• 事務所概要
  • 企業の皆様へ
  • 個人の皆様
  • 弁護士費用
  • ご利用方法
  • 所属弁護士

弁護士コラム・論文・エッセイ

弁護士コラム・論文・エッセイ

ホーム弁護士コラム・論文・エッセイ堤弁護士著作 一覧 > 太平洋の覇権(31)-----攘夷戦争
イメージ
弁護士 堤 淳一

2020年07月01日

太平洋の覇権(31)-----攘夷戦争

(丸の内中央法律事務所事務所報No.36(2020.1.1)に掲載したものに増補)

「攘夷断行」の胎動

 □ 文久2年12月5日、将軍家茂は、大原重徳に従い勅使として江戸に下った三条実美に対し、勅を奉じて攘夷を行うことを約し、12月13日には諸大名に対して「攘夷の実行が朝廷から命ぜられたので銘々の策略」を聞き度い旨及び、来年(文久3年)2月に上洛するのでそれまでに攘夷の見通しに関する評価を上申するよう」求めた。
 □ 将軍上洛準備のため、文久2年12月24日、京都守護職松平容保が、文久3年1月5日に将軍後見職一橋慶喜が、1月13日に老中格小笠原長行が、1月25日に幕政顧問山内容堂が、2月4日に政事総裁松平春嶽があいついで入京する。2月19日慶喜、春嶽、容堂、容保らは京都所司代役宅において会合し、政令が幕府、朝廷の二筋から出て混乱している現状を匡すため、朝廷より幕府への大政委任を文書を以ってかちとることを合意する。
 かくて家茂は上洛することになるが、海軍力を誇示するため軍艦を用いて出立することが有用であるとの考えにもとづき、旧臘28日海路をとることを決め、その旨諸大名に通知した。しかし、前年に発生した生麦事件の賠償を求めるイギリスが2月以降横浜沖に軍艦を集結させる事態となったため、急遽陸路に変更し、2月23日江戸を出立、東海道を上って3月4日上洛を果たした。

生麦事件

 □ 過ぐる文久2年8月21日、島津久光は帰国の途につき、その行列が昼過ぎ頃武蔵国生麦(現:横浜市鶴見区)に差しかかったところ、折から騎馬で散策中の4人の英国人が騎乗のまま行列と接触した。このため行列をみだすのは国法に背くとして薩摩藩士らが英国人らに斬りかかり4名のうち3名を死傷させた(上海商人リチャードソン(死亡)、横浜在留生糸商マーシャル(負傷)、横浜商社員クラーク(負傷)、香港商人の妻ボロディール(避難して無傷)。世に言う生麦事件である。
 この事件は、初めて民間人が攘夷テロの被害者となった事件であり、居留民社会に与えたショックは甚大であった。事件直後、まだ武蔵国の程ケ谷宿(現在の横浜市保土ケ谷区)付近に停留していた島津久光一行を襲撃・報復するとまで主張したフランス、アメリカの領事や居留民たちに対し、陸軍中佐で英国の代理公使であるニール(公使オールコックは休暇で帰英中であった)と英国極東艦隊司令官キューパーは居留民たちに冷静に対処するよう冷静かつ粘り強く説得し、本国の訓令を待った。
 文久3年早々英本国政府はオールコックの意見を徴したうえ、犯人の処罰と損害の賠償を幕府と薩摩藩に対し要求することを命じてきた。イギリス本国の要求は幕府に対し謝罪と賠償金10万ポンドの支払い、薩摩藩に対しては犯人の処刑と賠償金2万5000ポンドの支払いを求めるものであった。これと併行し、かかる制裁を実効あらしめるため海軍は江戸湾及び瀬戸内海の海上封鎖を行う提案を行い、本国政府は法律顧問に照会したうえ、海上封鎖のための一連の勅令案を枢密議会議に上程し、ヴィクトリア女王の裁可を得ていつでも日本沿岸封鎖計画を発令できる段取りをつけ、本国外務省の訓令が文久3年1月25日にニールのもとに達せられた。こうして幕府との交渉は英国軍艦の威圧のもとに始められることになった。

将軍上洛

 □ 話を戻すと、将軍上洛は、板倉勝静、水野忠精の2老中を核心とし、稲葉正巳と田沼意尊の2若年寄、高田藩兵が前衛、小倉と松山(伊予)藩兵が後衛を固め総勢3000の陣立てとなった。文久3年2月13日に出立したことはさきの通りである。
 将軍の上洛は家光将軍以来229年ぶりのことであった。
 □ 先着していた慶喜は、3月5日、将軍名代として参内し、従来すべて将軍に委任されていたことではあるが、猶(なお)改めて委任いただければ天下へ号令し、外夷を掃除(そうじよ)したいと考えるので、この旨伺いたい、として朝廷に要請し、「征夷将軍の儀、総て此迄通(これまでどおり)御委任可被遊候(あそばさるべく)、攘夷の儀、精(せい)々(ぜい)可尽忠節(ちゆうせつつくすべきこと)事」との勅書が授けられる。これをうけ家茂が参内し、孝明天皇と義兄弟の対面を果たすのである(家茂の妻は天皇の妹和宮である)。
   この間イギリスは艦隊を江戸湾に集結させ、その圧力のもとに生麦事件の損害賠償の要求に圧力を加え、これに対し幕府も臨戦態勢をとっていた。
 □ 大政委任問題の次に幕府が迫られたのが攘夷期日の設定であった。朝廷では公卿急進派が主導し、文久2(1862)年12月9日には国事御用掛、文久3年2月13日には国事参政と国事寄人の3機関が新設され、幕府が拒んでいた親兵設置の件も、朝廷は独自の判断で、10万石以上の大名に対し、1万石に付1名宛、禁裏御守衛の御親兵として上京させるように命じ、4月3日には三条実美を京都御守衛御用掛に任ずるなど機構の整備につとめた。こうして孝明天皇は歴史の脇役から一方の主役に躍り出るため、京都の政治拠点を充実させようとしたのである。
 □ 奉勅攘夷を誓約した以上、攘夷期日の決定を幕府が拒み続けることはもはや不可能であり、4月20日、攘夷の期日を5月10日とする旨を奉答する。しかし将軍は依然として滞京を命ぜられているため、攘夷決行の責任者として一橋慶喜が東帰を命ぜられることとなった。
 □ 慶喜は攘夷期日とは条約破棄の交渉開始日と理解していた。慶喜が考える攘夷とは武力を以って外国と衝突することを意味してはいなかったのである。彼は4月22日、水戸藩家老武田耕雲斎を伴い出京、5月8日夕刻江戸に到着する。
 5月10日を攘夷期日とする旨は幕府により日本全国に達せられた。その際幕府は、「攘夷の儀、五月十日可及拒絶(きよぜつにおよぶべき)段、御達相成候間、銘々右の心得を以、自国海岸防禦、弥以(いよいよもつて)厳重相備、襲来候節は掃攘致し候様可被致(いたさるべく)候」と諸藩に布達し、外夷に対し専守防衛に徹し、武力の行使は外国が「襲来」した場合に限定し、先制的に攻撃を仕掛けることを命じてはいない

