリシアの大貴族は既に滅んだガリシア王国の復興を指向して、これに対抗するポルトカーレ勢力との間に紛争が生じ、1128年にサン・マメーデにおいて軍事衝突が起きた。ポルトカーレ貴族はエンリケの子であるアルフォンソ・エンリケスを首長に選び、ガリシアの軍隊を敗走させた。
 エンリケスはコインブラを拠点にレコンキスタ戦争を指導しつつ1135年に「皇帝」と称した従兄弟のアルフォンソ7世に争いを挑むが、エンリケスの封建的身分関係はエンリケがアルフォンソ7世の臣下の立場にあったため1137年、いったんは和解した(サモラ条約)。
 しかしエンリケスは1139年に再びアルフォンソ7世に戦いを挑む。そして1143年ローマ教皇庁の仲介により、エンリケスはアルフォンソから「王」の称号を認められたが、それでは引続きアルフォンソの風下に立つことになる。
 ポルトガルがカスティーリャと対等の王国になるためにはローマ教皇庁から認知を受ける必要があった。そこでエンリケスは教皇との間に封建的身分関係を結び、1179年にエンリケスはアレクサンドル3世から正式に国王として認められ、ようやくポルトガルが王国として建設を認められ、エンリケスはアフォンソ1世となった。
 アフォンソ1世は領内の権力基盤を強化するとともに南下してレコンキスタを継続した。1147年には折から聖地エルサレムへ航海中のイギリス十字軍艦船との共同作戦によってリスボンの攻略に成功し、以後騎士団(テンプル騎士団、ホスピタル騎士団、カラトラヴァ騎士団、アヴィス騎士団、サンティアゴ騎士団ら)の援助を受けて南部のアレンテージョ一帯を抑えることに成功したが、1185年に戦死を遂げる。
 後を襲ったアフォンソ2世は1212年にカスティーリャ王を支援し、イスラム軍に大勝する(ナバス・デ・トロサの戦)。これを契機としてイスラム勢は後退し、その後アフォンソ3世は、遂に1249年ポルトガルにおけるレコンキスタを完了した(スペインによるレコンキスタの完成は1492年であり、それに先き駆けること240年余のことである)。

レコンキスタの残影

イベリア半島の中世における歴史はレコンキスタの歴史であり、「レコンキスタはスペイン史の鍵である」(スペインの歴史家サンチェス・アルボルノス)。既述した経過から判るように、ポルトガル王国もレコンキスタの過程の中に生まれた。
 ポルトガル人の原型はケルト人であるけれども多民族の流入により人種は混淆した。ポルトガル人はアフリカ人やイングランド人とも通婚した。700年にも及ぶイスラムの支配による人種と宗教の混淆は多岐にわたった。イスラム教徒、アラブ人(その中にはユダヤ教徒もいた)、モーロ人や、親子何代にもわたってイベリアに生まれ、混血した人々である。宗教的にみてもイスラムの統治下において改宗せずにキリスト教徒であり続けたモサラベもいたし、逆に、何代も前にキリスト教に改宗したイスラム教徒(レネガードスあるいはムサーリムと呼ばれる)もいた。
 スペインにおいてはカスティーリャ王国のイサベル王女とアラゴンのフェルナンド皇太子が1469年に結婚し、1472年にイサベルがカスティーリャ王位に、1479年にフェルナンドがアラゴンの王位につき(後世「カトリック両王」と呼ばれる)、イスラムのグラナーダ王国の攻撃に着手したが、旗印に掲げたのが「宗教の純潔」とカトリック信仰の貫徹であった。主なる標的とされたのはユダヤ教を信仰するアラブ人でキリスト教に改宗し、ユダヤ・コミュニティを形成して富裕層をなすコンベルソスと呼ばれる人びとであった(後にカトリック両王により異端審問を受け、16世紀を通じて300万人ものコンベルソスがスペインから追放される。もっともポルトガルにおいても異端尋問が行われ宗教的に寛容であったアムステルダム(ネーデルランド)へ逃散したユダヤ人も多かった)。
 こうしてイベリア半島の人びとは人種的にも宗教的にも混淆し、もはや人種的には区別がつかず「イベリア人」とも呼ばれる人々となっていたのである。ポルトガル人がことのほか人種的・地域的偏見を持たなくなったのは彼らが大航海時代の先駆けをなす理由を考えるうえで重要である。
 レコンキスタの運動は社会の様々な分野に影響を及ぼした。その1はイスラムという「敵」に対抗するために王権が強化され、貴族層が独自の成長を遂げることができず、封建制が徹底しなかったことである。平民層が常に戦いに参入を強いられたこともその理由にあげられる。例えばエンリケスのレコンキスタ戦争の中心部隊となったのは、伝統的な荘園に拠って立つ北部の貴族よりもむしろドーロ川以南に作られたコンセーリョと呼ばれる半自治共同体の平民騎士であった。その2は戦争が慢性化し社会が不安定だったため都市の発達が遅れ、ブルジョワ階級が育たなかったことであり、その3は軍事優先の考え方が強くなったことである。そのメンタリティーは大航海時代の海外進出、新大陸征服へと受け継がれる素地となった。その4はその一方で資本の備蓄や肉体労働を蔑視する投機的風潮が生まれたことである。

