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弁護士コラム・論文・エッセイ

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弁護士 堤 淳一

2004年08月01日

日露戦争のパワーゲーム

はじめに

 今年(2004年)は日露戦争(1904年~1905年)の開戦から100年を経た。われわれは、ともすれば日露戦争を、日本とロシアの2国の戦いであったように認識しがちであるが、この戦争には、終始欧米列強が介在していた。それゆえ「日露戦争は単なる日本とロシア両国だけの戦争などではなく、それは韓国・満州をつつみこんだアジアの戦争であり、欧米列強が介在し、帝国主義国間の利害が、直接、かつ複雑に絡みあった一つの世界大戦であったと見なされる」との指摘がなされている(崔文衛「日露戦争の世界史」朴菖煕訳、藤原書店、2004)。
 この戦争は日本の大陸進出を決定づけ、歴史の大きな流れの中にみると、日米戦争の遠因ともなるべき重要なターニングポイントともみなされるべきものである。日露戦争100年を機にこの問題を瞥見してみようと思う。

朝鮮半島と満州をめぐる状況

 19世紀末おける中国(清帝国)はグローバルな視点からみると西欧の帝国主義列強にとって最後の獲物であった。それまでの間に、列強はアフリカ、インド、オーストラリア、カナダ、中南米、大西洋、太平洋、インド洋上の島嶼を植民地化もしくは領有し、植民化を免れていたのは東アジアにある日本、中国(清帝国)、朝鮮半島、それにシャム(タイ)が加わる程度で、地球上のあらかたは西欧列強に食い盡くされた。地理的にみれば中国(清帝国)およびそれに連なる朝鮮半島に近接するのはロシアであり、また明治維新を経て、大陸に進出しようとする新興国日本であった。ロシアの南下政策はその民族性ともいうべきもので、もともと清のものであった沿海州を領有し、ウラジオストックに不凍港を獲得し(1860年)、中国北東部(満州)へも入植を始めていた。

  朝鮮半島についてみると鎖国から開国への過程を経て、李王朝の衰退は韓国内に混乱を招き、反乱を機に守旧派は宗主国であった清国に頼り、革命派は新興日本を恃むことによって国内は分裂し、日清両国が両派のパトロンとなって日清戦争(1894~1895)が戦われた。この戦争は敗戦国となった清国を衰弱させ、清国は朝鮮半島に対する支配力を失い、かつ、戦争を終結させた下関条約により課せられた賠償金(2億両)の支払能力もないことが露見した。日本は日清戦争に勝利した後、旅順・大連(遼東半島)の軍港を租借し、清国への進出にはずみをつけたが、この地域を好餌と狙う列強が黙って見ているわけもなかった。ロシア、フランス、ドイツの三国はいわゆる三国干渉を行なって猛烈に日本の動きに待ったをかける一方で、西欧列強は清国の疲弊に目をつけその唯一の財源である海関税を担保として清国借款を与え、金融をもって清国政府を締めつけた。ロシアとフランス、ドイツとイギリスはそれぞれ同盟ないし連携して金融資本を動かし内陸への進入のための要地を清国から租借し、ついで鉄道・鉱山など次々に利権を獲得していった。

 帝国主義後発国ではあったが他の列強に先んじで清国分割に踏み出したドイツは膠州湾(山東半島)を占領して軍港とし(1898年)、ロシアも同年に、三国干渉により日本をして清国に返還せしめた旅順・大連とその周辺を25年間清国から租借して専用軍港とし、ロシアが敷設に着手した東清鉄道の利権を拡大するなど満州に対する権益を拡大した。フランスは同盟国としてロシアに与していたことは上述の通りである。

 イギリスの立場からするとこうした三国の動きは黙視しえず、やがてロシアによる旅順・大連の横奪に激怒していた日本との提携を視野に入れるようになる。日本は日清戦争中から占領を継続していた山東半島の威海衛軍港を下関条約により清国に明渡すことになっていたが、返還後はイギリスがこれを占領することを許す合意をしたことを契機に、日英同盟の基礎を作った。

