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弁護士 堤 淳一

2020年10月01日

太平洋の覇権(32)-----長州戦争

(丸の内中央法律事務所報No.37, 2020.8.1)

 【前号のあらすじ】
急進過激派が勢力を振るう長州藩は、幕府が発した奉勅攘夷令に従うと号して、米仏蘭3国の艦船を下関において砲撃し、薩摩藩は生麦事件の賠償問題をきっかけに英艦との戦闘を招き、夫々外国の軍事能力の圧倒的優越性を思い知った。しかし、「攘夷」などできるわけがないと内々では思っていても、その看板を降ろせない幕府は朝廷の強硬な意見に押され、「横浜鎖港」を打ち出し鎖港使節団をフランスに派遣するが交渉は失敗する。しかし、諸外国は「鎖港」を開国方針の破約と捉え四国連合艦隊をもって、かねて三国の艦隊に砲撃を加えた長州の下関砲台を砲撃させようと図る。この間長州藩は孝明天皇の不興を被り京を逐われ(八.一八政変)、かつは「禁門の変」を起こし皇居に向けて発砲したことによって天皇の怒りを被り、朝敵となった。天皇はかくて長州征伐を幕府に命ずる。
 長州征討令
 □ 禁門の変を惹き起こした長州藩に対する孝明天皇の憤りは激しく、元治元(1864)年7月24日、禁裏守護総督である徳川慶喜に対し次のような勅旨を下した。
「松平大膳太夫(だいぜんのだいぶ)(注:毛利慶親の名乗り)儀 かねて入京を禁ずるところ・・・・・容易ならざる意趣を含み、既に自ら兵端を開き、禁闕(きんけつ)に対して発砲し候条その罪軽からず。加ふるに、父子黒印の軍令状国司信濃に授けし由。全く軍謀顕然に候。旁(かたが)た(ついては)防長に押し寄せ速やかに追討これあるべき事。」
 □ 元治元年8月2日、将軍家茂は長州征討のため自ら進発すると発表した。8月4日、長州征討令を発し、まず、福井藩主松平茂昭(もちあき)に副総督を命じ、翌5日、紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)を征長総督に任命した。
 ところがわずか2日後の8月7日、徳川茂承は突然征長総督から更迭され、代わって尾張藩の前藩主徳川慶勝が指名される。いきなり総督が交替した理由は不明であるが、幕府内部に不一致が生じていたことを窺わせる。「幕府の紀伊中納言(茂承のこと)を罷(や)むる事情詳らかならずといえども、当時慶喜京都にありて半ば幕政を行ふ。是を以て幕府往々二途に出るの観ありしなり」と史料にあるような勢力争い、もしくは抑々長州征討に対する見方の相違が反映していたのは想像に難くない。そのような背景があったから指名された慶勝も逡巡し、病気を口実にしてなかなか就任を承諾しなかった。何度も督促されてついに辞退しきれず、渋々上京してきたのは9月21日であり、正式に請書を出すのは10月5日になってからである。
 辞任した紀州藩主(茂承)も、後任に就任した慶勝も、ともに長州征討に戦の正当性(legitimacy)を見いだすことが出来なかったのかもしれない。戦費のことを考えると余計そうだったろう。
 長州をめぐる情勢
 □ 幕府による長州征討が総督の辞令をめぐって遷延している間、長州藩をめぐる情勢は激動していた。 征討令が発せられた8月4日からいくらも経たない8月15日、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四箇国は下関攻撃の行動計画に関する覚書に調印。8月28日から29日にかけて17隻の連合艦隊が横浜を出港、9月2日から3日にかけて下関沖合に投錨した。戦いは9月5日に砲撃が始まり、9月8日には長州側の砲台は完全に粉砕され、戦いは長州の完敗に終わった。
 その後、9月14日四箇国と長州との間に、また9月22日に四箇国と幕府との間に条約が成立し、幕府は300万ドルの償金を四箇国に支払うこととなったことなどについても既に述べた。
 □ 外に「外夷」との戦争、内に征討令の発令と,長州は二正面の敵と対峙することとなり、自ら招いたことの結果とは言え、この間の情勢の推移はまことに厳しいと言わなければならない。
 藩内の権力闘争も激し、攘夷を唱えて禁門の変を惹き起こした「正義派」は「俗論派」にとって代わられる。
