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弁護士 友成 亮太

2023年10月11日

LGBT理解増進法と日本における性的多様性

(丸の内中央法律事務所報No.43, 2023.8.1)

1 LGBT理解増進法の成立

 令和5年6月16日に「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」(以下「LGBT理解増進法」といいます)が国会で成立し、同月23日に施行されました。

 この法律の成立に至るまで、自民党内の委員会で反対議員が多かったにもかかわらず部会長一任とされたり、駐日米国大使が法案について何故か賛成意見を述べたり、議員立法の場合は全会一致による審議を原則としてきたにもかかわらず各党の合意がないまま採決されたり、色々と異例の事態が生じました。

 本コラムでは、LGBT理解増進法の成立を機に、法律の内容を概説するとともに、日本における性的多様性の歴史をご紹介したいと思います。

 なお、LGBTとは、レズビアンの「L」、ゲイの「G」、バイセクシャルの「B」、トランスジェンダーの「T」の総称です。そして、LGBまでは性的指向(どのような性別が好きか)による区別であり、Tは性自認(自分がどのような性と認識しているか。ジェンダーアイデンティティ)による区別です。異性が好きな人をヘテロセクシャルといいますが、これも性的指向の一つです。

2 LGBT理解増進法の概要

 まず、LGBT理解増進法は、全12条からなり、「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解が必ずしも十分でない現状に鑑み(中略)性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に寛容な社会の実現に資すること」を目的としています(第1条)。

 そして、性的指向及び性自認を理由とする不当な差別があってはならないとの認識の下に施策を行わなければならないという基本理念の下(第3条)、国及び地方公共団体は、性的指向及び性自認の多様性(以下「性的多様性」といいます)に関する国民の理解増進に関する施策を制定及び実施するよう努めることになっています(第4条及び第5条)。

 また、事業主は、基本理念に則って、普及啓発、就業規則の整備、相談機会の確保等により労働者の性的多様性の理解増進に努めることとし、学校も、教育または啓発等の機会を設けて児童の性的多様性の理解増進に努めることとされています(第6条)。

 政府は、毎年1回、施策実施状況を公表し(第7条)、基本計画を定め(第8条)、学術研究を推進し(第9条)、相談体制を整備するよう努めることとし(第10条)、「性的指向・ジェンダーアイデンティティ理解増進連絡会議」を設けて施策の総合的かつ効果的な推進を図るための連絡調整を行うこととされています(第11条)。

 他方、LGBT理解増進法の実施にあたっては、全ての国民が安心して生活することができるよう、留意することとされています(第12条)。

3 日本における性的多様性

 上記の通り、LGBT理解増進法は、性的多様性について国民の理解が不十分であることを前提にしているようですが、果たして歴史上も日本は性的多様性への理解が不十分であったのか、振り返ってみたいと思います。

 

 (1) 神話の時代

   日本神話における英雄である日本武尊(やまとたけるのみこと)は、もともと「オウス」という名前でしたが、当時の天皇に従わない熊曽(くまそ)(たける)を成敗するにあたり、油断させるために女装し、酒を飲ませて(たわむ)(まさぐ)り、その上で剣で刺し殺したという話があります。熊曽建は、死ぬ間際、「日本に自分より強い男はお前だけだ」と言って、「やまとたける」という名前を与え、日本武尊と称するようになりました。

   神々に対して性別で見てしまっては失礼かもしれませんが、このような話が古事記や日本書紀に書かれていることは事実です。

 (2) 平安時代から室町時代

   平安時代ころから高野山や延暦寺といった大規模寺院において僧侶になる前の少年を稚児といい、僧侶が稚児との間で深い関係になる様子が宇治拾遺物語などにも記録されています。鎌倉時代に東大寺の別当(長官)になった僧侶が「既に95人と関係を持ったので100人を超えるべきではない」という誓いを立てた記録も残っています。

   また、院政を敷いた後白河法皇や、藤原氏の一族である藤原頼長や藤原成親など、様々な人物が男性同士で親密な関係にあったという記録が残されています。

   室町時代の足利将軍家では、足利義満(第3代将軍)が当時身分の低かった猿楽者である世阿弥を祇園祭で同席させるほど寵愛していた記録や、足利義持(第4代将軍)が正室や側室を差し置いて最も少年を愛していたという記録も残っています。

 (3) 戦国時代

   織田信長が森蘭丸と親密だったのではないかという話は有名ですが、信長が前田利家と関係があったことは記録にも残されており、武田信玄が部下の春日源助(高坂昌信)に宛てて書いたラブレターが存在することも有名な話です。その他、徳川家康や伊達政宗に関する記録もあります。

   このような戦国時代の日本人について、カトリック布教を表向きの理由として(本当は侵略のため)来日したザビエルは、「この国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者はない」と評価した手紙が残っている一方、男色が罪だと思っていない日本人に対して嫌悪感を示した手紙も残っています。キリスト教において、ソドムとゴモラの故事にあるように同性愛は罪とされていますから、ザビエルが嫌悪感を抱いたというのも習俗の違いであって仕方ない話であるといえます。

 (4) 江戸時代

   徳川幕府初代将軍家康について男色の記録があることは上記の通りですが、第3代将軍徳川家光や第5代将軍徳川綱吉についても男色を好んでいたという記録が残っており、将軍家の世継ぎ問題を解決するために大奥という制度が作られたという話もあるほどです。

   また、明治維新で活躍した西郷隆盛も月照という僧侶とともに入水自殺(心中)を図り、西郷隆盛だけが一命を取り留めたという事実もあります。

   歌舞伎や陰間茶屋という文化も江戸時代には流行し、エレキテルを発明した平賀源内は陰間茶屋のガイドブックを書いており、「女郎好きは若衆を嫌がり、若衆好きは女郎好きをそしる。この議論は昔からどちらが勝ちでも、どちらが負けでもない」と述べるなどしています。

 (5) 明治時代以降

   それまでの歴史と異なり、明治時代になると、近代化と洋式化に伴い、鶏姦罪が施行されて男色行為が禁じられるようになり、異性装も罰せられるようになりました。

   そして、大正時代以降は男色を同性愛と表現するようになり、性欲学において「同性愛=変態」と評価されるなどして、同性愛が変態であるという認識が広まるようになりました。

4 最後に

 LGBT理解増進法の成立を機に、果たして日本において性的多様性に対する理解不足があるのか、歴史を遡って確認しましたら、上記の通り、日本では長年にわたって性的多様性に寛容な文化があり、特に差別もなく、著名な歴史上の人物にも逸話が残されていることがわかります。そして、同性愛が変態であると評価されるようになったのは明治時代以降のようです。これらの情報は、インターネットで検索すれば出てくるものばかりですが、あまり公に語られていないように思い、今回ご紹介しました。今後、LGBT理解増進法に基づく施策が実行されるのではないかと考えますが、改めて日本の歴史を振り返り、日本の文化を見直してみるのも良いのではないかと考える次第です。

以上

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