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弁護士コラム・論文・エッセイ

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弁護士 堤 淳一

2001年08月25日

続・江戸町奉行所物語

以前他のところに-----私共の事務所の親しい人たちによって作られている塚本企業法実務研究会が発行する"BAAB"という雑誌に、江戸町奉行所のことを書きました。此度その続編をときどきにこのホームページに載せることとしました。

江戸の市政

*町奉行*

 江戸南町奉行所の与力であった佐久間長敬(天保10(1839)-大正12(1923)年)が書いた「江戸町奉行者事蹟問答」という本がある。
 この事蹟問答集に曰く、
「町奉行は幕府の爪牙となり、格(閣)老を補佐する重職にて、社寺奉行・町奉行・勘定奉行の連署して内外の政事法律の制定悉く評議し、上裁を仰ぎ、評定所一座役人と唱て老中若年寄に次ぐ重き役人なり」・・・・「その役高三千石(持高の不足を蔵米にて渡す)」とある。

 与力という内輪の人が書いたもので若干身びいきの点もあるが、要するに町奉行は社寺奉行、勘定奉行と合議して立法に参画し、老中、若年寄(内閣)のもとにあって、行政、司法を執行する役職であり、その職掌は一言にして尽くせば、「公事裁断探索捕縛民政の庶務を担任」することにあった(事蹟問答集)。
 町奉行所(正式には番所という)は南北二庁に分れ、一ヶ月交代で政務をとった(但し北町奉行所が江戸の北半分、南町奉行所が南半分という風に地域を分って管轄するわけではない)。

 ところで江戸の都市域について幕府はたいした関心を示さず、その範囲は漠然としているが、極く大雑把にいっていまのJR山手線の内側が江戸の町であった。
 享保10(1725)年頃にはその区域は69.9k㎡、慶応元(1865)年には79.8k㎡であり、そのうち武家地は46.47k㎡(66.5%)、町人地は8.72k㎡(12.5%)、寺社地は10.74k㎡(15.3%)、その他4.0k㎡であったとする説がある。(内藤昌「大江戸曼陀羅」・朝日ジャーナル、平8)。

 町奉行は町人地の支配に任じており、その区域は江戸城の東から東北にまたがる割に狭い範囲であり、JR環状線内の1割強が町奉行支配地とみて大過なかろう。
町人地に居住する人口は約60万人(享保年間の数字)である(人口密度は1k㎡あたり68,807k㎡と極めて高い)とする説があり(内藤前掲)、これらの人々が町奉行所の支配を受けた。
 
  支配の形態についていえば、町奉行所の組織は小さく(南北両奉行所をあわせて250人が定員)、直轄支配はとうてい不可能であり、町奉行所の組織が小さくて済んだことは幕末の行政が「取締行政」であったこととも関係する。町政は町年寄、名主、五人組、などの職にまかせてられていた。いわばこれらの町人を経由する間接支配であった。
 本稿ではこの「町政を支配する人々」について述べようと思う。

*町年寄*

 町年寄は町奉行の管轄下において江戸の町に対する幕府の令達を布告し(月番が奉行所に出頭し下達を受ける)、収税を司ると共に、名主(後述)の監督にあたった。町年寄は樽、奈良、喜多村の三家による世襲職である。

 樽氏は、その祖は水野氏を称したが、天正3年長篠の戦の折、織田信長に酒樽を献じたことを賞され、その後遠江の市政を司る吏僚となったが家康が慶長8年(1603年)江戸に入府した折にこれに従って江戸に移転した。
 本町(日本橋)二丁目(住宅)、元数寄屋町一丁目、岩代町、橘町一丁目および米澤町三丁目におよそ2400坪を賜り、市政を担当すると共に、東国33ヶ国の桝改めのことを司った。桝改めとは度量衡の規格を定めその規格に合格しないものは使用を禁ずる制度である。