 ロシアはかねてから清国に併行して韓国に対しても勢力を拡げていたが(清韓同時侵略)、これに対抗するようにイギリスは東洋艦隊を仁川に派遣し、ロシアの南下を牽制した。そしてイギリスは1898年6月、香港に真向かう九龍半島に99年間の租借を、また威海衛については「ロシアが旅順港を占領している間」これを租借する条約を清国との間に締結した。アメリカは清国の分割競争に遅れて参加した。アメリカはスペインとの戦争(1898年)とフィリピン領有に忙殺されており、清国の分割競争に参加するのはロシアの満・韓同時侵略の意図が露見した後のことになる。

義和団事件とロシアの満州支配

 西欧列強の清国侵入は反キリスト教運動を招き、1900年初頭に華北地帯において「義和団事件」が勃発した。日本、イギリス、ロシアをはじめとする帝国主義列強8カ国は外交公館および居留者保護を名分として連合軍を組織して北京へ侵攻した。これに対し清国政府は1900年6月連合軍に宣戦を布告した。ロシアはこの機を利用し、ロシアが敷設中の東清鉄道の保護と反乱鎮圧を理由に同年7月~10月までの間に満州に軍を入れ、要所を占領して満州を支配下においた。

 そしてロシアは他の連合軍と違って義和団事件が終了しても満州国から撤兵しようとせず、列強の強い反発を招いた。ロシアが満州に駐兵しつづけることは、ロシアの次の侵略目標は朝鮮半島にあることは明らかだったからである。このようなロシアの動きはとくに朝鮮半島に強い利害をもつ日本の反撥をかった。ロシアは韓国を列強の共同管理下に置くとする「韓国中立案」を提唱したが、日本は、ロシアの満州支配が列国の非難に包囲されていることに乗じ、ロシアに満州の掌握を認める代わりに韓国の支配を確立したいと企図した。

日英同盟の成立

 ロシアの清国進駐は列強の強い抗議の的となり、またロシアの「韓国中立案」は日本から即座に反対を受け、ロシアは外交上孤立の危機に見舞われたが、それにもかかわらず1901年2月に清国との間に協約(ラムズドルフ=揚儒協約)を結んだ。この協約は清国の満州主権に数多くの制約を加えるものであった(清国は満州・モンゴルに対する鉱山開発に関するロシアの利権をロシアに無断で他国に譲渡しない等の条項を含む)。
しかし、これに対し列強は夫々の理由から、戦争をしかけてまでこれを撤回させるまでの決心はなかったものの-例えばイギリスは日露間に戦争が開かれた場合に、武力援助をするという約束はしなかった、-様々な抗議を続け、ロシアを苦境に立たせた。
イギリスにとってイスタンブールから、満州までの長い距離にわたってロシアと対抗しうることは負担が大きすぎたが、さりとてロシアが東アジアに進出することはイギリスの東洋制覇にとって脅威であったため、日本を利用し、旁々ロシアをして日本の膨張を押さえるという二重外交を狙っていた。しかしイギリスは余り冷淡であっては日本をしてロシアと妥協せしめるかもしれないと危惧してもいた。アメリカの反応もイギリスとさして変わらないもので、武力の示威を通じて清国の領土保全についての単独行動をとる準備はないとする態度を示した。

 このような英米の冷淡さは日本をして単独でロシアに対抗するほかなしと決意させ、ロシアの東清鉄道が竣工する以前に開戦すべきであるという世論を受けて1901年3月~4月には単独開戦の危機に見舞われた。
しかしそうはいっても日本政府としては日本の軍備の状況から、ロシアに対抗するためにはイギリスとの同盟を余儀ないものとして支持することを決め、4月からイギリスとの非公式の協議に入ったが、なお政府部内には親露派(伊藤博文・井上馨)と日英同盟派(桂太郎・小村寿太郎)との論争があった。そして親露派である伊藤とラムズドルフとの会合は、ひょっとして日露協商が成立するかもしれないという疑念をイギリスに生じさせ、イギリスを一挙に日英同盟の方向に引き寄せた。かくして1902年1月、日英同盟(期間は5年間)が成立をみることになった。

