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弁護士コラム・論文・エッセイ

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弁護士 堤 淳一

2000年02月15日

横浜大空襲と飢餓

(平成12年2月15日、堤・安田法律事務所/事務所報No.17)

 今年は折しも西暦2000年ということで、どこもかしこもミレニアム一色。正月の新聞には20世紀を振り返る記事がいっぱいであった。私もガラにもなく正月休みに少しばかり感傷的になって昔を振り返ってみたが、懐旧の思いが昔へ昔へと遡るにつれ、しまいには私の最も古い記憶へとたどりついてどうしても書いておきたくなった。その記憶は当時幼児として住んでいた横浜に対するB29による空襲の記憶と、戦中戦後の飢餓へと連なる敗戦のそれである。

アメリカの日本本土空襲作戦

 日本本土が米軍機の空襲にはじめて晒されたのは昭和17年4月18日のことであり、ドウリットル中佐指揮によるものであった。このときの使用機はB24で、この陸軍機を空母ホーネットに艦載して京浜地区を爆撃した。
 B29(注1)による日本本土に対する初空襲は昭和19年6月15日深夜、中国の成都から進発したB29による北九州爆撃であるが、サイパン島が昭和19年7月6日を以て組織的抵抗をやめて陥落すると米軍はここに飛行場を建設し、同年11月24日にここからB29、111機による日本本土への初空襲を行った。10月12日にはサイパン島に第21爆撃機集団司令部(長:ハンセル准将)を設け、麾下の第73爆撃航空団(Air Wing)が進出した。日本本土に対する爆撃は当初日本の製鉄業、ついで航空機工業に目標を移していた(そのため名古屋、東京(武蔵野)が狙われた)が、その方法は高度1万メートルからの精密爆撃であった。 横浜にも12月24日に空襲があった。B29の爆撃は連日のように本土に飛来したものの、航空機工場に対する昼間爆撃が予期したほどの効果を得ることができないと判断され、上級司令部であるワシントンの第20航空軍は日本の都市を焼夷弾(注2)により無差別に爆撃する方向へと戦術の転換を図り、サイパンと同じ頃陥落したテニアン島に第58および313航空団を、グアム島には314航空団を集結させた。ハンセン准将は更迭され、後任として米陸軍最年少(37歳)のカーチス・ルメイ少将(注3)が昭和20年1月末にテニアン島に着任した。このルメイ少将こそは、日本の主要都市に対する「大放火魔」となる人物である。

南太平洋

 こうしてルメイ少将指揮のもとに昭和20年3月20日未明の東京大空襲が行われた。この空襲により、浅草、本所、深川付近における焼死者は実に10万人に達したのであるが、そのことは本稿の目的を外れる。この空襲により横浜市の北部にも被害が生じた。
サイパンから東京へのB29往復進路
チェスター・マーシャル「B29日本爆撃30回の実録」
(ネコ・パブリッシング2001)より

横浜に対する本格的空襲

 横浜市に対する本格的な空襲は4月3日、4日にかけて深夜に行われた。立川の航空機工場地帯を目標にしたB29が、第1目標の発見に失敗したため2次目標として横浜を攻撃したと言われている。次いで4月15日、東京南部と川崎、横浜(鶴見)にも空襲が行われた。
 最も被害が大きかったのは5月29日の空襲で、テニアンにあったルメイ少将は麾下の4箇航空団に出撃命令を下した。使用されたB29はあわせて517機、硫黄島(昭和20年3月17日陥落)にあったP51戦闘機101機を護衛につけ進発した。東京大空襲とは異なり、昼間高高度(命令によれば18000フィート、約5500メートル)からする編隊爆撃の方式をとった。
 B29は日本時間29日午前1時40分から3時24分までの間にマリアナ3島から離陸し、硫黄島を経て御前崎で本土に進入し、ここにおいて縦列で飛行する航空群毎に時間調整を行ない、富士山腹の宝永山上空で東へ転針し、横浜からみてやや西南西もしくは西北西からまっすぐに横浜へ進入した。あらかじめ各群毎に割り当てられた目標に向い個別に爆撃を行い、東京湾を横切り千葉県の勝浦上空を経てマリアナ基地へ帰投したのである。

