
2003年09月10日
第2次湾岸戦争は2003年3月19日、米軍のトマホーク巡航ミサイルとステルス爆撃機による限定攻撃をもって始まり、ほぼイラク全域を連合軍が制圧したとされる4月15日まで26日間をもって軍事作戦が終結した。第1次湾岸戦争(1991年)に比べ兵力において約半分、終了までの期間は約半分を上廻る程度、損害においては3分の1、戦費においては4分の1であった(下表参照)。イラク軍は第1次湾岸戦争当時に比べて衰えていると見られていたものの、なお450,000人(義勇軍、リパブリカンガードを含む)を超え、当初その戦意も旺盛であったとみられており、「攻撃側は防禦側の3倍」(都市その他困難な地形にあっては6倍)の兵力を要するとする軍事セオリーに照らすと軍事的側面に限っていえば大いなる勝利であると評される。
こうした戦果はアメリカ軍が継続してきた軍改革の努力が寄与している。
アメリカ軍改革の歴史の中で直近の動きは1980年代におけるそれであるが、軍改革の最も熱心な支持者の1人にラムズフェルド国防長官を挙げることができる。
ラムズフェルド国防長官は、2000年1月にその職に就く以前から、アメリカの軍隊は在来の軍事セオリーに拘りすぎ、同時に兵器システムと過去の軍事ドクトリンに執着しすぎていると感じており、陸軍はもっと高性能で迅速性に富んだものであるべきであるとして軍の改革に意欲を持っていた。陸軍はその性格からして重装備で余裕のある兵力を持ちたがる風潮に依存しすぎており、思い切った改革が必要であるとする長官の主張は陸軍内に物議をかもし、陸軍は、国防長官の意見に同調する幹部と、反対意見を持つ者との間に意見の分裂をみるようになった。長官の意見に賛同しない陸軍の上級幹部は「クリントンの将軍」(前大統領によって昇進した将軍)とか「古ぼけた陸軍」などと呼ばれて次第に排斥されるようになった。
2001年9月11日のテロリストによる攻撃に対し、ラムズフェルド長官は言葉を失った。確かなことは戦争が始まったということ、その責任が国防長官である自分の肩にかかっていることであった。戦争はどこで起こるか。起こるとすれば西はアフリカのホーン岬、東は中央アジア、北は紅海、丁度アメリカ中央軍CENTCOMの管轄下の地域であろう。CENTCOMの司令官はテキサス出身で砲兵科出身のトミー・フランクス大将(56)であり、誰もがフランクス大将は在来軍の方式をもって仕事をやりとげるであろうと信じていた。このように信じている人々はラムズフェルドと陸軍との間の不協和を知らなかったのである。
フランクス大将は1991年の湾岸戦争当時は騎兵師団のナンバー2であり、90年の終わりにはCENTCOMにおいて陸上部隊を管轄下に置く第3軍の司令官であった。クリントン大統領はその任期の最後に先任者であるアントニー・チンニ大将の推輓でフランクスを大将に昇進させCENTCOMの司令官に任命していた。チンニ大将は必ずやイラクに対する第2次戦争が起きるものと信じており、またフランクス大将がペンタゴンの書類棚に待機している危機対処プランを完全に熟知していることを知っていた。そのプランはフランクス大将の作成したものだったからである。
フランクス大将も"偶発事件"としての対テロ戦争の指揮官となることを予期しており偶々CENTCOMの司令官になったけれども、ブッシュ政権下ではその職は安泰であるとは限らなかった。ブッシュ大統領のチームは「クリントンの将軍」であるフランクス大将をアフガン戦争のための司令官として選んではいなかった。彼の「古い陸軍」におけるキャリアは、ラムズフェルドがアフガン作戦の開始にあたって予見した新しいタイプの戦争に用いるためには殆ど資格を欠いていたと感じていたのである。
フランクスはラムズフェルドにこう言った。「もし長官がビル・クリントンが昇進させた誰とも仕事を一緒にすることができないなら、新しいチームの全部を自らお選びいただいても結構です。しかし、もし、長官が私と一緒に仕事をしようと仰言られるのなら、心から仕事を一緒にしたいと思います」と。