生麦事件賠償金の支払い

 □ ところで既述の通り、この間英国代理公使ニールは2月19日に、本国の訓令に従い、江戸湾に結集した英国艦隊の軍事的威圧を背景に、生麦事件賠償金の要求書を幕府に提出し、幕府は江戸・横浜で臨戦態勢を敷いた。留守閣僚はこれへの対処策を在京中の板倉らに伺いを立てていた。
 □ 東下の途次、慶喜が老中に与えた手翰には、5月3日に予定されていた補償金はこれを支払わず、かつ速やかに拒絶の談判をなすべしと認(したため)められており、小笠原長行老中格は直ちに神奈川奉行をして英国側にその旨を伝えさせたが、英公使は激怒して日本が違約のうえは一戦も辞せずと述べた。
   東下中の慶喜は神奈川宿に神奈川奉行を招き、攘夷の旨を述べ、攘夷に異を述べる奉行に対し「事勅命に出で、将軍すでに奉承したまうた上は、実行せざるを得ない。もし肯わ(うべな)なければ禍は将軍に及ぶであろう」としてこれをたしなめ、騎馬で江戸に入った。
 ところがそれと行き違いに小笠原長行が軍艦幡龍に搭乗して神奈川着。奉行を召して、償金を約束どおり英国に交付するから、英国公使に伝えよと命じ、9日、神奈川税関の銀貨をもって一時繰り替え、償金10万ポンド・ステルリングを英公使に渡さしめ、外国奉行をして授受を執行した。
 □ これを以って長行は独断でイギリスに対し損害賠償金を支払ってしまったと解釈してよいのかについては諸説があろうが、慶喜との間に黙契があったと解するのが腑に落ちる。
   即ち慶喜はもっぱら攘夷の名分を立て、小笠原はその反対のことを行って国際危機を脱し、二つながらの立場に義理を済ませた形をとったのである。田中惣五郎「最後の将軍徳川慶喜」(巻末参考文献目録参照)は「京都へは攘夷、英国へは償金提供。この相反する2つの事項を一つの幕府が行っているところに、行き詰まった幕府の無力さが露呈され、それを慶喜も認めて、政治家らしく振る舞っているのである。」と述べている。
 □ 慶喜は帰府後連日のごとく、こうした矛盾した政局について閣僚たちと議論したが、議論は固まらず、結局14日、後見職辞表を関白に提出するのであるが、「この度攘夷の聖旨に、幕府としても背きがたかったためであるが、老中以下大小の有司一人も同心する者はなく、妄りに攘夷の命を奉じたことは、天朝に対し、幕府に対し恐懼にたえない」という趣旨のことを後に述懐している。

策源の二元化

 □ こうして幕府の策源が二極化する。即ち京都においては将軍を極とする勢力が孝明天皇の攘夷意思を受け入れる(もしくはそのように装う)一方で、江戸における老中以下閣僚たちは諸外国人と応接折衝の機会も多く、その中において米、英、蘭、仏ら諸国と結んだ通商条約を破棄することなどとうていできる相談ではない、天皇の意思よりも社(しや)稷(しよく)(国家の行政)を重しと考えていたからである。
 そして、幕閣は老中格の小笠原長行をして、諸役人の後押しのもとに、過激な攘夷派を排除し、家茂将軍の帰府を促すために率兵上洛を実行させるに至る。小笠原は5月28日、イギリス軍艦を借り、歩騎凡そ1,600人の兵を率いて大坂に向かった。
 しかして小笠原の率兵上洛は在京していた将軍には知らされておらず、大坂に上陸した小笠原は、「京都の幕閣」および京都守護職の松平容保などの反対にあって、その志を遂げるどころか、6月9日、小笠原は朝命の圧力によって罷免される。老中の処罰が最終的に朝命によって行われた事実は幕権の失墜を何よりも端的に表すことに外ならなかった。

長州藩の攘夷決行-米仏蘭との戦争

 □ 長州藩は幕府が全国に布達した攘夷決行の命を急進派の猖獗によって文字通り武力蹶起と解し、文久3年5月10日、武力行使の場所を海上の要衝である下関海峡(いまの関門海峡)に定め、海岸砲台を整備し、兵員を集結してこれに備えた。砲台に備えた大砲の合計は約30門、兵力は約1,000人であった。また海上には丙(へい)辰(しん)丸、庚(こう)申(しん)丸、癸(き)亥(がい)丸、壬(じん)戌(じゆつ)丸の4隻の軍艦を配備した。
・丙辰丸:安政3(1856年)長州藩建造の約50トンの木造帆装艦である。
・庚申丸:万延元(1860)年長州藩建造の長さ45.5m、備砲30ポンド×6の木造帆走艦。(トン数は不明)
・癸亥丸:原名をランリックという英国艦で、文久3(1863)年長州藩が英国から購入した。
木造帆走艦で大きさは283トン、備砲は18ポンド×2、9ポンド×8であった。
・壬戌丸:文久2(1862)年に英国から購入した鉄製蒸気船。原名はランスフィールドといい、これに大砲を乗せた武装商船であった。要目は純トン数
で448トン(総トン数は605トンとも言われている)、長さ235.4フィート(71.7m)、幅30.8フィート(9.4m)、備砲は2門であった。
・後に解るのであるが、諸外国の艦艇に比べ、痛々しいほどに貧しいものであった。
   【第1図】下関戦争 戦況図

太平洋の覇権(31) 第1図.jpg

戦闘の経過

 □ 対米戦 5月10日 
 この日午後、折柄横浜から出発して下関海峡を通過し、長崎経由で上海に向かう予定であったアメリカ商船ぺムブローグ(スクリュー蒸気船、総トン数241トンで米国のウォルシュ・ホール商会の持船)が、下関の対岸にある内野浦に潮待ちのために停泊していた。
 翌5月11日 午後2時頃、出発準備中であったペムブロークは、庚申丸、癸亥丸の2艦から砲撃を受けたが、直ちに抜錨して豊後海峡へ回避して難を逃れた。
 □ 対仏戦 5月23日  横浜から長崎に向かう途中のフランスの通報艦キャンシャン(外車蒸気艦)が下関海峡入り口の長府沖に停泊した。キャンシャンはペムブロークが砲撃されたことは知らないまま、8日午後午前6時頃、下関海峡にさしかかると長州側の各砲台から砲撃され7発が命中し、沈没の瀬戸際に追い込まれた。キャンシャンは応射しながら海峡を通り抜け長崎へと逃避した。
 □ 対蘭戦 5月26日
   午前7時、オランダ軍艦メデューサ(木造のスクリュー蒸気艦、1,700トン)が海峡に入ってきた。同艦は長崎から横浜に行く途中で総領事のポルスブルックが乗っていた。長崎ではキャンシャンと出会い下関での砲撃のことも聞いていたが、メデューサの艦長は、もし砲撃を受けたら徹底的に懲らしめてやる等と演説し、ポルスブルックもまさか日本と関係の浅からぬオランダの艦が砲撃されることはないだろうと安心していた。ところが庚申丸、癸亥丸からも、また陸上砲台からも砲撃を浴びた。砲撃戦は1時間半にも及び、メデューサは長州側の軍艦と砲台に損害を与えた。しかし自艦も30発以上の命中弾を受け、死者4名、重軽傷者5人を出したが、脱出に成功した。

