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弁護士 堤 淳一

2014年01月01日

太平洋の覇権(20) -----「鎖国」への道程と対外通商

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

島原の乱の衝撃

 島原の乱は幕府を震撼させた。
 原城は一方は海、三方は塩浜や沼田で囲まれた断崖の上にあり、たしかに攻めるに難しい要害であった。しかし、一方で全国のキリシタンの蜂起や、況んや外国からの救援など望みうべくもなかった情勢下において、3ヶ月にわたって125,000名を上廻る幕府鎮圧軍の攻撃に堪えた。幕府は一揆の勃発当初はともかく苦戦に陥ってからはそして戦後においても一揆の性格を、幕府権力そのものとの対決、いわゆる宗門一揆として認識せざるをえなかったであろう。
 このようなキリシタンの反抗は、幕府が従来から行ってきたキリシタン禁教政策を一歩進め、いわゆる「鎖国」政策へと踏み切らせる大転機を形作った。

 以下において徳川政権初期(1600年頃から1650年頃)における外交/キリシタン政策を瞥見する。

善隣外交

 豊臣秀吉が1598年に歿すると、徳川家康はただちに善隣外交ないしは積極的な平和貿易策を打出した。
 朱印船制度を定着化し、フィリピンから交易を求めてやってきたスペイン人と友好的に接触し、メキシコ(ノヴェスパニア)、オランダ、イギリスとも交易を開くなどしたことについては本誌20、21号に触れた。また朝鮮に対しても対馬の宗氏を通じて、前政権によって断絶した国交を修復させようと図った。
 幕府はこのような姿勢をとりつつキリスト教に対しては前政権が発布したバテレン追放令(1587年)を破棄しようとはしなかった。しかしそうは言ってもポルトガル、スペイン、後にはイギリス、オランダの諸国と通商するためにはキリスト教を全面的に禁圧することもできかねたわけで、この時期の幕府の対外政策はキリスト教国との貿易を重視する姿勢と禁教指向との2つの基本方針の微妙な均衡の上に成り立っており、貿易と信教の問題について実際に幕府がとった行動は複雑である。ときに場当たり的な行動にもみえる。

長崎貿易とイエズス会の介入

 家康が事実上政権を握った直後、1602年に渡来したポルトガル船の積荷の購入価格について日本人商人との間に対立が生じた。争いはイエズス会=キリシタン側の商人と長崎奉行との対立という形であらわれたが、家康は代官の寺沢広高を退け、村山当安ほかのキリシタン5人に長崎の統治を委ね、重要な問題は長崎通事のロドリーゲスとイエズス会日本準管区長パシオに相談するよう命じた。そのうえ多額の金銭を与えたり貸与したりしている。イエズス会士の協力を得てはじめてポルトガルとの貿易を円滑に進めることができるとする、従来からの長崎貿易に対する態度は崩さなかったのである。
 このような家康の態度によったものか、ロドリーゲスにパシオも加担してイエズス会は長崎の統治と貿易面で絶大な権力を握った。イエズス会士を通じて日本人が貿易に投資する手助け(日本人の銀を預かってマカオに送り、注文の品を買い付ける)を積極的に行うなどした。このような専横のふるまいは日本イエズス会内でも大問題となり、いずれ布教活動に悪影響が及ぶとしてイエズス会総会長は1612年に禁止令を発し、日本人のための貿易仲介を禁じた。

 他方において幕府は、ポルトガル船の白糸(生糸)取引に一定の枠をはめた。糸割符(いとわつぷ)制度という。
 即ち、1604年(慶長9年)、幕府は長崎、堺、京都の町人たちに糸割符仲間(組合)を結成させ、この3都市の有力商人を選び、糸年寄とし、糸年寄はまずポルトガル船が搬送してきた白糸(生糸)の購入価格を決定して、一括購入し、それを糸割符仲間の商人たちに配分・販売する方法であり、ポルトガル人はこの商法をPancadaと言い、日本ではパンカドと称した。
 糸割符奉書と呼ばれる幕府からの通知は次の通りである。

 黒船(=外国船)着岸の時、定め置く年寄りども糸(=生糸)の値、いたさる以前に諸商人長崎へ入るを許さず候。糸の値、相定め(=決定)候うえは万望次第商売致すべきものなり。
慶長9年5月3日、
本多上野介(書判)、板倉伊賀守(書判)