日英同盟の影響

 日英同盟が成立したことはロシアを萎縮させるに十分であった。そこでロシアは日英同盟に対抗するために、露仏同盟をアジアまでに拡張しようとはかったが(露仏同盟の範囲はもともとヨーロッパに限られていた)、失敗に終わり、ロシアは対清外交が失敗に終わったことを認め、アメリカによって突きつけられた門戸開放通牒を受けて、1902年4月には「露清満州撤兵協定」(夫々6ヶ月の期間内に3回にわたって段階的に撤兵することを骨子とする)を締結することを余儀なくされた。しかし、この協定はロシア内部に混乱と、外相の更迭を招き、ロシアは満州の分割と列強に対する門戸閉鎖を骨子とする政策に針路を転換し、撤兵の約束を反故にした。日本はこの事実をイギリスとアメリカに伝え、協同してロシアと交渉するよう提議し、3カ国は協同歩調をとるよう申し合わせがなされた。しかしアメリカは門戸開放が尊重され自国の権益が保障される限りロシアの満州併合に反対しないとの態度をとり、イギリスも東アジアにおける海軍力の均衡維持の必要以外にロシアに強く抗議するつもりはなかった。日英同盟には満州におけるイギリスの義務は規定されていなかったのである。
 

日露開戦直前における列強間の牽制関係

 1902年9月にルーズベルトが大統領に当選する。ルーズベルトは1903年4月にロシアが「7ヶ条要求」(ロシアが撤兵した地域をどのような形態にしろ他国に割渡してはならない。ロシアの事前の同意なしに開港場を設置せずまた第三国の領事館を設けてはならない等、7ヶ条)を清国に突きつけて以来、ロシアに対する反感を強め、以来アメリカのロシア政策は「反露」に変わってゆく。ルーズベルトは強力な海軍力を誇示することによって世界の状況を支配することを狙っていた。その手はじめとしてルーズベルトは1903年4月~7月にアメリカ艦隊をヨーロッパ巡訪に派遣し、これを通じて英仏協約を支援してドイツの動きを封じ、兼ねて、ドイツ、フランスの戦争介入を封じた。
こうして、ロシアを孤立させたうえ、然る後に自分自身の対ロシア強硬策を具体化しようというのがルーズベルトの戦略であった。こうしてアメリカの対ロシア宥和政策は1903年6月末を以て終わりを告げていた。こうしたアメリカの動きは日英同盟とあいまって日本が英米を背後勢力とみなす根拠となった。

 フランスは敢えていえばロシアの背後勢力に区分されたが、日英同盟の影響を考えると戦争に巻き込まれるおそれがあるため、対ロシア支援について腰が引けていた。即ち日英同盟は「もし、一国あるいは数箇国が同盟国に交戦を加えるときは、他の締結国はこれに参戦し同盟国を支援する」旨規定していたため、万一フランスがロシアを支援して日本と交戦する場合にはイギリスは日本を援けてフランスに参戦することになるがゆえであり、このことを危惧してフランスは中立の立場をとったのである。

 ドイツはロシアを満州という泥沼に追い込み、ヨーロッパにおいてロシアがドイツに脅威を与えないようにし、このことを通じて、宿敵フランスとロシアの同盟を無力化しようと狙っていた。同時に満州においてロシアを日英と対立させ互いを弱体化させたうえで然る後にロシアの支持をとりつけ、北中国分割に参加しようとした。いわば諸国間の隙間をぬってその「東方政策」を完遂しようと狙っていたのである。
フランスはドイツに対抗するために開戦前にイギリスに手を差しのべようとした。所謂「英仏協商」であり、アメリカがこれに手を貸す動きを示したことは上に述べた通りである。こうしてドイツはイギリス、フランスの牽制を受けることによってロシアへの支援は不可能となり、フランスもロシアを援けることができなくなり、「露仏同盟」は空洞化してしまった。ロシアは完全に孤立したのである。 