 長州藩の内訌
 □ 禁門の変での大敗と朝敵化、それにつづく四国艦隊下関砲撃を受けての敗退と来れば、それまで排除されていた勢力が復活し、事態の責任者処罰と自派の復権を求めるのは見えやすい時の移り変わりである。
 元治元(1864)年7月末から8月にかけて藩内の人事に異変が起きた。即ち参謀4名の罷免と京都突入部隊の責任者だった益田・国司・福原三家老が罷免(8月12日)され、徳山に監禁された。四連合国との和議成立後の8月15日には、藩内に藩主父子自ら謹慎の旨が布告された。
 攘夷派と保守派の対立が深刻化し、藩は真っ二つに割れた。幕府への恭順を専らにする「純一恭順派」と、恭順はするが幕軍進攻のうえは一戦に及ぶとする「武備恭順派」とに分かれたのである。前者が「俗論党」、後者が「正義党」と呼ばれる(もっともこの呼称は後者が自分たちを正義党と呼び、対立派を蔑称して俗論党と呼んだ)。
 9月1日、藩主敬親は親諭を発して、乱れに乱れた長州藩の暫定方針を示した。
 「今般追討軍差し向けられ候由相聞え候。その節に至り候ては誠意恭順を尽し、条理明白弁解に及ぶべく候。しかれども止むを得ず(幕軍が)乱入致し候節は、多年の適衷天地に愧ぢざるところ死を以て鴻恩に報い奉るのみ・・・」
とするものであった。
 □ とりあえず予想される幕軍の進攻に備えて民政と軍事部局を一局にまとめ、政務役に高杉晋作(150石)・井上聞多(20石)・波多野金吾(広沢兵助、真臣、100石)を抜擢して据えた。
 しかし、いずれも小禄下層の出身であって、本拠地を萩に置く門閥層の意には染まない。名門の子弟は「選鋒隊」を組織して政庁のある山口に乗り込み、徒党を組んで活動しはじめた。保守派(俗論党)の方針はひたすら恭順の態度(純一恭順)を取って長州藩を安泰に存続させることを目指したのである。
 これに対し、過激な考えを持ち下関砲撃や禁門の変に至る動きを推進した勢力は武備恭順派を形成し、幕府に対し、些かも譲るべからずと主張した。
 □ 9月25日に行われた御前会議は紛糾し、「正義党」の井上聞多は会議の帰途を襲われ瀕死の重傷を負った。その後、藩政を取り仕切ってきた周布政之助は自刃し、山県半蔵は下関に、高杉晋作は博多に潜伏し、「正義党」の力は大きく後退した。保守派は、指導者の椋梨藤太を国事用掛に復活させて陣容を新たにする。10月21日、抵抗の姿勢を示していた奇兵隊以下の諸隊に解散が命じられた。同27日、政事堂その他の役所も山口からすべて移転し、傀儡同然になった藩主の萩滞在が発表された。同じ日に高杉晋作は脱藩して九州博多に亡命した。
 奇兵隊及び諸隊
 □ ここで藩によって解散を命じられた奇兵隊等の「諸隊」について述べておこう。
過ぐる文久3(1863)年6月1日に下関海峡において米艦ワイオミングが長州藩砲撃したことは前に述べた。この戦における敵の勢力が極めて優勢であることを痛感した長州藩庁は、高杉晋作を召し出し、下関防衛を命じた。その後5日に砲台を仏艦の陸戦隊に占領されるや、高杉は翌6日下関に赴き、来島又兵衛と議し、奇兵隊を組織することとなる。
 7日の高杉上書は、
「奇兵隊の儀は有志の者相集候儀に付、藩士陪臣軽卒不選(えらばず)、同様に相交り、当分力量を蓄い、堅固の隊相調可然(あいととのえてしかるべし)と奉存候」
と説明している。藩内の身分制度を完全に度外視した有志者戦闘集団が形成されたのである。
 その後文久3年(1863)年11月現在では、この種の有志者戦闘集団としては、奇兵隊のほかに、遊撃隊・撃剣隊・市勇隊・神威隊(防長両国神職者で組織)・金剛隊・郷勇隊・狙撃隊(猟師で組織)・萩野隊等が創られている。その外にも力士隊や屠勇隊など、いわゆる「諸隊」と称される戦闘諸集団が組織されているが、これらいずれも藩の解散命令に従わず力をつけ、これ以降藩兵をしのぐ長州藩の主要な軍事力となっていくのである。
 幕府内タカ派の意見
 □ 下関戦争がまだ外交問題として話し合われていた8月23日、当時まだ勘定奉行であった小栗忠(ただ)順(まさ)(後に「官軍」によって斬首)は長州征討を急ぐべき理由を次のように述べている(京都所司代松平定敬からの意見照会に対する回答)。
 