米艦の報復

 □ 砲撃を受けた米仏も黙ってはいない。7月16日、アメリカ軍艦ワイオミング(木造スクリュー・スループ、1,457トン、備砲6)が報復攻撃のため、午前10時頃海峡に姿を現わした。この頃アメリカは南北戦争のさなかにあり、ワイオミングは北軍の軍艦で、香港基地を拠点として索敵に従事していたが、攘夷テロによって居留民保護を求める公使の求めに応じ横浜に来航し、ペムブローク7号が砲撃を受けたとの報に接するや、これに対する報復のため下関に急行した。
 ワイオミングは下関港内に停泊中の庚申丸、癸亥丸、壬戌丸を攻撃し、庚申丸、壬戌丸を撃沈させ、癸亥丸を大破させて横浜に戻った。この戦闘によりワイオミング側は死者6名、重軽傷者4名、長州側は死者8名、重軽傷7名を出した。
仏艦の報復
 □ 6月5日、フランス軍艦セミラミス(木造スクリュー・フリゲート、3,830トン、備砲35門)とタンクレード(木造スクリュー・スループ、備砲4門)の艦隊が海峡に現われ、長州砲台の主力である前田、壇ノ浦砲台を2時間にわたって砲撃し、沈黙させたうえ上陸部隊(陸戦隊70人、水兵180人)を前田海岸に上陸させ、大砲の火門に鉄釘を打って使用不能にし、また火薬や砲弾を海中に投棄して引き上げた。セミラミスはその日の夕刻出港して横浜に戻ったが、タンクレードは損傷が著しかったので、九州側に停泊して、修理のうえ横浜に帰航した。
 □ このあと攘夷戦はしばらく途絶える。米、仏、蘭、英の四カ国連合艦隊が下関を攻撃するという噂はあったが、1年ほどは具体的な動きはなかった。

【第2図】アームストロング砲及びその火門栓と尾栓
太平洋の覇権(31) 第2図 アームストロング砲.jpg
    四箇国が実際に攻撃に向けて長州へ向けて進発するのは翌年(2月20日、元治と改元あり)8月28日である。この間文久3(1863)年8月に薩英戦争が勃発しているので本稿も暫くそこへ筆を進めよう。

薩英戦争

 □ 生麦事件の賠償問題
 幕府は老中格小笠原長行によって生麦事件の賠償金10万ポンドの支払いを済ませたことは既述した。 支払いはメキシコドルで44万ドルになった。賠償金のドル貨は木箱に詰められ、ユーリアラス、パール、エンカウンターの各艦に積み込まれ香港に向かうことを予定していた。
 しかし、幕府との交渉は決着したものの、薩摩藩との交渉は全く進展しなかった。そこでニール代理公使は、軍艦を以って薩摩藩に圧力をかけるため英国東インド・シナ艦隊司令長官キューパーに艦隊の出動を要請した。艦隊は7隻から成り、いずれも木造艦で、その多くが老朽艦であったが、備砲の合計は89門でその中には最先鋭のアームストロング砲が合計21門も装備されていた。

                   英国艦隊

英国艦隊 下関戦争における艦隊の構成.jpg

  

 □ これに対し薩摩藩砲台が備える大砲は、6~8ポンド砲が合計で62門、20~29cm砲が10門、その他が10門、合計82門であったが、すべて前装滑腔砲であった。また弾丸は球形中実弾(丸弾)が大部分で、炸裂弾を発射できたのは臼砲(曲射砲)のみであった。舟艇は18ポンドまたは24ポンド砲を1門搭載した長さ6間(10.9m)の小舟が12隻準備されていた(但し、天候不良のため出撃の機会はなかった)。
 このように薩摩藩の砲力と英国艦隊のそれを比べると英国艦隊の砲力が質量共に薩摩藩のそれを圧倒していた。
 イギリス艦隊は、文久3(1863)年8月6日横浜を出港し鹿児島に向かい、8月11日午後、鹿児島湾口に到着し七ツ島沖に投錨した。翌8月12日午前7時頃、北上を開始し、鹿児島域下前面約1キロメートル沖に投錨した。この日、ニール代理公使と薩摩藩側とで交渉が行われた。抑々、交渉を軍艦の上で行うべきか、陸上で行うべきかについてすら合意が得られず、英国側から2万5000ポンドの支払いと、犯人の処刑を求める要求文書が手渡されるにとどまった。

 □ 薩摩藩は、抑々日本が米、英、蘭、仏各国ら外国に対し和親通商を開いた条約は天皇の批准を得ないもの(違勅)であり効力が発生していないゆえ、島津久光の行列を横切ったイギリス人の振る舞いこそ違法であり、英人を殺害に及んだとしてもそれは正当行為であると主張したのである。
 8月13日、この日も朝から交渉が行われたが、事態は進展しなかった。午後になって薩摩側は決死隊がユーリアラスに乗り込み、ニール代理公使を殺害することを企てたり、またイギリス各艦に近づいて艦を奪取する計画も立てたがこれに気づいた英艦側は、艦隊の停泊地を砲台の射程外に移動した。
 8月14日、両者とも交渉が行き詰まったとみて、各々戦闘準備を進めた。

【第3図】薩英戦争 戦況図

太平洋の覇権(31) 第3図 薩英戦争戦況図.jpg

 □ 開戦
 8月15日、朝から台風による暴風雨で視界も不良であったが、キューパー提督は交渉を有利に進めるため、湾内深くの重富沖に停泊中の薩摩藩の天祐丸、青鷹丸、白鳳丸を拿捕した。
 薩摩藩は開戦を決意し、正午に各砲台から英艦隊に向かって砲撃を開始し、キューパー提督は拿捕した蒸気船を焼却し、戦闘態勢をとるよう命令した。
 アーガス、レースホース、コケットの3艦は直ちに拿捕船の焼却を開始した。およそ1時間、掠奪をほしいままにしたのち3艦は拿捕船を焼却し(その際2名の薩摩藩士官(松本弘安と五代才助)が艦に抑留された。但し英国側は、両人の自発的意思によ、る旨述べている)、その後戦列に加わった。

 □ 英艦隊は旗艦のユーリアラスを先頭に以下パール、コケット、アーガス、パーシュース、レースホース、ハボックの順に単縦陣で停泊地を一旦北上し、次いで左に旋回し、鹿児島の城下町沿いに南下し、砲台を砲撃した。この日の戦闘で薩摩藩の砲台はかなり破壊され、その間パーシュースから発射されたロケット弾(鉄製の筒に推進薬を充填し底部には5個の穴が開けられ、燃焼ガスの噴射により、弾体を推進飛翔させる)によって町の一部(約500戸)が焼かれた(この民家への砲撃については後にイギリス国内からも批難が加えられた)。艦隊が投錨後、パーシュースとハボックは再び海岸に近づき、琉球船3隻と和船2隻を焼き払い、また薩摩藩の兵器工場である集成館を砲撃して爆破、炎上させた。

 □ 8月16日は前日の暴風も収まり、午後3時頃、英艦は再び単縦陣で鹿児島湾を南下しながら各砲台を砲撃し、午後5時半頃、七ツ島沖に停泊し、翌8月17日横浜に向かって出帆した。
 英艦が薩摩側から回答を得ることなく引き上げたのは、弾薬、燃料、食料等の準備が不足していたためと言われている。

