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弁護士コラム・論文・エッセイ

弁護士コラム・論文・エッセイ

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弁護士 堤 淳一

2006年08月18日

「道(どう)」のはなし

話の発端

 先日、当事務所が顧問を務めさせていただいている或る会社からお招きを受けてご馳走になった。宴たけなわになった頃、常務のIさんが話を切り出した。Iさんはその会社の海外担当で数日前に南米から帰国された由。ドイツやアメリカにある海外拠点にも度々駐在するという。話というのはこうだ。
 海外で(ドイツだったか?)話が柔道のことに及び(I常務は学生時代に柔道を修行された)、「そのエクササイズのことは一応判ったが、「道」というのが判らないから説明してほしい」と言われたというのである。
「それで何と説明されたのですか」
「適当な言葉がないので『マイステル』と・・・」
 マイステル(Meister)とは、ドイツにその制度があり、彼地の生徒は中学だか高校時代に、将来大学に進学するか、マイステルになるかを選ぶ。マイステルは職人の資格のことで、大工、左官、塗装、家具職等、各種の職人になろうとする者に厳しい技能訓練・修行を課し、卒業者に公的な資格を与えるのである。単なる徒弟のことではない。その資格を持つ職人は、大学卒業者と並んで社会の一翼を担い、人々からの尊敬を集める。
 確かにマイステルたちには職人「魂」と呼ばれる意識があり、優れた技術を持ち、自尊心も高いから「道」を修めた者と言いうる。名付ければ職人「道」ともいうべきかもしれない。
 こうした話が弾んだが、やがてほかの話柄へと移るのが宴席の常。しかしI常務の話は私の興味を惹くこと大なるものがあり、少しばかり「道」について考えてみた。以下は「道」とはどういうものかに関する独断的な雑記である。I常務さんの参考にでもなれば幸甚というわけで、ともあれ書き始めてみよう。

技の精妙さと型

  まず、ある技術・技法(Art)を修めることないしその修行の対象が「道」であるためには、その技術・技芸が精妙を極めたものでなくてはならない。
 上に述べたマイステルの修行はその意味で「道」たる資格の一を備えていよう。日本の蒔絵や陶芸などの工芸品、書画などには実に味わい深いものがある。西洋にも絵画・彫刻などは申すまでもなく、バカラやマイセンなどガラス工芸や陶芸にも優れたものがあり、他の例は枚挙に遑がない。
 食文化にもそうした例はいくつも見られる。和食で言えば包丁一本でこしらえた会席(懐石)、西洋料理では凝りに凝ったフランス料理などなど。中には、簡素な料理であるラーメンなども、いま一息とはいいながら、かなり精妙な味を出す職人がいるという。こうした技術・技芸を修行することは「道」の備える資格の一部を成すけれども、それだけでは「道」というには不足する。
 「道」の資格の二はその技術・技芸が、ある一定のルール(きまりごと=型)に則って演じられなければならないということである。そしてその技術・技芸は美しくなければならない。
 例えば伝統的な「道」とされている剣道について言えば、その技は精妙を極める。それだけではなく、今の全日本剣道連盟の竹刀を以て打合うものはさておくとして、剣道の各流派は一点一画を揺るがせにしない型を作り出し、修行者がこれに従うことを強制した。剣道が「道」たる所以である。弓道にしてもそうであり、華道においても然りである。茶道においては袱紗捌きや茶杓の持ち方まで細部にこだわる。私が修行している居合道においても所作の一点一画に至るまで型を強制する。いずれにあってもその技のうちには美しさを見出すことが出来る。
 剣術や居合はもともとは人を斬突する技である。弓術は矢を射て的にあてる技である。華を活けるのは美を創造することである。茶は喫するのみである。しかし、人を斬突する、矢を的にあてる、花を美しく飾る、湯茶を飲むといった中に、たんに本来の目的を達成するためだけであればもはや不要ではないかと思う程に型を持ち込み、それを守って所作を演ずるにあらざれば、当の技術・技芸の演技を、「技術、技芸として認めない」といった類のルールが存在することが当該技術・技芸を「道」とするに必要な資格である。
 料理の分野にも「包丁式」というものがあり、歴とした流儀もある。魚に手を触れず、包丁と長箸のみで捌く「型」である。式を行う料理人の服装も狩衣(詳しくは知らないが)のようなもので、烏帽子を被る。これは、もはや「道」の資格がある。
 献立としてのラーメンを作る技術が「ラーメン道」に発展するためには、スープを作る所作、ラーメンの水をきるとき、麺をザルに打ちつける所作までが細部にわたってルール化され、その遵守が強制される必要がある。
 イギリス人が愛飲する紅茶の喫用も、ただフレーバーの香りや茶の味わいを楽しんだり、談話を弾ませる役割を負っているうちは「道」になりえない。茶道において行われているような作法(型)を備えてはじめて「紅茶道」になりうる資格を持つのである。