① 長州藩はかねて京都の勢力に取り入り、朝廷の威光を借り、表に攘夷を唱え、幕府を困惑せしめてこれを倒し、開国をなそうと企図していたところ、禁門の変以来、朝廷に見捨てられた。 
② 外国(四箇国)が攻撃を仕掛けるように見せかけてもそれは表向きであり、戦争の形を取りつつ公然と和親を結ぶ手段であったが、思惑違いで実戦となり、もはや長州は内外への頼みを失ったけれども、もともと内々では和親する約定を外国と結んでいたのだろうか、合戦の後、再び和親の談判となった。
③ このような長州の罪悪は一日半時も許されがたく、是非とも至急に進発して、罪を正さなければならない。
④ しかしながら長州征討は、外国勢力を長州から引き離して進発しなければならない
 外国と裏で通じて下関戦争を行ったというのは主戦派小栗以外にも案外広く行われた説であると言うが、同時に小栗の長州征討の遅延に対する苛立ちを看取することはできるであろう。
 □ 四箇国との戦争により長州は戦力を損耗させ、藩内に著しい混乱を招いた。小栗の言うようにこの機に乗じて幕府がいち早く戦端を開き一気に揉み潰せばよかった、と考えるのは後知恵というものであり、幕府にはすぐには軍勢を動員できない事情があった。
 幕軍の戦闘配置
 □ 8月13日幕閣は諸大名に対し征討軍の部署(行軍序列)を発令した。この軍令は慶安の軍令(慶安とは年表にあたると1648-1652年のことであり、1637(寛永14)年に島原の乱が勃発している)にならうべきものとされた。何しろ軍令は200年以上も前のものであって、これにもとづく動員が旧式であることは言うまでもない(幕府はその間戦争をしたことがないということである。各家の家臣は鎧櫃(よろいびつ)の埃を払って装備したであろう)。但し時勢に鑑み大砲小銃を充実すべきことを命じていた。

  幕軍の各部署は下表の通りである。

                                      幕府軍部署

1 (芸州口)
 陸路広島から岩国を経て山口に向かうルート
[一番手]広島藩・備中松山藩・松代藩・福山藩・
[一番手応援]広島新田藩・勝山藩・庭瀬藩・播
州山崎藩
[二番手]岡山藩・竜野藩
2 (石州口)
 陸路石見国から萩を経て山口に至るルート
[一番手]鳥取藩・浜田藩・津和野藩
[二番手]津山藩・松江藩
[二番手応援]丸岡藩・雲州廣瀬藩・同母里藩
3 (周防大島口)
 海路四箇国から徳山を経て山口に進むルート
[一番手]徳島藩・伊予松山藩・
[二番手]高松藩・宇和島藩
[二番手応援]今治藩
4 (小倉口)
 海路下関から山口に達するルート
[一番手]肥後藩・小倉藩・中津藩・千束(小倉新
田)藩・播州安志藩
[二番手]筑前藩・佐賀藩
[二番手応援]唐津藩
5 (萩口)
 海路萩から山口をめざすルート
[一番手]薩摩藩
[一番手応援]島原藩
[二番手]久留米藩

              出典:野口武彦「長州戦争ー幕府瓦解への岐路」(末尾参考文献参照)

 各方面には幕府から使番が三人ずつ派遣されて軍(いくさ)目(め)付(つけ)を務めるものとされており、こうして総勢15万の軍勢が長州を包囲する作戦計画であった。

長州戦争関係地図エクセル(修正版)rere.jpg出典:「長州戦争ー幕府瓦解への岐路」(前同)