 □ この戦争により英国側には軍艦の損失はなかったが、死傷者は意外に多く、死者はユーリアラスの艦長、副長をはじめ13人、負傷者は50人で、死傷者の数は63人であった。
 既述の通り、この戦争でアームストロング砲が初めて使用され、365発の炸裂弾(長弾)が発射されたが、砲尾の閉鎖装置の破損により、高圧ガスが噴出するなどの事故が多発し、水兵の多数が負傷した。 一方薩摩側は戦死5名、負傷者13名で死傷者の合計は英国側の3分の1以下であった。

 □ 和平交渉
 英国艦隊が目的を果たさず退去したことにより藩内は戦勝気分に沸いた。しかし藩首脳部の判断は冷静で英国との和解交渉を進めることに決した。英国の近代兵器と自藩の大砲とでは性能が格段に異なり、このままでは戦争の続行は不可能と判断したからである。

 □ 交渉は英国公使館(横浜村)で10月4日、5日に行われ、ほぼ合意するかにみえたが、賠償金の支払いを幕府からの借金に依存することをめぐって延引したが、その後幕府の合意が得られ、11月1日下記の約定がイギリスとの間に成立した。
一、犯人の捜索と処刑を約束する証書を交付すること
二、賠償金2万5000ポンドを支払うこと。
三、交換条件として英国の軍艦購入を斡旋すること。
 そして薩摩藩は幕府より全額を「借金」し、11月1日、幕府外国奉行のご用をつとめる三井家振り出しの2万5000ポンドの為替を以って賠償金を支払ったのである。薩摩藩は犯人は逃亡して行方不明とし、犯人の引渡しはうやむやになった。薩摩の幕府に対する借金の返済も同様である。
 和解条件の第3項は英国側が軍艦購入を薩摩藩に押しつけたものではない。薩摩藩の軍備を増強する為に交渉担当者である重野厚之丞から提案されたものである。このあたり幕末日本人の行動の不思議を見る思いがする。

 □ この当時日本全体が奉勅攘夷体制のもとにあり、文久3年7月4日薩摩藩主島津忠義は、朝廷と幕府の双方に対し、英艦を撃破したことを誇らかに報ずるが、既述の通り軍艦の能力及び火力の差は歴然としており、軍事の全面的洋式化と軍事体制の近代化が至上命令となった。陸軍では江戸芝新銭座の江川太郎左衛門塾、海軍では勝海舟の神戸海軍操練所が諸藩士の教育に当たってゆく。

八・一八政変

 □ 長州藩のことに話を戻す。

 長州砲台がフランス軍の砲撃を受けた日の3日後である文久3年6月8日、久留米へ戻っていた攘夷派の思想的リーダー真木和泉(久留米水天宮の神主で尖鋭的なアジテータ)が再び入京し、在京長州藩士や攘夷急進派らに向けて「攘夷戦争に消極的な徳川幕府から軍事権・徴税権を剥奪するべきである」とする攘夷親征論(倒幕論)を公然と説いた。
 このとき家茂将軍は京都に滞在していたが、京都の攘夷倒幕熱に閉口し、かつ危険も感じたであろうか、真木和泉が入京した翌日の6月3日、参内して東帰の許可を得て京都を去り、大坂から海路で江戸へ帰った。
 □ こうして京都は攘夷親征派の独擅場となり、8月13日には、「攘夷御祈願の為、大和国行幸、神武帝山陵、春日社等御拝、御親征軍議あらせられ・・・・・」との「大和行幸の詔」が発せられた。「御親征軍議」とは、畢竟するところ倒幕のための作戦会議である。長州藩は我が意を得たとばかり色めき立ち、京都の街は騒然とした。
 □ しかし形勢は、突如一変した。孝明天皇の意向が示されたからである。
 孝明天皇は強硬な排外論者であったが、現実政治は幕府に任せる公武合体を支持するとの考えの持主であり、まだ武備が充実していないのに、外国と開戦するのは時期尚早である。ゆえに「朕の大和行きはしばらく延期」すべく、よって征幕のことも沙汰やみとする旨を中川宮に達した。長州勢力は愕然とした。
 □ こうして勢いの赴くところ長州勢力は京から駆逐される結果となる。中川宮が中心となり、前関白近衛忠煕(ただひろ)、右大臣二条斉敬(なりゆき)ら公武合体派の公卿が参加し、京都守護職の会津藩と島津久光の薩摩藩が実務を担当することとなった。
 文久3年8月18日午前1時頃、中川宮、近衛忠煕、二条斉敬、徳大寺公純(きんいと)、近衛忠房ら公武合体派の公卿衆や京都守護職松平容保らが参内し、会津、薩摩、淀藩兵らも門所の門の中へ入り、門を閉ざして朝議を行い、
 一、大和行幸の延期
 二、攘夷派公家の参内の禁止
 三、国事参政、国事寄人の廃止
 四、長州藩の堺町御門警護の解任
などを決定した。
 □ これにより宮廷内は公武合体派の公卿衆によって占められることになり、三条実美(さねとみ)、三条西(さんじようにし)季知(すえとも)、沢宣嘉(のぶよし)、東久世通禧(みちとみ)、四条隆謌(たかうた)、錦小路頼徳(よりのり)、壬生(みぶ)基修(もとおさ)の7人の攘夷派公家は京都を追われ、翌8月19日、長州藩士とともに長州へ下った(「七卿落ち」)。
攘夷と参与会議
 □ 8月18日政変の直前における中央政局は「攘夷親征論」(倒幕論)が猖獗をきわめ、6月3日家茂将軍は参内して帰府の許可を得て江戸へ帰ったことは、上に述べた。3月4日に入京してわずか3ヶ月の在京であった。
 しかし8月18日政変により長州勢力は転がり落ちるように京都から一掃された。幕府は長州急進派が一掃されたことにより攘夷の空気も和らぎ、開港して間もない横浜鎖港を沙汰やみにすることを期待できると考えたのである。幕府は老中酒井忠績(しげ)(先に罷免された小笠原長行の後任)を京都に遣わしたが、案に相違し、宮中から忠績に下されたのは横浜鎖港を猶予するなという督促の沙汰書であった。
 この頃長州に代わって薩摩藩が勢力を伸長させており、島津久光は歩・砲兵を併せて約16,000名を率いて上京、松平春嶽(10月18日)、伊達宗城(11月3日)、一橋慶喜(11月26日)、山内容堂(12月28日)の「公武合体派大名」が相次いで上京するに至り、12月30日「容易ならざる時節につき、参予あるべく御沙汰候事」とする勅命が下った。これらの者に加えて京都守護職の松平容保を加えた5名が参予に任命され、翌文久4(1864)年1月13日に島津久光が任官あって参与の列に加わり、6名をもって参予会議が発足した。幕閣としては、幕府の上に政策会議が置かれることを苦々しく思っていたことは想像に難くない。
   参予会議のメインテーマは横浜鎖港と長州処分である。ところが、参予大名は、急務であるとされた横浜鎖港問題をめぐって最初から対立し、早くも暗礁に乗り上げてしまった。
 □ 1月21日、将軍家茂が再度上洛して参内する。天皇は家茂を右大臣に叙し、政権委任の勅書を下したが、その文言には「それ攘夷征服は国家の大典、ついに膺(よう)懲(ちよう)の師を興さずんばあるべからず。然りと雖ども、無謀の征夷は実に朕が好むところに非ず。しかる所以(ゆえん)の策略を議して以て朕に奏せよ」とする一文があったためこれが物議の的となった。鎖港はせよ、しかし無謀の征夷はすべからずというのでは筋が通っていないというべきであろうが、真意は幕府において然るべく処理して欲しいというところなのであろうか。
 □ 参予大名は2日おきに会合したが、次第に対立は激化し、同床異夢の姿が露呈し、2月25日山内容堂、3月9日にはその他全員が辞表を提出し、参予会議は空中分解してしまった。