日露開戦

 日本がロシアに開戦の通牒を発したのは1904年1月16日である。これ先だってアメリカは同年1月12日、戦争の際は「友好的中立」を守ると通知しており、これが終戦の際(日本が敗れた場合にも)仲裁の労をとるという意味にもとれたことから、この通告が日本をして開戦に踏み切らせたと言ってもよい。他方イギリスは日本からの「好意的中立」の要請に対し「厳正中立政策」を守るであろうと返答し、開戦後もロシアとの関係悪化をおそれる余りロシアへの接近をはかったとまでいわれており、アメリカの友好的態度との間にはかなりの差があった。確かに戦時においてイギリス海軍はバルチック艦隊の東征について軍事的牽制を行ない日本を支援したが、イギリスの対日支援には限界があった。

 アメリカは日露が開戦するとドイツ、フランスに対し、万一ロシアと共に以前のような形で三国干渉を強行するのであれば、アメリカは日本に対し必要なあらゆる措置をとると警告すると共に、日本軍の満州における衝撃的な勝利に呼応するように、日本が開戦直後(1904年2月23日)に韓国に強要した「日韓議定書」を受けて、韓国は日本の「保護領」であるべき旨のレポートを作成するなどして韓国に冷淡な態度をとった。

 バルチック艦隊が日本海軍によって全滅させられ(1905年5月)、日本の勝利が確実になるや、イギリスは日英同盟の更新に着手し、ルーズベルトは講和の仲介に乗り出した。

ポーツマス講和条約と第二次日英同盟

 日露の講和会議は1905年8月10日に始まり、9月5日に成立した。ロシア側は領土についても賠償金についても一歩も譲歩せず、日本側は賠償金の支払を強く求め、会議は紛糾を極めたが、ロシアは内部に革命という混乱を抱えており、他方日本の財政は底をついていたため、両国ともこれ以上の継戦意思を失っていたことと、何といってもアメリカの圧力が物を言い、ようやく講和が成立した(ポーツマス講和条約)。日本は賠償金を得ることができず、国民の憤懣をかったことは周知の通りであるが、次のような点で日本にとって成果が得られた。
�@日本の韓国保護権の承認、�A長春-旅順間の鉄道(後の満鉄)及びロシアが関東州に得ていた租借地の日本への譲渡、�B樺太の南半分の日本への譲渡、�C沿海州沖合における漁業権の日本への許与。

 これに前後して重要な動きが二つある。その一は「桂-タフト秘密協約」(1905年7月29日)である。アメリカにおいては既に日本人移民の問題がくすぶり始めており、日本側としては韓国問題について今のうちにアメリカの支持を確かめておきたいと希望し、アメリカ側は日本がフィリピンへ進攻する気がないことの確約をとりつけたいと希望していたこと、この双方の意思が確認されたのである。その二は、第二次日英同盟の成立(1905年8月12日)である。イギリスは日本の勝利を目のあたりにし、日本との協調を深めたいと希望したのである。第二次同盟は期間を10年にし、日英の関係を「攻守同盟」にしたうえ(第一次同盟は防禦同盟」ともいうべきもの)、その適用範囲を第一次同盟の「清・韓」両国からインド洋にまで拡大し、韓国に対する日本のフリーハンドを認めたものであった。同盟はロシアを日英共同の敵とし、ロシアの東アジアとインドに対する野望を挫くものであった。

