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弁護士コラム・論文・エッセイ

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弁護士 筑紫 勝麿(客員)

2019年11月27日

敦煌

(丸の内中央法律事務所報No.35, 2019.8.1)

1.敦煌

 大いに盛んであることを意味する敦煌(とんこう)は紀元前2世紀に前漢の武帝によって設置された。それまで、北方の騎馬民族である匈奴が支配していた河西回廊(かせいかいろう。黄河の西の回廊状の地域)を武帝の軍が制圧し、武威、張液、酒泉、敦煌の四郡を置いたことに始まる。

 私は、学生時代に、井上靖の敦煌や蒼き狼を読んで以来、機会があれば西域を旅行してみたいものだと考えていたが、この6月にその機会を得ることができた。今回は、敦煌を中心に西域の見聞記を書いてみたい。
 東京から敦煌までは、東京―上海―西安―敦煌と、飛行機を2回乗り継ぎ、合計8時間45分の旅だったが、敦煌の空港に降り立って、いよいよやって来たなと思った。気温は35度くらいで日差しが強烈だが、乾燥しているので日陰に入ると爽やかな風を感じて快適である。周りは一面の砂漠だが、敦煌はオアシスの街で、木が茂り畑地も広く豊かな土地である。夕食後に夜の市に出かけたが、スイカやまくわ瓜、干しブドウなどが山と積まれて売られている。近郊農家の産物であろう。
 敦煌に着く前に飛行機の窓から、祁連山脈(きれんさんみゃく、祁連とは、匈奴の言葉で天の意味、したがってこの山脈は天山となる。)の山並みを見た。この山脈は長さ2000㎞、幅300~500㎞で、敦煌や河西回廊の南西側に位置しており、5000メートル級の山々が6月でも白い雪をかぶって連なっている。しかしこの山々からの雪解け水が地下水となって砂漠のオアシスに湧き出ており、中国西部一帯に恵みの水をもたらす山々だという。

敦煌の地図.jpgのサムネイル画像

地図(敦煌と西安)

2.莫高窟

 石窟寺院がある莫高窟(ばっこうくつ)は敦煌の街から南西へ18㎞のところで、砂丘である鳴沙山が大泉河という川に面して断崖を作っている場所にある。東西1600メートルのこの断崖に合計で750余りの石窟が掘られており、世界遺産に指定されている。
 莫高窟の歴史は紀元4世紀に楽尊という僧侶が石窟を掘り始めたことに始まるという。それから、北魏、隋、唐、西夏、宋、元の時代まで、約1000年間に渡って数多くの仏教寺院が設営されてきた。

写真1莫高窟の前で.jpg

莫高窟の前で

 石窟に入ると目につくのは、中央にある仏像と周囲の壁を埋め尽くしている壁画であり、砂漠の大画廊と言われる所以である。時代に応じて、古い仏像は西から渡来したヘレニズムや中央アジア系の顔をしており、壁画は伸び伸びとした自由な作風が感じられる。これが隋、唐の時代になると、仏像は中国的な表情になり、壁画も中国の宮殿や街並みを表現したような緻密なものになってくる。
 仏像のスタイルは一般に、釈迦如来を中心に、迦葉と阿南の二人の弟子が両脇に控え、次いで脇侍菩薩が並び、四天王のうち二人が守りを固めるという形式が多い(合計7体になる)。一方、壁画のテーマは様々で、多いのは釈迦説法図と釈迦涅槃図だが、想像の世界である極楽の模様を描いた壁画や、西域の歴史的な出来事を描いたもの、例えば,前漢の時代に西域に派遣された張騫が武帝に拝謁する場面などがある。また、当時の民衆の様子を描いた壁画は伸び伸びとした筆使いで、豊かであった農業や生活が表現されている。
 これらの石窟寺院は当時の支配階級や地域の実力者が寄進して作られており、壁画からその寄進者の名前が分かっている。また女性の寄進者も多数描かれており、漢民族と周囲の少数民族との関係、ある意味で政略結婚であるが、そこに果たした女性の役割が分かるような壁画がある。このように、それぞれの時代の歴史を頭に思い浮かべながら見ていくと、誠に興味深い。
 莫高窟の歴史は、しかしながら明の時代に入って歴史の舞台から消えて行くことになる。それは、東西交流の重要な役割を果たしていたシルクロードが、次第に海のシルクロード、即ち海上交易に取って代わられ、役割が廃れてしまったことによる。
 しかし、敦煌は1900年になって再び歴史上に現れる。この年、莫高窟の石窟に住んでいた一人の道士が、壁の向こう側に小さな石窟があることを見つけ、そこに五万巻に及ぶ仏典や絵画を発見した。そして、1907年にイギリスの探検家スタインがその一部を購入し本国に持ち帰って発表したことから、敦煌の存在が世界に知られることになった。この後、フランスや日本の探検隊が現地に入りそれぞれ文物を持ち帰っている。慌てた清王朝は持ち出し禁止の措置を取ったが、時すでに遅しであった。現在の敦煌研究院は、遺跡の維持保存に力を入れている。