「道」と精神性

  さて、ここからが厄介である。
ある技術・技芸を「道」たらしめる最大の資格は、当該技術・技芸を修行することが、人格の形成と結びついていなければならない。つまり「道」の精神性が問題されるということである。
 近時、国家にも品格がなければならないとして数学者の藤原正彦氏が「国家と品格」(新潮新書)を著わし、大ベストセラーになったが、著者はその中で「武士道」の貴重性を説く。自尊心、相手方への思いやり(惻隠)、廉恥、廉潔、誠実など武士道の説く徳目は、人生の徳目としても重要であり、武士は剣術、弓術、馬術など十八般の武芸の修得と読書を通じてこのような徳目を体得する。武士道の内容は技芸、技術そして教養のアンサンブルなのである。
 武士道は「道」とされる典型的な対象であるが、他に「道」とされている技芸・技術の中にも精神性を問題にしているものがある。曰く、「剣禅一如」(剣道)、「精力善用自他共栄」(柔道)、「侘わ・寂さび」(茶道)等々。このような精神性(場合によっては宗教的なものまで)を技芸・技術に持ち込むことは我が国民の独特の感性に基づくものであり、外国人には理解できないことかもしれない。

日本人の民族性

 「日本人は他民族から見ればどんなにつまらないものでも一つの『道』として磨き上げることのできる民族性を持っている。」この文章は、それゆえ日本人は西洋文明の中核である科学技術をたえず極地にまで磨き上げてきた、と続くのであるが(黄文雄「大日本帝国の真実」(扶桑社))、それでは日本人は何故そのような民族性を持っているのであろうか。
 一つには我が国が四面を海に囲まれた定量的空間に存在し続け、肇国以来、その空間を「食い潰して」他に移動することがなかったことに遠因がある。そのうえ、260年にわたり鎖国政策をとった。そのため民族は単一性を保つことができたが、他面において有限の資源を合理的に活用せざるを得ないという結果を招来した。そこに暮らす先輩日本人は、例えば手工業者であれば、市場で生きるためには新しいものを考案せざるを得ず、また品質改良を通じて競争に打ち勝とうとし、着想が斬新で高品質かつ信頼性の高い製品のみが生き残ることができた(松原久子(田中敏訳)「驕れる白人と闘うための日本近代史」(文藝春秋))。
 このことは技芸の場合も同様であり、剣術、馬術、活け花、舞踊、歌芸(長唄、小唄、端うた、哥沢、新内など様々)その他のあそび(香道などもある)に至るまで、他との間に頭一つの差といった差を設け、「〇〇流」という流派を作って夫々精緻巧妙を競った。「道」が生まれる素地の一つが育まれたのである。このように身のまわりの事象に対処するにあたって様々な工夫を凝らすという行動様式は今に至るまで日本人の心の中に生き続けている。
 ところで我が国の精神文化は「唯一絶対神」を持たないことについてはつとに知られている。精神文化の中心をなす宗教が何故に「絶対」のものではないのかは不思議ではある。日本にもイスラム「原理主義主義者」のような他宗を絶対的に排除する思想を持った人々がいなかったかと言えばそうではなく、戦国時代以前にはいたという。それを根絶やにしたのは、塩野七生氏の論によれば(「男の肖像」(文藝春秋))、織田信長による「狂信の徒の皆殺しである。・・・このこときをもって日本人はとかく守備範囲外にまで口を出したがるたぐいの宗教には、免疫になった」という。唯一絶対の信仰の対象を持たないとすれば我が国の精神文化を形作っている思想は何か。例えば戦国時代から江戸時代を生きた禅僧である鈴木正三せいさん(1579~1656)は、
「我身を信ずるを本意とす。誠に成佛を願(ふ)人ならば唯自身を信ずべし。自身を信ずるといふは、自身則ち佛なれば、佛の心を信ずべし・・・・」
と言う(山本七平「日本資本主義の精神」(光文社)によった)。信ずべき者は内なる佛であり、自己がその責任を負うべき対象も自己なのである。