 ポーツマス講和条約の後、日本は満州におけるロシアの利権を譲り受けたが、同条約の効力を確保するため日本は清国との間に「満州における日清条約」を締結し、その過程においていくつもの秘密協定や付属文書をとりかわし新たな利権を獲得した。この動きは国際的にみれば、日本が満州を独占せねばやまぬ意思を露呈したものと受け取られ、満州に進出を企てようとするアメリカとの間に摩擦を生ずる原因となった。アメリカにとってみれば「誰のお蔭で戦争に勝てたのだ」というわけである。

日仏・日露の協商

   日本は果たして日露戦争に最終的に勝利したのであろうか?この問題は日本の軍部にとっても深刻であった。日本はロシアの報復を恐れていたが、ロシアも「血の日曜日事件」以来、東アジアにおいて日本との緊張関係を維持できなくなっていた。ヨーロッパの政治状況は複雑を極めており、これからのロシアが生き残る政策はロシアが英仏連合の中に進入し、終局的には三国協商を果たすべきであるというようにロシアの外交政策が変化した。即ち、ロシアは東アジアへの進出を放棄してドイツ・オーストリアが利害を有するバルカン半島ないし近東に関心を向ける中で、対ドイツ包囲網を形成する仲間入りを果たそうとしたのである。このことはイギリスと同盟している日本への接近をも意味し、韓国併合の問題を早期に処理することと、満州への勢力拡張をはかろうとする日本の利害とも合致し、ロシアの同盟国であるフランスは同時にイギリスと協商関係にあり、またアジアにおける権益の保障を得たいと感じていたがゆえに、日本とロシアの提携を大いに歓迎した。このような諸国の思惑から、まず日仏協約が成立し(1907年6月10日)、次いで同年7月30日には日露協約が成立した。しかしロシアは依然として日本の韓国併合については「何らの代償なくしては承認しない」との態度を崩さなかったが、日本は韓国の高宗を弾圧し、王位を純宗に譲位せしめたうえ、7月24日に所謂「丁未七条約」を強制して韓国の内政全権(官吏の任命・法令の制定を含む)を奪い、その直後に韓国の軍隊を解散させた。

アメリカの対日政策の変化

 このようにして日本の満韓における独走態勢が成ったかというと、ことはそう簡単にゆかなった。満州進出を企てるアメリカにおける排日感情をどのように克服するかという難問が控えていたからである。日本は日露戦争後、満州へ積極的に商業資本を入れ「門戸閉鎖」政策をとっているようにアメリカの目には映った。カリフォルニアにおける日本移民の排斥運動も日本の門戸閉鎖に対する反感とみられなくもない。アジア大陸と欧州を打通する鉄道の建設を夢見ていた「鉄道王」ハリマンの南満州鉄道(日露講和条約を通じて、日本に委譲されることになっていた)の買収計画を日本政府が拒否したこともまた、日本の門戸閉鎖の一環として受け取られた。

 1908年10月、ルーズベルトはアメリカ艦隊の世界周航の途次、艦隊を横浜港に寄港させた。いますぐ日本と戦端を開くつもりはないにしても如何なる場合でもアメリカは日本と対決できるという示威であった。こうして日本に脅威を与えておいて、日本との関係改善を願うルーズベルトの思惑は1908年11月30日に「高平-ルート協定」となって結実し、日米の関係は改善されたかに見えたが1909年3月にタフトが大統領に就任するとアメリカの政策はまた徐々に反日に傾いてゆく。

