2018年01月22日
(丸の内中央法律事務所報No.32, 2018.1.1)
11月の半ば、合唱団のイタリア・ツアーの機会にシチリアを再訪した。前回は30年以上前にドイツからのツアーで行ったのだが、その時にもう一度ここに来てみたいと思っていた、パレルモ、シラクサ、タオルミーナを選んだ。
最初に着いたパレルモは、シチリア州の州都で、人口は約60万人とシチリア最大の都市である。気候は、11月の平均気温が16度で、一年の中では雨の多い季節とされているが、滞在中は晴天に恵まれ、日中は暑いくらいだった。秋は日没時刻が早いので観光には不向きだが、反面、旅行客が少ないのでゆっくり見学できるというメリットがある。
初日に、パレルモ郊外の丘の上にあるモンレアーレ大聖堂を見学した。この大聖堂は、1182年にグリエルモ2世によって建造された、ノルマン様式の代表的建築物で、アラブ、ビザンチン、ノルマンの各建築、装飾様式が調和した文化財として、世界遺産に登録されている。教会に入ると、内部を埋め尽くす豪華絢爛たるモザイクに圧倒される。教会の身廊部分の両側には旧約、新約聖書の挿話が題材となったモザイク絵が壁面全体を埋め尽くし、キリスト教の教えを語りかけている。奥に入って、ドーム状の丸天井にはキリストの巨大な上半身のモザイク絵があり、大きな目が力強く見る者を捉える。また、その一段下には聖母子像とペテロ、パウロの全身像が描かれていて、一つ一つ見ていると飽きることがない。
大聖堂に隣接して回廊があり、大理石で作られた2本一組の柱に支えられたアーチがずらりと並んでいて、広い正方形の空間を形成している。この回廊にいると外部の音が消えて無くなり、かつて修道僧が瞑想にふけったであろう姿が想像される。
翌日は、パレルモ市内を回り、まず、ノルマン王宮とその中のパラティーナ礼拝堂を見学した。この礼拝堂は、1130年にルッジェーロ2世によって建造され、壁面の豪華なモザイクや、天井部分の木製の精密な文様、床面の大理石の化粧張りなど、全面が装飾で飾られている。日本のわびさびとは別の世界だが、その中にしばらくいると、柔らかなシルクで包まれたような温かさと安堵感が出てくる。
パレルモには、ヨーロッパで三番目に大きなオペラ座、マッシモ劇場があり、3000人の客席数で威容を誇っている。これより大きなオペラ座は、パリとウィーンにあるとのことだが、この二つの大都市に比べて、人口60万人のこの町に、よくこれだけのオペラ座を作ったものだと感心する。オペラ座の前の大通りは歩行者天国になっており、夕方になるとそぞろ歩きの大勢の市民で埋め尽くされる。
パレルモに3日滞在した後、バスでシラクサに向かう。シチリア島内は高速道路(アウトストラーダ)が良く整備されており、山上都市エンナやエトナ山を眺めながら、3時間半で到着。しかし、この短いバス旅行の間に車窓から見る風景は大きく変化し、島の北西部のパレルモ側はほとんど茶褐色の大地だったのが、南東部のカターニア、シラクサ側は緑に覆われた豊かな地域に変わる。エトナ山は、海抜3323メートルの活火山で、富士山よりは低いがヨーロッパ最大の火山であり、今でも噴煙を上げている。何よりも円錐形のその姿が美しく、島内各所から眺めることができる。
シチリア島は地中海のほぼ中央にあり、その地理的な条件から、多くの民族がこの島を支配し王朝の興亡が繰り替えされた。その中でも、シラクサは歴史の古い町で、紀元前8世紀にはギリシアの植民地となっている。その後、シチリアは紀元前3世紀にはローマに併合され、紀元5世紀のローマ帝国の滅亡後に東ローマ帝国の領土となる。9世紀にイスラム教勢力であるサラセンが北アフリカからシチリアに侵入し、831年にパレルモが陥落し、965年にシラクサが陥落して、シチリア全島がサラセンの支配下になる。この間の、サラセンとビザンチン勢との戦いの様子は、塩野七生の「ローマ亡き後の地中海世界」に詳しく描かれている。
サラセンの支配になって、シチリアの首都はシラクサからパレルモに移され、キリスト教徒やユダヤ教徒も共存して、中世ヨーロッパには見られない繁栄を極めたと言われる。しかしやがてキリスト教徒の反撃が始まり、11世紀に南イタリアに到来したノルマン人が、1060年にパレルモを落とし、1091年にはシチリア全島を支配するに及んだ。その後、シチリアの支配権は神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家に移り、13世紀にはフランス、15世紀にはスペインと、支配者が変わっていった。その後もいろんな変化があったが、1861年にイタリア王国が成立して、シチリアはイタリアの一部となった。