禁教令

 家康は1612年(慶長17年)3月頃まず駿府の城下においてキリシタン禁令を発し、その後同年4月21日(邦暦3月21日)に、京都所司代、板倉伊賀守勝重に対し「南蛮記利志旦(きりしたん)の法、天下停止すべし」と命令した。さらに同年9月1日(邦暦8月6日)には重ねて、「伴天連門徒御禁制なり。若し違背の族有らば、忽ち其の罪科を遁(のが)るべからざること」という布告を出し、畿内は板倉勝重に、そして西国については長崎奉行長谷川左兵衛に対し、禁教令を執達させることにした。
 これら禁教令は幕府直轄領(天領)に対するものであったがその趣旨は徹底せず、幕府もすべての教会を破却しようとしたわけではなかった。上述の通り幕府が貿易についてイエズス会に依存している限り、禁教政策は不徹底にならざるをえなかったのである。
 しかし、これもポルトガル貿易の必要性が禁教への指向を上回っている間だけのことで、ポルトガルの根拠地であるマカオの経済的、軍事的実力の低下(ポルトガルの落日)と、それに反比例した形で中国船やオランダ船による輸入量の増大ということもあずかってやがて幕府の対外政策はポルトガル貿易重視から禁教の方向へと軸足を移してゆく。

 1614年(慶長19年)12月23日になって、幕府は南蛮人と日本人たるとを問わず、またイエズス会、フランシスコ会の区別なく、伝道者たちを日本から徹底的に追放することを決意した。そればかりか日本人がキリシタン宗を信仰することを禁じ、キリシタンを根絶すべきことを諸大名に厳命した。
 この禁教文は、金地院崇伝が家康の意を受け書きあげたものとされ、直ちに家康に上呈された。
 その中には、
「爰(ここ)に吉利支丹(きりしたん)の徒党、適々(=ときどきに)日本に来る。啻(つと)に商船を渡して資財を通ずるのみにあらず。咏(みだ)りに邪法を弘め正宗を惑わし、以て城中の政号(=政体)を改め、己の有となさんと欲す。是れ大禍の萌(きざし)しなり。制せざるあるべからず。......彼(か)の伴天連(ばてれん)の徒党、皆件(くだん)の政令に反して、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を残(そこな)い善を損す。刑人有るを見れば、載(すなわ)ち欣び載ち奔(はし)る。自ら拝し自ら礼し、是を以て宗の本懐となす。邪法に非ずして何ぞや。実に神敵仏敵なり。
急に禁ぜざれば、後世必ず国家の患(うれ)いあらん。殊に号令を司り、之を制せざれば、却って天譴(てんけん)を蒙らん」とある。

対外通商にかげり

 1623年(元和9年)、家光が将軍職を継いだが、その同じ年、イギリスの平戸商館は経営不振のためみずから日本貿易を断念して去った。幕府はポルトガル人に対しては日本在住並びに日本船のパイロット(水先案内人)となることと、日本人のマニラ渡航を禁じた。またもともとスペインとの貿易は余り行われなかったが、マニラから托鉢修道会を中心とする宣教師が次々に日本へ潜入してくるに及んで幕府は翌1624年(寛永元年)にはスペイン王国フェリペ4世(1621-1665在位)の即位を告げるために来日したフィリピン使節の参府を差止め、ここにマニラ/スペインとの通行貿易は全面的に断絶した。
 1628年長崎代官末次平蔵派遣の朱印船が台湾においてオラン人に抑留されたことに端を発し、平戸のオランダ貿易は1628年(寛永5年)から33年まで禁止され、シャム湾において朱印船がマニラ艦隊に捕獲されたことに対する報復措置としてポルトガル船も1628年から30年まで長崎に抑留されて貿易は杜絶した(本誌22号参照)。その背後には末次平蔵ら朱印船貿易家とヨーロッパ人との競争があったであろうことは容易に想像がつく。

 こうして一時ポルトガルやオランダとの貿易は杜絶するのであるが、1630年末には松倉重政(有馬領主)と長崎奉行竹中重義が、宣教師潜入の本拠地マニラを撃つとの口実で、偵察船を同地に派遣した。マニラへ遠征して海外貿易を手中にしたいと指向したのである。このマニラ貿易計画はそもそもが他愛のないもので松倉重政の死によって挫折するが、竹中奉行については1631年に中国船に対し朱印状を等閑して私的に渡海許可状を発給し、九州諸大名が朱印船なしの貿易による不正な利益に加担したことに対する疑惑によって1634年に切腹を命ぜられている。

