• 事務所概要
  • 企業の皆様へ
  • 個人の皆様
  • 弁護士費用
  • ご利用方法
  • 所属弁護士

弁護士コラム・論文・エッセイ

弁護士コラム・論文・エッセイ

ホーム弁護士コラム・論文・エッセイ堤弁護士著作 一覧 > 「有事法制」を超えるもの
イメージ
弁護士 堤 淳一

2022年04月28日

「有事法制」を超えるもの

本稿は平成8年(1996年)7月発行の事務所報に掲載し、その後、平成14年(2002年)9月に随筆集を発刊した際に補遺をほどこしたものである。今次ロシアがウクライナに侵攻し、自国を守ろうとするウクライナ国民の姿が連日報道される中で改めて我が国の防衛体制を顧みたとき、20年も前に本稿で述べた有事法制をめぐる議論や制度の構築はほとんど進んでいないと実感せざるを得ない。今般の戦争を他人事として傍観せず、真に必要な有事法制とはいかなるものかを考えるうえでご参考になればと思い、改めて本稿をホームページに掲載することにした。この稿を著したのち、周囲から「いまどき本土で実戦はないよね」として、本稿が想定する事態を夢物語とする声を聞いた。しかし、ウクライナ戦争により武力紛争が現実のものとなった。我が国においても決して傍観視することは許されない状況となったことに鑑み、改めてホームページに掲載させていただく次第である。何分にも執筆時から時間が経っているので、そのつもりでお読みいただければ幸甚である。




(堤・安田法律事務所報No.10, 1996.7.23)

 

 □  帝京大学の教授で志方俊之氏という方がおられる。テレビにも顔を出しておられるからご存知の方も多いと思うが、もと陸上自衛隊北部方面総監(陸将)を務め、退官後、「軍事アナリスト」に転身された方である。志方氏の口癖?に「政府の組織の中に万が一・・・のときのことを常に・・考えている部局が1つくらいあってもよいでしょう」というのがある。氏の言われる「万が一のとき」とは我が国の安全が脅かされたときのことである。

 □  志方氏が書かれた最近のエッセイ「『朝鮮有事』で日本国内はどうなる?これが"起こりうる悪夢のシナリオだ"」(SAPIO、平成8年(1996年)6月26日号)によれば、北朝鮮が「朝鮮有事」の事態に突入した場合には次のような争乱が我が国に及びうるとされる。
 ①日本における米軍基地、とくに飛行場や港湾の1部の破壊、周辺海域に対する機雷の付設
 ②特殊部隊の潜入
 ③米軍基地反対のデモ、鉄道、橋梁、発電所(原子力発電所を含む)などに対する破壊活動
 ④在韓邦人の救出問題
 ⑤脱出した邦人が乗船している韓国船に対する襲撃
 ⑥漂着難民(その数は20~30万人)の上陸、及びその保護
 ⑦漂着難民の日本社会への浸透
 ⑧米国との間の「物品役務相互提供協定」(ACSA=1996.4.15調印)や基地使用をめぐる米国とのあつれき
 ⑨傷病米将兵に対する救護
 ⑩日米安保に対する米国の不満醸成
―「これらのことが10日ぐらいの間に一度に起こる」と志方氏は言う。

 □  折から5月13日、橋本首相は防衛庁など関係官庁に対し「有事」を想定した具体的対応策の検討・研究を指示した。問題の重要性からいって研究・検討の成果が出るのはまだまだ先のことであろうし、今まで不毛な防衛論議を続けてきた政府が、すぐに的確な「有事法制」を作りあげることができるとは思えない。当面「集団自衛権の憲法的解釈」「在外邦人の保護」といった議論の空中戦か、マイナーな論点をめぐる紛糾が続くのであろう。

 □  しかし、「有事法制」の本質的な問題は、志方氏が言われるように、動乱によって我が国に及ぶ直接的な影響をどのように制度・・が受け止めるかということである。そして同時に重要なことは、このような争乱を日本人が国民・・としてどのように受け止めるかということである。
およそ我が国では戦争に対する研究は50年間等閑にされてきた。戦争に関する研究は「平和研究」というコインの反対側にあるものとして研究され、ここにおいては戦争は国際政治学か人文科学の一部として取扱われ、戦争が持つ本質や技術の問題は、自衛戦争をも含めて退けられてきた。「民間防衛」などという考えはスイスの民間防衛の本が翻訳されたぐらいで系統的に検討されたこともない。