「一会桑政権」

 □ 3月25日、慶喜はかねて(文久元(1862)年7月)拝命していた将軍後見職を解かれ、新たに設けられた禁裏守衛総督・摂海防禦指揮の職に任命された。水戸藩から数百人の兵員の支援を受け、7,500俵の手当も与えられた。慶喜ははじめて軍隊を持ったのである。
 4月7日、軍事総裁職に遷(うつ)されていた会津藩主松平容保が京都守護職に復職し、同11日、桑名藩主松平越中守定敬(さだあき)(容保の実弟)が京都所司代に就任する。ここに慶喜・容保・定敬(一会桑=一橋、会津、桑名)の三者が連係して、江戸の幕府と京都朝廷との間に介在して独自の政治勢力を形成することになるのである。この政権を一会桑政権という説もあり、幕閣としては面白くなかったに違いない。種々の確執も生じた。
 □ 同月16日、従前諸大名に分担せしめていた京都市中警衛の任務を、これ以降、一橋家、幕府歩兵組、京都守護職預りの新撰組(守護職預り)、そして京都所司代が警備地区を分担することとなった。
鎖港の実務化
 □ 文久3年5月10日が奉勅攘夷期日と定められたことを受け、翌日以降長州藩がアメリカ商船を、次いで5月23、26日にフランス、オランダの軍艦と交戦したことは既述した。
 □ 八.一八政変の1ヶ月後になるが、文久3年9月14日、幕府はさきの勅諚にある横浜鎖港問題を形だけにせよ実務化するため、米国公使ブリユインとオランダ総領事ボルスブルックを築地の軍艦操練所へ呼び出し、老中水野忠精(ただきよ)・板倉勝静(かつきよ)らが応接して横浜鎖港の交渉を行った。
 幕府は開国以来「和親」と「友好通商」を区別する論法を度々用いてきたが、今度も国内の人心不折合が高じて大規模な反乱すら生じる可能性もあり、通商を犠牲にするのが和親をまもる途だと主張した。米蘭両国代表はこのような二元的な論理をもとに交渉することはできないと突っぱね、その後幕府は英仏両国にも交渉を呼びかけたが両国は呼び出しにすら応じなかった。

遣欧使節団の編成

 □ たまたまそのころ、フランス公使ベルクールは辞任して帰国することになっており、日本政府にフランス政府への謝罪の使節を送って欲しいと申し入れてきた。その謝罪というのは、2件あった。
 ①この年(文久3年)9月2日に横浜郊外井戸ヶ谷(現在の横浜市南区井土ヶ谷下町)を騎馬で行動中のフランス陸軍中尉カミュ(アフリカ連隊分遣隊付)が攘夷浪人に斬殺された事件の解決、及び②同年5月23日、下関海峡で長州藩に砲撃された仏艦キェンシャン号の賠償問題であった。
 そして、そのついでに、鎖港談判をしようと思えばできないこともないであろう、とほのめかした。
 幕府は渡りに舟とこれを歓迎した。
 □ 正使には池田修理長発(ながおき)に白羽の矢が立った。長発は、1250石取りの旗本であり、昌平坂学問所きっての秀才である。
 文久3年9月12日、長発は外国奉行を仰せ付かり、10月16日に諸(しよ)大(たい)夫(ふ)となって筑後守に昇叙され、12月1日、遣欧使節の正使たることを老中板倉周防守勝静から命じられた。当時数えで27歳の青年外交官であった。
 副使は外国奉行河津伊豆守祐邦、目付は河田相模守煕(ひろむ)、随員としては外国奉行支配組頭田辺太一以下16名、それに従者・雑役を合わせて総勢34名、他にベルクールのもとで働いていたオランダ生まれのフランス人ブレックマンが通詞として同行することになった。
 □ 文久3(1863)年12月27日午前中に使節団は筑後守の屋敷を出発し、その日の午後一行が品川を経て横浜へ向かう途次、休憩した川崎宿本陣から望見した幕府軍艦「翔鶴丸」(同年米国から買受けたばかり)に家茂将軍が上洛のため坐乗していた。筑後守は将軍が攘夷の勅旨を受けるため翌朝京へ向けて大政の再委任と攘夷の勅諚を得るため出発すると聞き、自らの任務を想って大いに感激した

幕府の二枚舌

 □ しかしこの使節の派遣については裏があった。綱淵謙錠「幕臣列伝」(末尾参考資料参照)によると、随行した田辺太一は後に次のようなことを述べているという。以下幕臣列伝より引用する。
 即ち「田辺によれば、幕府はこの機会に正論正義をもって朝廷の蒙を啓くべきなのに、その誠忠をあえて尽くそうとする胆力に欠け、いたずらに一時の譴怒(けんど)を恐れて、攘夷の即時実行は不可能だが、せめて横浜一港だけは閉鎖して、朝旨の万分の一をも貫き申す覚悟であり、そのためすでに談判使節の者を締約各国に差し向けました、という一時的糊塗策を将軍上洛の〈手みやげ〉にしたのだ、というのである。」
 つまり、万が一にも外交交渉が成功すれば幕府の尊皇の姿勢をアピールでき、不成功に終わっても使節団がフランス、オランダ、イギリス各国を歴説しているあいだに必ずや3,4年は過ぎるであろうから、その間に人心も一定するだろう、という「当座しのぎの欺瞞策」にすぎなかった、というわけである。 使節団は、ただヨーロッパをうろうろとさまよい歩いて時間かせぎをしていれば、それで良いのであった。それでは使節団としてはたまったものではない。