通商の独占へ

 このように大名による私船貿易疑惑が取沙汰されている中で幕府は貿易行政に関する内外の改革に着手する。
 改革の1は奉書船制度の制定である。朱印状の他に老中による奉書を携帯することを義務づけるこの制度は1633年までには完全に実施され、大名達による不法な海外派船や投資に大打撃を与えたと思われる。もっとも奉書船制度は海外において朱印状が粗略に扱われたことに対する予防措置であるとの説もある。
 その2は糸割符制度の改革である。
糸割符制度の改革は、長崎・堺・京都の3箇所に新たに江戸・大阪と幕府の呉服所が加わって5箇所となり、その他博多・柳川・久留米・佐賀・対馬・小倉の「分国」商人にも糸の配分を認めたものである。唐船にも糸割符を適用し、白糸のほか黄糸・片撚糸等にも拡大した。この制度は直轄都市の商業資本を掌握し、あわせて新たな「分国」糸を設定したことは、投銀商人など諸藩貿易資本に対して糸割符年寄りを介在させることにより幕府が取引を掌握しようとしたことを意味する。

 1631年9月付の平戸のオランダ商館長の書簡には、
シナ人もポルトガル人も、砂糖・陶器以外の商品を売ることは許されない。彼ら(当局)は今年来たすべての商品をパンカドで売らせるつもりのようである。これこそすべての外国人を日本から追放するための正当な手段である。
とのべ、糸割符制の適用は対日貿易の死命を制するものと述べられているという。独占購入による糸価の抑制は糸価決定後に取引される一般商品の下落をもたらすもので、糸割符制は商品の価格抑制機能も有していたと当時考えられていたのであろう。
 こうして幕府は国内外の貿易市場の統制をはかり、次の段階として鎖国へと至るのである。
 なお、少し後の話になるが糸割符制度は1655年に廃止され、長崎においては相対貿易の方法により自由貿易に近い方法が行われるようになった。糸割符制度に期待されたところとは逆に、これがあるため諸物価の昂騰を招いたためと考えられている。

6通の通達

 幕府は1633年から1652年に至る19年間に「覚」もしくは「条々」と題する6通の通達を次々に発しており、その標目は以下の通りである。

  • 第1 1633年(寛永10年)2月28日・・・「覚」17箇条
  • 第2 1634年(寛永11年)5月28日・・・「覚」17箇条
  • 第3 1635年(寛永12年)5月28日・・・「覚」17箇条
  • 第4 1636年(寛永13年)5月19日・・・「覚」19箇条
  • 第5 1639年(寛永16年)7月5日・・・「条々」3箇条
  • 第6 1652年(慶安5年) 5月1日・・・・「覚」17箇条

 以上の6次にわたって発給された文書はいずれも幕府年寄ないし老中(老中職は1634年(寛永11年)に設置)の名で発給され下知状と呼ばれたが、上記第5の「条々」は他のシリーズとは名称も性格も異にするものである。
 まず第1の「覚」から見てみよう(判りやすいように意訳し、条数は便宜、引用にあたって付した)。

第1条

奉書船の他、異国(=外国)へ船を派遣することは堅く禁ずること

第2条

奉書船の外には日本人を異国へ派遣してはならないこと。もし忍んで乗船したものがあれば、その者は死罪とし、その船並びに船主共に留置し、その旨申告すべきこと

第3条

異国へ渡り、住宅を設けた日本人が日本へ来航した場合は死罪を言渡すこと。但し、やむを得ない事情がある場合で、異国に逗留し、5年以内に帰国したものについては事情を取り調べたうえ、その者が日本に留まることを申告した場合は免赦とするが、異国へ立ち帰ることがあれば死罪を言い渡すこと。