 □  そうはいっても、「有事法制」を口にしただけで罷免に追い込まれた統合幕僚会議議長がおられた時代にくらべればいくらかマシになったが、国際社会が戦争を放棄していない以上、有事「法制」の問題を超えた市民意識に関する議論がこれから真剣に行なわれるべきである。
 それはどういうことか。
 例えば、志方氏の言われるように我が国にある米軍基地をめぐる電力、水道、道路、橋梁などが破壊されるとすれば、これはひとり米軍基地だけの問題ではなく、我が国民の生活にも甚大な影響を及ぼすことは自明である。停電(私にとっては不思議でも何でもなかったが若い人にとってはそれだけでもパニック)、断水、水道の汚染(関東大震災の折に流布された噂による混乱を想起されたい)、都市ガスの停止、電信、電話、鉄道の遮断(多くのサラリーマンはどうする)、・・・これらの事態はそれだけで都市生活を破壊するに十分である。やがて生ずるであろう小火器の使用・・・耳に直接銃声を聞いたことのある市民はどれだけ少ないことか。砲火をみたことのある市民に至っては・・・?目前における流血、人の死傷、建築物の倒壊、爆薬の破裂・・・不確実な情報が飛びかうことによる不安の増大、秩序の混乱、こうした状況から受ける身の縮むような恐怖・・・。

 □  こうした非常事態に対しては人々には我慢、忍耐、自己犠牲、自制心といった社会の基本的要素をなす心得が必要とされるのであるが、そうしたことに対する教育が十分になされてきたとはとういて言い難い。
 ある人は言うであろう「だから米軍にいてもらっては困る」・・・しかしそうであれば、いまより、更に外国勢力の日本への浸透はいまより更に容易であることを忘れてはならない。またある人は言う、「米軍がすぐに来援してくれる」・・・そんなバカなことはあり得ない。

 □  先日志方氏にお目にかかった折、先生の曰く、「困ったもので、脅威を言いたてることは相手方を煽ることになる、という人がいましてね」と。これはまさに井沢元彦氏(作家)の言う「言霊(ことだま)」の世界である。言霊とは日本人の持つ原始的体質で、「雨よ降れ」というと本当に雨を呼ぶことができると思い込む精神世界のことで、「戦争」と叫ぶとそれが研究であれ何であれ、「戦争」が起こるという思考方法のことである(詳しくは同氏の著作「言霊の国解体新書」など参照)。

 □  すぐれた「有事法制」と共に優れた「有事精神」を速やかに確立する努力(このような努力は戦前・戦中にも本当に行われたかどうか疑わしい)が始められるべきである。
Never say never!(「過去になかった」と言うべからず=ヘンリー・キッシンジャー)

補遺(平成14年(2002年)9月)

  さきの国会(第154通常国会)において有事法制に関する3法案(いわゆる武力攻撃事態対処法案、自衛隊法改正案、安全保障会議設置法改正案)が審議されたが、平成14年7月16日、与党3党の幹事長会談において、有事法制関連法案を衆議院で継続審議とする方針を固めた。有事法制をめぐる議論は今秋開かれる予定の臨時国会に持ち越されることになった。
 「『有事法制』を超えるもの」を執筆したのは平成8年(1996年)のことであったが、その中で「・・・・・今まで不毛な防衛議論を続けてきた政府が、すぐに的確な「有事法制」を作り上げることができるとは思えない」と書いた。執筆以来6年を経て、政府の説明によれば「四半世紀の研究を踏まえて」漸く国会レベルでの討議が行われるに至った。しかし、法案の提出が唐突と受けとられたためか、法案成立に向けての与党の足並みはいま一歩まとまりに欠け、野党をはじめとする反対論にも的外れな点も多く、国会審議は「有事」の実質に迫っているとは言い難かった。
 以下に昨今の有事法制論議についての私の感想を思いつくままに述べておこうと思う。

  軍隊の運用と行政権について

   まず軍隊の運用と行政権について。
 行政権の発露としての軍事力の行使は政府が独自にこれを保有するとするのが英米法における主流的な考え方であり、それ故、アメリカの国防に関する基本法である国家安全保障法 National Security Act 1947 は軍とこれに附属もしくは関連を有する諸機関の編制組織については定めていても、軍の行動については、軍の最高司令官としての大統領に行使の権限を一任し、法律にはこまごまとした制限を加えてはいない(もっともアメリカ憲法は議会に開戦の権限を与え、また、予算を通じて軍の編成をコントロールしている。さらに1975年にはいわゆる「戦争権限法」を定めて、大統領の権限を制限している)。
 わが自衛隊法が自衛隊のとりうる行動についての規定を設けているのとは大いに趣を異にしている。即ち同法76条(防衛出動)、78条、81条(治安出動)、82条(海上警備行動)、83条(災害派遣)、84条(領空侵犯対抗措置)。以上が自衛隊のとりうる行動のすべてである。極言すればアメリカにおいては「これはしてはならない」式の定め方、我が国においては「これしかやれない」式の定め方をしていると言えようか。
 このように我が国の自衛隊法が自衛隊の行動を限定しているのは旧軍のコントロールに失敗した反省によることもさることながら、立法当時の政治状況に照らして建軍に必要な軍の本質をよく検討し得ないまま「警察予備隊」と「海上警備隊」を蒼惶の間に発足させたことから、自衛隊を警察の延長線上に位置付けたためであろうと思われる。そのため自衛隊は本来軍隊が行うべき行動を有事の際に十分にとれない仕組みになっている。このことは有事法制問題を考えるうえでも重要な点である。

