• 事務所概要
  • 企業の皆様へ
  • 個人の皆様
  • 弁護士費用
  • ご利用方法
  • 所属弁護士

弁護士コラム・論文・エッセイ

弁護士コラム・論文・エッセイ

ホーム弁護士コラム・論文・エッセイ友成弁護士著作 一覧 > 世界最古の日本と稲作の歴史
イメージ
弁護士 友成 亮太

2024年03月21日

世界最古の日本と稲作の歴史

(丸の内中央法律事務所報No.44, 2024.1.1)

1 神武天皇による日本の建国

 (1) 世界最長の歴史

 日本は、紀元前660年に神武天皇が初代天皇に即位し、その後2600年以上に亘り天皇を戴く国として世界最長の歴史があり、世界最古の国としてギネスにも載っています。その長さは、世界2位のデンマークが約1090年、3位のイギリスが約960年ですから、驚くべき長さであるといえます。

 そこで、この最古の国の最初の天皇である神武天皇が建国の際にこの国をどのような国にしようと考えたのか、その宣言ともいうべき「建国の(みことのり)」は、建国に際して最初に作られたルール(法律)に近いものだといえるのではないかと考えますので、その詔に何が書かれているか、ご紹介したいと思います。

 (2) 建国の詔の内容

 日本書紀に書かれている建国の詔の原文は相応に長いので、是非、本稿末尾記載の書籍などで直接ご覧いただきたいと思いますが、その要旨は、次のような内容です。

 「東征から6年が経ち、神々のご加護の下で凶徒を滅ぼすことができ、国の中には騒ぎがありません。そこで真心を込めておおいなる皇都(みやこ)をつくります。民衆の心はとても朴素(すなお)です。正しい道に従い必ず聖なる行いをしていくことに妨げはありません。そのため、山林を切り開いて都を作り、謹んで宝位(たからのくらい)にのぼり、国を鎮めてまいりましょう。我が国は天から授けられた徳の国です。みんなで正しい心を養っていきましょう。この築造した都を国全体を覆う屋根のようにして、みんなが家族のように暮らせる家のようにしていきます。畝傍山(うねびやま)の東南にある橿原(かしはら)の地で、民衆を『たから』とする国を築いてまいります」

 この建国の詔の下、神武天皇は橿原に都を築きました。現在は奈良県橿原市に神武天皇が祀られた橿原神宮という神社があります。

 (3) 神武東征と稲作

 神武天皇の神武東征について、天孫降臨の地である宮崎から軍勢を率いて畿内に進出し、王朝を築いたというイメージもあるかもしれませんが、そうではなく、実際は、当時、畿内にいた長髄彦(ながすねひこ)が神武天皇同様に天孫であったにもかかわらず、民を顧みずに民衆が飢えに苦しんでいたため、神武天皇が3人の兄とともに稲作を普及しながら宮崎から東に向かい、畿内を目指したという話です。その神武東征も順風満帆ではなく、一度は長髄彦(ながすねひこ)に襲われて撤退したり、その最中に3人の兄を亡くしたり、八咫(やた)(がらす)の導きで救われたり、色々なエピソードが残されています。

 その後、神武天皇は建国の詔とともに橿原の地に皇都(みやこ)をつくるわけですが、この「みやこ」の「こ」は倉庫の庫と同じでお蔵の意味であり、米蔵のことを指していて、神武天皇が華美な宮殿を築造して国を治めようとしたというわけではありません。

 それでは何故、神武天皇が米蔵を建造して国の始まりを宣言したかといえば、日本は昔から地震や台風など災害が多発する地帯であり、災害が起きれば真っ先に食糧問題が起きるところ、冷蔵庫がない時代に長期保存できる食糧は米(玄米)しかありませんでした。そこで、全国から米を集め、都に米を蓄えておき、災害が起きればその災害地へ米を運んで食糧難を解消し、皆で助け合えるようにしたということがこの国の始まりです。

 世界には様々な国が様々な建国の歴史を持っていますが、国民が助け合って生きていくためという極めて平和的な思いで建国された国は珍しく、そのような思いで建国された国が世界最長の歴史になっているというのは素晴らしいことではないかと思います。また、建国に際して稲作と米の備蓄が重要なポイントであったことも知ることができます。

2 天照大神による神勅

 (1) 天孫降臨と三大神勅

 神武天皇が建国した際の思いは上記の通りですが、神武天皇から天孫降臨まで遡ると、最高神である天照大神(あまてらすおおかみ)の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)高天原(たかまのはら)から降りて地上の国(豊葦原水穂国(とよあしはらみずほのくに))に向かう際、天照大神は三種の神器(八咫(やた)の鏡、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)草薙剣(くさなぎのつるぎ))とともに3つの神勅を授けました。これは神様からのお言葉であり、三大神勅と呼ばれていますが、これも「こういう風にしなさい」というルール(法律)のようなものではないかと考えます。