経済の発展と黒死病による不況

アフォンソ3世によってレコンキスタが完成するとそれまでの略奪を基本とする軍事中心的な国家体制は、次第に貨幣を媒体とする生産と交易主体の経済に重心を移した。これに伴い南部の比重が増し、1255年にはそれまで中部のコインブラにあった首都が南のリスボンへ移された。
 そして次のディニス王の治世の時期(1279-1325年)に中世ポルトガルは最盛期を迎える。ピレネー以北のヨーロッパ諸国が戦いの結果疲弊し、離合集散を繰り返してきたのに比べ、ポルトガルにおいては比較的王権が確立されていたことがその理由にあげられる。封建貴族達の挑戦を受けていたとはいえ、ディニス王は王領に検地を進め、また貴族に対しても領内の裁判権を抑制し相続制度をみなおして所領安堵の制度(コイィルマサン)を確立するなど、領主権を掣肘し王権の確立につとめた。そして中央集権化を図るためローマ法を導入した。
 ディニス王は農業の開発につとめ、農村と都市の間における農産物(オリーブ、塩、麻など)の流通を促進し、各地に市場の特許を与えて商業の発達につとめた。同時に王は海外貿易を促進し、従前から行われてきた北ヨーロッパのフランドルやイギリスと交易を盛んにし、その結果ワイン、乾果(干し葡萄、干し無花果、アーモンドなど)、蠟、塩、コルクなどが輸出され、各種の繊維製品、武器、装飾品などが輸入された。1293年には北ヨーロッパ向けの商船について海上保険制度が作られた。
 レコンキスタにより、地中海の航行が可能になるとイタリア商人がポルトガルに進出してきた。ディニス王は地中海のシーレーンを確保するため、イタリア人であるマヌエル・ペサーニョを招聘して1317年に海軍を創建した。そしてその世紀の後半には100トン以上の船を建造する者には国家的支援(木材の無償供与)が行われた。
 ところがその次の王であるアフォンソ4世の治世には黒死病の蔓延(その始まりは1348年のことである)によってヨーロッパ全体が危機に見舞われる。ポルトガルでは人口が3分の1に減少したといわれている。農村人口の減少は封建領主にも深刻な影響を与えた。飢えに苦しむ農民達は職を求めて都市に流入し、社会全体の構成が崩れるようになった。  この経済不況は結果として15世紀末まで続くこととなったのである。