第4条

バテレンの宗旨が行われている場所へはこの通達の内容を両人(注:下知状の宛名である2名の奉行)より通知すべきこと

第5条

バテレンを密訴した者には褒美を与える。

附 上級のバテレンを訴えた者には銀100枚、それより下は忠節に従い計らうべきこと。

第6条

異国船において申し分があり、江戸へ照会を行っている間の監視のことについては従前の通り大村方(=大村藩)へ申し越すべきこと。

第7条

バテレンの宗旨を広めた南蛮人、そのほか悪名の者があるときは従前の通り大村方の籠(牢)へ入れ置くべきこと

第8条

バテレンのことについては、船中の捜索まで念を入れて申しつけること

第9条

諸商品を一箇所へ買い付けるよう申し渡すことは禁止であること

第10条

奉公人が長崎において異国船の貨物を中国人より直接買い取ることは禁止であること

第11条

異国船の貨物の書立(=目録)で、江戸への報告に対する返事がない以前にも従前の通り商取引を申し付けること。

第12条

異国船に積載した白糸は、値段を立てたうえ残らず五箇所(=割符の適用を受ける5都市)へ割符すべきこと

第13条

糸(生糸)のほか諸物品、糸の値段を極めたうえ相対次第で商取引を行うこと
荷物の代価の値段を立てたうえ20日限りとなすべきこと

第14条

異国船の帰国は9月20日を期限とすること
但し遅く来航した船は着船より50日限りとすること

第15条

異国船が売り残した貨物については預け置くことも又預かることも禁止であること

第16条

五箇所の商人が長崎へ来着することについては7月20日を期限とすること。それより遅参した者は割符をはずすことを申し渡すこと

第17条

薩摩・平戸そのほかいずれの港に来着した船も長崎における糸の値段と同じで取引しなければならない。長崎において値段が立つ前に商取引を行うことは禁止であること。

右の条項、此の旨守られるべきものなり。よって執達すること件(くだん)の如し。寛永10年酉2月28日

 発給者の名義は、幕府閣老である内藤忠重、永井尚政のほか、大老格の酒井忠勝、土井利勝の連署を以ってし、宛先は長崎奉行、曽我又左衛門殿 今村伝四郎殿(切腹した竹中奉行の後任として任命された複数制の奉行)となっている。
 この「覚」は宛先の表示から明らかなように長崎奉行に対しその職務分掌に属する事項を指示したものであって、国の通商交易を閉じるという意味があったとするのには躊躇がある。
 第1次通達は3節に分けることができ(便宜*で分節した)、第1節(第1条から第3条まで)は日本人及び日本船舶の海外渡航並びに帰国の制限、第2節(第4条から第8条)はキリシタン禁制、第3節(第9条から第17条)は貿易制限についてそれぞれ定めている。

 豊臣政権における禁教令の趣旨は「バテレン追放令」であり、布告後20日以内に宣教師の追放を命じたもので、ポルトガル船の出入り自体を禁ずるものではなく(禁教奨商主義)、徳川政権当初の禁教令もこの流れを汲み、禁教に対しやや不徹底であったが、寛永の通達は日本人の海外渡航と帰国を禁ずるという厳しいものになっている。諸説あるが、1549年(天文10年)~1630年(寛永7年)の約80年間にキリスト教に改宗した者は幼児を含め76万人に達していたとする説もあり、キリスト教者は益々増殖の勢いにあった。それゆえキリスト教の禁遏には日本人が海外へ渡航し、キリスト教の信仰を得、もしくは修行の結果キリスト教国組織における更に上位の地位を得て日本に帰国するなどの途をどうしても閉ざさなければならないと考えられたのであろう。

その後の通達

 その後第2次から4次と通達が重ねられているがこの間の通達は第1次通達の修正であり、第6次の通達も同様である(なお、1634年(寛永11年)に幕府の組織改革により閣僚職として老中の制度が設けられたので、第2次以降は老中の名義で差し出され、老中奉書とも呼ばれる)。
上記各通達に若干のコメントを付し1633年通達と異なっている主な点を示せば次の通りである。

海外渡航等について

 第2次通達は通達と同日に、別に武具輸出等を禁じた通達を発している。
 第3次通達はその第2条に「日本に住居を設けた異国人も同様とする」として日本在住の中国人にも海外渡航を禁じた。
 また第3次通達は、第1次、第2次通達第1条の「奉書船の外」という例外文言を削除し、日本人の海外渡航を全面的に禁じた。また第3次通達は第1次、第2次通達の17条が「薩摩、平戸そのほかいずれの港に来着した船」と定め、薩摩、平戸その他各地における通商はなしうるものと定めていたところ、「平戸へ来着した船」と改め、通商を平戸に限定した。