3.万里の長城

 敦煌の見学を終えた翌日、万里の長城の西の端である嘉峪関(かよくかん)を見学した。この城砦は明の時代に作られた関所で、明はこれより外側を外国として交通を制限することにし、これによって、敦煌は漢民族の世界から放棄されてしまったわけである。
 嘉峪関のさらに西は祁連山脈から流れ出るトウライ川であるが、この川は54mの断崖絶壁の下を流れており、匈奴がここから攻め込むことは不可能である。一方、東の端は河北省の山海関でその先は黄海の海になっており、こちらも騎馬民族にとっては越えることのできない天然の要害である。この間、6700㎞にわたって万里の長城が延々と連なっている。これは、日本列島を3回行き来する距離である。
 長城の高さは一般に2.2mで、これは馬が壁を越えることができない高さということである。確かに騎馬民族にとっては馬が障害物を越えることができなければ戦うことができないわけだ。

写真2万里の長城の壁.jpg

     万里の長城の壁―ここは城砦に近いので壁の
      高さが一段と高くなっている

 嘉峪関は、前漢の時代に作られた酒泉という町の西側にある。酒泉という洒落た名前の由来として次のような逸話がある。紀元前2世紀に前漢の将軍、霍去病(かくきょへい)が、匈奴の軍隊を駆逐して軍功を立てた時に、武帝から勝利を祝って10樽の酒が届けられた。霍去病は、この酒を兵士たちと共に味わおうと言って、20万人の兵士がみんなで飲めるように、泉に酒を注いで飲んだという。余談だが、霍去病という将軍は18歳で軍務につき24歳で亡くなっている。この話は、今でも人気のある若き英雄を偲ぶ物語かもしれない。
 河西回廊は、南西を祁連山脈、北東をゴビ砂漠と北山山脈に挟まれた、文字通り回廊のような地帯であるが、両山脈の間の幅は、嘉峪関の辺りで最も狭く、15㎞であり、ここに1372年に関所が築かれたわけである。

4.中国の新幹線

 嘉峪関の見学後は飛行機で西安に向かう予定であった。ところが、その日の午後から、空に砂塵が舞うようになり、西の敦煌の方は砂嵐のために見学が中止されたという情報が伝わってきた。さて、無事に飛行機が飛び立てるか、俄かに慌ただしくなってきた。空港に向かう頃にはこの地方にも砂嵐が襲ってきて、西安から嘉峪関に来る我々の乗る予定の飛行機が途中で引き返してしまった。やむを得ず嘉峪関のホテルに入るころには嵐が本格的になり、まるで台風のようであった。
 翌日は、陸路、新幹線で西安に行くことになった。嘉峪関から西安まで1200㎞を9時間半で走る。ちょうど、東京から鹿児島まで走るようなものだ。しかし長時間の列車の旅は、ほぼ河西回廊を走るようなもので、外の景色を眺めて、飽きることが無かった。車窓の右側には延々と祁連山脈が続き、中には今も雪をかぶった高い峰がいくつも見える。また左側には土漠や荒れた山々が繰り返し出てくる。そしてその間の開けた部分を新幹線が走るわけだが、利用できる土地が限られているので、他のインフラも並行して設置されている。例えば、一般道路や高速道路、在来線の鉄道、何本もの送電線などである。国土が大きいのは良いことだろうが、その連絡や維持のためにこれだけ多くのものが必要だということが良く分かる。
 新幹線で、我々は1等車に乗った。料金は、575.5元(日本円で、約9000円)、1等車だから1号車ということなのか、1号車は列車の先頭なので、ホームを延々と歩かされた。この辺りは、まだ気配りが行き届かない感じがする。この新幹線には誰が乗るのであろうか、車両は10両編成だが、閑古鳥が鳴いているのではないか、などとみんなで話していたところ、何と列車は満席であった。少数の外国人旅行者以外は地元の中国人が乗っている。乗車券が高いだろうに何故みんなが乗るのか、中国人のガイドに聞くと、在来線だと西安まで一昼夜かかるが、新幹線だと9時間半で、早くて便利なので、みんなが使うのだと言っていた。ただ、乗車マナーは改善の余地があると思うのだが、1等車でも食事にはカップ麺を食べる人が多く車内が汚れる原因になるし、大きな声や電話での会話などの騒音もある。
 


写真3新幹線和諧号の前で.jpg

新幹線和諧号の前で

 この新幹線は、途中で甘粛省から隣の青海省に入り、省都の西寧に停車する。日本で中国の地図だけ見ていると、こんな山奥に何があるのだろうかと思うが、西寧市は人口200万人の大都会で、高いビルが立ち並んでいる。しかし、新幹線が動き出すと山また山で、中には赤茶けた山肌を見せる山もあり、鉱物資源が豊富なのだろうと想像させられる。

 再び甘粛省に入って、次に省都である蘭州に到着する。海抜1600メートルのこの町を黄河が西から東に流れており、人口300万人の大都会である。蘭州を出ると黄土高原のようだが、ほぼ平坦な土地を一路西安に向かう。

5.西安

 午後4時40分、新幹線は西安に到着。朝、7時5分に嘉峪関を出発して、約九時間半の列車の旅であった。西安は陜西省の省都で人口1000万人、日本であれば、東京に次ぐ第二の大都市になる。西安は唐の時代の長安など、中国歴代の王朝の首都となったところで、中国西部の山々と東部の平野地帯の中間に位置する場所で、交通の要衝と言える。
 最後の見学地は大雁塔(だいがんとう)で、これは、唐の時代にインド往復25,000㎞の旅を終えた玄奘法師が、仏典の漢訳を行い、これを安置する目的で652年に建てたと伝えられる。その前の広場には、玄奘法師の像が建ち、周りは広い公園になっていて、多くの市民が夕暮れの時間を楽しんでいた。

写真4玄奘法師の像と大雁塔.jpg

玄奘法師の像と大雁塔

(了)

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