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弁護士 堤 淳一

2021年04月12日

太平洋の派遣(33)-----第二次長州戦争(1)、兵庫開港

(丸の内中央法律事務所報No.38, 2021.1.1)

 幕府の過信

 □ 幕府の強硬派からしてみると総勢15万に及ぶ大軍を動員しながら一戦もせず撤兵したのは何事か、という不満を残したが、ともかく第一次長州戦争は幕府の勝利に終わった。幕府は長州藩が藩内急進派を処刑し、「純一恭順」の態度を表したことにより幕府の権威がいまなお盛んであると錯覚して、かさにかかったように旧来の方針に従って長州を圧迫した。
 即ち広島の本営を撤収し、凱旋の途上にあった征長総督に宛てて、元治2年1月5日、五家老の連名で①長州藩主父子及び五卿を江戸へ連行すること、②毛利藩家臣は謹慎させること、③征長軍は別命あるまで撤兵すべからざる旨を通知し、続いて15日、幕府は将軍上洛の中止を発表した。即ち、
 毛利大膳父子始め追討、総督として尾張前大納言殿芸州表へ出張致され候ところ、彼に於いて只(ひた)管(すら)悔悟服罪致し候段、前大納言殿より仰せ上げられ候については、長防共鎮静に及び候につき、この上御処置の儀は当地に於いて遊ばされ候。依って御進発は遊ばされず候。
とするものである。
 □ 既述の通り前年8月2日、幕府は、将軍が朝敵追討のため自ら進発すると布達していたのであるが、和議の成立により長州藩は屈服したものと解し、恭順した長州藩への処罰は藩主父子を江戸へ召喚して行う旨を宣言したのである。
 しかし結果としてこの長州厳罰論が第二次長州戦争を招き、幕府の命脈を危殆に導いてゆくことになる。
 □ 加えて元治2年1月25日には諸大名に命を発し、前年9月に復活を命じていた参勤交代の実行を厳命し、2月1日には姫路藩主酒井雅楽頭忠績(うたのかみただしげ)を大老に格上げする。あたかも幕閣の盛時を思わせる勢いであった。
 2月5日と同7日、老中本荘宗秀・同阿部正外(まさと)が二波に分かれ、幕府歩兵4箇大隊3000名を率いて上洛した。 この狙いは朝廷を示威することだけでなく、一橋慶喜を将軍名代から下ろし、松平容保を京都守護職から、同定敬を京都所司代から罷免して江戸に連れ戻し、幕府からみれば朝廷と気脈を通じている一会桑を朝廷から切り離そうとするところにあった。朝廷周辺には30万両の賄賂がばらまかれ、これを以って朝廷諸役を買収しようとした。
 □ 朝廷としては率兵上京により京に生じさせた混乱の責を黙しがたく、2月22日、本荘・阿部両名に参内を仰せ付け、二条関白斉敬(なりゆき)、尹宮(いんのみや)、山(やま)階(しな)宮(のみや)晃親王はじめ国事掛の公卿が列席する席で、関白は大声で両老中を叱責した。老中らは恐懼して弁明につとめたものの、関白の聞き容れるところとはならず、ただちに東帰して将軍上洛を急がせよとする勅諚を受けた。本荘老中は2月24日、兵をまとめて大坂に向かい、同日、阿部老中も帰府の途に就いた。両名の率兵上京は逆効果に終わったのである。
 2月27日、征長総督徳川慶勝・副総督松平茂昭(もちあき)は揃って参内し、小御所で孝明天皇から天盃を賜り、長州藩を鎮定した旨の上申書を奉呈した。
 □ 3月8日に帰府した阿部正外は、京都の政情を詳しく幕閣に報告し、将軍上洛は不可避の形勢であること、また一会桑も幕府の敵でなく、むしろ朝幕間を調停して苦労している等と縷々説明した。これにより、漸く江戸幕閣も長州藩の巻き返し、薩摩藩の長州への接近等、京都における容易ならざる状況を把握するに至った。
 □ ところで幕府はさきに越前に残っていた水戸天狗党を徳川慶喜(禁裏守衛総督)をして征圧せしめ、武田耕雲斎ら筑波西上勢は越前において加賀藩に降伏したが、幕府は2月、351名にも上る叛徒を斬首した。このことは威嚇的効果を狙ったものであろうが、示威に過ぎたきらいがあり、長州藩に対しては逆効果をもたらした。幕府が天狗党の降伏者の全員をむごたらしく斬首したという話は、長州藩が和戦両様の構えを捨て、徹底抗戦に踏み切るについて大きく影響したのである。ペリー来航以来尊皇攘夷の魁けとなった水戸藩はかくして勢力を蕩尽して以後、政治の表舞台から姿を消す。
 □ 3月2日、朝廷は京都所司代松平定敬を召し出し、武家伝奏から以下のような朝旨を伝えた。
一、長州父子、江戸表へ召し呼ばれ候趣なれども、この頃国内も不穏の由候へば、しばらくその儘に差し置き申すべく候。
一、実美らも同断なれども、また同様その儘差し置き申すべく候。
一、諸大名参勤、古格に引き戻し候様、去秋達しこれにあり候由に候へども、諸般ともこの時勢につき内輪迷惑の様子も相聞え候。よりて、やはり文久二年改革の通りに致すべき旨に候事。
 幕府は朝廷が長州処分問題ばかりでなく、参勤交代にまで容喙するのは幕権の侵害だと憤激した。
 因みに文久2年に行われた「文久の改革」の一環として参勤交代を緩和縮小するための制度改革が行われていた。朝廷はこの時の制度に復すべしと伝えてきたのである。
 この裏には薩摩藩の暗躍があった。薩藩の大久保一蔵は、2月9日と11日、尹宮・近衛前関白忠煕・近衛内大臣忠房を歴訪して長州寛典論を入説していた。長州と気脈を通じていたことはいうまでもない。
 このような事態の急展開は在京の一会桑に打撃を与えた。将軍の出馬がこれ以上遅れれば遅れるほど、公卿を巻き込んだ親長州勢力に京都政界を侵蝕される。1日も早い将軍の上洛が待たれる状況が幕府に理解されるようになり、東照宮(徳川家康)250回忌の終了するのを待って将軍進発もやむなしとする意見に収斂していった。