キリシタンの取締について

 第1次通達に注釈を加えれば、第6条に「大村方」とあるのは大村藩のことであり、従前同藩が果たしていた警備課役を明文化したものである。
 第4次通達では第5条のバテレン訴人の懸賞金を銀子「300枚あるいは200枚」に増額した外、さらに2箇条を追加し、ポルトガル人及びその妻子、養父母の海外追放を加え、これらの者の日本への潜入及びこれらの者と文通した者は死罪とした(その後1634年に出島が築造された後には、ポルトガル人は出島に移住を強制されたことは前に書いた)。

貿易規制について

 第1次通達の12条にある「異国船」のうちには中国船、オランダ船も含まれるものと解釈された。
 第2次通達は、出航時期を定めた第1次通達の14条を改めた。即ち「唐船はみ計らい、がれうた船(=ポルトガル船のこと。ガレオン船の前のタイプである「ガレー船」の転訛であろうか)より少し後に出船申しつけらるべきこと」として帰路航海の抗争防止を図った。
 第3次通達は、大名派船禁止の一環として第10条に「武士ノ面々」として「武士」を追加し、大名や藩が直接通商することを禁じた。これにより自領内への外国船招致や長崎平戸への買物奉行を派遣するなど西国大名の個別貿易権が否定された。
 第6次年通達は、第4次通達の17条を「オランダ船に積んで来航した白糸については、中国船と同様、割符のこと」と改めた。
ポルトガル船の渡航禁止

 第5の「条々」と題する下知状は他のものに比べて特異である。「条々」の趣旨を判りやすく表現すれば次のようになり、ポルトガルとの断交を表明している。
一、日本においてキリスト教が禁制となっていることを知りながら宣教師が密かに渡ってきた。
一、キリスト教者が徒党を組んで邪義を企てた。(この項が島原の乱を指すことは明らかである。)
一、宣教師や信者が隠れているところへ彼の国から支援物資を送り届けた。
よって今後「がれうた船」が渡海してくることを禁ずる。もし渡海してくれば、その船は破却し、乗員は全員斬罪(死刑)に処する。云々。

 この「条々」は他の下知状が長崎奉行に宛てたものであるのに対し阿部重次、阿部忠秋、松平信綱の各老中に加え、土井利勝、酒井忠勝の2人の大老格および譜代大名井伊直孝までが署名し、宛先はない。外国人に対して通達することを予定していたからであろう。
 この下知状には幕府奏者番太田資宗が700人の兵を率いて上使として長崎に至り、ポルトガル人、唐人(中国人)及びオランダ人の順に送達した。
同時に唐人、オランダ人に対してはキリシタンを乗せ来たらぬように、とする「覚」が通達された。
 この時期のポルトガルについて言えば、島原一揆のさなかに参府した一行は献上品は受理されたけれども、長崎へ帰還後拘禁された。1638年(寛永15年)には2隻のポルトガル船が来航したが、その積荷の量はオランダ船の積荷を僅かに越えたに過ぎず、こうした実態が翌1639年のポルトガル船との断交を幕府が決心する動機の一つとなしているといえよう。
 ここに過去1世紀にわたるポルトガルとの交易は断絶した。スペインに対してはすでに1624年(寛永1年)に断交していたから、ポルトガルとの断交はカトリック教国との通商を禁じたものと言って差し支えない。

 

<「鎖国」下の通商用図>

「鎖国」下の通商用図

全面的な防衛体制

 「鎖国」の趣旨を貫徹するためには全国的な防衛体制を確立する必要があった。けだしポルトガルと断交したうえは彼の国からの来航や侵寇に対しこれを峻拒・反撃する態勢を整えなければ実効性を有したものにはならないからである。
 1638年(寛永5年)から1641年頃にかけて発出された法令でおよそ次のような態勢が整えられた。
 島原の乱の鎮定後1638年3月、松平信綱は長崎の野母崎に番所を置き、更に近国に急を告げる烽火山番所を設けたといわれる。
 幕府は上記の「条々」を発すると同時に1639年(寛永16年)7月5日付で全国諸大名に対し、領内の沿岸警備と渡来外国船の長崎送遣を命ずる「浦々御仕置(しおき)」を発した。同年8月には熊本藩主細川忠利・筑前国主黒田忠之・久留米藩主有馬豊氏・佐賀藩主鍋島勝茂・柳川藩主隠居立花立斎に対し、黒船が渡来した場合には長崎・江戸へ注進すべきこと、長崎奉行の命に従い、島原藩主高力忠房(島原の乱の後松倉氏の後を承けた譜代大名)と万事相談すべきことを申し渡した。

