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弁護士コラム・論文・エッセイ

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弁護士 筑紫 勝麿(客員)

2021年04月12日

シレジア紀行

(丸の内中央法律事務所事務所報No.38, 2021.1.1)

 筆者は、かつてベルリンに勤務していた頃、ワルシャワ出張の機会にポーランド南西部シレジア地方を列車で旅行したことがある。今から40年ほど前のドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の大使館の一等書記官の時代だが、今年前半のコロナ禍の在宅の際に、書類整理の中からその時の記録を発見した。読み返してみると、30歳代前半の書記官の見聞録で、若気の至りという部分もあるが、書かれていることの本質は今でも大きくは変わっていなように思われた。そこで堤先生に相談して事務所報に掲載させていただくことにした次第である。ご笑覧いただければ幸いである。

1.国境-昔と今

 ベルリン東駅を出発してフランクフルト・アン・デア・オーデルからオーデル川を渡るとポーランド領に入る。かつてのドイツの国内河川は、第二次大戦後は国境の川となった。列車の窓からオーデル川にかかる自動車用の大きな橋が見えるが、車の往来はほとんどない。そう言えば、1981年4月3日金曜日午前8時36分東ベルリン発のオストヴェスト・エクスプレスに、ベルリンから乗り込んだ乗客は数えるほどだったし、フランクフルトからは国境及び税関の係官が乗って来ただけだ。昨年10月に取られた、東独・ポーランド間の国境自由往来の一時停止措置によって、人的交流が激減したのは、ここでも明らかである。

 列車がズバスツィネク(ポーランド語表記ZBASZYNEK)の駅を出ると、戦前のドイツ・ポーランド国境に差し掛かる。もともと旧国境には、特に川があったり何か特徴があったわけではなく、まして今では自然の風景からここが旧国境だと識別するのは難しいが、しかし車窓に展開する耕作地、特に畑の広さと、建物の大きさや作り方から、旧ポーランド領に入ったことを大体知ることができる。
 即ち、まず旧ドイツ地域では畑の単位面積が広く、これは戦後ポーランド政府が社会主義集団農場をこの地域で実施したためで、一方旧ポーランド地域では、個人農がそのまま残ったために耕作地の単位面積が狭く、また畑と畑の間に柵があったり木が植えてあったりして、雑然とした感じを与えるからである。次に、建物についても、旧ドイツ地域の建物はレンガ造りで大屋根のがっしりしたものであるのに対して、旧ポーランド地域の建物は一般に木造の貧弱な造りが主である。

 ドイツのレンガ造りの建物は百年単位で維持可能とされているので、わずか戦後35年くらいではその跡を消すことも無く、今後数十年にわたってこれらの建物は存在し続けるわけだが、このことはとりもなおさずドイツの旧東方領土の一つの証拠が今後なお数十年にわたってポーランド内に存在するということであろう。

2.シレジアの農業―両国の農業の比較

 シレジア地方は一般に温暖で、冬の期間も比較的短いと言われている。シレジア地方は、上シレジア(東側)と下シレジア(西側)に分けられるが、このうち下シレジアは温暖な気候と肥沃な土地のお陰で、戦前はドイツの穀倉地帯と呼ばれ、また、ベルリンでシレジアのハムと言えば、高級品の代名詞であった。しかし今では数年連続の不作に陥るような状態だが、その差はどこに起因するのであろうか。

 早春のこの季節は、ちょうど種蒔きの時期で、東独のノイエス・ドイチュラント紙(党機関紙)は連日農業に関する記事を掲げ、大量の農業機械の投入、飛行機による農薬の散布、労働者や学生の応援の動員等を報道している。これに対して、ポーランドで車窓から見られたのは馬を使っての耕作と農民の手による種蒔きで、トラクター等の機械の姿はほとんど見かけなかった。
 近年、東独の集団機械化農業はまずまずの成果を上げつつあり、これによって国民への農産品の供給が一応安定し、このことが東独経済ひいては内政全般の安定に寄与していると言えるが、この機械化と馬による耕作を比べれば、東独の生産性はポーランドの数倍、十数倍と言えよう。