ブッシュ大統領は9月12日にアフガン戦争のプランを提出するよう求め、ラムズフェルドはフランクスと共に10日間で暫定的なプランを提出し、アメリカは10月7日にトマホーク巡航ミサイルと重爆をもってカブールやカンダハルをはじめとしアフガニスタンの諸都市を攻撃し、テロリズムに対する戦いを開始した。
もと共和党院内総務であったニュート・ギングリッチは、フランクス大将が開始したアフガニスタン戦争が遅延していることに不興感を募らせていた1人であった。アメリカの軍事作戦家たちは新しい種類の戦争に対してとまどっており、クリントン大統領の任命した将軍たちは創造的でないし、賢くもないと感じていた。ギングリッチはラムズフェルドの永年の友であり、国防政策委員会(Defense Policy Board)のメンバーでもあり、また冷戦後の世界にふさわしいアメリカの軍隊を創造しようとする軍事セオリストのメンバーでもあった。
その1人であるジョン・ボイド退役空軍大佐は「OODAループ」 戦争において勝利をおさめるのは予見observing、方向性orienting、決心decidingそして敵より早く行動することactingであると論じた。
こうした陸軍部外のセオリストたちがたどりついた結論は機動戦 maneuver warfare の再発見であった。
機動戦のアイデアは火力を競って敵を圧倒するよりも、むしろ敵の戦闘能力を分断することによって敵を破ることである。機動戦闘maneuver attackの特徴は敵の正面に圧倒的な攻撃をかけ、そうする間に側翼の兵力が敵の兵力の後方に突進しこれを破壊することにある。(注1)
(注1) この方法は包囲(envelop)作戦として古くから知られていた戦術である。包囲とは防禦側のポジションの側翼を廻り込むように移動し、側翼もしくは後方から打撃することによって正面攻撃のコストを避けるためにする攻撃側の努力である。
包囲作戦がすぐれているのは防禦側は正面に対するほどには準備が整っておらず、自信を持って側翼を防御することができないからである。
戦略的包囲は防禦側に廻り込んだ後、側翼を通り過ぎ、後方への通信ラインを脅かし、もしくは後方から打撃する(もしくはその両方の)手段をとる。(Trevor N.Dupuy et al."How to Defeat Sadam Hussein"(Warner Books 1991)P54) ラムズフェルド長官らのグループは、この戦術をIT技術を用いて進歩させ、従来の包囲作戦のニューモード化を図ったのである(第1図参照)。
第1図
機動戦のテーマ速度、敏捷性、柔軟性は軍改革の合言葉となった。大統領候補としてブッシュは改革者たちに、また戦闘におけるマイクロチップの力の変換に信頼する動きの一翼にかねてから強く共鳴していた。国防総省においてラムズフェルドの手足となって中核をなすことが期待されていたひとにぎりの国防インテリを含む改革グループは今後の「軍事における改革」は正確に誘導される兵器の出現が引き金となるであろうと信じていた。
ラムズフェルドは国防総省内でステフェン・カンボーン、ダブ・ザックハイムら高級補佐官グループと共に軍改革の動きの雑多な要素を次第に「変質」transformation と呼ばれるしっかりとしたイデオロギーに統一させていった。
軍改革グループは兵器体系、兵力構成などについて包括的な見直しを行い、将軍たちのリーダーシップさえもが軍「変質」の理念に即応できるかどうかという尺度に照らして再評価された。精密兵器や宇宙基地ミサイル防衛構想も「変質」の対象として検討の俎上に上った。110億ドルの費用を要するクルセーダー砲火システムプランは廃棄された。当然軍の中にはこの動きに憤慨するものもおり、ラムズフェルドを「敵」とみなし、軍改革の動きを潰そうとする勢力となった。