 さらに同8月長崎近辺の諸大名(大村藩主大村純信・五島藩主五島盛利・平戸藩主松浦鎮信・唐津藩主寺沢堅高・人吉藩主相良頼寛)に対して、長崎奉行と高力忠房の指揮の下に入念な警備に当たるよう指示した。
 1640年5月17日、幕府は貿易再開を嘆願する目的で、マカオから長崎に入港したポルトガル船の処遇に関し、加々爪忠澄(大目付)・野々山兼鋼(目付)の両名を上使として派遣し、使節・乗員61名を斬罪に処したことについては以前にも書いたが(丸の内法律事務所事務所報第23号)、幕府は大名を島原に集めて、同年6月3日付で右の一件を告知し、それぞれの領内に遠見番所を設置すること、渡来ポルトガル船を発見したときは高力忠房と長崎奉行並びに大坂と隣国の諸大名にも通報すること、ポルトガル船を沖合に発見した際、原則として直ちに攻撃を仕掛けないで、高力忠房と長崎奉行の指示に従うことなど厳戒態勢を命じた

 1641年(寛永18年)2月、幕府は黒田・大村・五島の三氏に対し、この年の参勤を免除して特に沿岸警備を命じた。翌1642年(寛永19年)3月肥前佐賀城主鍋島勝茂も、黒田氏同様の警備を命ぜられ、湾口に西泊・戸町の両番所を設置して、両藩で隔年に勤番した。鍋島藩では更にポルトガル船の入港航路にあたる深掘り・神之島・高島・香焼・沖之島・伊王島等に番所を設置し、大村藩は、長崎湾外の航路にあたる外海に設置した16箇所の番所の保守・警備を主な任務とした。

 こうした九州沿岸地域より更に広域的なポルトガル船対策としては、松平忠明(姫路城主、家康の外孫)が対異国船防衛の最高司令官となり、1644年に忠明が死去すると伊予松山藩手の松平定行(譜代大名)がその任を承継して西国地域に臨戦態勢を敷いた。

海外に開いた4つの口

 われわれが鎖国という言葉を耳にするとき如何にも密閉・閉鎖的な関係を想起するか、そうでなくとも長崎のみが外に向けて開いていたかのように聞いてしまうが実はそうではなかった。長崎のほか対馬、琉球、松前の都合4つの窓口が外に向かって開かれていたのである。
 まず朝鮮とは前政権により、二度に亘り出兵が行われたため外交関係が途絶えていたが、1609年(慶長14年)、対馬の宗氏と李氏朝鮮との間に修交条約(巳酉約条)が締結され、更に1635年(寛永12年)には対朝鮮の外交儀礼が改革され、日本と朝鮮の交易も行われるようになった。
 前政権の時代から対馬藩は朝鮮との関係を培い、幕府としてもその外交能力を無視しては朝鮮との関係を修復することはできなかったからであり、関係改善に成功した宗氏は参勤交代などの役務を軽減され、対馬藩は領地の生産能力を遙かに上廻る十万石の格式を認められていた。

 松前藩は封地の代わりにアイヌとの交易権を知行として家臣を与えており(商場(あきないば)知行制)、後にこれが商人に与えられて場所請負制となるのであるが、内地にもたらされる蝦夷地(蝦夷地の全域が我国の版図とされていたわけではない)の産物や北辺の先住民から輸入される物品は重要な消費産品となり長崎を通じて外国へも輸出された。

 琉球について言えば、1609年(慶長14年)、薩摩藩の島津氏は幕府の承認のもと、3月4日に琉球に向けて進発し、奄美大島を経て3月26日に沖縄本島に上陸し、首里城に至り、4月5日尚寧王と和睦して降伏せしめ、以降琉球は薩摩藩の付庸国(宗主国に付属する国)となり、幕府にも使節を派遣した。琉球は明朝の後(明朝は1644年に滅亡)の清朝にも朝貢し、交易を行った。
 こして薩摩藩は琉球の中国への進貢貿易において幕府の承認のもとに資金(渡唐銀)を調達し、品目を特定して産品を輸入し内地で転売し、藩財政の一助とした。
 中国との外交関係については前政権の出兵により荒廃した関係を改善するため徳川幕府の初期の段階で国交回復が図られたが、達成されなかった。中国との国交や貿易関係の樹立のために必要な冊封を幕府が是認することはなかったのである。
 「鎖国」体勢のもとにおいて、中国との貿易高はオランダ貿易のそれを上廻っているいるといわれているが、中国と日本との正常な国交を背景にしたものではなく、民間ベースの密貿易か、琉球を経由して行われたものであるため、輸出入の額ははっきりしない。