 奈良氏はその祖を大館氏と称し(そのため館(たち)氏をも称した)、大和国の奈良に住んでいたが、その後三河に出て家康に拝謁して特許商人となり、近江において家業にあたっていた喜多村氏と共に家康の入府に従って江戸に入った。
 奈良氏は本町(日本橋)一丁目(住宅)、尾張町一丁目、橘町一丁目、江戸橋蔵屋敷および河岸地、四日市蔵屋敷および河岸地、長浜町一丁目、二丁目(喜多村氏と共有)等におよそ2100坪を賜った。

 喜多村氏は本町(日本橋)三丁目(住宅)、尾張町一丁目、橘町一丁目、永富町一丁目、同三丁目、日本橋蔵屋敷および河岸地、四日市蔵屋敷および河岸地等におよそ1900坪を賜った。

 この三家は並立して用達商人(ようたししょうにん)の列につらなり、町年寄の職を幕末に至るまで世襲した。
つまり町年寄は商人身分のうちから権力支配の中に組入れられた武士の亜種であるといえよう。
 町年寄の格式は高く、名字を許されたことはもちろん、代々熨斗目白帷子の着用が許され、時に応じて帯刀も許された。
 この三家は、当初、神田および玉川の両上水を管掌し、かつ、豊島郡のうち、関口、小日向、金杉村の代官を務めていたが、後に前者は町奉行の所管に、後者は代官の支配に移管された。
 樽氏の職務に町地割役というものがある。江戸の町地の測量、測量図面の交付を司る役である。当初この仕事は町奉行の申請にもとづき大工頭という別の役人が執行したが、煩にたえないところから、町方にその職を移すことになり、木原勘右衛門がこれにあたったが、その後、罷免され、樽氏の管掌するところとなった。

 旧事諮問録(上)(岩波文庫)261頁には町年寄の役割について曰く、
 「三人の町年寄には掛かり持ちを定め、たとえば、呉服、木綿、薬酒問屋は館の係にて南町奉行の部、書物、酒、廻船、材木問屋は樽の掛にて、北奉行所の部と申す如く、おのおの受持ちある事でした」と。そして「米穀高直(値)なれば直(値)下げを諭すなどは、その掛りでなすというのです」(同262頁)とあるから、江戸市民を職業別に分け、南北両奉行所においてその各職業から生ずる行政事項を(裁判に関する事項を除く)分担していたようである。

*町名主*

 町名主は各町の長であって、町年寄の指揮に従い支配する町内の公務を執行した。
 奉行所の通達は上述の通り町年寄が奉行から受け、これを名主に伝達し、名主は五人組(後述)の家主にこれを伝達する仕組みになっていた。そして、これらの令達は自身番所に掲示して町民に布達するのを例としたのである。
 ところで町名主は一つの町(「神田鍛冶町」というように)を支配するのではなく、支配地の範囲は一定していなかった。少ないところでは12町、多いところでは23ヶ町、寺社の門前に連なるものにあっては40ヶ町が1人の名主によって支配された。

 正徳5年(1715年)11月の時点で196名が任ぜられ、享保8年(1723年)には総数264名を18組に分け、ほかに番外として吉原町に4人を定めた。以後その人数を増やすことが禁ぜられたが、寛延年間に区分を21に再編成し、番外として吉原に2組を置いた。そして第1、第2、第4の組を小口(南北小口年番)と称して年番の組が町年寄からの指示をまとめて受け、年番毎に統轄する輩下の組へ令達した。また寛政2年(1790年)、各組にきもいりなぬし肝煎名主を設け、名主の監視を期待したが、天保2年(1831年)にはこの制を廃止し、「(名主)組合世話掛」32人を置くこととしたが、その数は安政5年(1858年)には増加して45人となった。