  有事法制論議の盲点

   有事法制は危機に対処する法律制度であることは今更言うまでもないが、反対論の中には有事法制はアメリカの戦争に手を貸すものだという説がある。この議論は法制論と国家の戦略論とを混同するものであって議論の仕方が誤っているが、それはおくとして、問題はアメリカの戦争に手を貸すかどうかではなく、我が国の領土内に直接侵略(さらには従来の戦争概念が予定していない低程度紛争(LIC)による外敵の浸透)が生じた場合にどのように法制度を機能させるかという点から、有事法制を検討する必要があるにもかかわらず、この観点から真剣な議論が一部を除いて聞かれない点にある。
 有事(戦時)とは外敵の侵略によって国が胴震いをするときであり、平時とは異なり、治安が崩壊した社会が現出した時である。即ち、戦時においては国や地方自治体の機関はもとより国の基幹産業を構成する多くの国民が殺傷され、平時においては正常に機能している国の機関も損壊・麻痺して十分に機能しなくなるのであるが、その中にあって、軍は生き残った国家機関とよく共同し作戦を通じて国の安全を回復し、国民を保護することを期待されている(それゆえ軍隊は国家内国家と呼ばれることもある)。従って、これを統率する最高司令官としての内閣総理大臣、これを補佐する閣僚たちにはその地位にふさわしい勇気と軍事知識を含む叡智が要求される。そして戒厳下にあって秩序を失った国の経営の一部を担うことになる軍隊(当然ながら軍人と文官を含む)にたんなる軍隊運用のスキルを超えた国政全般についての知識を平素から備え置くことが要求されるのである。

  「本土」における戦争

   我が国の憲法下における自衛隊は外征を目的としないから、これが運用にあたって想定される戦争は我が国の領土内に限定され、当然上述した事態が予測される。それゆえ有事法制とは本来このような事態に堪えうるようなものでなければならず、有事法制に関する議論もこうした事態を予測してなされるべきなのである。しかし昨今の議論はこうした緊迫感を欠いているように思われてならない。想像力の欠如というべきであろうか。あるいは、我が国が過去において一部の地域を除き、国外で戦争をしてきたため、自国領土内での戦争について議論することに不感症になっていて、まずアメリカの極東における戦争に目が行ってしまうせいなのかもしれぬ。 
 有事法制ができるとアメリカの戦争に手を貸すことになるかどうか、の観点からではなく、秩序が崩壊して惨胆たる有様になった我が国がどのようにして生き延びるかという問題意識が根底になければならない。「アメリカの戦争に」ではなく「我が国領土内での戦争に」どう対処するかの議論がはじめに来なければならないと思うのである。
 上述のような国や地方自治体の機関の壊滅・麻痺、混乱といった事態が想定されるとすれば、有事法制はそのような事態に即応できるように制定されなければならない。平時であればよく機能するかもしれないきらびやかな法制度を作って、混乱時において自縄自縛にならねばよいが、と思う。