カスティーリャとの戦争

1367年に即位したドン・フェルナンド王は隣国カスティーリャと3回にわたって戦争を行った。第1会戦は1369年、第2会戦は1372-1373年、第3会戦は1381年にそれぞれ行われた。いずれもカスティーリャ王家の継承問題への介入が原因である。そのうち第2会戦は英仏百年戦争(1337年勃発)と連動しており、ポルトガルはイギリス(エドワード3世)とカスティーリャはフランス(シャルル5世)と同盟を結んで戦ったが、カスティーリャ軍はリスボンを焼き討ちし、またポルトガルの艦隊をほぼ全滅させた。フェルナンドはこれに懲りずに第3会戦に挑むがポルトガル軍の戦意は乏しく援軍のイギリス軍も領内で略奪を始める有様であった。
 1383年に一時的な和平条約が結ばれたが、フェルナンド王は王女をカスティーリャ王子に嫁がせることを余儀なくされ、王家は滅亡の危機にさらされた。民衆は戦いに倦み、各地の農村部(後には都市部にも)に反乱や武装蜂起が生じた。支配層も分裂し、親カスティーリャ派であるレオノール女王(フェルナンドの死没により後を襲ったベアトリス王の摂政)と反カスティーリャ派のドン・ジョアン(カスティーリャ亡命していた)との間に紛争が生じ、1384年にカスティーリャがポルトガルに侵入するとジョアン派はイギリスに援助を求め、次第に優勢に立ち始めた。
 フアン1世のカスティーリャ軍は1384年1月ポルトガルに侵入し、5~6月にかけてリスボンを陸海から包囲するが、1385年4月のアレンテージョの戦いと1385年8月のアルジャバロッタの戦いでポルトガル軍は勝利を収め、自国の独立を確立する。

ジョアン1世

この背景にはジョアンを支持するブルジョワジーの支援があった。カスティーリャの侵入に脅えるリスボン市民は市民集会を開いてジョアンに「王国の統治兼防衛の長」への就任を依頼するなどの支持を行い、とくに中・下層ブルジョワがジョアンの前面に立って「革命」を指導し、財政を支えた。そして1385年5月にはコインブラで身分制議会ともいうべきコルテスが開催され、民衆はドン・ジョアンを国王(ジョアン1世となる)に選出した。こうしてアヴィス朝が開かれたが、民衆主導による国王の選定はポルトガルにも、またヨーロッパ各地の民衆蜂起に照らしても画期的な出来事であった(この時期イタリアのフィレンツェ、フランス、イギリスに同様の蜂起があったがいずれも支配層に押さえこまれ失敗に終わっている)。
 ジョアン1世が即位した時代においても、ポルトガルは聖俗の貴族が拠ってたつ荘園や様々に特権化した慣習法によって支配されたコンセーリョ、南部の騎士団領などから成っており、王権の及ぶ範囲は限定されていた。ジョアン1世はこの分権的な体制を打破し、王権の強化につとめた。もともとコンセーリョの売買税であったシザとよばれる税金を全国的に課税される普通税とする画期的な政策を断行した。
 こうしてジョアン1世の治世(1385-1433)は他のヨーロッパ諸国よりも比較的まとまりをもった国を確立することができた。フランスとイギリスは1337年から1475年にわたる百年戦争(1366年以降フランス軍のアキテーヌへの遠征によりスペインをも巻き込んだ)によって疲弊し、イギリスにおいては内紛が繰り返され、1455年から30年間は薔薇戦争に巻き込まれてゆく。当時の西ヨーロッパ諸国は概ね無政府状態に近かったといってよい。)

知識の集積

ポルトガルにおいてはいち早く統一国家が建設されたため、多くの人びとと知識がポルトガルに流入した(イスラム人の遺産であるアラブの数学、地理学、航海、造船技術等)。西ヨーロッパから追放されたユダヤ人の影響も見逃せない。ポルトガルへ他国から流入し、あるいは残留したユダヤ人達はキリスト教徒とイスラム教徒の間にたって天文学等のユダヤの学問を伝えた。
 イタリア人、ことにジェノヴァ人(ヴェネツィアと争って敗退)もポルトガルに活路を見出した。前述したようにポルトガル海軍の建設に力を尽くしたペサーニョがその一例であり、多くのジェノア人が資金面でもポルトガルの海外進出に援助を与えたばかりでなく、商業に必要な簿記・会計・商務などの技術をもたらした。
 そのほか西ヨーロッパにおける戦いの帰趨によって解雇され、もしくは休戦中に軍務を離れて失業した多くの傭兵(封建領主に対し無私の奉公を以って仕えるのではなく、有給制の兵士が14世紀にあらわれた)の流入もあり、彼らはポルトガルの兵士や航海士の給源となった。剣と馬、戦友愛、殺人の興奮、そして略奪の喜びしか知らない男達にとって除隊は容易なことではない。彼らにはなお戦争をしかけ、冒険に乗り出すエネルギーが有り余っていたのである。

