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弁護士 筑紫 勝麿(客員)

2016年01月01日

ドイツ再訪 ―再統一から25年の現状―

(丸の内中央法律事務所事務所報No.28, 2016.1.1)

ベルリンは建設ラッシュ

昨年8月に久しぶりにドイツを旅行しました。1990年にドイツが再統一してから昨年は25年という節目の年でしたが、私はその前の1978年から81年までの3年間、当時の東ベルリンにあった在ドイツ民主共和国大使館(通称、東ドイツ)に一等書記官として勤務していましたので、この間のドイツとベルリンの変遷を自分の目で見てみたいと考えて旅行を思い立ちました。

ベルリンの街は大きく変わりつつありました。中心部にあるブランデンブルグ門からウンターデンリンデン(菩提樹の並木通り)、そして博物館の島に至るまで、一帯は地下鉄や博物館建設の工事中で、その途中にある国立オペラ座も昔の外観を残しつつ改修工事が行われていました。ベルリンは周囲を森と湖に囲まれた緑豊かな町ですが、地形的には湿地帯に当たるので、工事は地下水との闘いのようでした。

博物館建設の裏話として聞いたのですが、帝政時代の王宮はかつて博物館の島にあり、第二次大戦での被害はそれほど大きなものではなかったにも拘らず、戦後の東ドイツ政府がこれを完全に壊して人民議会などが入った共和国宮殿に立て替えていました。再統一後のドイツ政府はこの共産党時代の建物を壊して、昔の王宮の外観に立て直し、これを博物館として活用する計画とのことです。

壁の崩壊による東ドイツ政府の崩壊は、イデオロギーの崩壊でもあり、その象徴であった建物にこのような影響が出ています。ちなみに、かつての国家評議会(いわゆる大統領府)と共産党本部(正式には社会主義統一党と言っていました)の建物はそのまま残されており、今後どのような変遷をたどるのか興味深いところです。

80年代の日本・東ドイツの経済関係は良好

私が大使館に勤務していた1980年前後の時期は、日本と東ドイツの関係が大変良くて経済関係のプロジェクトがいくつもあり、日本の商社が10社事務所を出していました。私の仕事は、日本からの政治、経済の要人の訪問をアレンジすることや、春と秋のライプツィヒ見本市(これは世界で一番古い見本市です)に大使と一緒に出席し、各国の展示場を巡回してくる東ドイツ首脳に歓迎の言葉を述べることでした。当時、日本からの賓客としては、衆議院議長(灘尾弘吉氏)や、経団連会長(斎藤英四郎氏)、日銀総裁(澄田智氏)等が来られました。その際の東独側の接遇は徹底したもので、飛行機の側での出迎え、空港貴賓室での休憩、パトカーの先導での都心入りと続き、日本からのお客さんは皆東ドイツが好きになったようでしたが、私にとっても、これらのお客さんと一緒に東ドイツの要人と会うことができ、通訳も勤めるなど大変良い経験になりました。

しかし東ドイツの経済は、二度の石油ショックを経て次第に悪化し、政治的な自由が制限されていることとあいまって、国民の不満が高まり、ついに198911月の壁の崩壊となりました。当時、そのきっかけとなったのはハンガリーで、東ドイツの旅行客がハンガリーとオーストリアの国境に押し寄せ、結局ハンガリーの国境警察が持ちこたえられなくなって、国境を開けてしまったのです。東ドイツ政府はハンガリー政府に対して抗議をしましたが、ハンガリー政府は、「このような事態を引き起こした原因は、東ドイツにある。」とはっきり答えていました。余談ですが、今回のアラブの難民問題がやはりハンガリーの国境で起きたことに、私は不思議な偶然を感じています。

大使館の今昔―現在の大使館はベルリンでも珍しい戦前の建物

私が勤務していた当時の大使館にも行ってみました。大使館は、ブランデンブルグ門がすぐ近くに見える場所で、オットー・グローテボール通り5番地にありました。この通りは、戦前はヴィルヘルム通りという名前で首相官邸があった通りですが、東ドイツ政権の下で初代の首相の名前を取って上記のように命名され、再統一後、昔の名前に戻っています。大使館が入っていたビルは、今回訪ねてみるとちょうど改修工事中でした。

 現在の在ドイツ日本大使館は、ブランデンブルグ門の西側に広大に広がるティアガルテン(動物公園、セントラルパークのような位置づけ)地区にあり、堂々たる構えをしています。この大使館は、戦前に当時の第三帝国様式で作られた建物で、建物自体は戦争で破壊されずに残りましたが、戦後はドイツが東西に分断されたため、使われることなく放置されていました。私は80年頃、総領事館の人たちと一緒に中に入ったことがありますが、戦争直後の荒れ放題のままで、地下室に行く階段の途中まで水が溜まっていて地下室は水浸しでした。また、配管等は全て壊れているか中が詰まっているので、これを修復するとすれば、新築するのと同じくらいお金がかかるだろうと言われていました。ドイツ再統一後、首都がボンからベルリンに移り、各国大使館もベルリンに移ってきましたが、日本大使館については昔の建物を残して欲しいという強い要望があり、これを修復して現在の大使館となっています。

 壁があった時代は、戦前の大使館まで行くのにチェックポイント・チャーリーを出て随分遠回りをして行きましたが、今回は町の中心部からブランデンブルグ門の近くを通ってすぐに大使館に行くことができました。こんなに近いところにあったのかと驚くとともに、壁が東西を無残に分断したことを改めて実感しました。