神奈川県下の防衛態勢

 話は遡るが昭和20年1月、大本営が本土決戦を唱えたことに応じ、「軍民一體的國内態勢ノ確立」を目指すため、新たに本土決戦に専念する方面軍が設けられた。関東甲信越の東部軍管区には第12方面軍(長:田中静壹大将。司令部:日比谷の第一生命ビル)が配置され、東京・横浜防衛のためには警備歩兵第1、第2、第3の各旅団が編成され、横浜には同第3旅団が配置された。この旅団は港北区に司令部を設け、指揮下に3箇大隊を置き、そのうちの1箇大隊(広島師団管区の兵から成る第14大隊)が神奈川区に置かれ、中隊が西区、鶴見区に分駐していた。また連隊区(昭和16年以降一府県一区となる)毎に地区司令部を設け、そのもとに地区特設警備隊が置かれ、横浜地方警備司令部は中区開校記念会館に置かれた。各地域毎に中隊が作られ、国民学校(いまの小学校)に配備され、ついで老幼者を除く、国民義勇兵の編成が始められた。横浜憲兵隊(本部は中区宮川町)も3倍に増強された。
 防空のため、昭和19年末以来、横浜には高射第1師団隷下の高射砲第117連隊が置かれ、大隊が磯子から本牧にかけての地区と、保土ヶ谷から野毛山にかけての丘、それに東横線沿線沿いの丘に配置され、12センチ高射砲(注4)6門、8センチ高射砲12門を備え、これらは当時の日本としては最も有力な高射火砲だったといわれている。
 なお第12方面軍は第一総軍司令部(長:杉山元大将)の統帥下に置かれ、その隷下の野戦軍は第36軍(浦和)、第51軍(水戸)、第52軍(佐倉)、そして神奈川県には厚木に第53軍が置かれた。第53軍(長:赤柴八重蔵中将)は相模湾防衛を任務とし、第84師団(大阪で編成)と第140師団(東京で編成)を隷下に置き、昭和20年6月には第314師団(京都で編成)が増派された。
 米軍が九十九里浜、および相模湾の二正面に上陸作戦を企図していると判断されたため(後に米軍はコロネット作戦と称して上陸作戦を発起していたことが判明している)、上記3箇師団は海軍とともに茅ヶ崎を中心とした海岸に水際陣地を構築するなど防衛線を構えていた。
 海軍について言えば三浦半島は要塞地区に指定され、その中心である横須賀には鎮守府が置かれており、また厚木には海軍航空隊(第302航空隊)があった。
 防空対策は神奈川県警察部が指揮し、警備課(消防、警備、防空の3課)と防空隊が置かれ、また県が直轄する特設消防隊(7大隊)が、横浜にも置かれていた。こうした防空対策は町内の小ブロック毎に組織された隣組によって下支えされた。