 幕府歩兵隊と天狗党の乱
 □ ところで文久4(1864)年1月に将軍家茂が上洛し、「横浜鎖港はせよ、されど、無用の攘夷はすべからず」とする勅書を受けた頃、水戸においてやっかいな騒動が起きていた。
 藤田小四郎(藤田東湖の四男)ら水戸藩尊皇攘夷派中の急進グループは、元治元(2月に文久から元治に改元)年3月27日幕府に攘夷を促すためと称して筑波山に挙兵し、彼らは攘夷資金を募るとして各地の豪農商をおそったため、人々は天狗党と呼んで忌嫌した。天狗党は攘夷を幕府に促すといいつつも、自ら横浜へ突撃して鎖港を実現する意思も実力もなく、略奪におよんだため、民衆の反発、抵抗を受け、幕府や藩内上層部=門閥派の介入を招いた。6月23日幕府はこの鎮定に軍勢を派遣することとし、幕府歩兵隊がこれに狩り出された。反乱の鎮圧に赴いた水戸藩兵を加えた鎮圧部隊3,775人のうち1,150人の幕府歩兵隊が出兵した。うち100人編成の7と1/2箇中隊が各団に12cm口径の砲を備え、兵は全員が剣付きのゲベール銃を備えていた。
 □ 幕府歩兵隊は嘉永7(1854)年3月1日米和親条約に調印した老中阿部正弘によって創設の基礎が築かれた幕府直率の洋式(オランダ式)軍隊である。
 阿部老中は海軍を含む全国規模の国防政策を構想したが。国民国家においてならともかく、徳川封建体制を維持しつつ全国統一軍を創設することは無理であり、さしあたり陸軍部隊の創設が計画された。
 □ その後家茂将軍の時代になって文久2(1862)年6月に文久軍制改革が行われ、「親衛常備軍」としての陸軍部隊が創設された。これが幕府歩兵隊を基幹とする幕府直率軍である。旗本(その知行高は全国で役275万石)対し、「兵賦令」が発せられ、各自の石高に応じて兵卒を差し出させた(五百石取りは1人、千石は3人という具合)。全数で6,300人になる計算であったというが、実際には目論見通りにはいかなかったようである。武器・付属品・衣服は貸与され、給料は旗本の自前であり、額は主人の随意とされるが1ヶ年10両以下とすることを原則とした。兵卒たちの食糧は賄いつきであった。
 □ かくして軍制改革を実行するにともない、陸軍の費用として14万6000両、大砲小銃製造費12万両、騎砲兵当番所・歩兵屯所建築費に4万8000両等々が支出されている。まさに軍隊は金喰い虫なのである。
 □ 幕府は既述の征討軍とは別だての将軍直率部隊としてこの幕府歩兵隊を長州征討に動員しようとしたが、上記の通り関東に貼り付けになり、幕府直率軍が長州戦争に参加するのは第二次長州戦争になってからである。
 征討軍出陣
 □ そのような事情はあったにせよ、幕府の威令はひとまず健在であると証明されたわけだが、さきに発表した家茂の出征は遅れに遅れ、ようやく10月4日、慶勝に黒印状(軍事全権委任状)が交付された。曰く
   「長防追討の儀、其許に委任致し候条、副将以下諸藩の面々指揮相加へられ、軍事の儀代償とも機宜見計らひ便宜の処置これあり、速かに成功を遂げられ候様致すべきものなり」
  とあった。8月2日に征討令が発されてから、まる2ヶ月が空費されていた。
 □ 10月22日、大坂城内で総督徳川慶勝・副総督松平茂昭以下・大目付・軍目付が列席して軍議が開かれ、諸軍に11月11日までに各自の攻口に到着するよう軍令を発した。
   慶勝は陸路中国路を下り11月16日広島に、茂昭は海路豊前に赴いて11月11日小倉に入り、周防長門の2州を東西から閉鎖し、11月18日を以って総攻撃とする作戦であった。
 慶勝の参謀陣には、薩摩藩から西郷吉之助(隆盛)が加わっていた。禁門の変における活躍が目を惹き参謀に登用されたのである。この頃西郷は島津久光の私兵数千を私淑させ久光をして不興にさせるほどに力を付けていた。
 和議の工作