 将軍家茂出陣

 □ 元治2年(1885)4月7日、改元あって年号は「慶応」と変わった。この年号の終わりを以って徳川幕府は終焉を迎える。
 慶応元年4月11日、稲葉美濃守正邦、19日には牧野備前守忠恭、諏訪因幡守忠誠が相次いで老中を罷免された。いずれの老中も守旧派の代表で、将軍進発に不賛成であった。
 4月18日、いよいよ進発の日取りが、来る5月16日と布告された。幕府が掲げる将軍進発の目的は、江戸下向の幕命に従わず、改悛の情を示さない長州藩の「征伐」にあり、あくまでも幕府の権威を誇示するのが目的であった。しかし幕府世論は決して進発に乗り気ではなく、旗本たちの士気はさほど高くなかった。内心では「将軍はまさか本当に長州までは行くまい、大坂を経て姫路ぐらいまで進めば済むだろう」と甘く考えていた節があるという。
 □ しかし、慶応元年5月16日、将軍家茂は江戸城を発し、再び帰ることのない征旅の途に就く。
このときの様子を野口武彦「長州戦争」112ページは次のように活写している。
神祖家康公が関ヶ原に進発した吉例にならって、金扇と銀の三日月の馬(うま)標(じるし)が輝かしく押し立てられた。古例にしたがって、酒井家(大老)から葵の葉を敷いた勝栗を献上する。馬上の将軍は、葵紋の陣笠、錦の陣羽織と小袴が凜々しい。前後左右を騎馬の護衛が固める。馬に牽かれた大砲を先頭に、新式の歩兵隊がゲベール銃を肩にして、一斉に打ち鳴らす太鼓に合わせ、足並みを揃えて行進する。その後から旗本たちが一世一代の晴れ姿で付き従う。国持大名は玄関まで、外様大名・譜代大名は二重橋の外まで出て進発を見送る・江戸の群衆が大勢で見物する中の壮麗な軍事パレードであった。
 この日、誰一人として幕府軍の大勝利を疑う者はなかった。

   第2次長州戦争の総督を命ぜられたのは紀州藩の徳川茂承(もちつぐ)(中納言)であった。茂承は第1次長州戦争の総督を一旦命ぜられながらわずか2日後に更迭された人物であり、今回は2度の勤めである。

