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弁護士コラム・論文・エッセイ

弁護士コラム・論文・エッセイ

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弁護士 筑紫 勝麿(客員)

2022年10月27日

ウクライナ

(丸の内中央法律事務所事務所報No.41, 2022.8.1)

 今から9年前の2013年6月、私は現在戦場となっているウクライナの土地を車で走った。空は広く大地は平らで、前を見ても後ろを見ても山が見えないところだった。

 車で走るきっかけとなったのは、イギリスの耐久ラリー協会が主催する「2013北京パリ・モーターチャレンジ」というラリーに参加したことで、北京からパリまで12,249kmを33日間で走るという企画であった。 

 今年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻はまだ続いているが、9年前に現地を走って、その後にまとめた旅行記を参考に今感じることを書いてみたい。

ロシアからウクライナへ

 ウラル山脈を越えてヨーロッパ・ロシアに入ると、再び大平原が広がる。再びと言うのは、ウラルの東であるアジア側のロシアも大平原であったからである。

 ウクライナに入国する6月19日の朝、ロシア西部の町ヴォロネジを6時半にスタート、気温は7-8度だが天気は曇りで風があるので肌寒い。周りはずっと農業地帯で、小麦、ジャガイモ、トウモロコシ、そしてヒマワリが植えられている。ヒマワリの畑は一面黄色の花が咲いていて美しい。幹線道路を走っていると、クルスクまで211kmと表示されている。

 ここは第二次世界大戦の独ソ戦で戦車同士の戦いがあったところで、戦車戦の舞台に相応しい平坦な地形だ。クルスクに限らずハリコフに向かう途中の町や村には飛行機や戦車の記念碑、そして戦闘の模様を表示した説明板等があった。この辺一帯が戦場だったのだ。

 やがてロシアとウクライナの国境に到着する。ウクライナへの入国審査は実に簡単なもので、これは一つにはラリーの集団(総勢300人位になる)の入国を歓迎するという姿勢の表れでもあるだろう。これと対照的に、モンゴルからロシアに入る時のロシア側のチェックは厳しかった。3時間は待たされて検問所も三か所あった。救いは自然と景色が素晴らしかったことで、待たされている間もアルタイ山脈の雄大な山々を眺めて飽きることが無かった。

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 筆者の旅行記の表紙を写真で取りました。
地図は北京からパリまでのルートを示しており、
黒海の北にウライナがあります。
車は私たちが走った1953年製のベントレーです。
 

 

ハリコフのレーニン像

 ウクライナの町の呼び方は複数あり、ウクライナ第2の町ハリコフはハルキウとも呼ばれている。これはウクライナ語ではハルキウ、ロシア語ではハリコフと呼ぶのだそうだ。ハリコフ中心部のホテルに行くとすぐ近くの広場に巨大なレーニン像が立っている。1989年以降、旧ソ連と東欧の社会主義国家が崩壊した後、旧ソ連関係の銅像が撤去されて行ったので、ウクライナでもそういう流れがあったものと思っていたところ、ハリコフではレーニン像が健在だったのでビックリした。町の人の説明では、ハリコフを始めとするウクライナ東部地域ではロシアに親近感を持つ人が多いので、レーニン像もそのまま維持されているとのこと。今回のロシアによるウクライナ侵攻によって、ウクライナ東部は親ロシア的な地域だということを多くの日本人が知るようになった。

ハリコフからキエフへ

 6月20日の朝8時20分にホテルを出発。気温は7-8度で快晴、爽やかな初夏の天気だ。ハリコフを出てキエフに向かう道は、ウクライナの第2の都市と首都を結ぶ幹線道路なのでよく整備されているはずだが、道路の幅が広かったり狭かったり、また、整備の状態が良かったり悪かったりとまちまちだ。しかしロシアと比べると、何の標識もなく突然穴ぼこだらけの道が出てくるということはなく、少しは補修がしてあり、また追い越し車線がある程度整っているので走りやすい。

 農業地帯を走ると、小麦は既に黄色になっており早い冬の到来を思わせる。昼過ぎに道路脇のレストランで昼食をとったが、食事の際にラリーの 仲間内で福島の原発事故のことが話題になった。と言うのは、ウクライナではチェルノブイリの原発事故があり、キエフの北わずか150㎞の場所だというから、原発事故は大きな関心事なのだ。

キエフ

 もうすぐキエフに到着というところでドニエプル川を渡るが、東京湾のレインボーブリッジのように大きな橋が架かっている。川の途中に中の島があって水浴び場になっており、結構賑わっている。私達が橋を渡る頃がちょうど夕方の時間だったので、中の島からキエフの町に帰る若者たちが橋の歩道部分を水着姿でぞろぞろと歩いていた。

 ロシア軍の侵攻でこの橋はどうなるのだろうと気になっていたが、さすがに重要なインフラは無傷で残っている。キエフの町はドニエプル川の右岸の丘の上に広がっており、橋を渡る時に見ると壮観であった。