 □ 上述した通り、長州藩には内訌があり、その様子を窺って、西郷が和議の話を持ち出した。曰く長州藩内が「敵方両端に分れ、暴党・正党と相成り居候儀、まことに天の賜と申すべきわけ、たとえ一致のものにもいたせ(一致しているものであっても)、策を廻らし両端に相成り候様致すべきこそ戦法に御座候。両立のものを一つに(両立しているものを一つにして)死地に追いはめ候儀、無策のものと申すべく、実に拙き次第に御座候」等と述べた、この際やみくもに攻め掛けるのは得策ではないと論陣を張った。
   西郷はつい最近まで長州藩を潰すつもりだった。このことは、9月7日付けの大久保一蔵(利通)宛の手紙に、 「ぜひ兵力を以て相迫り、その上降を乞ひ候はば、僅かに領地を与へ、東国辺へ国替へまでは仰せつけられ候はずては、往先(さきざき)御国(薩摩藩)の災害をなし、御手の延びかね候儀も計りがたく...」
と誌している。薩摩藩の立場に立って書かれたものであるが長州は降伏させ東国への移封でもしなければ薩摩藩にいずれ害が及ぶとするものである。
 総督参謀としての西郷の思想転換については幕臣勝海舟の影響があるという(9月11日、勝が滞在している大坂の旅館を西郷らが訪問し、西郷が啓発を受けたとされる伝説的な会見をきっかけとする)。
 □ 征長軍は上述の通り総督が11月16日広島へ、副総督が11月11日に小倉に入り諸隊の軍勢は続々と持場(攻口)に集結し、西郷の和平交渉は11月18日に予定された総攻撃を圧力にして開始された。
  長州藩との交渉の窓口にしたのは、岩国藩主吉川経幹である(同藩は昔から毛利宗家とは距離を置いており、交渉に必要な中立の立場をとりえた)。
 11月3日、西郷は岩国に入り、吉川経幹と会見して長州藩の恭順を勧めた。
 □ 西郷の示した和解案は①禁門の変の責任者である三家老の切腹、②三条実美ら五卿(八.一八政変により都落ちした7卿は1名が死亡、1名が逐電)の他藩への移送、③山口城(武備恭順派の拠点)の破却、の3点であった。
 これを長州藩の立場からみれば、征長軍との交戦を避け謝罪、恭順の態度を明らかにするためには、遅くとも11月14日までに禁門の変の直接の責任を取らせる三家老を処刑し、その首実検を総督が行えるようにしなければならないことを意味した。
 和議の成立
 □ 仲介は成功し11月14日、長州藩は、益田右衛門、国司信濃・福原越後の三家老の首級を幕府大目付永井尚志、総督名代成瀬正肥(まさみつ)に差し出し、ほかの四参謀(宍戸左馬介・佐久間佐兵衛・竹内正兵衛・中村九郎)は2日前、既に処刑済みであること、三参謀(久坂玄瑞・寺島忠三郎・来島又兵衛)は既に禁門の変で戦死したことを報告した。
 □ このため、征長軍はとりあえず総攻撃の延期を各部隊に内達、16日、総督代理成瀬隼人正(尾張藩付家老)と目付戸川絆三郎とが三家老の首実検をおこなった。
   19日、総督は吉川経幹を本営に召致し、この上は長州藩主は伏罪書を提出し、山口城を破却し、三条実美ら五卿を他国に移転させ、その従士を処置するとの請書を藩主から差し出す必要があるので、その仲介を行うようにと要求した。
   吉川の報告を受け、11月25日、長州藩主は伏罪書並びに城郭及び五卿問題の二件に関する請書を提出した。
   山口城の破却は11月19日幕府の目付戸川絆三郎がこれを見分して決着がついていた。
 □ 五卿問題は幕府の引渡請求を却け、かつ五卿の守衛に固執している長州側を説得することは容易ではなかったが、西郷の提案は五卿太宰府移転案を以って漸く決着をみることができた。この間、西郷はいままで「暴党」として批難してきた長州藩の過激派や五卿につき随ってきた諸藩脱藩浪士と知り合う機会を得、「薩賊会奸」と長州側が薩藩をののしり、「暴客」と薩州側が長州藩側を嘲り合う局面が、西郷を軸としてこの時から急速に変化しはじめた。
 和議の構図
 □ 和議が上に述べた条件で成立に至る基礎には、尾張藩をはじめとする諸藩に重くのしかかっていた軍事費の問題があった。すなわち和議の条件を釣り上げ、それがまとまらず滞陣が長引き、又は和議が不成立に終わり実戦となった場合、それに要する費用は莫大になるであろう。幕府から軍隊の経営に要する費用が出捐されるわけではなく、藩の手持ち手弁当であるから、本心を言えば誰しも戦争は避けるに如かず、なのである。また長州に勝利したとしても各藩にとって如何ほどの利益になるのか。