ゲベール銃.png

ゲベール銃
 前装式、滑腔銃身(ライフリングがない)、フリントロック式((燧石式)、またはパーカッションロック式(雷管式)の洋式小銃である。
・全長:約1.5メートル
・重量:約4キログラム
・口径:約18ミリメートル
・射程距離:100メートルから300メートル
 1670年代にフランスで開発され、1777年にオランダ軍が制式採用した。西洋式の部隊行動は密集隊形を伴うから、裸火を扱う火縄銃は暴発を招く危険があるところ雷管式ゲベールはその危険を回避できた。我国では、幕末期に江戸幕府や諸藩が相次いでゲベールを購入したが、すでに西欧では施条銃(ライフル)の時代となっていたから日本に輸入されたゲベールは旧式化していた。 出典:ウィキペディア

 


征長軍の部署
□ 今次の征長軍の部署は第1次征長軍の編成とほぼ同じであり、慶応元年11月17日の達書によると、以下の通りである。(野口「長州戦争」「幕府歩兵隊」末尾参考文献)

1 (芸州口)
 陸路広島から岩国を経て山口に向かうルート
  [一番手]広島藩
  [中軍先手一番手]彦根藩、与板藩、高田藩
  [二番手]津山藩、明石藩  
  

 *広島藩(松平安芸守)は、戦いの正当性に問題があること、長州藩とのつながりが深いことを理由に令達後中立の姿勢を取り、先鋒を辞退したため、彦根藩(井伊掃部頭)と高田藩(榊原式部大輔)が第一線へと押し出された。


2 (石州口)
  陸路石見国から萩を経て山口に至るルート
 [一番手]福山藩
  [二番手]浜田藩、津和野藩
  [応援]鳥取藩、松江藩
  *浜田藩と津和野藩は二番手の筈が、長州勢に攻めかかられ一番手となることを余儀なくされた。
3 (周防大島口)
  海路四国から徳山を経て山口に進むルート
 [一番手]松山藩、宇和島藩
  [二番手]徳島藩
  [応援]中津藩、今治藩
  *宇和島藩(伊達遠江守)は口実をもうけて出兵しなかった。
4 (小倉口)
 海路下関から山口に達するルート
[一番手]肥後藩、柳川藩、小倉藩、播州安志藩
  [二番手]黒田藩、佐賀藩
  [応援]岡藩、島原藩
  *佐賀藩は口実をもうけて出兵しなかった。
5 (萩口)
 海路萩から山口をめざすルート
 [一番手]薩摩藩
  [二番手]久留米藩
  

 *幕府は薩摩藩の海軍力を頼りにして、海路山口へ攻め入るルートを構想していたが、裏で「薩長同盟」(密約)が成立したため攻略拠点自体が消滅した。

 将軍直率の部隊(幕府歩兵)

 □ 上記の諸藩連合部隊とは別に、将軍は直率の部隊を保有していた。在来型の親衛部隊である大御番、御先手組、小姓組、書院番、御持小筒組、講武所等々のほか、先に述べた幕府歩兵部隊が将軍の指揮下にあった。幕府歩兵隊は全部で8箇大隊あり、およその人数は下記の如くであったとされる(野口前掲書)

将軍直率の部隊(編成).png

日本の陸軍歩兵tu.jpg

幕府の歩兵

 韮山笠に黒の筒袖の胴服、同色のダンブクロを穿き、着剣した小銃(多分ゲベール銃)を立てて、大刀を差し(それにしても長過ぎ)、黒足袋に太い白鼻緒の草履を履いている(靴は未だ普及していない)。笠をとれば頭はもちろんチョンマゲである。韮山笠をかぶっているところをみると兵士であろう(士官は陣笠をかぶった)。徐々に軍帽が整備されてゆく。フランスの砲兵中尉ブリユネ(慶応2年軍事顧問団の一員として来日。後に戊辰戦争にも参加)が滞日中に描いたもの。出典:細淵謙錠「乱」(中央公論社、1997)197頁