オレンジプラン

 ところで、アメリカの軍部はこのような状況の中でどのように動いていたか。1906年4月に起きたサンフランシスコ大地震の際、アメリカ市民の一部は、東洋人に対し略奪・暴行を加え、新聞は「ロシア軍を撃破した好戦的な日本の脅威」を書き立て、地元議会は東洋人の財産権を制限する法案を通過させた。事態収拾に乗り出したルーズベルト大統領はこれを廃止させ、他方で日本政府との間に紳士協定を締結し、日本は移民の数を制限した。しかしルーズベルトはこの時期、軍に対し、対日戦争計画について下問していた。1911年陸海軍大学のスタッフは以下のように総括し、日米の戦争論の理論的根拠を確立した。即ち、「日本は満州に対する緩やかな経済進出から、やがて公然たる侵略に移るであろうが、アメリカが門戸開放政策を推進するためには戦争準備が必要となろう。可能性の高いのは、日本がアメリカの封じ込め政策を終わらせ、同時に自国の通商航路を防御しながら、側面海域を守備しようとすることであろう。そうすることは必然的にフィリピン、グアム、そしてハワイまで占領して、アメリカを西太平洋から駆逐することになるであろう。これに対しアメリカは大陸への介入ではなく、海上作戦を戦い制海権を握り、日本の通航路を抑え、息の根をとめることになろう」と。

 こうした戦略のもとにアメリカ海軍の中に「オレンジプラン」と非公式に呼称される対日戦争計画が練り上げられ、密かに一部の海軍将校たちの間に語られ、文書にまとめられ流布されていった。アメリカの太平洋戦略一般の意味でも用いられるオレンジプランは「海軍WPL-13」「艦隊プラン0-1」など20以上の種類があり、中には数百ページにも及ぶものがあるという。こうしてオレンジプランは主として「海軍の共通認識の中に書き留め保存されてきた」歴史上の信条となり、「海軍将校の遺伝子に組み込まれていった」。そして1941年に始まった日米戦争は実際にほぼこのプランに沿う形で戦われたのである。

おわりに

-歴史における予見ということについて

 帝国主義はその鉾先が向けられた国ないし地域の領土とそこに居住する人々、そしてその経済市場をまるごと領有する。帝国主義の行く手にある国や地域は、向かってくる帝国主義国家に支配されるか、これに立ち向かうかの二つに一つの途しかない。日清・日露の戦争は日本が二者択一の後者の途を選び帝国主義列強による侵略に真向から立ち向かった戦争、即ち、日本が西欧列強の脅威と圧力をはねのけて、自らも帝国主義国家への仲間入りを果たした戦争であった。戦争に至る過程は上に見たように百鬼夜行、一つの国家の行動は他の国家の行動に影響し、その影響が当該国家にはね返り、それが次の行動を決定するという風に複雑に絡みあった。条約は国家と国家の「末長い盟約」ではありえず、一つの行動のための単なる合弁に止まり、都合次第ではいつでも廃棄されるか、第三国との間に結ばれる条約によって骨抜きにされた(条約とは多分にそうした面を持っているものだが)。

 日露戦争が終結した後、1910年の韓国併合を経て、日本は満州を独占し、満州問題は次の戦争の火種となった。私は歴史家ではないから言うが、もし日本が満州の市場について閉鎖政策をとらず、イギリスやアメリカと市場を分け合っていたらその後の歴史はどうであったろうか。ことある毎に黄禍論を唱える英米との間の紛争は避けられなかったであろうが、日清・日露戦役における外交努力の真剣さに比べ、戦勝のおごりと国力への過信から、日露戦争の後、日本は満州の経営について独善に走り過ぎたのではなかろうか。

 日本の帝国主義国家群への参加を当時の日本国家の誤りのように言う言説を耳にする。しかし歴史の正しい評価は今日のわれわれが100年の間に経験してきた、その後の事実の上にたってではなく、1900年代初頭における当時感覚-明日にもロシアに併合されるかもしれないという認識-の上にたってなされなければならないものであることを銘記する必要がある。今日でも帝国主義はアメリカという一極集中の形でその形を変えながら世界を覆っている。いまわれわれが時代の流れの中にありながら味わっている将来への予見の難しさと同様の困難を背負って難局処理にあたっていた明治の政治家の姿に率直な想いを馳せるべきであろうと思う。

(2004年8月1日)

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