  外交が破綻したあとに来るもの        

   反対論を聞いていて、私にはどうしても判らないのは、国の外交努力を強調したうえで、「戦争はすべきではない。戦争を回避するのが国の務めである」とばかり述べてそれ以後の議論をやめ、いきなり、「だから有事法制はいらない」という結論につなげる式の議論がいかにもまともな議論のようになされていることについてである。戦争を回避するのが国の務めだということは判り切っている。にもかかわらず我が国が侵略されるおそれが絶無であるとは誰にも言えない筈である。「将来戦争は起きるかもしれないが、いまは起きるような国際情勢にない」という議論も時々聞く。「国際情勢などは一寸先は闇」という風に考える方が常識に適っていると思うがどうであろうか。
 例えばアメリカが日本から撤退し、グアム島を中心とするマリアナ諸島の線まで引いたとすれば(アメリカが緊急展開軍を整備していることに照らし、これはありうるシナリオである)、沖縄を含む琉球列島に軍事的真空が生じ、極東における軍事バランスは大きく崩れる。この場合、我が国がよほど上手に行動しないと極東に戦雲が漂う危機は増大する。我が国に「平和憲法」があったとてそれだけで常に抑止力が働くものではない。
 こうした、「戦争はすべきではない」という議論は憲法9条の解釈論としてなされることが多い。我が国の憲法9条が武力を放棄しているがゆえに外敵の侵略に対しても「戦争はしない」とする議論は9条の1つの解釈論としてはありうる。しかし、この種の議論が我が国が滅多打ちされてもなお反撃もしないというところまで徹底して結論するとすればその議論には到底ついてゆけないものを覚える。やはり憲法9条は自衛のための武力は放棄していないのだという風に解釈するのが穏当だと思う。

  有事法制と政府

   有事法制反対論には法制の具体的展開について論ずるものもみられる。
 まず、有事法制によって首相に強大な権限が集中し、民主主義が機能しなくなるおそれがあるという点からの反対論がある。しかし、上述したところから明らかなように、有事において行政府に権限を集中しなければ危急を凌げないことは当たり前のことであって、有事に際して首相に権限を集中させることと民主主義の崩壊とは関係がない。有事に際して情報を集中せず、その分析もてんでバラバラに行い、侵略に対する反撃のための指揮も散漫にわたることこそ、軍隊統率の基本を誤り、国家を危殆に陥しいれることになる。アメリカの大統領やイギリスの首相が、戦時において強い権限を持っているからといって彼の国の民主主義が崩壊しているという声は聞かない。
 閣僚は文民であって、有事の兵站補給等について知る由もないから、安全保障会議の中の少数から成る部局によって密室の中でこれが立案されることになり、国民の知る権利を害するというような議論もあった。たしかに閣僚は文民であるが、そのことを以て閣僚が兵站補給を含む軍事に関する知識を持っていなくとも当然のように前提するのは正しくない。また閣僚は文民だから軍事に関する知識など持ってはならないとするのであれば何をかいわんやである。
 有事に備えることになる閣僚たちはシビリアンコントロールを実効あらしめるため一層の研鑽を通じて軍事を含む国家の安全保障についての知識を持つべきなのである。「軍については自衛隊の仕事であり、我は関せず」として軍事問題から身を引いてしまうのでは無責任の謗りを免れない。現にアメリカの上院議員の中には制服組を上まわる軍事知識を持っている者が大勢いる。
 それはそれとして、有事の際、兵站補給の策案と実施を少数の者が担うべきことは当然のことである。けだし多人数に諮ったのでは船頭多くして何とやらの譬え通り、兵器や物資を要点に集中的に投入するプランを立案することができず、兵力の分散投入や逐次投入の弊をおかすおそれが十分だからであり、また多人数によって策案したのでは情報が漏洩し、これを利用した外敵によって補給途上において攻撃を受け、補給、輸送が壊滅するおそれがあるからである。

  武力攻撃事態        

   次に「武力攻撃事態」という概念について。
 反対論は有事関連法案は「武力攻撃事態」の範囲や定義があいまいであるとする。武力攻撃事態の定義をできるだけ明確にしておかなければならないことは言うまでもないけれども、安全保障の政策は夥しい不確定要素の上に成り立つ。有事における事態は平時とちがって「敵」を前提とするが、敵は自らの意思に従って刻々と動く。敵の動きは、ことの本質から言って完全に予見することは不可能であり、それにもかかわらず「我」は予測不能な外敵の動きに即応しなければならない性格を持つ。安全保障の問題に対処するにはすぐれた想像力が必要とされるのである。それゆえ、国が対処すべき武力攻撃事態の範囲はいかに明確にしようと努力しても構成要件的に明らかにすることは抑々できない性質のもので、国民が政府を信頼してその裁量に委ねるほかない分野なのである。