使節団出発

 □ 文久3年12月29日、池田長発の使節団は、フランス軍艦ル・モンジュ号に乗船して横浜を出港した。上海でフランス郵船に乗り換え、香港、サイゴン、シンガポール、セイロンで便船を乗りついで紅海に入り、アデンからスエズに到り、そこで汽車に乗り換えてカイロを経、アレクサンドリアに着いた。(そのとき港の砲台から発せられた19発の祝砲による歓迎を受けた。)この間カイロに滞在中一行はピラミッド見学ツアーを企画している。文久4年(1864)年2月28日(但し、2月20日に元治と改元)のことである。
 アレクサンドリアで飛脚便を得て、元治元(1864)年3月10日にマルセーユ着、再び祝砲の礼を以って迎えられ、10台の馬車に分乗し、マルセーユホテルに到着した。マルセーユでは市長による歓迎会が催された。
 3月16日パリのグランド・ホテルに着いた。使節団は皇帝ナポレオン3世宛の国書を奉呈し、皇帝ナポレオン3世の招待を受け皇帝が執行する観閲式を見学した。一行は受閲部隊2万人の威容に圧倒された。また一行は皇帝の意向を受けパリの市中を見物して廻った。道路は石畳で舗装されており、ガス灯が点っていた。高層の石造りのホテルには使節団を圧倒した。
 □ 筑後守がパリでフランス外相ドルーア・ド・ルイと初めて会見したのは元治元(1864)年3月20日のことであり、4月2日から前後7回の外交交渉が行われた。会談は外相の執務室で行われ外相は仕事の傍ら使節団と話をした。
 第1回の会談はカミュ中尉の賠償問題を協議し(後にこの問題は中尉の遺族に2万5000ドルを以て解決)、次いで外相から横浜・長崎に保税倉庫(entrepot)設置の要求がなされ、日本側はこれを承諾し、さらに日本側が国情の不穏を説明して、これまでの約定不行き届きの弁解をすると、ド・ルイから「日本政府がもし開港によって生ずる国民の反抗を鎮圧できないときは、いつでもフランス政府はご援助いたしますよ」と本気とも脅しともつかぬ申し出を受けた。
 今回の使節団の本筋である〈横浜鎖港〉問題が議題にのぼったのは、4月11日の第2回会談であった。
 この会談で池田は国際会議を提案し、フランスはこれを拒否。フランス側は横浜、長崎、箱館の3港を自由港にするよう要求。第3回の会談(4月12日)では下関海峡で長州藩が砲撃した仏艦の賠償問題が持ち出され、会議の流れは肝心の横浜鎖港問題から離れていった。外交交渉に熟達していない長発は、ド・ルイ外相の巧みな外交術に翻弄された感がある。第4回の会談(4月23日)で、キンシャン号砲撃の賠償として14万ドルの支払いと、下関海峡の仏国船の自由航行を承認させられ、そのうえ第5回会談(5月1日)では、長崎・箱館を自由港とすることを認め、横浜居留外国商人の移転費を日本政府が負担するいう大きな譲歩までして池田は「横浜鎖港」を要求したが、ド・ルイ外相はついにこれに応じないので、筑後守は3港の自由港要求をはっきりと拒否し、その日の会談を終わったのである。
 
 □ 筑後守は第5回会談の翌日5月2日、非常の決意を以って使節団幹部の秘密会議を招集した。筑後守は昨日までの日仏会談の経緯から得たある決意を、使節団の幹部一同に表明した。
 即ち筑後守は自らを開国論者へと変身させた旨を宣言した。若手官僚きっての秀才である彼は、自らの任務(「横浜鎖港」の貫徹)に忠実でなかったはずはない。しかし論理的に考えれば、「人心不折合」を打開するために諸外国との間に約束した通商をとりやめたいとする論理が無理筋であることはいやおうなしに判ってきた。
 筑後守はこうした不合理を主張し続ける苦しみを感じていた。彼の胸中に芽ばえたのは、渡仏以来肌に感じる西洋文明の華やかさと強さに由来する異文明への目覚めであった。地には崖にうがったトンネルを通って蒸気機関車が走り、空には気球という風船が飛び、海には巨大な蒸気船が浮かんでいた。通信に電信機(テレグラフ)が用いられ、病気に罹った随員の1人(横山敬一)の病状と訃報がこれを以って報告されもした。
 筑後守は、この幹部との会談において従来の攘夷主義から脱却し、日本の将来は開国以外にないと結論付けた。朝廷のご機嫌とりのために「横浜鎖港」といった、非現実的な外交政策を持ち出すような、姑息因循な幕閣の態度を改めさせ、世界に通用しない過激派浪士の考えを破摧(はさい)させるにしかず。このうえは当使節団は一刻も早く帰国して攘夷の愚かさを説くのが我々の義務であると、筑後守は強く一同を説得した。パリにこのまま居続けたい者もいたであろうが衆議は帰国に一決した。
 □ 第6回会談は、5月7日に行われた。筑後守はイギリス、オランダ等の他のヨーロッパ諸国の歴訪を中止し、帰国することを告げ、第7回会談(5月17日)で、大略次の3項を骨子とする「パリ約定」に怱々に調印した。
 一、使節団帰国後、3ヶ月内に、キャンシャン号砲撃の賠償金として、幕府から10ドル、長州藩から4万ドルを支払うこと。
 一、使節帰国後、3ヶ月内に、下関海峡の仏国船の通航を開き、もしそれができないときはフランスが海軍力を使用することを承認すること。
 一、日仏両国の貿易品の関税を軽減すること。
 
 □ こうして日本使節団は、同日午後3時頃、この約定に調印を済ませ、午後4時過ぎホテルを出発し馬車を雇って汽車駅に至り、61日間にわたる滞在を終えて慌ただしくパリを去った。
 翌18日正午、マルセーユ到着。25日、イギリス船に乗り込み、26日出帆。7月18日、一行は横浜に帰着した。
「しばらく箱館へでも行っておれ」
 □ 上述の通り幕府は短くとも使節団は3~4年の間ヨーロッパを歴訪して時間稼ぎをしてくれるものと思っていたから、池田使節団の突然の帰国に狼狽した。 しかも7月18日といえば、京都において禁門の変が勃発した日である(後述参照)。タイミングは最悪である。幕府が慌てるのも無理はなかった。
 午後4時頃、上陸した3使節が馬で神奈川奉行の官邸に入ったところへ外国奉行や目付が押し掛けて来て、「このまましばらく上海なり香港なり、そうでなければ箱館へ行っておれ」と言い、押し問答の挙句、筑後守は制止を振り切り、7月21日江戸城へ入り、家茂将軍直々に面謁し開国を説いた。官吏として服務規律違反であるが、筑後守はパリ滞在中から神経を病んでいたようである。
 
 □ 7月23日池田は任務を果たし得なかったことを咎められ御役召放ち、半知600石召上げのうえ隠居と蟄居を命ぜられた。副使河津、目付河田以下、田辺太一まで夫々免職のうえ逼塞または閉門に処せられた(使節団が任務を果たせなかった場合に備え、懲罰の筋書まで事前に準備されていたという説もある)。気の毒と言う外はない。
 翌7月24日幕府は長発が調印した「巴里条約」の廃棄を英仏米欄に通知し(「巴里廃約」)、四国もこれを認めた。
その後池田長発、河津、河田の3名は連署で6000文字に及ぶ報告並に建白書を提出した。
 時の動きに従い、2年後長発は軍艦奉行並に召し出されたが、すでに病は明らかであった。彼は明治維新後、病を養い乍ら生き、明治12年(1879)年9月、43歳で歿した。

大政委任と横浜鎖港の国是化

 □ さきに一寸触れたが池田使節団が横浜を出発した日の前日である文久3年12月28日翔鶴丸は将軍家茂を乗せて横浜を解纜し、大政再委任と横浜鎖港の勅諚を受けるために上洛の途についている。さきに上洛していた慶喜は元治元(1864)年4月20日、朝廷より幕府への大政再委任、横浜鎖港に関する次の勅諚を将軍家茂に賜らせることに成功する(名古屋前藩主徳川慶恕(よしくみ)、政事総裁職松平直克らが参内してこれを受けた)。
曰く、 
「幕府へ一切御委任被遊候事故(ことゆえ)、以来政令一途に出、人身疑惑を不生候様被遊度思食(おぼしめし)候、(中略)但、国家の大政大義は可逐奏聞事(そうもんとぐべきこと)」とするもので、横浜鎖港は是非とも成功させるべきこと、但し「先達て被仰出候通(おおせいだされそうろうとおり)、無謀の攘夷は致間敷事(いたすまじきこと)、その他この勅諚は海岸防禦につとめることとし「長州御処置の儀は(中略)御委任の廉を以て十分見込の通処置可致候事」とし、併せて世上物価高騰の折から人心の和合につとめるよう処置すべきことなどの事項を告げていた。
 幕府への大政一任を果たし、政令の一元化(公武合体)を完了させた将軍家茂は元治元年4月29日参内して奉答し、5月7日京を立ち、5月16日に大阪を出航し、20日に着府、政局に対処する。
 この頃(5月17日)、先述の池田使節団は既述の通りパリ条約に調印している。