吉野橋の爆撃

 ルメイの「放火使節航空団」は第314(在グアム)、第58(在テニアン)爆撃航空団を第1波とし、第313航空団(テニアン)を第2波、第73航空団(在サイパン)を第3波として押し寄せた。5月29日、横浜の天候は晴、無風であった。
 米軍の作戦計画によると5個所の平均弾着点(注5)を定め、これに各航空団が爆撃する方法をとり、第1波の初弾は9時25分に平沼橋地区に投下され、第3波による最後の爆撃は10時30分(吉野橋区域)とされている。B29は高度3000~5000メートルの上空から雨あられのように工場や民家の上に焼夷弾を投下した。  当時、私は、横浜市南区の京浜急行(当時は湘南電鉄)井土ヶ谷駅と弘明寺駅の中間あたりに住んでいたが、その北東約1.2キロにある吉野町(お三の宮)が米空軍の第4平均弾着点に指定されていた。そのあたりは大岡川が、桜木町方面へ流れる本流と磯子方面へ流れる派大岡川の2つに分かれるあたりで、そこに軍需工場があったため目標とされたものと思われる。この区域と第5弾着点(大鳥国民学校)には第73航空団が割当てられた。この航空団は第5弾着点へ9時29分に初弾を投下し、すべてのB29が1分以内に投弾を終えた。
 私は、もうすぐ満4才になろうかという年頃(当時は数え年で5才)で、後に聞いたところでは、空襲警報(注6)が発令されるとすぐに防空頭巾を着け、母に背負われて京急弘明寺駅の西側の崖地に掘られた横穴式防空壕へ逃げた。私の記憶では逃げる途中は暗く、夜であったような気がしていたが、事実は昼間の爆撃であった。暗かったという記憶は火災による煙が空を覆って日を遮ったためであろうか。
 逃げる途中、杉丸太にコールタールを塗った電柱が、焼夷弾で燃え上がり、トランス(変電器)が電線を髪の毛のようにひきながら燃え落ちていったことを覚えており、避難先の京急弘明寺トンネルの中に電車が避難して止まっている様子と共に、私の最も古い記憶となっている。壕内の記憶はない。
 父親は、大腸カタルの病み上がりで「ここで死ぬんだ」と強情をはり避難をいやがって母と口論となり、グズグズして母と私が逃げ遅れたとかいうことを後に聞いたのであるが、それでも家に居残った父は外に出て上空を見たらしく、翼を連ねて飛行するB29の編隊と火災による黒煙で空が蓋をされたような感じがしたと後に述懐した。轟音と焼夷弾の落下音、爆発音とで生きた心地がしなかったであろう。
 防空壕と言えば私の家だけでなく近所中にこれが設けられていた。政府や地方公共団体の資金を得た形跡はなく、私の家の場合は猫の額のような庭に地下1メートル程の竪穴を穿ち、丸太の支柱を立て、板で囲いをし、一部を地上に盛り上げ、蓋をして土で覆った簡単なもので父が作ったものであった。僅かであるが、水が湧き出て、アルバムや衣類を濡らしてしまったと後々嘆きの種となった。道路にもこうしたものが作られていた記憶がある。
吉野橋平均弾着域は今の町名でいうと

南太田、前里、日枝、南吉田、山王、吉野、新川、二葉、高砂、睦、東蒔田、榎、共進、宮元、宿、花ノ木

の各町であるが、米軍が精密爆撃の戦術を捨てたうえでの爆撃であるから、ここのみに着弾させる意図であったわけではない。周辺地にも焼夷弾は広範囲に落ちた。私の家はこの区域から600メートル位離れていたから焼けはしなかったが、ザーザーと雨が降るような音と共に弾が落ちてきたという。ほんの20メートル先の家には焼夷弾が落ちて、その家には闇の石炭を貯蔵していたとか噂されており、一昼夜、火が消えなかったという。この空襲で井土ヶ谷下町も着弾区域に隣接していたため叔母の家は焼け落ちた。
 敵機が去った後には(10時37分半、東部軍管区情報「敵最後ノ編隊ハ十時三十六分頃佐倉附近ヲ東南進シツツアリ」とある)、火災と死傷者の群と大混乱が残った(注7)。後になってからの記憶だと思うが、京急黄金町から久保山(後にA級戦犯がこの墓地に葬られた)に至る道路には焼死体が横たわっていたり、軍が火葬のために集めた死体が堆く積み上げられていたという話を父から聞いた。顔面に火傷を負った主婦がこれを慚じて失踪したという無惨な話も囁かれた。

日本軍による邀撃

 B29による本土空襲に対し、日本軍が手も足もでなかったというのは一部正しいが、一部は無責任としか言いようがない。すなわち、昭和19年頃までの本土空襲は1万メートル以上の超高度から工場を目標として爆弾を投下する戦術であり、これに対しては日本軍の邀撃機も対空火砲も不十分にしか対処できなかったけれども、昭和20年以降に転換された無差別爆撃は、前記のように4~5000メートルの高高度から専ら焼夷弾をもって民家を含めて建物を焼き払うものであったから、陸海軍機による邀撃は果敢に行われ、対空砲火の効果も一定の効果をあげた(注8)。
5月29日の横浜空襲においては陸海軍あわせて85機が邀撃し、B29は5機が撃墜された。
 ただ高射砲の破片には困らされた。砲弾破片が落下し、火災を起こし、また屋根をつき破って雨漏り
の原因となった。私の家も例外ではなく、戦後何年かは洗面器などを雨漏りの受け皿にしたものである。
 話を聞いたのが戦中であったか、戦後すぐのことであったかは確かではないが、南太田の丘(近くに京急南太田の駅がある)に、撃墜されたB29からパラシュートで離脱した搭乗員を住民が鳶口や棍棒や石などで殴殺したという話が、母を含む婦人達の間で密やかに、おぞましい話でもするように囁かれていた。これは4月15日に撃墜された13機のうちの1機のことであったらしい。