 日本にとっていわゆる「鎖国」後も貿易の必要性は少しも減じておらず、基本的には上記の如き国際関係に更に松前藩の管理する蝦夷貿易を加えて、4つの窓口を通じ必需物資の調達を行ったと言ってよい。
 こうしてみると江戸時代の対外通商政策を上述したように閉塞した語感でとらえる事は実状に合わないと言えよう。
 対外貿易の窓口として開かれていた対馬、松前、琉球の3つの口は、対外関係を構築するうえでの中央集権的権力から免れ、中世以来の「領主制的」な特徴が幕末まで残ったが、長崎は趣を異にする。長崎は言うまでもなく幕府から派遣された奉行によって直轄支配される天領であり、幕府権力の重要な対外通商管理の拠点をなしたのである。

「鎖国」後日譚

 1647年(正保4年)7月26日、2隻のポルトガル船が長崎に来航した。既述したようにマカオから来航したポルトガル船の乗員が処刑された年である1640年に、ポルトガル人はスペインとの同君連合を脱し独立を獲得していた。その報告に名を藉り、真意は貿易再開を狙ってポルトガルはゴンサロ・シケイラ・デ・ソィザを使節とする2隻の艦隊を日本に遣わした。7年を経て日本へ到達したソィザの艦隊は入港の翌々日、高力忠房らの指揮を受けた九州諸藩(9家)の兵48,000、舟艇730隻の思わざる過剰反応に迎えられた。ソィザの来航目的が両国間の修好の回復にあることなどが斟酌され、多分隠された通商目的は詮索されることなく、帰国を命ぜられ、9月8日には空しく長崎を出港した。
 その後1673年にはイギリス東インド会社が、また1685年には再度ポルトガル船が来航したがいずれも通商の再開には至らなかった。

 オランダはかくしてヨーロッパの各国の中では唯一日本との貿易を許された国となり、通商上対抗しうるのは中国のみとなった。しかしオランダはそれでも物足らずとみえたか、中国船をも日本貿易から追い出そうとしていろいろの策略をめぐらした。しかし江戸幕府はオランダ一国とだけ通商するとなれば、あまりにもオランダのペースで貿易を行わざるを得なくなることの不利をおそれて、これに従わなかった。(もともと徳川幕府は一国のみに偏った外交政策を持つのを嫌う風がある)。しかしてオランダは中国船のみならず、タイ国が日本との国交・貿易を復活しようとする数回の試みを、その都度妨害して遂に断念させているし、カンボジアも同じような希望を持っていたのを中傷によってやめさせたり、1650年には日本に向かったカンボジア船を途中で捕らえて積荷を没収することさえした。
 こうしてオランダはほぼ30年にわたって平戸において、それ以後は自虐的に「国立の監獄」と呼んだ長崎出島を通じて、日本との通商を19世紀半ばまで続けることになる。

(未完)

〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。

〈参考文献〉
  • 高瀬弘一郎「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで(岩波書店―岩波人文書セレクション、2013)
  • 高瀬弘一郎「キリシタンと統一権力」(岩波書店、岩波講座日本史9 近世Ⅰ所収、1975)
  • 中村質「島原の乱と鎖国」(岩波書店、岩波講座日本史9 近世Ⅰ所収、1975)
  • 村井章介「世界史のなかの戦国日本」(筑摩書房、ちくま学芸文庫、2012)
  • 三上参次「江戸時代史(上)」(講談社学術文庫、1992)
  • 永積 昭「オランダ東インド会社」(講談社学術文庫、2000)
  • 松田毅一「南蛮のバテレン」(朝文社、1991)
  • 佐藤弘幸「図解 オランダの歴史」(河出書房新社、2012)
  • 森岡美子「世界史の中の出島―日欧通交史上長崎の果たした役割―」(長崎文献社、2001)
  • 神田千里「島原の乱」(中央公論新社、中公新書1817、2005)

(2013.8.1)

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