 ドイツに「ポーランド経済Polen-Wirtshaft」という言葉がある。ずさんでどうしようもない経済のことを意味するが、東独人からみれば、今それが実証されたという感じで、「我々はシレジアの穀倉地帯をポーランドに譲ったのに、彼らは働かないから折角の土地を利用できないのだ。」、「我々は集団・機械化農業の利点を彼らに助言してきたのに聞き入れられなかった。そして今、彼らがやっていることは食料の輸入だ。」というのが、一般の東独人の感想であろう。
しかし一方、小さくても自分の土地を持ったポーランド農民は、必ずや「人間はパンのみに生きるにあらず。」と答えるに相違なく、東独人とポーランド人との間には、ここにも一つの越えがたい溝があると言わざるを得ない。

3.ブレスラウにて(ポーランド名ーヴロツワフ)

 下シレジアの中心地ブレスラウは、オーデル河畔にある歴史に満ちた町である。中世以降、1335年にはボヘミア王国に属し、1526年にはオーストリア帝国の領土となり、7年戦争の後、1741年にプロシア王国に属することとなった。そして、第二次大戦末期には、ブレスラウは3か月に及ぶ抵抗の後に降伏し、ドイツ系住民は殺害されるか追放され、その後に東部ポーランド地域からポーランド系住民が移り住んできたと言われている。

 ブレスラウの街並みはすっきりしているが、よく見ると建物の手入れが一応行き届いており、東独の建物の外観が荒れたままであるのと対照的である(尤も東独の建物の中はすっきりと整理されているが)。そしてこの違いは、そのまま両国の考え方の違いを表しているように思われる。即ち、東独はまず生産力の増強に力を入れ、生産の確保によってはじめて他のものにも力が回るようになると考えたが、ポーランドは生産基盤の強化と並行して、上記のような建物の手入れ、街並みの整備にも力を入れてきたのであろう。
 旧市街(スターレ・ミアスト)に行くと、その手入れの良さにただ驚くばかりで、第二次大戦の破壊の後、再び昔の街並みを作り上げたポーランド人の強靭さと、こつこつと時間をかけて仕上げて行く粘り強さを感じさせられる。とにかく街並みの手入れについては、ポーランド人の方がずっと上手で、現に東独でもポツダムのサン・スーシー宮殿や、昔の家並みを残す中部ハルツ地方のクヴェートリンブルグの町の修復はポーランド人が行っている。

 教会の手入れも立派で、崩れ落ちそうな東独の教会とは比べ物にならないし、さらに教会活動も雲泥の差で、ミサに多くの市民が出席し、また若い人や小さな子供が多いこともこの国の宗教心を示していて、旅行者に深い感銘を与える。まるで死んだような東独のキリスト教とは大変な違いだ。町の人の表情は穏やかで、突進してくるような東独人とは違うことも一つの安心感を与える。
 しかし、夜になるとレストランがほとんど無く、やっと見つけても食べるものがない。そういえば、午後町を歩いていて店頭にあまり物がなかったことを思い出し、この点では東独の方がマシだと現実に戻らされた。

ポーランドの地図.jpg
(注)太い線は筆者が移動したルート
 (地名はポーランド語表記)

4.シレジア工業地帯

 列車がオペルン(オポーレ)の町を過ぎ、上シレジアに入るころから、車窓の風景は一変し、工場や煙突の群れ、炭鉱の櫓等が見えてくる。そして、グライヴィッツ(グリヴィチェ)からカトヴィッツ(カトヴィチェ)を通って、ミスウォヴィチェに至る約40~50㎞の間は、工場が延々と続く大工業地帯である。これだけの規模の工業地帯は、東欧には他に存在しないし、かつてのドイツの二大工業地帯はルールとシレジアであったという意味もよく分かる。

 シレジア工業地帯の存立の基盤は、ここで産出する良質の石炭と鉄鉱石であるが、特に石炭については、無造作に貨車に満載されている光景を各地で見かけた。まさに黒ダイヤの言葉どおり、東独で見る褐炭とは光沢が違い、他人事ながら羨ましい限りである。ポーランドには原子力発電所が無いが、これだけ良質の石炭があれば必要ないだろうと頷ける。