 長州の「朝命」拒絶

 □ 既述したとおり、長州藩は元治元年11月に三家老を自裁させ、その首級を征長軍に差し出したが、これは伏罪の証として行われたものであり、その後藩主父子の処分、藩の削封、これを前提とした毛利家の相続等が幕府から申し渡される段取りであった。 このような処分は幕府の威勢が上がっている時代であれば幕命を以って行い得たのであるが、今次幕府は長州処分を朝命を奉じて遂行する方針をとった。そうである以上、戦後の処分も朝命に従おうとしたのも当然と言えば当然であるが、外様藩の処分を自力で行うことができなかったという点からみれば幕府権力の衰退をみることができる。
 □ そこで、6月17日、幕府は不審の筋があるので長州支藩を大坂に召致し、糺問するとの方針を上奏し、許可された。しかし長州側は7月27日、幕命を拒絶する旨を決定、遷延策をとる。これに対し、幕府としては威圧をかける以外にはなく、「9月27日までに上坂すべし、さもなくば追討する」と伝達したが、これにも服する見込みはないとみて、将軍は9月16日入京、長州追討の勅許を奏請した。
 長州再征の勅許
 □ 他方、長州藩側は藩内革命後、三家老を処罰したことで禁門の変に関する謝罪はすべて済ませた。これ以後糾問には応ずる必要はないとして拒絶し、朝敵となっても何らやましいところなしとする確乎とした立場に立つまでになっていた。朝廷も幕府もその権威は怖ろしい程低下しつつあった。この頃長州藩や薩摩藩は朝命というものを生身の「天皇」の意思ではなく、「制度としての天皇」によって作成される抽象的な意見表明(公共にとって肯うことができるか、もしくは受ける側にとって好都合な意見)と解するようになっていた。
 □ すでに長州寛典論に傾斜している薩摩藩(大久保一蔵)は、長州処分と外国交渉に関しては、諸大名を京都に召致し、天皇臨席のもとに衆議によって決定すべきだとして朝議参加者達に入説する。公論結集を眼目とした新たな機関の創設を求めるものであった。
 しかしかような衆議による決定こそ一会桑の立場からみれば嫌忌するべきものであり、到底容れらるべきものではなかった。
 9月20日宮中で長州再征をめぐる朝議が開かれ、一会桑の三名は参内し、慶喜は朝議に参加した。
朝議は夜を徹しての大論戦となった。尹宮・山階宮・二条斉敬(関白)、近衛忠房(内大臣)・慶喜が列座した席で、大勢は再征勅許に傾いたが、近衛忠房だけが諸藩の意見を問うべきだする意見であった。又二条関白は、既に長州が朝敵であるのになお諸藩に意見を問うのは筋が通らないと主張した。
 □ 21日払暁、忠房から様子を聞いた大久保は直ちに二条関白の邸に乗り込んで談判に及び、定刻に至るもやめず、身体を張って関白の参内を阻止した。大久保の行動に激怒した慶喜は、一座の面々に、「一匹(ひつ)夫(ぷ)の策謀で朝旨が左右されるようなら、将軍以下は辞職する他なし」と恫喝を加えて、衆議を長州再征の勅許を取り付け方向で一決させた。
 他方同日大久保一蔵は朝議に関わった朝彦親王のもとに入説し、「勅命と可申候え共(もうすべくろうらえども)、非義の勅命は勅命に非ず」という後に有名になる一句を親王に吐き、朝議の再審議を求めたが、不発に終わった。翌22日にも大久保は朝彦親王邸に参上し、「朝廷是かぎりと、何共(なんとも)恐入次第(おそれいるしだい)」との捨てゼリフを残して、そのまま退出した。
 □ こうして朝幕協調体制が確立し、それを一会桑グループが仲介するという構図が出来上がった。 9月22日、将軍は参内して征長の勅許を得、翌23日出京、下坂する。
 防長所置の儀については、---略---

 毛利淡路(元蕃)・吉川監物(経幹)大坂表へ早々罷り登り候様申し達し候ところ、(略)---当月27日迄に相違なく出坂候様重ねて申し達し候へども、今以て登坂の模様これなく、この上いよいよ違背に及び候はば、もはや寛宥の取り計らひも仕りがたく候につき、余儀なく旌(せい)旗(き)を進め、罪状相糺(あいただ)し申すべく存じ奉り候。尤も臨機緩急その他とくと熟考の上違算これなき様処置仕るべく存じ奉り候。この段 奏聞仕り候。
   九月              家茂(署名)
   言上の趣聞こしめされ、乃(すなわち)ち御(お)暇(いとま)を賜い候。猶長州一挙相済み候はば、御用の儀これあり候間、早速上京のことかねて仰せ出され候。