もっとも、軍を改革しようとする動きが陸軍の中になかったとも言い切れない。1999年にクリントン大統領はシンセキ大将を陸軍参謀長に昇進させ、大将は一定の軍改革プランをラムズフェルドに提出し評価を求めたが、長官やそのチームはこれを不十分なものとみなした。ラムズフェルド長官はシンセキ大将を疎外し、そのプログラムを阻止した。これに対して陸軍はその影響力を駆使して議会においてラムズフェルドを阻止しようとした。
ラムズフェルドは「プランは全く新しいものでなければならない。けだし、敵の性格が全く新しいからである。タリバンもアルカイダも陸海空軍を持っていないではないか」と言った。ラムズフェルドは非在来型戦争を欲した。それは無人機と精密兵器とともにテクノロジーにおけるアメリカの優越性を利用したものでなければならず、また西側国家のテロに対する答えを支持するものでなければならない すなわち特殊部隊Special Force(注2)を鉄條網の背後に投入することを伴うものである。このことはある程度において「在来型」地上戦が行われるということでなければならないが、同時に特殊部隊を再組織しアフガン現地の義勇軍を指揮することであり、かつは地上部隊、海軍、空軍の航空機の空襲を必要とするものであった。
(注2)
特殊部隊Special Forceと一口にいってもアメリカ軍におけるそれは多種多様である。もともとは第2次世界大戦中、敵の後方にあってレジスタンス運動を支援するために作られたが、戦後一時期その組織は廃止された。陸軍における特殊部隊は"グリーンベレー"として、その後ベトナム戦争において広く用いられるようになり、ケネディ大統領が熱心な支持者であったこともあって、次第にその組織を拡大してきた。他の国の組織と異なりアメリカ陸軍の特殊部隊は大まかに作戦域を割り当てられたグループに分けられ、個別に装備され訓練が施されており、最も有名なものは1977年に創設されたDelta Force(1st Special Forces Operational Detachment-Delta)と呼ばれる組織である。その他に通し番号を付けたSpecial Force Groupが5個(1992年現在)存在し、更にCIAと協働する"Black"と呼ばれ、任務が秘匿された部隊もある。ほかにレンジャー組織として第75レンジャー連隊も存在する。特殊部隊の基礎的な組織は"A Team" と呼ばれるもので、大尉を長とし、軍曹から伍長クラスのおよそ10~12名の兵から成る。海軍も各種特殊部隊を備え、よく知られているSEALs (The Sea Air Land)は海軍の特殊部隊で1980年代には37個小隊が存在していた。空軍にも特殊任務を担任する特殊作戦コマンドU.S. Air Force Special Operations Commandがあり、いくつもの編隊Squadronを指揮下に置いている(David Miller & Gerard Ridefort "Modern Elite Forces" Salamander Books, 1992)。
最も広く特殊部隊を定義すれば海兵隊U.S. Marine Corpsそのものをその中に包摂することが可能であり、海兵隊遠征軍を大規模に投入した第2次湾岸戦争は、まさに「特殊部隊」の戦争であった。
陸軍の司令官たちは特殊部隊を主要な作戦プランに統合することに組織的な偏見をもっており、それには全く理由はいらなかった。法律により、特殊部隊は個々別々の指揮の下に作戦するものでありまた予算も別々であった。特殊部隊の任務は特定の領域に分別されていた。即ちある種の任務は在来軍の司令官からも秘匿され、その任務が形をなさないという性格を持っているという理解が論争に複雑の度を加えていた。ラムズフェルドにとってこうしたことは陸軍が克服しなければならない官僚的障害物であった。