 幕末の諸藩はおしなべて貧乏であったから、長滞陣もまた実戦もしたくはないというのが本音であったろう。例えば総督慶勝の尾張藩は、安政3(1856)年当時で、78万両にも及ぶ負債を抱えての出陣であり、領民から15万両の献金させようとするプランも考えられたが、一揆につながる恐れがあったため不採用となり、大坂の鴻池らに融通を求めねばならなかった。
 副総督茂昭の福井藩にあっては、家臣の俸禄を削減せねばならなかった。
 作戦の実施に当たって将兵の宿泊所の確保、食糧、兵器・秣(まぐさ)の調達、馬匹の運搬等の兵站(logistics)には莫大な経費が必要とされた。また、当時たとえば大砲一門につき弾薬人夫40名程度が付属した。これらの負担をまかなうために低賃金をもって農民を徴用したことは農村の疲弊と農民の不満を招かずにはおかなかった。
 征長軍撤兵
 □ いずれにせよ、総督府は12月27日、長州藩が罪を承認したものと解し、第一次征長軍の解散・撤兵令を発した。こうして第一次長州征伐は戦い抜きで終わった。
 □ 明けて元治2(1865)年1月4日、総督は広島表(おもて)を発して帰途に就く。ところが翌5日、慶勝の宿泊先に前年12月24日付の命令書が届けられた。松平康秀・松前崇広・阿部正外・水野忠精・本荘宗秀ら5人の家老の連署によるものである。
  命令の趣旨は、
   ①毛利藩主父子及び三条実美以下7卿(すでに1人死亡、1人は逐電して5名)を江戸へ連行すること、
   ②毛利藩の家来は謹慎し、下知を待つこと、吉川家をはじめとする支藩についても同様とすること、
   ③江戸から下知があるまで、出陣している軍勢等は、現地から引き揚げることなく警衛に従事すべきこと、 □ 慶勝が仰天したことは想像に余りある。直ちに返事を書いた。
「かねて御黒印拝領御委任の御儀につき、もっぱら公武のお為を存じ上げて候て取り計らひ候義に御座候間、右等の趣厚くお汲み取り、この上の御所置御座候様仕りたく存じ奉り候」
と憤慨している。自分は全権を委任されてベストを尽くした、この趣旨を汲み取り処置相成りたいと認(したた)めたのである。そのうえで①毛利父子は薙髪(ちはつ)して隠居のこと、②毛利家は防長2州のうち10万石の削封のこと、③3つの支藩は本藩との釣合を考えて夫々処置いただきたい旨の穏便解決案を老中水野忠精に差し出した。
 水野和泉守は、この上書をただちに突き返した。出先の征長総督がまさかこんな寛大な条件で手を打ち、しかも解兵してしまうとは予想していなかったのである。
 □ 幕府は長州藩のせいで300万ドルもの巨額の賠償金を四箇国に支払わなければならに羽目に陥ったのに総督軍は一戦もせず撤兵するとは何事かというわけである。
そのうえ慶勝のもとへ早飛脚が来て、朝廷に復命するには及ばず、江戸へ直行せよと命じてきた。
 長州征討がこんな結果になった陰には、京都で「一会桑政権」による陰謀があったからではないかと幕閣は疑心暗鬼になっていたのである。慶喜はあらぬ疑いを掛けられて大迷惑であったろう。慶喜は慶勝の解兵には大の不満であり、「総督の英気至りて薄く、芋(焼酎)によ(酔)ひ候は酒よりも甚だしきとの説、芋の銘(名)は大島(西郷)とか申す由」と不満を顕わにしている。
 幕閣の猜疑は深く、12月15日、老中松前崇広・若年寄立花種恭の2人を西上させて、慶喜を江戸に連れ戻そうと図ったが、生憎慶喜は、若狭路に入った水戸の天狗党を鎮圧するため近江で出陣中で目的を果たせなかった。
 それどころか崇広は、京都で慶喜の帰りを待っている間に、尹宮・関白二条斉敬・松平容保らにつかまって逆に将軍上洛の督促の朝命を下された。
 1月16日に大坂に着いた慶勝のもとには朝廷から催促が来着し、慶勝はやむなく1月24日に入京した。これに先立ち、副総督松平茂昭は、1月12日小倉を発して引き上げ、同22日に上京した。諸藩の軍勢も相ついで長防国境から撤退を開始した。
