2024年11月13日
(丸の内中央法律事務所報No.45, 2024.8.1)
昔の日本人の文化や思想を知るには古典芸能を見ると良いという話は聞くのですが、なかなか寄席や公演に行くにも決心がつきませんでした。最近、区民図書館に子供向けの落語の絵本があることを知り、試しに読んでみましたら、分かりやすく物語がまとめられていて読み物として面白いと同時に、今の時代に生きる教訓のようなものも感じられましたので、ご紹介致します。
神田白壁町に住む左官の金太郎が道に落ちていた財布を拾うと、そこには印形と書き付けと3両(現在の15万円程度)が入っていました。書き付けを見ると「竪大工町の大工・吉五郎」が落とし主だと分かりましたので、財布を届けに行くことにしました。
金太郎が吉五郎宅を訪ね、「落とした財布を届けに来てやった」と告げると、吉五郎は「印形と書き付けは受け取るが、落とした3両は俺のものじゃないから持って帰れ」と返します。すると、吉五郎は「金が欲しくて届けたわけじゃねえから受け取れねえ」と言って3両の受取を拒否します。そこでお互い引かず、「受け取れねえとは何事だ」と言って喧嘩騒ぎになってしまい、仕方なく大家が仲裁に入ります。
両人とも3両を受け取らない事態に困った大家は、南町奉行・大岡越前守に裁定を求めることになりました。
大岡越前は金太郎と吉五郎の訴えに興味を示し、2人をお白州に呼び、双方の言い分を尋ねます。
すると、吉五郎は、「落とした3両は自分の大工仕事が喜ばれて心付けでもらったんですが、心付けにしては多すぎて、こんな大金を手にすると金に気がいって仕事に油断がでねえとも限らねえ。手間を省くようになればそれこそ職人の面汚し。どうしたものかと思っていたら、ちょうど財布を落として懐から離れ、せいせいしてたところです。返してくれなくて結構です」と述べ、金太郎は、「自分も職人として納得のいく仕事をして、人に喜んでもらうのが一番で。家族が食べられるだけの報酬を得て、年に1,2度の贅沢ができれば十分なんで、財布を拾っただけで、こんな大金は受け取れません」と述べます。
両人の返答に感心した大岡越前は、懐から1両を出したうえ、「3両を一旦預り、双方に対して2両ずつ褒美を取らせる。金太郎は拾った3両を受け取っておけば3両だったものが1両損、吉五郎も金太郎から財布を返してもらえば3両だったものが1両損、私も1両出しているので1両損、これを三方一両損と申す」と双方に告げ、喧嘩を解決します。
その後、大岡越前は「両名とも腹が減ったろう」と言って金太郎と吉五郎に膳部を出すと、両人は「うまいうまい」と言いながら頬張り始めました。そこで大岡越前が両人に「あんまり空腹だといって食べ過ぎるなよ」と忠告したところ、両人は「おおかぁ(≒大岡)食わねえ。たった一膳(≒越前)」と答えました。
大岡越前守(大岡忠相)は、8代将軍徳川吉宗に用いられて町奉行を務め、名奉行として複数の落語や講談で語り継がれているほか、テレビドラマの時代劇でも取り上げられて長年親しまれている人物です。その逸話は「大岡政談」あるいは「大岡裁き」として語り継がれていますが、今回ご紹介しました三方一両損は、金太郎と吉五郎が対立しているときに、どちらの言い分が正しいという裁き方をするのではなく、自らも含めて三者が少しずつ損をしたことを理由に納得するよう求め、紛争を解決してしまったことが名裁断といえるのではないかと思います。
弁護士という職業を経験すると、複数当事者間の意見対立について訴訟制度を利用して解決することも経験しますが、どうしても「どちらが正しいか」という二項対立的な考え方に陥ってしまう気がします。弁護士業務を離れて世情を見ても、「あれは間違っている」「これは正しい」というように、どうしても二項対立的に物事を考えたり、意見を述べたりしている様子をよく見かけます。
ところが、二項対立的な考え方を取っている限り、いつまでも互いの批判に終始して、過去に囚われてしまうように思います。本来は多様な価値観があるにもかかわらず、絶対的な正義があると考える方が不自然ではないかとも思うわけで、紛争や対立を本質的に解決するためには、現在置かれた状況を受け入れ、どのような選択が未来に向けて望ましいのかをそれぞれが考え、互いに対立軸ではない形で話し合うことが必要なのではないでしょうか。このような考え方の糸口を、三方一両損の逸話は教えてくれるような気がしました。
また、金太郎と吉五郎は、お互いに3両を受け取らない理由として、大金を持つ必要がないこと、大金を持つことによってかえって仕事や生活の質が落ちることを理由に挙げています。
金太郎と吉五郎がこのような理由を述べている背景として、江戸時代まで日本経済が米を中心に考えられていたことにも起因するかもしれませんが、両人が何故このような理由を挙げるのかと考えたときに、お金とは何か、仕事や人生の質とは何かを考える契機にもなるように思います。
現代において、仕事は報酬を得る手段であり、報酬がお金(円やドル)で支払われることは当たり前で、当たり前すぎて疑問も感じないようになっていると思います。他方で、仕事の対価ではなく、投資という形でお金がお金を生むこともありますから、お金(通貨)とは単に仕事の対価にとどまらない役目を持つに至っています。ところが、お金(通貨)が全ての基準になるかというと、昨今の円安ドル高によって、仕事の質が変わらず、報酬の額(円として得られる金額)が同じでも、世界的に見れば日本人が得る報酬の貨幣価値は相対的に低下してしまっています。仕事の質が変わらないのに報酬が変わるというのは少し変な気がしますし、さらに仮想通貨の貨幣価値が乱高下するなどという話にも接すると、なお一層、お金とは何なのかを考えてもいいのではないかと思います。
お金とは何か、なかなか答えの見つかりにくい問題だと思いますが、「お金がありすぎると仕事の質が下がる気がする」とか「食べられる以上のお金は欲しがらない」という金太郎や吉五郎の意見も一つの見方として参考になるのではないかと思いますし、お金の多寡に一喜一憂してはならないのではないかとも思った次第です。
「目黒のさんま」や「寿限無」、「ときそば」など、何となく知っているけれど話の中身は知らない、ということはよくあるのではないかと思います。落語や講談、歌舞伎や文楽などは日本古来の逸話を現代に伝えるものとして、娯楽として楽しむにとどまらず、現代の考え方と違う昔の人々の考え方や姿勢に接する良い機会になるとは思うものの、なかなか踏み出しにくい世界だとも思います。今回私が「三方一両損」を知ったのは子供向けの絵本ですが、絵本から読んでみて理解を深めるというのも気楽で面白いと思いましたので、大岡裁きの一例をご紹介するとともに、若干の考察をしてみました。是非図書館や書店、そして寄席で見ていただければと思います。
以上