
2025年02月14日
(丸の内中央法律事務所報No.46, 2025.1.1)
「万葉集」といえば、誰でも聞いたことがあると思いますが、その内容についてはあまりご存じない方も多いのではないでしょうか。かく言う私も和歌を含む詩に縁が遠く、「万葉集」という名前自体は知っていましたが、万葉集にどのような和歌が記されているかを知りませんでした。
先日、北陸新幹線に乗る機会があり、車内誌を眺めていましたところ、「歌に染まる神の山 筑波山、万葉の恋の話」という特集が組まれていまして、万葉集に掲載された和歌のうち、筑波山に関するものが取り上げられていました。その記事に端を発し、万葉集について調べてみましたところ、興味深い内容が色々分かりましたので、ご紹介したいと思います。
まず、「万葉集」は、現存する日本で最も古い歌集とされており、7世紀から8世紀の約100年間に作られた4516首の和歌が20巻の本として編纂されています。編纂者については、大伴家持が最終的に編纂したと考える説が有力であるそうです。
次に、和歌は全て漢字で書かれています。いわゆる「万葉仮名」です。私は「和歌だから漢字仮名交じり文だろう」と勝手に思い込んでいましたが、全て漢字で書かれていることを今回初めて知り、正直言って驚きました。確かによく考えてみれば平仮名が成立したのが平安時代とされていますから、それ以前に編纂された万葉集が全て漢字で書かれていることは当然であるといえます。
また、和歌の種類は短歌(五七五七七)だけではなく、長歌(五七五七五七・・・五七七)、旋頭歌(五七七五七七)、仏足石歌(五七五七七七)など、色々とあるそうで、これも私は知りませんでしたので目から鱗でした。
そして、万葉集の歌を大きく分類すると、主に男女で互いに贈り合った「相聞歌」、死者の哀悼に関する「挽歌」、相聞歌と挽歌以外の宮廷行事や旅行・自然などに関する「雑歌」の3種類に分類されており、約1200年前の日本人は恋愛や死に関心が深く、よく歌にしていたことをうかがい知ることができます。
上記の通り、万葉集は、全て万葉仮名という漢字で書かれており、平仮名は使われていません。万葉集の編纂の後、平仮名が使われるようになりましたので、万葉集は平安時代以降の日本人にとって読めなくなり、江戸時代に賀茂真淵が万葉仮名を解読したことによって、現在は漢字仮名交じり文で読めるようになりました。換言すれば、日本人は万葉集を読めないのに何百年も写本を残してきたということであり、「残すべきもの」という意識が連綿と繋がれてきたということになります。ちなみに、賀茂真淵は古事記を研究した国学者である本居宣長の師匠ですが、両者は1度しか会ったことないという逸話(松坂の一夜)があり、そちらも面白い話です。
実際に万葉仮名を見てみないとわかりにくいと思いますので、額田王と大海人皇子との間に交わされた有名な相聞歌を取り上げてみると、次のとおりです。
茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
紫草能 尒保敝類妹乎 尒苦久有者 人嬬故尒 吾戀目八方
紫草の にほへる妹を 憎あらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
この2首は、額田王が「天皇の御料地であるむらさき草の野を行き、そんなに手を振ると、野守(野原の番人)に見られるかもしれませんよ」と詠み、大海人皇子が「美しく匂い立つ紫草のような貴方を憎く思うなら、貴方をどうしてこんなに想うのでしょうか」と答えた歌とされており、草原で大海人皇子が額田王に対して手を振る情景が目に浮かぶようです。
このように、万葉集の万葉仮名を見ても容易に読めません。そして、万葉集を作った当時、読み書きができる日本人は本当に限られており、日本人が口頭で話していた言語(大和言葉)に中国から輸入した漢字を当てはめ、上記のように「むらさき」を「武良前」と書いたり「紫」と書いたりして、文字化して残していったということになります。その手順には気が遠くなるほどの苦労があったであろうことが容易に推測でき、それを4500首以上も行った約1200年前の日本人の意志の強さに感動します。また、掲載された歌の作者は、天皇や貴族が多いですが、作者不詳の歌であったり、一般庶民の歌なども掲載されていて、それらの歌はもともと口頭で詠んだものを誰かが記憶して口伝し、場合によっては流行歌になるなどして、その口伝の歌を万葉文字が書ける人が聴き取り、文字に起こして万葉集に掲載していったということですから、その作業量の膨大さや、当時の日本人の熱意も驚くべきことです。4500首以上の歌の中に男女の別はなく、貴賓の別もないということに、調和を尊重してきた日本人の精神性が表れているような気がしました。