 ドイツのかつての東方領土は、東プロイセン、シレジア、ポンメルンの3つであるが、このうちドイツにとって一番痛手であったのは、シレジアを失ったことであろうと思われる。即ち、東プロイセンは、ダンツィヒの港とケーニヒスベルクの歴史的意味(プロシャ王はここで戴冠式を上げた。)、それに後背地の農業を持ち、ポンメルンは、シュテティーンの港と内陸部の農業を持っていたのに対し、シレジアは、農業、工業、資源を豊富に持っていたからである。

 ドイツとポーランドの民族対立は上シレジアでも激烈で、第一次大戦後、ポーランド人の暴動が3回あったと言われている。そして連合国の管理の下に、上シレジアの帰属を巡って住民投票が行われたが、住民の60%がドイツへの帰属を支持したにも拘わらず、上シレジアは分割され、1922年にカトヴィッツを中心とする地域はポーランドに編入されることになったという歴史がある。ここにも既に第二次大戦の種がまかれていたわけである。

5.アウシュビッツからワルシャワへ

 一般に言うアウシュビッツ強制収容所は、アウシュビッツ、ビルケナウ、アウシュビッツ第3の3つの収容所からなっており、1940年から45年までに、ここで約400万人のユダヤ人が虐殺されたと言われている。このうちのアウシュビッツ収容所は、今では博物館として昔のままに保存されている。その入り口に、よく知られた「アルバイト マハト フライ(働けば自由になる)」という文字が掲げられたゲートがあるが、そう言えば最近東独で、ポーランド人を軽蔑して「働かない連中は食えなくて当り前さ」と言われているのと何となく語感が似ているなと思わず苦笑する。

 各建物の中の展示は実に凄惨である。ぞっとするような頭髪の山、メガネの山、かき集められた靴の山、一縷の望みを持ってゲートをくぐったユダヤ人たちが最後まで離さず持ってきたわずかの持ち物とトランク。そしてまた、「お母さん、私は元気で生活していますから安心してください。」という少女の手紙に、強制収容所の検閲スタンプが押してあるのには涙を誘われる。

 戦後西独がナチスドイツの罪を一身に背負ったのに対して、東独は「私たちはヒトラードイツとは全く関係ありません。私たちもブーヘンヴァルトやザクセンハウゼンに記念碑を立てて、この犯罪を糾弾しているのです。」と口を拭ってきたが、このような主張は、ポーランド人には全く通用しないであろう。ユダヤ人とは言っても、その大多数は長きにわたってポーランド社会に生活していた一般の市民であったわけで、ポーランド人から見れば、この犯罪行為は自分たちに対する犯罪と考えるであろう。またポーランド人は、ドイツ人が時として示す狂気と残酷さは東独も西独も関係なく同じである、と見ているに違いないと思われる。

 クラコフからワルシャワに向かう。車中、シレジア旅行中に感じたことをあれこれと思い出す。まず、ポーランドのどの町においてもソ連兵の姿を見かけなかった。これは、どこに行ってもソ連の軍用車と兵隊を見かける東独とは全く逆である。東独の場合は、狭い国土に39万人のソ連軍がいるのに対し、ポーランドの場合はわずか2~3万人しかいないのだから当然と言えば当然だが。
 次に、列車の座席指定制がほとんどないので、1時間前からホームにいても、5分前に来ても条件は全く同じで、列車が着くと人々は争うようにして乗車口に突進する。これによってどれだけの労力と神経が消耗され、目的地に着いた時のやる気を無くさせていることだろうか。

 車窓からの景色は丘や林の続く長閑なものだが、ここでまた気付くのは、線路の補修が悪いために列車のスピードが十分に出せないことと、畑の排水が悪いことである。今ポーランドでは肉がない、食料が十分でないと言われるが、どうやら彼らはこの数年にわたって経済基盤の整備を怠ってきたようで、この悪影響は今後長期間に及ぶのではなかろうか。

(了)

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