シラクサの町の中心は、シチリア本島から橋でつながっている離れ島のオルティージャ島にあり、その中心にあるドゥオーモ広場に面して大聖堂が建っている。この大聖堂は、紀元前5世紀のアテナ神殿が、紀元7世紀に教会に転用されたものだが、今でもドーリア式円柱などの神殿構造を見ることができる。特に、神殿の巨大な円柱は教会の外側からも内部からも見ることができ、夜になってライトアップされた円柱の列を見ていると2500年前のシラクサに戻ったような感じがしてくる。
この広場に面して、サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会があり、その祭壇にカラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」の絵が掲げられている。描かれている聖ルチアはシラクサの守護聖人で、喉を刺しぬかれて殉教した女性である。カラヴァッジョは、バロック期を代表するイタリアの画家だが、傷害事件を起こしたためローマを追放され、各地を転々として、このシラクサに流れてきた。しかしその頃には新進気鋭の画家の面影はなく、祭壇の絵も深い悲しみに包まれたもので、この画家の諦観を表しているような感じがする。この絵を見た後、再びドゥオーモ広場に出て、広場の一角からアコーデオンの哀愁を帯びたメロディーが流れてくると、実に静かな気分になってくる。
二日目の朝、本島の小高い丘の上にあるネアポリス考古学公園を見学した。ここの見どころは、テアトロ・グレコ(古代ギリシア劇場)で、観客席が多少の損壊はあるものの、今でも整然と配置されている。席数は1万5000席とのことで、往時はギリシア劇の公演が盛大に行われたことであろう。上の方の座席からは遠くイオニア海を望むことができるが、夏の夜に月の光の下でそよ風を肌に感じつつ観劇するのは、古代人の大いなる楽しみであったことであろう。劇場の近くには、ローマ時代のコロッセオ(闘技場)の跡地や、巨大な採石場跡があり、地域一帯が古代遺跡として保存されている。
シラクサのギリシャ劇場
シラクサから南に車で30分ほど走ったところに、ノートという小さな町があり、バロック様式で町の景観が統一されていることから世界遺産に登録されている。17世紀に起きた大地震で昔の町は壊滅的な被害を受けたが、住民たちは復興に当たって、当時の建築様式であったバロック様式で街並みを統一し、世界から人が来るような町を作り上げた。丘の中腹にあるこの町には車の通りが少なく(規制されているのであろう)、昼間でも静かで、テラスで軽い食事とワインを飲んでいると優雅な旅の雰囲気を味わうことができる。
シラクサに2泊した後、タオルミーナに向かうが、途中でカターニアの町に立ち寄った。この町はシチリア東部の中心地で空港もあり交通の要所になっている。町の中心に大聖堂があり、その中に若くして亡くなった作曲家のベッリーニの石棺が安置してあるが、棺の表面に代表作ノルマのアリアの楽譜が彫ってあるので音楽家の墓として存在感がある。ちょうど土曜日だったので、大聖堂近くの横丁には多くの店が立ち並び、特に海に面していることもあって魚市場が活況を呈していた。
タオルミーナはシチリアの中でも有数の保養地で、一年を通して多くの観光客で賑わっている。山の中腹の風光明媚なこの土地を、ギリシア人も気に入ったらしく、テラス状に土地がせり出したところに古代ギリシア劇場が作られている。この劇場は長い歴史の中で放置され羊が草を食べるような場所であったようだが、18世紀に劇場の存在が再認識され、それ以降、発掘と整備が行われてきた。今では毎年夏に野外オペラやコンサートが開かれ、多くの観光客を魅了している。このギリシア劇場がある場所からは、イオニア海を挟んでイタリア半島のカラブリア地方をすぐ近くに見ることができる。
タオルミーナから見たエトナ山
こうして、6泊7日のシチリア旅行を終え、合唱団に合流するためにローマに向かった。
(了)