当時の日本人が言葉を大切にしており、言霊が宿ると考えていたことは、万葉集に掲載された柿本人麻呂の一首にも表現されています。大和言葉に言霊が宿ると考えていたからこそ、中国語を輸入して話すようになるのではなく、中国語を利用して大和言葉を使い続けるという選択をしたのではないかと思いました。
しきしまの 倭の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ
万葉集が編纂された当時の日本人の恋模様について、冒頭ご紹介しましたコラムを参照しますと、万葉集の中に筑波山を題材にした歌は25首あり、山を題材にした歌としては富士山や天香具山(奈良県橿原市)より多く、最も多いそうです。その理由としては、筑波山が男体山と女体山から成り立ち、それぞれ伊弉諾尊と伊弉冉尊が祀られる神聖な山として崇められる一方、周辺の男女が食べ物や飲み物を持ち寄って筑波山に登り、歌を交わし、踊りなどを楽しむ「歌垣」という行事を行う場所として有名だったからであるとのことです。
その筑波山における歌垣を題材にした歌として、高橋虫麻呂という都から常陸国に赴任した役人が詠んだ有名な歌が次のとおりです。
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて
娘子壮士の 行き集ひ かがふ嬥歌に 人妻に 我も交はらむ
我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より
禁めぬ行事ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
読んでいただければ雰囲気はお分かりいただけると思いますが、「筑波山に男女が集まって歌垣を行い、自分も人妻と交わるので、自分の妻にも声をかけてやってくれ。山の神が古来より禁じてこなかった行事だから今日だけは咎めてくれるな」という意味の歌です。少し刺激が強い歌ですが、筑波山の歌垣では、男女の出会いの場としてお祭りが行われ、現代の価値観からすると不倫と呼ばれるような行為も行われていたようです。
高橋虫麻呂の歌以外にも筑波山に関連して次のような歌が掲載されています(作者不詳。括弧内が要約です)。
筑波嶺に かか鳴く鷲の 音のみをか 泣き渡りなむ 逢ふとはなしに
(筑波山でかかと鳴く鷲のように私は泣くのか。愛しい人に逢えないままに)
小筑波の 繁き木の間よ 立つ鳥の 目ゆか汝を見む さ寝ざらなくに
(筑波山の茂った木の間から飛び立つ鳥のように、お前を見るだけなのか、共寝もできずに)
このように、万葉集に掲載された和歌を詠むと、当時の人たちの恋模様が非常に豊かに表現されていて、筑波山で行われた歌垣を楽しんだ人もいれば楽しめなかった人もいるようです。筑波山を題材とした歌に限らず、万葉集に掲載された歌を詠むと、とても感情豊かな歌がたくさん記録されています。
そして、万葉集には、次のような歌も掲載されています(作者不詳)。
人妻と 何かそをいいはむ 然らばか 隣の衣を 借りて着なはも
要約すると「人妻だからってなぜ駄目なんだ、服を借りるのと同じではないか」という意味ですが、当時の人々は、少なくとも万葉集に歌を掲載する程度には、人妻との関係について一定程度許容していたのではないかとも思われるところです。昨今、芸能人や政治家の不倫について、犯罪行為であるかのように報道が過熱することはよくありますが、約1200年前の日本人は、そのような恋愛も万葉仮名に載せて文化として残そうとしていた、というのは、私にとって驚きでしたし、本稿をお読みの方も驚かれるのではないかと思います。
なお、日本の現行法において不倫は他方配偶者に対する不法行為(違法行為)であり、犯罪ではありませんが損害賠償義務が生じ、離婚原因にもなりますが、その解説は世の中に溢れていますので割愛します。
今回は、万葉集と当時の日本人の恋模様について簡単にご紹介しました。4500首以上掲載されていますので、私も一部しか読めていませんが、日本語に言霊が宿ると考えた約1200年前の日本人が恋愛に関する和歌を多数残し、その中に自然の情景が思い浮かぶような歌もあれば、歌い手の感情を率直に歌った歌もあれば、恋愛がうまくいかないことを嘆く歌もあり、当時の日本人を身近に感じることができるとともに、表現力の豊かさを感じることができたのではないかと思います。また、身分の上下も、性別も関係なく、ときには人妻との恋すら歌にして後年まで残した日本人の価値観は、とても大らかで多様性を認める社会だったのではないかという印象を受けました。万葉集は、もともと口伝だった歌を文字化していますから、声を出して詠むと一層味わうことができますので、ぜひ声に出して詠んでみていただけると嬉しいです。令和の元号も万葉集から初めて採用された元号であり、新春の清々しい情景を表現していますから、是非興味を持ってご覧いただければと思うとともに、令和が新春のような時代だったね、といえるような世界を作っていきたいと思っています。
以上