 長州藩内のクーデター
 □ 第一次長州戦争が停戦となり藩境に駐屯していた幕府の軍勢が撤兵すると、長州藩において攘夷急進派(正義党)が巻き返しに出る。
 □ 高杉晋作がさきの政変で萩を脱して博多に潜伏していたことは既述した。
 高杉は元治元(1864)年12月15日の深夜、亡命先の博多から帰還して諸隊の決起を促した。しかし諸隊の幹部は時期尚早として反対し、同調したのは力士隊長伊藤博文や遊撃隊総将石川小五郎らわずか80名あまりに過ぎなかったが、12月15日夜半、功山寺を発った彼らは翌朝、馬関奉行所を占領、ついで三田尻の海軍局を襲って藩船3隻を奪い馬関へ回航し、これを海上砲台とした。
 □ 高杉の挙兵に驚いた藩庁は、諸隊へ協力することを禁ずる布告を藩内に発し、次いで12月24日諸隊追討軍を組織した。
 元治2(1865)年1月2日、高杉勢は再度下関会所を襲い、討奸の檄文を掲げた。この報に接した藩庁はただちに追討軍を発遣した。
 □ 高杉等の挙兵の際には行動をともにしなかった諸隊は、その後藩庁によって追討軍が組織され、反対派の処刑・投獄が強行されるに及んで反感をつのらせた。
 この結果、萩・下関の中間に位置する伊佐に移動していた奇兵隊をはじめとする諸隊5部隊は、下関の高杉勢に呼応・連合し、1月6日夜半、萩野南、美彌郡の絵堂を急襲、追討軍を潰走させた。
 □ この敗報を受け、萩藩庁は、多数の藩士を招集、諸隊の反抗を一挙に撃破しようとし、1月10日、11日の両日、同地で迎撃する諸隊と激戦を続けたが、勝敗を決することができなかった。その後諸隊の兵は1月7日小郡を占拠し、進んで山口に入った。その後追討軍は要衝の地大田を抜こうとしたが撃退され、この当日、下関の高杉・伊藤・河瀬の一隊は大田の諸隊に合流し、16日には、高杉等の遊撃隊が赤村の地で追討軍を破った。このように萩藩庁総力を結集してすら諸隊が連合した勢力に勝利することができず、藩南半の地を喪失するという深刻な事態に至った状況をにらみ、萩城下には内訌中止を目指す鎮静会が組織された。
 □ 2月中旬に入ると、この鎮静会が萩藩庁の実権を掌握するようになり、ついに2月27日には藩主自らが山口に出向き、同地で諸隊の総督を引見・説諭して復権させる事態に至った。投獄されてきたものや高杉晋作らは罪を許され、予ねて自刃を迫られた三家老の家は再興を許された。ながらく但馬国出石に潜伏していた桂小五郎は4月26日下関に上陸し、5月13日、藩主に謁した。
 他方、閏5月28日、守旧派指導者だった椋梨藤太は斬首され、中川宇右衛門は自刃を命じられた。
 □ 「武備恭順」体制を固めた長州藩は、軍制を洋式に改め、諸隊を基礎とする軍事力を形成してゆく。
 長州藩尊攘派は藩権力を奪取したときすでに尊攘派から脱皮し、討幕派へと成長転化を遂げていたのである。
 この転化を下から支えた経済的基盤は、開港による打撃を被りつつあるとはいえ、豊かな農村地帯であり、一般農民層を掌握している豪農豪商層の存在であった。因みに海や農村から挙がる年貢が後に倒幕の資金をなしてゆく。

  <地図制作>高橋亜希子
<参考文献>
・野口武彦「幕府歩兵隊―幕府を駆けぬけた兵士集団」(中公新書、2002)
・野口武彦「長州戦争―幕府瓦解への岐路」(中公新書、2006)
・元綱数道「幕末の蒸気船物語」(成山堂書店、2004)
・保谷徹「幕末日本と対外戦争の危機-下関戦争の舞台裏(吉川弘文館歴史文化ライブラリー289、2010)
・家近良樹「江戸幕府崩壊 孝明天皇と『一会桑』」(講談社学術文庫、2014)
・宮地正人「幕末維新変革史(上)」(岩波書店、2018)
・綱淵謙錠「幕臣列伝」(中央公論社、1981)
・石井寬治「明治維新史―自力工業化の奇跡」(講談社学術文庫、2018)
・松原隆文「最後の将軍徳川慶喜の苦悩」(湘南社、2019)

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