 四国連合艦隊と兵庫開港要求

 □ それで愈々長州へ向け進発、とみえたがここに長州再征のスケジュールどころか外交の根本に触れる大問題が生じた。慶応元年(1885年)9月16日、英・仏・蘭の軍が艦隊を組んで兵庫沖に来航し、兵庫の開港を迫るという難問をつきつけたのである。
 そのような背景には次のような事情があった。
さきに嘉永7(1854)年3月に締結された日米和親条約並に、安政5(1858)年6月に締結された日米修好通商条約、その後安政5(1858)年に相次いで締結された日蘭、日英、日仏各条約が孝明天皇の勅許を得ずしてなされたことを巡って日本中が大騒ぎとなっていたことは何度も触れてきた。
 折しも「無勅」に藉口して、攘夷運動の先鋒をなしていた長州藩は禁門の変以降朝敵となり、朝命を帯びてこれを征討すべく将軍が下坂している。この際四箇国代表団が、条約締結に対する最後の、そして最大の反対派である朝廷から「条約不許」の発言を取消させ、安政条約を承認させたいものと考えたのは政治判断としてタイムリーであった。
 国内の政情が大混乱にあるなか、「いまこそ絶好のチャンス」とばかり、慶応元年9月11日四箇国代表は横浜に会合して、以下の要求を幕府に突きつける決議をすることを合意したのである。弱みにつけ込んで交渉を挑むのは列強の昔からの常套手段であり、ここでもそれを用いたのである。
 しかしアメリカは、この行動は自分たちのためだけではなく、幕府が予て希望している「条約勅許の獲得」を支援する行動であると意味づけていたという(米議会レポート)。おためごかしと言えようか。
 □ 四箇国の要求は下記の通りであった。
<四箇国の要求>
(1) 従来不許可とされていた安政条約の勅許を朝廷から得ること。
(2) 慶応3(1868)12月7日に予定されている兵庫開港、大坂開市を慶応元(1866)年11月15日に繰り上げること。
(3) 関税率を一律5%に引き下げ、また税則を全面的に改正すること。 
ただし以上の3条件を認めれば下関戦争の賠償金の2/3は放棄してもよいこと。
 □ そして合意が成立した2日後の9月19日、四箇国は下記の通り連合艦隊を編成し、四国在日公使を搭乗させ、横浜から摂海(大阪湾)にむけ出向した(米国は、この時は軍艦を提供せず、公使を他国艦に乗船させて派遣するだけにとどめた)。連合艦隊は9月16日兵庫沖に到着、同港に碇泊し、2名の通訳が大坂に赴き幕吏と会見し、交渉の場所と期日について交渉した。
<四箇国連合艦隊>
英国艦隊 プリンセス・ロイヤル(東インド・シ ナ艦隊旗艦3,114トン)、
レオパード(1,406トン)、
ベロラス(1,462トン)、
バウンサー(233トン)
フランス艦隊 グリエール(東洋艦隊旗艦3,935 トン)、
デュプレ(1,795トン)、
キャンシャン(トン数不明)、
オランダ艦隊 ズートマン(約2,100トン)