フランクスはといえば、ソ連軍のアフガニスタンにおける恐怖の記録10年を要し、ソ連軍に30,000人の死者を出したを承知していた。在来型戦争において、陸軍は敵の火力を押さえるために砲を用いる。しかしアフガンにおいては極めて少数の砲兵が用いられたにとどまり、それに代えてタリバンの車輌からの発砲を捕捉するには、空からの打撃を求めるよう強いられた。 この戦の形統合兵力もしくは合同戦闘がまさに軍「変質」イデオロギーの要素であった。陸軍は戦争における「アフガニスタンモデル」からもたらされる変化を憎んだ。陸軍の将校たちは改革プランは余りにも性急に考案されたものであり、特殊部隊と信頼のおけない現地義勇軍に頼りすぎ、また砲兵の不足はアメリカ兵を危険にさらすものである。けだし、航空支援はもし得られるとしても時として到着が遅すぎるからである、等といって不平をもらした。そしてもっと多くの在来兵力が陸上にあればオサマビン・ラディンやムラー・オマールを逃走させることはできなかったであろうと論じた。
その数ヶ月間にラムズフェルドはクルセーダー砲火システムを葬り、ラムズフェルドはシンセキ大将との間に議会における最終対決を迎えた。しかしラムズフェルドはシンセキが選んだ陸軍参謀長の後継者の任期は14ヶ月前に終わらせるであろうからシンセキはもはやレームダックであるという合言葉を、国防総省からリークさせることによって、シンセキとの対決を終わらせた。ラムズフェルド自分と意見を同じくするケーン大将を陸軍参謀長に選任し、同大将は特殊部隊を在来型組織に編入させるアイデアを持ち込んだ。
大将の職にあるすべての者がラムズフェルドのスクリーニングを受けた。その動きは「大将職からなる政治集団」を作るものであるとの非難を受けた。しかしラムズフェルドは大統領に働きかけ、ブッシュ大統領はアフガニスタンモデルをアメリカンモデルにすることを承認した。2001年12月大統領はこう言った。「我が軍におけるこの改革は始まったばかりであるが、戦闘の様相を変えることを約束している。アフガニスタンはこの新しいアプローチにとって証明の場である。この2ヶ月間に、創造的なドクトリンとハイテク兵器システムが形成され、非在来型紛争に優位に立ちうることを示している。」
フランクス大将も次第にラムズフェルドに対する尊敬の念を抱くようになった。ある陸軍将校はフランクス大将を「ラムズフェルドの将軍」と呼んだ。ラムズフェルドはフランクスが彼のサイドに既に立っていることを確信し、もしイラクとの戦争がありうるとすればその戦争はフランクス大将によって指揮されるべきであると決心した。ところでフランクス大将のCENTCOM司令官の任期は2002年夏に満了するところ、ラムズフェルドとブッシュは任期を1年間延期をするよう求めたところ、フランクスはこれに同意し、こうしてフランクス大将は「ブッシュとラムズフェルドの将軍」となった。ブッシュは「フランクスを信頼している。われわれは同じ言葉で話ができる」と語った。
イラク戦争へ
イラクをサダムフセインから解放することは中東に民主主義をもたらすモデルケースになるであろうとするウォルフォヴィッツ国防副長官のたび重なる公式な発言は、イラクにおける次の戦争を示唆するものであった。ラムズフェルド長官はそのための策案準備をフランクス大将に命じた。
フランクス大将のプランは、戦車と機甲兵員輸送車を備えた3箇の重装備師団を含む200,000人にのぼるプランであったが、ラムズフェルド長官の描くプランとは大きく相異した。
フランクス司令官の構想はそれなりの根拠があった。即ち、サダム体制を屠ると同時にイラクのインフラを保全し、イラク軍を全滅させるのではなく、戦いの後の無秩序を回復させるためにこれを残しておくこうしたブッシュ政権の目論見を実現するためにはフランクス司令官の樹てたプランは概ね妥当なものであるように見えた。
しかしラムズフェルド長官の意見は「少数の錐のような地上兵力およそ80,000人以下と圧倒的な航空兵力」というものであった。殆ど航空兵力によって勝ちを収めようとするこの見解は多くのアメリカ軍将校を困惑させるものであり、フランクス大将もその例外ではなかった。「第1次湾岸戦争では38日間の空爆を行ったにもかかわらずサダムフセインは油田に火をつけたではないか。そのようなことを避けるためにも相当なる地上兵力が必要とされるのではないか」。ラムズフェルド長官の側近たちとの間に議論が展開され、やがて妥協が成立した。