  有事と基本的人権

   有事法制が制定されることによって基本的人権が侵害されるという点が反対の論拠にあげられている。しかし、有事において生ずる名状し難い混乱の中で外敵によって蹂躙される基本的人権の侵害(基本的人権の侵害は侵略勢力によって行われるだけではない。侵略勢力に呼応する内国勢力や、混乱に陥った一般国民によって他の国民の権利が侵害されることも大いに予想される)を防止し、「混乱の中の秩序」を維持するためにも有事に対処する法制は完備されなければならない。有事に際しては国民のすべてがてんでに基本的人権の保護を主張したのでは収拾し難い混乱に陥ることは誰にでも見えやすい理である。
 基本的人権の一である「知る権利」を例にとってみよう。平時における情報公開が大切なことは判りきっているが、有事の際に作戦の立案、部隊指揮の内容に関する情報まで公開してこれが侵略勢力に傍受され、自国民の生命身体に損害が生じることについてはどう考えるのであろうか。そうした愚を避けるためにも、「知る権利」を一定の範囲で制限し、電波を最低限収用し、無線による外敵との通信を制限する必要を認めうるのである。
 今一例のみをあげたが、かように有事にあっては基本的人権が最小限制限を受けることはやむをえないことであって、国民の各々が忍耐によって秩序を維持し、侵略を排除する覚悟を必要とする。

  「有事法制絶対反対論」について

   有事法制反対論にもいろいろあって、絶対にこの種の法制に反対する論から、今次政府の提案した法案は不備であるとする論(その中には今次の提案は戦時と、天変地異を含む「有事」の総合的な把握に欠けているする議論や、有事における国民の避難誘導の具体的方策が先送りされているとする論などさまざまである)まで幅広く行われている。
 今次の政府提案に対する反対論は理解できるものを含むが、絶対的反対論については、私は理解できない。
 けだし、絶対的反対論は憲法9条を絶対的戦争放棄として解釈し、いかなる意味でも戦争を否定することから出発するのであるが、上述した通り、我が国領土に対する直接侵略を排除する意思と能力を捨て去るよう求めることは首肯し難いからである。また、反対論の中に、有事法制を抜きにして上述した議論に堪えうる確固たる安全保障政策プログラムを展開したものを見ないからである。
 有事法制を考えるうえでの真の問題は、有事の際に国民が信頼を寄せることができる政府(戦時内閣の類)を我が国が持ちうるかどうかにある。戦後60年になろうとする間、政治家や官僚の中に、真に国家の戦略を研究し、国家大変の時に断固たる勇気を持って国民をリードし、軍隊をよく統率しうる者がいるだろうか。本音で言えば私も、そして多分多くの国民も有事の際の指揮を政府にまかせることについて不安を持っているということである。もっと言えば政治家や官僚の国家安全保障政策が、彼らの無知に由来してまっとうなものにならないかもしれないという点に不甲斐なさを感じ、もしくは同様の理由から、逆に政府が暴走して国民の基本的人権を必要以上に侵害するのではないかという不安を等しく抱いているということである。
 それゆえ、反対論は有事法制の危険に名を藉りて、そこで思考を停止させ安逸の中に韜晦することによって「平和を祈念する」ことになる。しかしそれで不十分なことは反対論者も判りきっている筈である。有事の際における兵力集中と有効な作戦の展開のためには、権限の集中が必要であることも、また情報が外敵に筒抜けになっては外敵の排除はできないことについても、常識的に考えれば理解できる事柄なのである。
 有事法制論議は、有事法制に絶対的に反対することからではなく、この種の法制によりもたらされる「非常事態」の中身を具体的に検討すること、非常事態によりもたらされた非常時政府(戦時内閣の類)をどのように平時の政府に戻すか、外敵の侵略が排除された後に有事法制にもとづいて制限した国民の権利をいつ、どのように回復するか、排除できなかったとき(例えば敗戦の時)はどうするか等に関する、地についた議論をすることへと議論の重点を移しかえることによってはじめて不毛から脱しうるのである。
 そして、将来的にみて、真の解決策は政治家・官僚が軍事学をはじめとする国家安全保障に対する技術について研鑽を積むこと、そして国民が60年、目を潰ってきた国家の安全保障に関する知恵を身につける外にはないと思うのである。

<附記>
有事関連法の成立

□ 本稿執筆後、平成15年(2003年)6月6日「武力攻撃事態対処関連3法」が可決、成立した。
・安全保障会議設置法の一部を改正する法律
・武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律
・自衛隊法及び防衛庁の職員の給与等に関する法律の一部を改正する法律

□ その後、平成16年(2004年)6月14日に有事関連7法可決、成立した。
・武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(国民保護法)
・武力攻撃事態等におけるアメリカ合衆国の軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置に関する法律
 (米軍行動関連措置法)
・武力攻撃事態等における特定公共施設等の利用に関する法律(特定公共施設利用法)
・国際人道法の重大な違反行為の処罰に関する法律(国際人道法違反処罰法)
・武力攻撃事態における外国軍用品等の海上輸送の規制に関する法律(海上輸送規制法)
・武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律(捕虜取扱い法)
・自衛隊法の一部を改正する法律(自衛隊法一部改正法)

ページトップ