注)上記の( )内の数値は英国艦隊がbmトン、その他は排水量である。

出典:元綱数道「幕末の蒸気船物語」

 □ 9月19日、老中格小笠原長行(文久3年6月に率兵下坂の責を問われて罷免されたが、慶応元年9月4日に再任。さらにこの年10月9日には老中へ昇進)が外国代表と外国艦上で交渉した。
四箇国側は上記3項を突きつけて回答を迫り、回答なくば京都と直接交渉を行う、と主張した。その後家茂将軍の下坂に先立つ9月23日、老中阿部正外が兵庫に入港している英国艦上においてパークス公使と会談した。パークス公使は最初から強硬であった。
 □ 元治元年9月22日横浜において、長州藩による下関砲撃事件の賠償問題が解決したことは既述した。賠償金は300万ドルとし、3箇年毎に50万ドルずつの割賦払いとされ、慶応元年幕府は第1回の支払を7月に済ませていたが、約定には、
「右償金の代わりに、もし下関港あるいは(瀬戸)内海にある貿易に適宜な港(兵庫を視野に入れていた)を開くことを幕府が申し出るときは四箇国はそれを承諾するか、金員で受け取るかを取り決めることとする。」
とする趣旨の付款がついていた。
 しかし幕府はこの約定を拒否し、全額金銭賠償の途を選んだ。あくまで瀬戸内海に開かれた港を得たいと考え、賠償金の大幅な免除をちらつかせれば開港が得られるだろうとする四箇国側は、アテが外れたが、今回の交渉にあたっては「兵庫開港必達」とばかり、パークスは最初から強硬な態度で臨んだという。もしそれが本当であれば、今に始まったことではないとは言え、このような態度は鼻持ちならない。
 阿部老中はその剣幕に押され放しで、9月26日に回答すると述べて下船した。
 □ 阿部の復命を得た家茂(24日大坂入り)は、9月25日、在坂の老中らと協議する。阿部・松前は兵庫の即時開港を主張し、老中一同、開港受諾の旨を四箇国代表に回答するすることを決定し、家茂将軍はこれを決裁した。パークスらが京都へ押しかけて朝廷と直接交渉されては一大事。ここは幕府の権威を示すためにも勅許なしに兵庫を開港すべきであると考えたのである。
 □ これに慶喜が横槍を入れた。慶喜はいったん確定した幕閣の決定を覆し、阿部の報告する回答期限(9月26日)はブラフ(虚喝)の類いでさほど切迫性がないと見て10日間の回答猶予を四箇国側に認めさせたうえ、幕議の再審議を図った。将軍はこの横槍に抗すすべなく「何れとも御決着なされがたく、深く御苦労遊ばされ、しきりに御落涙、何とも致しくれ候様仰せ出され」る有様。朝廷においては阿部・松前の両老中に非難が集中し、挙げ句の果て、朝廷からは9月29日、「阿部豊後守・松前伊豆守・・・・在所に於いて謹慎、御沙汰相待ち候様関白殿命ぜられ候」とする朝命が下された。朝廷は独断で兵庫開港を承認したとしたとして、両老中に責任を取らせたのである。人事に対する露骨な介入であり、幕閣一同は歯がみをして悔しがった。
 慶喜らは、両老中が幕権主義者に持ち上げられて幕府を切り回すのを好まず、参内して二条関白となれ合いで両老中排斥の裏工作をしたという風聞が立った。万更、噂話にはとどまらない信憑性がある。
 こうして立場がなくなった将軍は、10月1日突然在坂の幕臣に総登城を命じ辞表を提出し、辞職して江戸に帰ると言って10月3日現実に出発したのである。朝幕関係は分裂の危機に瀕した。自分は無能だから辞職する、後継ぎは慶喜に相続させてやってほしい、などと皮肉まじりに慶喜の野心をアテツけたという。
 □ しかしこの騒動は、東帰する将軍の行列を慶喜が騎馬で追いかけて伏見で引き留め、膝詰めで説得して翻意させるという結果となった。分裂した幕閣の醜態が幕府最大の危機のさなかに衆目に晒された。
 慶喜は家茂を連れ戻し、次いで参内し朝議の開催を要求した。
 □ ここに至って、朝廷は10月4日、在京16藩の代表を招集、条約勅許につき意見を開陳させた。孝明天皇は「御簾聞(おみすぎ)き」、朝廷側は議奏と武家伝奏ほか国事掛総員が、幕府側は老中格小笠原長行と一会桑が居並び、進行は慶喜が務めた。条約勅許やむなし、ただし兵庫繰上開港反対とする意見と条約勅許に反対し連合艦隊を退去せしむべしとの間に意見が分かれた。
 朝議は4日から5日深更に及び慶喜は「かくまで申し上げるもご許容なきにおいては、それがしは責めを引いて屠腹すべし、」そうなれば家臣たちは「各々方にいかなることを仕出かさんも知るべからず」と慶喜は公卿たちを恫喝し、佐幕派の賀陽宮朝彦親王を通じて「条約勅許がなく開戦となれば、京摂はたちまち火の海と化し、皇位の安泰もおぼつかなく、伊勢神宮も灰となりましょう。すみやかに勅許のほどを」と孝明天皇に迫った。10月5日、諸藩の代表が招かれ諮問に与り、遂に条約を勅許するとの結論が出た。