 組合世話掛は職務分担を定め、市中取締(48人)、諸色取締(物価の取締。50人)のほか、米、酒の流通取締、絵草紙・書物等出版物の取締、桶樽役銭の取締、町会所の監査、先任者としての年番等の職掌を分け持つようになった。
 名主の職分はその支配下にある町政全般にわたり、紛議の勧解(和解の勧試のこと)、不行跡者の説諭、無頼漢や浮浪者の検挙等々、「父老の役」を任とする。また町人の訴訟については家主、五人組(後述)と共に訴状に裏判を押捺するなど裁判事項にも関与した。
  名主には3種類があった。
 その1は草創名主(くさわけなぬし)であり、29人(幕末までに6人減)がその任にあった。天正時代より以前(1573年頃以前)から江戸の区域に居住する者、徳川氏の移封に伴って駿河、遠江、三河などから移住して来た者などである。
 その2は古町名主(こちょうなぬし)であり、文化年間(1804年~1817年頃)には79人(幕末までに4人減)という。慶長以前から居住する者、江戸の町割に功績のあった者、寛政(1789年~1800年)以降新開地の開発にあたった者などである。
 その3は平名主であり、江戸の拡張に伴ない代官支配地から江戸に編入された地域にある者で「新町家名主」とも称した。
 草創名主と古町名主は年賀の大礼の際には登城し、将軍に拝謁を許された。
名主は名字帯刀を許されたが、帯刀については町人の廃刀禁令の後は公用の旅行等、特別の場合を除き禁ぜられた。

 名主の役料は金2両2分から301両3分、銀12刄余まで差があって一定していなかった。名主には役料のほかに賞与と沽券書換(抵当権等担保物権の設定、移転手続)などの役得があった。

 名主の職はすべて世襲であったが、相続のときは支配下の家主(後述)が連署して申請し町奉行がこれを任命する。廃絶により新たに名主を任命するには、家持(後述)の中から公選し、相続のときと同様の手続を経て町奉行がこれを任命する。
名主の制度は明治2年3月に全廃された。

*五人組*

 五人組とは近隣の5戸を以てする庶民自治の組合である。孝徳天皇白雉3年(652年)に五保の令が定められその後律令の制定により制度がかたまって以来、この相互監視の制度は諸国に活着したが、豊臣秀吉のいわゆる太閤検地により村の直轄制度が用いられ五保の制度は廃された。

 しかし戦国時代の争乱の中においては近隣者の自衛は不可欠であったから、京都には組町、郷村においては小団体の組合が発達したことに鑑み、慶長2年(1597年)に豊臣秀吉はこれを制度化することとし、五人組、十人組の規制を布した。
江戸時代には浪人の取締、異教の禁止の目的からこの種の制度を従来以上に必要とし寛文4年(1664年)には五人組帳をととのえるなど、殆ど完璧の域に達した。
抑々江戸の町政は地主(家主)を根底に置いていた。ゆえに、五人組は地主からなり、地借人、店借人を支配、監督した。(注)

(注) 地主であって家主を兼ねる者をいつきじぬし居附地主(=家主)という。土地を借りて家を持つ者をぢかりにん(地借人)という。家を借りている者をたながり(店借)という。

 五人組の中より1名の月行事(がちぎょうじ)を月番(1ヶ月交代)により選任し組合内の事務を担当せしめた。月行事は町内から生ずる訴願に加判し、検死・見分の立会、容疑者の拘留、火消人足の監督、町内の道路・路地の整備、冬季・春季における防火、夜警等を取り扱うほか、名主のいない町においては名主の職務を代行した。
五人組の成員は相互の交誼を篤くし、組合中の支配下にある人々の婚姻、養子縁組、相続、遺言、廃嫡等に立会い、組合の中の幼年者の後見、後見人の鑑定、幼年者の財産管理、豊作の手助け、不動産に関する権利の設定、移転に関する証書の公証、組合成員の素行監視と不行跡者に対する説諭などにあたった。また組合成員の外泊を伴なう旅行および訴願に際しては事前に五人組に届出るものとされた。租税の滞納については五人組において連帯して代納する義務を負い、違法を犯す者があれば五人組は連座してその刑に服した。
五人組の制度は明治2年6月すべて廃止された。

(2001.8.25)

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