B29と邀撃参加機の一機種である「屠龍」(陸軍機)

ボーイングB-29 川崎2式複座戦闘機

木村秀政「世界の軍用機―第二次世界大戦編」(平凡社カラー新書68)より

食糧の不足

 昭和20年頃の食糧事情は極端に悪く、7月以降主食糧の配給基準は1人1日あたり米2.1合(295グラム)が配給されるにとどまり、多くの食事は雑穀による代用食をもって賄われた。すなわち、小麦ならば良い方で馬鈴薯、甘藷、満州産の挽割トウモロコシ、大麦、高梁、大豆、甘粕などが配給されるようになり、これをほんの少しの米と混ぜ、野菜の葉っぱなどとともに食べるのである。雑穀の中に米の混じる割合が4分を下回ったら粘りがなく、まず箸にひっかからない。そこで有合せの食材をごったまぜにして雑炊に煮るのである。
 ひどい食物を2つ。米を精米してでる残滓をぬか糠という。麦について同じものを「ふすま麬」と言った。食糧事情が改善された後、これはにわとりの餌になった。これをどのように調理したのかは知らないが、団子やパンのようなものを母が調理して食べさせてくれた。当時、鉄兜は各家庭に備えられていたもので、これと交換に(その斡旋は隣組がやってくれた)、鋳物製のドーナツ状のパン焼き器(果たしてパン焼き器といえた代物かどうか。形はしゃぶしゃぶの鍋のような形だったと思うが不確かである)を手に入れ、これを使って作ったようである。ふくらまし粉(重曹であったろうか)を用いてパンの形にするのだが、今では到底食えたものではなかろう。
 その2は、「海藻麺」という奇怪な食べ物。大体ネーミングからして矛盾している。海藻が麺であるわけがない。ひじきのようでひじきでなく、得体の知れない海藻を麺状にのばしたものであった。どんな味だが忘れてしまったが、真っ黒なぬらぬらしたもので気持悪がって食べなかったが故に、味までは覚えていないのかもしれない。
 今では小料理屋などで、献立の1つに時々のっているが、「すいとん」というものがある。戦後の話になるが、食糧事情が改善されて、小麦が手にはいるようになって作られるようになった。具に蕪が入っていれば御馳走で、普通は醤油汁の中に「すいとん」のかたまりが浮いているのである。
 戦争が終わってしばらくするまで私には砂糖の記憶がない。甘味といえば、甘藷か、そうでなければ柿の皮を包丁で螺旋状に途切れないように剥き、これを糸で軒先につるして乾燥させたものが甘味料であった。これを菓子の代わりに食った。今から考えると泣けてくる。戦後砂糖が細々と手にはいるようになってから母は、「戦争中は2度と甘いものをお前に食わせてやることはできないのではないかと思っていた」と言った。そのほかには戦後に密柑の皮の粉やバナナの乾燥したものもあった。

 今、若い人達の中には、日本とアメリカが戦争をしたことを知らない人も増え、戦争したことがあると言うと「それでどっちが勝ったの」という者が大勢いる。戦いが終わって55年を経た。暖衣飽食の時代に至ったことは今昔の感にたえない。
 本稿は事柄の性質上若干ローカルな話題が多い点をご海容願いたい。と同時に、同地域にあって、同じような体験を経た方々のご投稿をお待ちしたい。米軍による横浜占領下における話はまた次回にでも。