 条約の儀、御許容あらせられ候間、至当の処置致すべき事。別紙の通り仰せ出でられ候につきては、これまで条約品々の不都合の廉これあり、叡慮に応ぜず候につき、新たに取調替え申すべく諸藩衆評の上お取極め相成るべき事。但し、兵庫の儀は止められ候事。
 □ 10月7日午後幕府は老中本荘宗秀と外国奉行山口駿河守を兵庫に遣わし、イギリス・アメリカ・オランダ公使に条約勅許の旨を回答させたが、パークスは兵庫開港が拒否されたことに憤慨して容易に承服しなかった。
 結局フランス公使ロッシュの斡旋で、兵庫は条約で決められた期日には必ず開港し、事情が許せば繰上開港もすること、下関償金は第2回分を12月に支払い、残余金額も約定通り支払うこと、減税交渉は江戸で改めて開くことを約束し、パークスの怒りを和らげ、この場はおさまった。その後税率改訂は慶応2年5月13日に四箇国の要求の通り5%に解決をみた。
 □ このように四箇国の要求はすべて容れられたが、安政5年の日米修好条約によれば兵庫開港は、もともとは、文久2年に、またその後5年間延期され、慶応3年12月7日には開港されるべきものであった。四箇国はそれを前倒しするよう要求し、幕府はこれを拒否し、従前の条約通りに落着した、という何ということのない結果に終わったのである(但し、条約が正式に勅許された効果が大きいことは言うまでもない)。
大坂に滞留する征長軍
 □ 慶応元年5月16日に江戸を出立した軍勢の行軍速度は著しく緩慢であり、将軍が入京したのは6月に入ってからのことである。35日もかかっている。
 幕府の召集に応じて下坂してきた諸藩兵の正確な数は手許にないが、第一次征長軍が15万というから、おそらく幕府歩兵を含めると10万ともいわれる軍勢が応召して続々と大坂に入ってくる。
 しかし大坂まで出兵したものの、いざ来てみれば京都朝廷からは征長の詔勅がなかなか出ない。慶応元年6月に将軍が入坂してから、翌2年6月に長州藩に宣戦を布告するまで1年以上も大坂に駐屯して、澱んだ水のように動かず、結果として長州側に時間稼ぎを許すことになった。
□ 大坂市中一帯に軍服姿の将兵が溢れかえって活況を呈していたとはいえ、やがて長期滞留にすっかり倦んできた。将と兵とを問わず、運よく戦争が起きずに国許へ帰れるのではないかと考えはじめるようになったのは、人心のゆきつくところやむをえなかった。調練は行われたにしても、1年以上も大軍が消費一方の生活をするのだから諸経費はかさむ一方で、将軍の大坂滞在中の支出は、戦費を除いても、慶応元年5月から翌2年5月までの1年で、すでに315万7446両に達していたという(野口参考文献)
 戦時インフレーションが進亢し、炭・薪・油など生活物資の価格は高騰し、5月には米騒動が発生し、ほどなく騒動は江戸にも波及した。幕府勘定方は財源を求めるのに必死で、慶応2年4月中には大坂の富商に252万5千両の献納を命じている。                   

       <未完>

<参考文献>
・野口武彦「幕府歩兵隊―幕府を駆けぬけた兵士集団」(中公新書、2002)
・野口武彦「長州戦争―幕府瓦解への岐路」(中公新書、2006)
・元綱数道「幕末の蒸気船物語」(成山堂書店、2004)
・保谷徹「幕末日本と対外戦争の危機-下関戦争の舞台裏(吉川弘文館歴史文化ライブラリー289、2010)
・家近良樹「江戸幕府崩壊 孝明天皇と『一会桑』」(講談社学術文庫、2014)
・宮地正人「幕末維新変革史(上)」(岩波書店、2018)
・綱淵謙錠「乱」(中央公論社、1996)
・綱淵謙錠「幕臣列伝」(中央公論社、1981)
・石井寬治「明治維新史―自力工業化の奇跡」(講談社学術文庫、2018)
・松原隆文「最後の将軍徳川慶喜の苦悩」(湘南社、2019)

〈訳者のことば〉

明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、 西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社 会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
 昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
 しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
 かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。

(平成19(2007)年4月20日)



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