戦前のオリンピック・スタジアムが健在

ベルリン・オリンピックは1936年に開催され、日本では「前畑ガンバレ!」で有名ですが、当時のナチス政権にとっては国威発揚の絶好の機会でした。そのオリンピック・スタジアムに行ってみましたが、80年近くたった現在も立派に維持されており、2006年のドイツ・ワールドカップの決勝戦も、屋根の一部を増設してここで開催されています。スタジアムは、ベルリンの西側の森の中に作られていますが、周りが広々としていて、今からでも施設を追加できるような敷地です。

スタジアムの周辺施設で驚いたのは、鉄道輸送の施設が大規模なことで、スタジアムの側に大きな駅があり、プラットフォームが10本近くありました。試合の日には、各ホームに電車が入り、観客を順番にホームに誘導して、一杯になった電車が次々に出発し、空いたホームにまた電車が入ってくるという仕組みで、これであれば観客の順調な輸送ができると感心しました。この施設も戦前のオリンピックの時に作られていると思いますが、ロジスティックスを重視するドイツの伝統を実感しました。

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ベルリン―オリンピア・シュタディオンにて

東西分断の傷跡、今は博物館に

ベルリンが壁で分断されていたころ、道路は至る所で遮断され、検問所があるところだけが通行可能でした。検問所では一般の旅行者は最短でも1時間の手続きと検査が必要でしたが、外交官はフリーパスなので、私はチェックポイント・チャーリーを通って西ベルリンに出かけていました。壁は東西の境界線の上に作られていましたが、建物が境界線のすぐ側に立っている場合があり、この場合は東ベルリンでは住民を追い出して、窓をレンガやセメントで塞ぐなどして建物を壁として利用しました。壁が作られ始めたころは、窓から西ベルリンに逃げていく人達が多く、脱出の模様が写真に残っていますが、ベルナウアー通りはそういう場所として有名でした。今回その場所に行ってみると。一帯が博物館として残されており説明板が設けられていました。また、かつて塞がれていた道路が通れるようになっており、壁の崩壊によって当然そうなったわけですが、行き止まりであった当時と比較して不思議な感じになりました。

また、勤務していた頃に地下鉄に乗ったことがありますが、西ベルリンで乗車して東ベルリン地区の駅を通ると全くの無人駅で、警備兵だけが銃を構えているという不気味な光景でした。やがて西ベルリン地区に入りホッとして下車したことを覚えています。今回地下鉄に乗って、旧東ベルリン地区にあるホテル近くのベルリン・ミッテ駅で下車し、地上に出てきて、不思議な感覚に襲われました。ここに駅があったのだなと・・

廃墟から見事に蘇ったザクセン王国の都、ドレスデン

ベルリンからは、ハルツ地方(中部山岳地帯)、そしてドレスデンと旧東ドイツをレンタカーで回りましたが、東ドイツ時代に比べて格段に道路が良くなり、街並みもきれいに修復されて、再統一後の整備が進んだことがうかがえました。

そしてドレスデンはかつての町の姿を復活させていました。ザクセン王国の都であったこの町は、敗戦間近の1945年2月13日に英米空軍による爆撃を受け、市内中心部にあった王宮、教会、オペラ座などのザクセン王国以来の歴史的建造物が一夜にして瓦礫の山となってしまいました。例えて言えば、太平洋戦争末期の東京大空襲(310日)に当たると言えます。当時ドレスデンには、東方領土のシレジア(現在のポーランド南部)から多数の避難民が逃げて来ていましたが、ここを爆撃してドイツの戦意を喪失させるのが狙いだったと言われています。

私がベルリンに勤務していたころ車で旅行したことがありますが、まだ戦争の傷跡が残ったままでした。ホテルも東欧諸国に見られたような安普請の建物で、観光客と言えばソ連からの旅行客がほとんどであり、古ぼけたバスに乗った質素な身なりの人たちばかりが印象に残っています。その時、この瓦礫はどうするのかと聞くと、少しずつ修復していくのだという答えでしたが、とても気の遠くなるような話で、日本であればさっさと片付けていたのではないかと思う位でした。しかし今回訪問してみると、それらの建物が昔の儘に再建されていました。そこに、瓦礫をそのままに取っておいて、時間がかかっても再建するという、民族の執念と誇りを感じました。

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 ドレスデン ― 復興したツヴィンガー宮殿の女性コーラス・グループ

アラブ人と中国人が目につくミュンヘン

今年の夏は東京で摂氏35度の真夏日が続きましたが、ドイツにとっても暑い夏で、ベルリンやミュンヘンでも35度の気温を記録しました。ただ、陽射しは強いが空気が乾燥しているので、日陰に入ると日中でも凌ぎやすく、また夕方になると気温が下がって快適でした。したがって、東京と比べるとまだましだと思いましたが、暑さに慣れていないドイツ人にとって、また、冷房もあまり普及していない状況では、厳しい夏だったと思います。

ミュンヘンとその周辺の観光地はどこも中国人で賑わっており、一方、日本人の旅行客にはあまり会いませんでした。日本ではインバウンド観光で中国人の存在が大きくなっていますが、ドイツでも全く同じでした。中国人旅行客が増えているのはパリでもロンドンでも同じでしょうから、ヨーロッパの主要国が中国に秋波を送るのは当然だろうと思います。

また、ミュンヘンの街中ではアラブやアフリカからと思われる人達が多く、中心部の歩行者天国になっているカウフィンガー通りでは多数の露店が出ていて雑然とした雰囲気になっていました。夜になると噴水のあるカールス広場はアラブ人に占拠されたような感じで、今から考えるとシリアからの難民が多数いたのかなと思います。一方、ホテルにも多数のアラブ人がいて、こちらはドバイから金持のアラブ人が避暑に来ているとのことでした。ドバイとミュンヘンは直行便で結ばれて便利なので、ミュンヘンの気温が35度であってもドバイの気温は50度に達するので、避暑地として好まれるとのことでした。

旅行して、改めて、世界は広いと思います。

(了)

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