  • (注1)B29  1940年に陸軍からの要求に基づき開発を始め1943年9月にはすでに量産を開始。終戦までに4221機が生産された。 最大速度 574㎞/h、総重量 61,236㎏、
    発動機 2,200hp×4、武装 12.7㎜機銃×12、
    20㎜機関砲×1、爆弾 9,072トン、搭乗員 12
  • (注2)焼夷弾  日本式の住宅に適するものとして開発された爆薬でM69といわれナパームを装填した6ポンド型の小型のものが大量に投下された。6角型の筒に入っており、この38発を集束し、投下後(横浜空襲の場合は30mから15mの上空で)ばらばらになって、着地すると尾部からナパームを噴射し、周囲の壁や床に粘着して着火する。他には大型で破壊力の強いM47(70ポンド)があり、まずM47を目印となる建物に投下し、爾後M69を投下して焼き払う方法が、横浜空襲では採用された。
  • (注3)カーティス・ルメイは、戦争中から構想され戦後公式に設立されるアメリカの戦略研究所「ランドコーポレーション」の設立に深く関与し、また昭和39年、日本政府から勲一等旭日大綬章を授けられている。航空自衛隊の育成に協力したというのがその理由である。
  • (注4)この高射砲は㈱日本製鋼が製造した三式12糎高射砲であり、高射第1師団高射砲第117連隊(本部:横浜市野毛山)第2大隊第6中隊が子安台に6門を展開し、B29を十数機撃墜したとされている。また東京の話であるが、終戦までに2門の五式12糎高射砲が杉並区久我山に配備され、一撃で2機のB29を撃墜したとされている(新聞「朝雲」平20.6.19による)
  • (注5)平均弾着点とは、ある一点を中心とする半数必中界-例えば川崎の爆撃の場合(横浜でも大差ないと思われるが)直径4000フィート(1.2キロ)の円の中に焼夷弾爆弾の少なくとも半数以上を集中させ、この地域を消滅させる計画にもとづく、目標点のことを言う。横浜空襲の場合、平均弾着点は5ヶ所設定され、その①は東神奈川駅(神奈川区)、②は平沼橋(西区)、③は港橋(中区)、④は吉野橋(南区)、⑤は大鳥国民学校(中区)であった。
  • (注6)空襲警報 当時米軍機の侵攻の状況は刻々とラジオ放送を以て伝えられ、5月29日は8時12分に空襲警報が発令された。警報の一例を次に挙げる。
    『9:20 京浜西南及ビ西北方ニ侵入中ノB29及ビP51編隊ハ入リ乱レテ攻撃シツツアルヲ以テ特ニ十分ナル警戒ヲ要ス。』
    冒頭にいちいち「東部軍管区情報」の前置きがあったようである。
  • (注7)この日横浜地域に投下された焼夷弾は35万1916個、地上密度で言うと1平方マイル(2.59平方キロ)あたり200~225トンに及ぶというルメイ司令部の大ざっぱな計算結果がある。第④弾着点(吉野橋)にはM69が400トン程度投下された。
    被害の状況(昭和20年6月4日6時現在、神奈川県警察部)は次の通りであった。
    • 死者 3,649、重軽傷 10,197、行方不明 308
    • 罹災者 311,218
    • 建物の全焼 79,437、半焼 135、全半焼 48
  • (注8)B29の日本本土への出撃数はのべ33,041機、作戦間の被撃墜数は485機、被損傷機2707機、搭乗員の戦死者3041名という記録がある。
<参考文献>
  • 今井清一「新版・大空襲5月29日-第二次大戦と横浜」有隣堂発行〈有隣新書19〉
  • 服部一馬・斉藤秀夫「占領の傷跡-第二次大戦と横浜」同〈有隣新書20〉
  • 大西比呂志外「相模湾上陸作戦-第二次大戦終結への道」同〈有隣新書52〉
  • 児島襄「太平洋戦争」(下)中央公論社〈中公新書90〉
  • 岡本好右「東京大空襲」〈徳間文庫〉
  • 渡辺洋二「死闘の本土上空-B29対日本空軍」〈文春文庫〉
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