禁門の変(蛤御門の変)

 □ 8.18政変の後長州藩は中央政局から遠ざけられたとは言え、京坂における長州びいきの風は依然と根強く、一部の攘夷急進派浪士等は京坂地区に潜伏して再起の機会をうかがっていた。
 やがて彼らは、元治元年3月頃から、勢力の挽回を図って活発に動き始め、京都を追われた長州藩本隊(七卿ら)と、京都に残留して逼塞していた京都支隊は、相呼応して、天皇を掌中に取り戻そうと画策していた。
 ところが元治元年6月5日、蜂起の謀議をするため、京都の旅館池田屋において会合していた急進派は幕府警察(新撰組)に急襲され、11名が斬死、20余名が逮捕され、京都における支隊は壊滅した。
 □ 長州藩の京都支隊が壊滅した後の6月16日、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の三家老が藩主父子から下された黒印状(軍令状)を携え、真木和泉など他藩の志士らも含めた3000人余の兵からなる長州藩本隊を率いて京都へ進発、黒印状を国司信濃に与え、伏見口、山崎口、嵯峨口(天竜等)の三方から京都洛中を包囲、そして長州全軍は7月18日深夜、突如、京都へ進撃した。しかし伏見口から発した藩兵は、幕軍である会津藩兵、大垣藩兵、彦根藩兵に撃退され、嵯峨口から進撃した一隊1000余人は蛤御門を攻撃するが、蛤御門を守る会津藩兵は、乾御門を守っていた西郷隆盛ら薩摩藩兵、桑名藩兵の応援に助けられ、また長州藩参謀の来島又兵衛が銃撃を受けて戦死。蛤御門へ攻め込んだ長州一隊も崩れて潰走した。他方山崎口天王山から入京した一隊は、堺御門の越前藩兵及び会津藩兵とによって挟撃され、壊滅状態となった。
 世に禁門の変(蛤御門の戦いとも言う)と言われるこの3日にわたる事変は長州藩の敗北に終わった。これにより家屋3000が焼失した。
 □ ところで会津藩兵は長州藩の敗残兵を捕らえるやこれに対し残虐な取扱いをした。勝海舟は「...聞く。京地(京都)にて会藩、生捕りの者、残らず斬首と云う。・・・或いは私怨に出ずるか」日記においてこう慨嘆しているという。後年戊辰戦役において長州勢が会津にて領民までを虐殺、東北へ追いやった(斗南藩とした)こともこのことが遠因となっている。

長州征伐の勅旨

 □ 禁門の変を惹き起こした長州藩に対する孝明天皇の憤りは激しく、7月24日慶喜に対し次のような勅旨を下した。
「松平大膳太夫(だいぜんのだいぶ)儀 かねて入京を禁ずるところ・・・・・容易ならざる意趣を含み、既に自ら兵端を開き、禁闕(きんけつ)に対して発砲し候条その罪軽からず。加ふるに、父子黒印の軍令状国司信濃に授けし由。全く軍謀顕然に候。旁(かたが)た(ついては)防長に押し寄せ速やかに追討これあるべき事。」
 こうして長州藩は一日にして朝敵になった。7月26日、江戸桜田の長州藩上屋敷以下の藩邸はことごとく没収・破却され、留守役人は捕縛された。8月22日、藩主父子の官位と賜字が剥奪されて慶親は敬親(たかちか)、定広は広封(ひろあつ)と改名した。
 京都内部の親長派公卿に対しては、有栖川宮幟仁(たかひと)親王、熾仁(たるひと)親王、前関白鷹司輔煕(すけひろ)、同輔政(すけまさ)の参朝停止、日野資宗(すけむね)、中山忠能(ただよし)、大炊御門家信(おおいみかど いえのぶ)、正親町実徳(おおぎまちさねのり)、橋本実麗(さねよし)、勧修寺(かじゆうじ)経理(つねのり)、五辻安仲(やすなか)、石山基文(もとぶみ)等11人が禁足を命ぜられた。
 □ 元治元年8月2日、将軍家茂は長州征討のため自ら進発すると発表した。8月4日、長州征討令を下して、まず、福井藩主松平茂昭(もちあき)に副総督を命じ、翌5日、紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)を征長総督に任命した。
 ところがわずか2日後の8月7日、徳川茂承は突然征長総督から更迭され、代わって前の尾張藩主徳川慶勝が指名される。いきなり総督が入れ替わった理由は不明であるが、早くも幕府内部に不一致が生じていたことを窺わせる。
 □ 念のため言うと長州征討の勅命の下った7月27日には、英、米、仏、蘭の四国が連名で下関海峡の安全航行の保証とこれが容れられない場合に軍事行動を起こす旨を長州藩に通告した。
下関に対する四カ国連合艦隊の攻撃
 □ 既述の通り四カ国が長州への攻撃を手控えていた1年ほどの間、長州は下関海峡の守備力の増強につとめた。まず守備兵力を2000人以上に増強し、下関海峡に面した砲台の増強に力を入れた。大砲は攘夷戦開始時には30門程度であったが、増強後は約120門になった。しかし、これらの大砲はすべて青銅製の前装滑腔砲であった。
 □ 年が元治と改まり春頃から英国公使オールコックの主導(休暇明けで帰日していた)で長州攻撃が次第に具体化した。
 幕府の横浜鎖港の提案はあたかも本気であるように装いながら実はやろうと思っても出来ない体の提案として諸国に通知されたものであることは既述したが、諸外国はかかる提案を国交を断絶する意思のあるものとして深刻にとらえ、イギリス等はこの提案に対し武力行使は不可避であると判断するに至った。英国は当初自国の艦船が攻撃されなかったことから、事態を静観していたが、下関海峡の封鎖によって長崎の日英貿易が激減してきたことに照らし、下関海峡の自由航行を確保するには長州藩を武力で屈服させるより他に方法がないと考えるようになったのである。
 □ 過ぐる4月20日に政事総裁職松平直克(川越藩主。松平慶永の後任)を通じ、横浜鎖港を命じる叡慮が伝えられ、同月29日家茂将軍が参内しこれを受けていた頃、オールコックはフランス、オランダ、アメリカの公使、総領事に通商条約による権利の確保と、日本の攘夷対策について会議を開くことを申し入れ、5月30日、オールコックの主催で四カ国会議が開催され、幕府に対して下関海峡の通航の自由、長州藩主の処罰を申し入れた。幕府と四国との間に交渉が行われ、幕府から長州藩の処分は幕府に一任してほしい旨が7月22日に回答され、四カ国は連名で幕府に対し20日以内に下関通航の安全に関して満足な保証が得られないときは、事前協議ないし軍事行動に出ることを通告した。
 その頃ロンドンに留学していた長州藩の伊藤俊輔と井上聞多が変報に接し急遽帰国し、英国公使館と長州藩に働きかけて停戦工作を開始した。
 しかし2人の停戦工作は失敗し、長州の攘夷決行の方針を変えることはできなかった。 
 