「戦いは100,000人以下の兵力をもって開始する。しかし状況によってはより多くの兵員に対し展開命令が発せられるものとする」
というものであった。ラムズフェルド長官のアイデアは実行のチャンスを与えられた。しかしもし失敗した場合には「陸軍のやり方」圧倒的な地上軍を投入して勝ちをおさめようとする妥協であった。
こうして作戦プランは大統領に提出され、さらに細部について練り上げられた。ラムズフェルドもフランクスもそして第一線の司令官たちもそれぞれの立場で状況想定を行い、答案を作成した。「何か忘れていることはないか。すべてのことが部署についているか。答案に書かれたことが実際に確保されているか。」、状況想定とそれに対する答案の作成は3月19日、ブッシュ大統領が連合軍を戦場に送る日まで続いた。
フランクス大将はサウジアラビアからビデオ電話を通じて大統領に次々に報告した。
「交戦規定(ROE)作成完了」
「指揮命令系統確立完了」
「出動準備完整」
第1時湾岸戦争の立役者であったノーマン・シュワルツコフ大将(退役)は、ラムズフェルド長官に対する陸軍の苦情を公けにし、国防長官の小規模な戦争計画を「臆病」であるとして非難した。シュワルツコフの発言は陸軍の将校が抱いていた感情を口にしたものであった。
「作戦プランの全貌を知らないからそう言うのさ」フランクス大将は不愉快になっている同僚に対しこう言った。「作戦プランを知っているのは大統領、国防長官、統合参謀本部議長のディック・メイヤーズ、副議長のペイト・ペイス、それに私の5人だけだからね」
イラク戦争のプランはラムズフェルド長官のプランにフランクス大将の意見を加味したものであった。即ち、大軍団を上廻るに、速度と正確性の効果を期待したものであった。フランクスはイラク戦争において特殊部隊に、従来よりも広範な役割を負わせ、いったん戦争が始まった上はその役割を更に広げることを企図した。特殊部隊がいったん前線に配置された後はゲリー・ハレル准将をCIAの代表とともに総司令部に配属した。特殊部隊は100人の兵から成る「陰の兵士」は、優に在来師団2箇以上に匹敵するものと期待された。
戦いはイラク領土の南、北、西の各正面、そしてバグダッドを直接包囲する正面、そして情報作戦この5正面を想定した。
バグダッドへの進撃
ブッシュ大統領の最後通告は3月19日に期限切れとなったが、その日から48時間以内にアメリカ部隊の外、イギリス、ポーランド、オーストラリアの部隊を含む特殊部隊(各10名程から成る31個の部隊)が、闇の中をイラク領土内に進入していった。その1団はクウェート国境付近を監視するイラク兵を制圧するため、その2はヨルダンからイラク西領土へと進入し、イスラエルとヨルダンに脅威を与える「スカッド・ボックス」(スカッドミサイルのサイロ)の能力を失わせるため、その3はバグダッドに向かい、1週間ほど前から潜入していたCIAと共同作戦を行うためであった。そしてペルシャ湾からはポーランドのコマンド部隊がイラクの油田を押さえるために進入していった。
3月19日、サダム大統領と息子たちが会合を開いているとの情報に接し、ブッシュ大統領はこれを攻撃することを決し、これに基づいて40基のトマホーク巡航ミサイルとステルス爆撃機による空爆が行われ、フランクス大将はこれに引き摺られる恰好で3月20日(木)地上軍の投入を決めた。
フランクス大将が投入を準備していた重武装兵団は次の通りであった。
フランクス大将は第4師団をも投入兵力に算えていたが、同師団はトルコ政府の非協力によってその輸送船は地中海に投錨したままになっていた。この兵力はペルシャ湾に迂回輸送されたが、終いまで戦線に間にあわなかった。
フランクス大将がこの師団の到着を待たずに開戦したことは謎とされている。4月にはいるとイラクの気温が上昇し、化学戦が行われた場合、戦いの遂行が困難になることをおそれたとも、また、第4師団が上陸するまでは戦いが始まらないであろうとイラク軍に思わせるという、フェイント効果を狙っていたとも、また、「湾岸の嵐」作戦(1991)の立役者であったシュワルツコフ大将より勇敢でありたいと思ったため、とも取り沙汰されている。