 (2) 三大神勅の内容

 まず、「宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅」であり、「鏡を見たら私(天照大神)と思い、鏡を奉ったところで一緒に暮らしなさい」というもので、先祖崇拝の大切さを説いています。

 次に、「天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)の神勅」であり、「豊葦原水穂国(とよあしはらみずほのくに)は私の子孫が治めていく国であり、まずあなた(瓊瓊杵尊(ににぎのみこと))が降りて治めれば、永遠に栄えていくでしょう」というもので、天孫が国の要として国民を治めれば永く続くことを教えています。

 最後が「斎庭(ゆにわ)稲穂(いなほ)の神勅」であり、「稲穂の種を渡すので稲を植えて多くの人を養いなさい」というもので、稲作により国を治めることを指示しています。

 (3) 稲作を中心とした国作り

 三大神勅を授かった後、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子孫である神武天皇が建国の詔とともに日本を作っていくわけですが、日本の始まったときに述べられたルールともいうべき三大神勅や建国の詔に稲作による国作りが語られ、その後、江戸時代に至るまで米を中心にした国が続き、現在まで世界最長の歴史を紡いでいることは、何か意味があるのではないかと思えてなりません。

 ところで、現在、毎年11月23日は勤労感謝の日として祝日になっていますが、勤労感謝の日が定められたのは戦後であり、それ以前は新穀の感謝のために神様に祈る新嘗祭(にいなめさい)が行われる日でした。現在も全国の神社で新嘗祭が行われており、天皇陛下も毎年新嘗祭を執り行っていますが、宮中恒例祭典の中で最も重要なものとされていて(宮内庁HP)、五穀豊穣を祝うことが大切なことであることを思い知らされます。

3 考古学からみた稲作の歴史

 (1) 縄文時代から稲作はあった?

 建国の詔や三大神勅は、日本最古の文献(日本書紀)に基づく話ですが、少し視点を変えて、考古学的に稲作がいつから始まったのか調べてみると、現在は縄文時代から既に稲作が始まっていたと考えられています。

 縄文時代は紀元前1万4000年から紀元前9世紀ころ、弥生時代はその後紀元前3世紀ころまでを指す時代区分ですが、岡山県の彦崎貝塚から約6000年前のイネのプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量に発見されています。その頃には稲作が始まっていたのではないかと考えると、縄文時代には既に稲作文化があったのだろうということができます。

 そうすると、学校教育で教わった「弥生時代に大陸から稲作が伝わり、狩猟文化から稲作文化に変わった」という歴史は実は誤っていて、歴史認識を改めざるを得なくなる、ということも興味深いところです。

 (2) 建国史との整合性

 上記の通り、日本の建国は紀元前660年とされていますから、弥生時代にあたり、そこから遡る天孫降臨の時代は縄文時代であっただろうと思われます。そうすると、天孫降臨の時代に既に稲作が始まっており、稲作を広めて神武天皇が日本を建国したという、日本書紀に書かれた歴史が実際の古代史と符合するのではないかということになってきます。

 日本書紀や古事記に書かれた歴史が事実であるかどうかということより、語り継がれていることの意味を考える方が大切だと思いますが、それはそれとして、実際の歴史と伝承の歴史が一致していることが新たに分かっていくことにも感動を覚えます。上記以外にも日本書紀に書かれた地形と当時の地形の符合など、真実性が証明されてきているようであり、歴史認識を更新し続けていくことの重要性も思い知らされます。

4 最後に

 日本の建国については学校教育であまり教わらなかった記憶がありますが、調べてみると興味深いところが多々あり、その中でも稲作と深く関わる日本の建国と、その国が稲作とともに世界最長の歴史を育んできたことに素直に感動します。戦前教育では神勅により稲作が始まったとされていたところが改められ、弥生時代に始まったという教育になり、それが研究により更に覆されて歴史の流れが判明してくる、というのも興味深い歴史の変化です。そして、食糧自給率の低下した日本にとって、添加物なしで常温で長期保存可能な米や稲作こそ、再び見直されるべき日本の大切な文化なのではないかとも思いました。

 なお、本稿は私の大好きな小名木善行先生の「日本建国史」(青林堂、令和3年)を参考に書かせていただきましたので、ご興味を持たれた方は小名木先生の本やブログを見ていただければと思います。

以上

ページトップ