 キエフ市内の中心部の道路は広く、大きな建物が多い。町のランドマークの一つが中央広場だが、広場に面してひときわ大きな建物がある。ウクライナホテルであるが、これはソビエト連邦時代はモスクワホテルという名前であったそうである。

 キエフでは、車の修理に時間を取られたので街を見物する暇がなく、ホテルと修理工場との往復の道くらいしか記憶に残っていないのが残念だ。

キエフからルヴィウへ

 6月22日、休養日を中1日入れてキエフを出発。車の修理のために、本隊から遅れて出発することになったが、キエフからルヴィウまでの距離は545㎞で片側一車線の道なので何時間かかるか心配だった。しかし、幸い道路の状態が良く、また夜になっても月明かりで良く見えるので快調に走ることが出来た。ルヴィウに近づいたころから上り坂になった。ルヴィウの町は石畳の町だったが、夜半近くに到着したので、街の持つ中世の雰囲気を感じることが出来なかった。

ルヴィウでの交通違反

 ルヴィウ市内を移動中に、スピード違反でもないと思うのに警察官に停められ、免許証の提示を求められた。いつも必ず持っているのだが、今回に限ってホテルでの書類の整理でうっかり忘れてしまい、どうにも言い訳が出来なくなった。罰金の金額を聞こうとすると、こっちへ来いと言う。黙ってついていくと今度はパトカーの中に入れと言う。そこでパトカーの助手席に座ると、100と紙に書くので、100フリブニャ(ウクライナの通貨単位、1フリブニャは約13円)を渡そうとすると、「違う違う、100ユーロだ」と言う。エッ、罰金を他国の通貨で払うのか!と思わず耳を疑ったが、払わないとパトカーから出れそうもない。そういえば必ず車に乗れと言ったのも、他から見られないようにする必要があったのだろう。交通違反をしたのはこちらの責任だが、結局二人の警官の内職のカモにされたということか。

 ウクライナのEU加盟問題が話題になっている。実現までにはまだ長い時間が掛かりそうだが、加盟交渉の障害の一つが、公職者の汚職の問題と言われている。公務員の汚職の問題は、発展途上国でよくあることだが、現地を走って、図らずもそのことを体験することになった。

ルヴィウの過酷な歴史

 ルヴィウの町は美しい。戦争の被害を受けていないようなので中世以降の街並みがそっくり残されており、多くの教会や市庁舎前の広場等すっかりヨーロッパの雰囲気だ。カトリックの大きなカテドラルがある。同じような雰囲気の町の名前を挙げれば、ザルツブルグやハイデルベルグといったところだ。

 歴史的にはルヴィウはポーランドやハプスブルグの支配下にあった時期が長く、ソ連に組み入れられたのは第二次大戦からである。

 1939年にナチスドイツがポーランドに侵攻したとき、ルヴィウはポーランドの町だった。ところが、独ソの秘密協定によってポーランドは分割され、ルヴィウはソ連に併合された。ドイツの敗戦によってドイツ・ポーランド間の国境がオーデル・ナイセのラインに決められ、それまでドイツ領だったシレジア、ポンメルン、ダンツィヒがポーランドに割譲された。しかし、ソ連はナチスドイツとの間で獲得していた旧ポーランド領をそのまま領有し続けたため、戦後、ポーランドの領域は地図の上で西に大きく移動し、ルヴィウはそのままソ連領、そして現在はウクライナの一部となっている。

 今回の戦争で、ウクライナからの難民の多数をポーランドが受け入れているが、この人道支援は同胞に対する支援という感じではなかろうか。地続きのヨーロッパでは、かつて国境の変更は当たり前のことだったと歴史の教科書で習ったが、ルヴィウの町の運命は75年前に決められたことである。したがって、ウクライナの中でも東側はロシアに対して親近感があるのに対して、西側(その中心がルヴィウ)は反ロシアの感情が強いと言われる。旧市街がこれまでのロシアの町とは異なっていることが、ルヴィウが経験した過酷な歴史を物語っている。

 市街地は丘の上に広がっており、ウラル山脈以来7日ぶりに山らしいものを見た。気温は27-8度でやや蒸し暑いが、天気は晴れて日曜日なので、多くの市民が街に出て休日を楽しんでいた。

ルヴィウからスロヴァキアへ

 6月24日、車の修理の関係で本隊より1日遅れてルヴィウを出発。ルヴィウを出ると山が見えてくる。カルパティア山脈だ。山越えをしてスロヴァキアの国境に到着。   

 ロシアとウクライナの国境では、ウクライナ側の検査が予想に反して好意的だったので、さてこれからはヨーロッパのスロヴァキアだから、もう長時間待たされることはないだろうと思ったところ、豈図らんやトラックの長い列の後ろで延々と待たされた。スロヴァキアは外からEU圏に入る最初の国なので検査が厳しいのは分かるが、ついそのことを忘れてこちらの期待でばかり物事を考えていた。しかしスロヴァキアに入国すると中央ヨーロッパ時間になり時差で1時間戻るので、得をしたような気分になって、ブラチスラバまでの540kmを走り始めた。

(了)

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