仕事も修行

  正三は農業について「身に隙を得時えしときは煩悩の叢くさむら増長す。辛苦の業をなして身心を責時せむるときは、此心に煩なし。如此かくのごとく四時ともに佛行をなす、農人何とて別の佛業を好むべきや」と言い、職人については「何の事業も皆佛行なり。人々の所作の上にをひて、成佛したまふべし。佛行の外成ほかなる作業当るべからず。一切の所作、皆以て世界のためとなる事を以てしるべし」と言う。また商人については「此身を世界に抛なげうって、一筋に国土のため万民のためとおもひ入りて、自国の物を他国に移うつし、他国の物を我国に持来きたりて、遠国遠里に入渡し、諸人の心に叶かなうべしと誓願をなして、国々をめぐる事は、業障を盡すべき修行なり」という。
このように仕事も修行であり、「一切の所作(労働)以もって世界のためとなる」とする考えは現在のビジネスマンの心の深奥にも生きている。それゆえ定年退職をハッピーリタイアメントとして必ずしも喜ばず、世のためにできることをして生を了えたいと願う人々も私の身のまわりに大勢いる。こうした、仕事をもって自らの修行とする労働姿勢は「道」たる資格を備えうる。  

修行のもたらすもの

  このような精神性は江戸時代末まで続いた定量空間のこの国に均霑し、技術・技芸のすべてがそうではないにしても、その中に活かされ、深まって行った。換言すれば、既述のような自己本願の精神性を自らの技術・技芸に結束させようとし、その方向を選びとった技術・技芸が「道」であると言ってよい。「道」の修行において協調されるのは武士道の説明の中でも述べたような徳目であるが「道」の修行は演者が筋目通りに行なうことを重視するから、それが一定の成就をみたときに感ずる「達成感」ないしは「自尊心」、修行途中における「我慢」、「自制心」、「自律心」、技芸の深遠さに触れて感ずる畏れによってもたらされる「謙仰感」、「畏怖感」、相手のある技芸においては相手に対する「惻隠」などの様々な感性を養うことができるのである。それゆえ、相撲において敗者に対し勝ち誇って「ヤッタ!」とばかり手を高々とあげるのも、新聞記者を殴打するのも、野球において相手の監督を侮辱するのも、仮りにスポーツにあってはやむをえないものがあるとしても、「道」というには程遠い。「棋道」があるかどうか。プロの棋士は勝利したとき、小首をかしげる程度の喜びしか表さない。決して「ガハハ・・・」と哄笑したりはしないのである。
 本稿を書くきっかけとなった柔道について言えば、オリンピック競技種目に加えられ、スポーツとなり、世界の他の国々の人々にも愛好されるようになったことは喜ばしいが、反面において他の文明の影響を受け、点数を基礎としたことが一因となって「道」として持つべき精神性が薄れた。もはや「柔道」と「Judo」とは、あたかも「Baseball」と「野球」とが別物である如く別物になった感じがする。

おわりに

 「道」について説明することは、それが日本人の精神性に深くかかわるものであるだけに仲々厄介ではある。しかし、「道」につながってゆく、仕事や日常の身のまわりのふるまいまで修行の対象とする日本人の行動様式は将来にわたって大切に継承すべきものであり、外国人には判りにくいとしても、海外に普及するに足る思想であると考えられるが、いかがであろうか。

(平18.8.18)

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