 □ 8月15日、四カ国は武力行使の行動計画に関する覚書に調印し、各艦は出撃準備を開始した。攻撃に参加する軍艦は英国9隻、フランス3隻、オランダ4隻、米国1隻(但し武装商船)合計17隻で、備砲の総計約280門(文献により多少差がある)。総兵力5000人という大艦隊であった。連合艦隊の総司令官には英国艦隊のキューバー提督が、また副司令官にはフランス艦隊のジョレス提督が就任した。
下関戦争における英、仏、蘭、米艦隊の構成.jpg

   8月28日、29日にかけて艦隊は横浜を出港し下関に向かい、9月2日、3日にかけて艦隊は姫島(大分県国東半島北端の沖合にある小島)の沖に投錨した。
上海からの石炭船も加え、艦隊は全部で18隻になった。

1864 横浜港.jpg

横浜港に集結する英仏蘭米の艦隊(元治元(1864)年7月撮影

                                     出典:横浜開港資料館の絵はがきより

 □ 艦隊は9月4日朝9時に抜錨し、三縦陣(英国艦隊を中央に、左にフランス艦隊、右にオランダ艦隊)を形成して、下関海峡の入口に進み、午前3時頃、部崎沖(現在の門司港の近く)に投錨した。
 9月5日(旧暦8月5日)、午後2時すぎ、艦隊は海峡を目指して微速前進を開始した。
  午後3時40分、潮の流れが緩やかになり。正確な照準が可能になったので、旗艦ユーリアシス(英)のアームストロング砲から前田砲台に向かって初弾が発射され、次いで壇ノ浦砲台へと一斉に砲撃が開始された。
9月5日(旧暦8月5日)の艦隊配置.jpg
9月5日の艦隊配置
出典:元綱数道「幕末の蒸気船物語」(成山堂書店、2004)80頁

 □ 5時過ぎに撃ち方止(や)めの信号が出た。この後、バーシューズ(英)とメデューサ(蘭)が海岸に近づき陸戦隊を上陸させて前田砲台の大砲の火門に鉄釘を打ち込み使用不能にした。
 9月6日午前7時砲台をすべて使用不能にするため陸戦隊が上陸を開始した。上陸部隊の人数は英国兵1,400人、フランス兵350人、オランダ兵200人、アメリカ兵50人の計2,000人であった。陸戦隊は軍艦から援護を受け午前10時前田海岸への上陸が完了した。

 □ 上陸部隊は長州藩兵と激しい戦闘を続けながら大砲を破壊した。9月7日から8日にかけて、大砲の破壊と撤去が告げられた。
 前日鹵獲した砲と合わせると62門(100門以上という説もある)になった。この戦闘を通じて連合軍側の死者は12人、負傷者は50人で合計62人となった。 これに対長州側は死者18人、負傷者29人、合計47人であった。

和議の成立

 □ 9月8日午後、藩首脳部は下関海峡の砲台が全滅したので、これ以上の戦闘続行は不可能と判断し、和議を申し入れ、9月14日、停戦協定(下関協約)が成立した。

 ① 外国船が関門海峡を通航するときは懇切に取扱うこと
 ② 石炭・水・食糧など必需品を売渡すこと
 ③ 風波の難に遭った場合は船員の上陸を許可する。
 ④ 関門海峡での砲台新設・修理、大砲の備置を禁止すること
 ⑤ 下関側から発砲したものであるから、此度焼失せしむべきところ、下関の町を焼かなかった代償および戦費償却のための賠償金を支払うこと、その処置は江戸における四国公使の決定に従う。
とするものであった。この内容は幕府の関与しないところで長州藩と四国が和親の方向へ進むように写り、日本政府の専権であるべき外交交渉を行っているに等しく、幕府にとっては苦々しいものであった。その後8月18日、四国代表は横浜で幕府外国奉行竹本淡路守正雅・柴田日向守剛中(たけなか)と会見した。英公使オールコックは、長州側では外国船砲撃は自藩の意思ではなく朝廷・幕府の攘夷命令に従って実行したと主張しているが事実かと幕府に回答を求め、むろん幕府はこれを否定している。
 確かに四カ国との話し合いで長州側の交渉団(高杉晋作を代表とする)はイギリスから吹っかけられた300万ドルの請求には到底応じられないし、戦闘は攘夷の幕命に従ったのみ、として戦争責任は幕府にあると強弁した。幕府としてはかかる長州藩の動きは腹に据えかねたであろうが、もし長州藩が四国側と交渉をこれ以上独自に行うとすれば、長州藩が日本を代表して外交を行っているととられかねず、それは受容できないところであった。幕府は辛い立場に立たされた。
 □ 9月6日、品川沖に艦隊を配して威圧を加えながら、四国代表は老中牧野備前守忠恭(ただゆき)・同水野和泉守忠精(ただきよ)・若年寄酒井飛騨守忠毗(ただます)・同立花雲守種恭(たねゆき)と会談し、なんと幕府に向かって下関償金(法外というべき300万ドル)の支払及び下関かこれに準ずる港を瀬戸内海に求め開港することを要求してきた。オールコックの外交方針は、償金の取り立てよりも、下関を開港させ、通商拡大の突破口とすることを優先していた。幕府は損害賠償の請求には応ぜず開港に応ずるであろうと推測していたのである。しかし、幕府は償金の支払いを呑んだ。勝手に戦に及んだ長州藩のツケを払わされた格好になった。
   結局9月22日横浜で次のような約定が成立した。約定の前文には「謀反の大名を罪すること大君政府の職務なれば」という文言が置かれている。無念の思いを仮託したのであろう。中央政府の辛さと言うべきであろう。
 ① 各国に支払う償金を300万ドルとする。長州諸侯の暴挙に対する償金、下関を焼かなかったことへの償金、その他艦隊の諸雑費を含むものとする
 ② 右の額は三箇月毎に50万ドル宛支払う
 ③ 右償金の支払の代わりに、もし下関港あるいは(瀬戸)内海にある貿易に適宜な港(兵庫を想定)を開くことを申し出るときは四国はそれを承諾するか、金員で受け取るかを取り決めることとする。
 幕府はこれに対し、下関開港を拒絶し、過重な負担に堪え300万ドルを支払うことを決めた。余談ながら分割支払い債務は明治政府に承継された。


<参考文献>
・元綱数道「幕末の蒸気船物語」(成山堂書店、2004)
・保谷徹「幕末日本と対外戦争の危機-下関戦争の舞台裏(吉川弘文館歴史文化ライブラリー289、2010)
・家近良樹「江戸幕府崩壊 孝明天皇と『一会桑』」(講談社学術文庫、2014)
・田中惣五郎「最後の将軍徳川慶喜」(中公文庫、1997)
・宮地正人「幕末維新変革史(上)」(岩波書店、2018)
・野口武彦「長州戦争―幕府瓦解への岐路」(中公新書、2006)
・鈴木莊一「明治維新の正体―徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ」(毎日ワンズ、2019)
・綱淵謙錠「幕臣列伝」(中央公論社、1981)
ページトップ