ルマイラの大油田が破壊されるおそれがあるとのCIAの情報をうけて海兵隊遠征軍が航空兵力の支援を受ける間もなく出撃した。これが先に潜入したコマンド部隊と協力して油田を征圧したことはイラク軍に脅威を与えた。シーア派の拠点であるバスラの攻撃を担任したイギリス第1機甲師団は市街戦を避け、包囲に重点を置き征圧に遅延したため、アメリカ軍はこれを後置する恰好で第3師団がユーフラテス河の西岸を、第1海兵隊遠征軍が東岸をそれぞれバグダッドに向けて進撃を続けた。
第3師団のスピードは速く、200マイルを3日で突破したが、このスピードは第1次湾岸戦争における第24師団の速度を上廻った。通常、行軍する兵団の側翼は弱く、これを掩護するため、機甲連隊が随伴するのであるが、フランクス大将はその役割をもっぱら航空兵力に依存した。その隙を衝かれて3月23日、507補給中隊の輸送部隊がイラク軍の攻撃を受けて死者、捕虜を含め12名の損害を出した。高速で突進する作戦では補給路が薄く長大になりすぎ、随所に横合いからの攻撃を受けることは当初から危惧されていたのである。また、3月24日、30機のAH-64ヘリを用いてカルバラ付近のリパブリカンガードを攻撃した作戦において小火器による弾幕によって1機が撃墜された。
悪いことに3月24日以降イラク南部は激しい砂嵐に見舞われ、ヘリコプターは飛行することができず、また補給も遅延し、作戦は一時停頓した。
マスコミがこれらの事実を報道し、従前からラムズフェルドの戦争の仕方に批判的な勢力もこれに加担した。3月29日キャンプデーヴィッドにおいて「戦時内閣」による閣議が開かれた。電話を用いた会議において、多くの作戦家たちが勧めるように作戦を一時停止し戦線を整理するか、更なる支援部隊を増援に送るかが議論されたが、ブッシュ大統領は助言者たちの意見を斥け、速やかにバグダッドに焦点を絞るよう指示した。
バグダッド攻撃をいかにすべきか。暗い見通しを持つコメンテーターたちはアメリカ軍が第2次大戦中にドイツ軍が被ったスターリングラード市街戦の危険を冒すことになるとして危惧の念を表明していた。しかし、突進した第3師団第7騎兵連隊が4月3日、バグダッド近郊にあるサダム国際空港を占領し、4月5日には第3師団第2旅団が市内中心部に突入し、アメリカ兵1名の犠牲を出したが重砲火をイラク軍に浴びせ1000名以上を殺傷した。
4月7日、第2旅団はバグダッドに通ずる3本の国道の要路を確保し、バグダッドが粉砕されたと判断したアメリカ軍は西方から第3師団を、東から第1海兵隊遠征軍をもって包囲する作戦を行い、4月9日、体制の象徴である巨大なサダム像を打ち倒した。
北部方面の作戦にはさらに数日を要した。第1973空挺旅団から抽出した2000人の軽装備の歩兵と特殊部隊の数百人がクルド人義勇兵と協力しモスルとキルクークを占領し、4月14日にはほぼイラク全土の占領を完了した。
第2図
3週間で終わったこの戦いについては未だ評価が定まっていない点もあるが現段階で言えることは次の通りであるとされている。
1.戦略上の問題
2.情報戦について
3.精密ミサイルの装備について
4.心理作戦について
5.特殊部隊と兵站部隊の活躍
Peter J. Boyer "The New War Machine" How General Tommy Franks joined Donald Rumsfeld in the fight to transform the military, printed in "The New Yoker" June 30,2003, P55~71
Max Boot "The New American Way of War" printed in "Foreign Affairs", Vol.82, No.4(July /August 2003), P41~58
(2003年9月10日)