エンリケ航海王

ところでジョアン1世はイングランドとの同盟を強化するためにイングランドはランカスターの王女(フィリパ)と結婚し、6人の王子をもうけるが、その3番目の息子が後に航海王子とよばれるようになるドン・エンリケ(1394-1460)である。
 ジョアン1世の王権の確立については前述したが、レコンキスタの完了とともに貴族階級は次第にその存在意義を薄くし、特に所領を持たない下級貴族の次男以下の男子は新たな領土の拡張を望むようになった。ジョアン王は領土拡張問題を海外への進出によって解決を図ろうとし、北アフリカの商業都市セウタの征服を目指し、1411年にカスティーリャとの間に領土境界を確定し後方の脅威が取り除かれたことを機に、国を挙げてセウタ征服を発起した。1415年ジョアン1世とエンリケを含む3人の王子によって率いられたポルトガルの大艦隊はセウタを急襲してその征服に成功し、絹、香料、陶器、宝石その他の東洋から流入した物産を収奪した。セウタ征服以降ポルトガルは半国家的な事業として海外進出に邁進し、1463年にカサブランカ、1471年にタンジールを相ついで攻略した。
 因みにスペインについてみると、すでにアラゴン王国のハイミ1世は1229年から1235年にかけてバレアレス諸島を攻略していた。
 ドン・エンリケはジョアン1世の国家的目標を達成するための尖兵となった。王子はモロッコへの領土進出拡大を目指した主戦派であり、ルネッサンス開明派というより、中世的な十字軍戦士のメンタリティを航海事業へと注ぎ込んだ探険指導者であった。王子はアフリカへもしばしば船を出してカナリア諸島マデイラやアゾーレス諸島へ渡海させた。王子の関心はアフリカの西海岸にあり、探険航海をできるだけ南下させることであった。

ザグレスの村

王子はヨーロッパ最南端のサン・ヴィセンテ岬の村落をサグレスと称し、謎の辺境への遠征の指揮をとった。王子はサグレスを地図製作と航海術と造船のメッカにした。その作業によって地図は情報の累積による科学となった。ユダヤ人、ムスリム人、アラブ人、ジェノヴァやヴェネツィアからやってきたイタリア人、ゲルマン人、スカンディナヴィア人、さらなる探険がすすむにつれて、アフリカ西海岸の部族も加わった。
 航海に必要な内外の地理書、旅行記などが収集され、天文観測技術、方位を測るコンパス、緯度を測るアストロラーペの改良品である四分儀が開発され、カラヴェル船が建造された。カラヴェル船はもともとポルトガルのドーロ川で使われていた小型船舶をもとに改良を加えた概ね排水量50トン、全長約70フィート、船幅25フィート、2本ないし3本の大三角帆を備えており、吃水は浅く沿岸地帯の探険にも向いていた。大三角帆を持つカラヴェル船は従前の横帆のみのバルカ船がタック(向かい風を受けて船を前方にジグザグに進めること)を5回必要とする距離を3回のタックで済むという高性能を有していた。因みにコロンブスのアメリカへの航海もカラヴェル船で行われている。この船を更に外洋航海に適するよう大型に改良したタイプが後に有名になるガレオン船といわれる帆船である。

(未完)

〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。

〈参考文献〉(今回参考にしたもの)
  • 金七紀男「増補版ポルトガル史」(彩流社、2003)
  • ダニエル・ブアスティン(鈴木主税外訳)「地図はなぜ四角になったのか―大発見②」(集英社、1991)
  • 飯塚一郎「大航海時代へのイベリア―スペイン植民地主義の形成」(中央公論社中公新書603、1981)

〈地図製作〉高橋亜希子(丸の内中央法律事務所)

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