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弁護士 堤 淳一

2008年01月01日

太平洋の覇権(4) -----世界システムの形成

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

船というヴィークル(Vehicle)の役割

 大航海時代(ヨーロッパにおいては「地理上の発見の時代」と呼んでいることは以前に書いた)は人々が船というプラットフォームに兵器と人を乗せ大洋に乗り出し、文化とモノ(奴隷という人間を含む)を交易した時代であるといってよい。
 船が帆という動力装置を得て大海を往来する以前は文物を運搬する人力以外のヴィークルは、家畜(牛馬のような)でなければ車(手押し車や馬車のような)であった。ボート程度の小舟艇では大陸間を漕ぎ渡ることは不可能であったから、大陸に発展した文化やモノの移動はその大陸に留まるか緩やかな移動にとどまるほかはなかった。しかし、大航海時代における帆船の華やかな発展は別の大陸の発見に寄与し、大規模な文化とモノのスピーディかつ大量の大陸間移動を可能にした。大航海時代の帆船はたんに貨物を輸送するためのプラットフォームにとどまらず、兵器のためのそれでもあった。兵器の原始的なタイプのものは人をプラットフォームとして用いるものであったが(石つぶて、刀槍、弓矢、石弓など)、その後火薬が発明されると、銃の形にして人をプラットフォームにして用いるだけではなく、これを大砲にし、車台(砲車)に乗せて運び、もしくは要塞に備えるなどの方法が用いられた。造船技術の発達に伴い、巨大かつ強靱な船体が建造されるに伴い大砲が船に乗せられるようになり、それと共に船には大航海に必要な艤装が施される。方位をはかるため中国において発明された羅針盤が搭載された。天測によって緯度を測る四分儀(円形の4分の1の扇形をしており望遠鏡との組み合わせで星の高度を測定する。18世紀に円形の6分の1の形を成す六分儀に発達した)、その先駆的な器械であるアストラーペ(ペルシア王朝時代に発明されたとする天体測量器)を用いて作成した海図なども大航海を可能にしたツールであった。また船体にはイスラムのダウ船(ガレオン船よりずっと小型である地中海用の船)に備えられていた三角帆を補助帆として備えて運動性を高める工夫が凝らされた。
 こうして個々の艦船は「軍事基地」という一つのシステムに形成されていったのであるが、アルマダが撃破された時代には既に艦隊運用の方法が緻密に開発され(後に20世紀になって日本の艦隊がロシア帝国と戦った日本海海戦に用いられた丁字戦法に似た戦形も発明されていた)、軍艦の機能は総合的な力を発揮するようになり、その能力は飛躍的に増大した。
 また大航海時代におけるスペイン/ポルトガルの艦船にはキリスト教の伝道を目的とする宣教師を乗船させたから艦船は宗教と共にヨーロッパ文明を伝播するのに大いに役立った。
 このように艦船は、蒸気機関が発明され、その動力を風に依存することから脱却して以降も、航空機が発明されるまでは大陸間の文物伝達の花形であった。
 かくしてスペインポルトガルをはじめとする大航海の主役であるヨーロッパ諸国はこれに兵員を乗せ、他の大陸を侵略をしつつ、東洋、アフリカ、中南米などから厖大な物資をヨーロッパに搬送し、同時にヨーロッパのモノを広めたのである。
 以下においてはこの物資のうち我々がよく知っているモノの流通の実態を見てみることにする。

金銀

 金銀は人々を魅了してやまない貴重な金属である。コロンブスが新大陸を目指した主たる目的は金と銀の獲得であった。コロンブスはマルコ・ポーロの「東方見聞録」を愛読していたといわれており、その本に書かれていた「黄金の国ジパング」を目指して3回にわたって航海し、以前にも書いたがメキシコ湾内の諸島を発見し、これをインドであると信じた。コロンブスは多くのスペイン人を自分が発見したエスパニョーラ島(ハイチ島)に入植させたが、黄金を見つけ出すには至らなかった(その一方で虐待やスペイン人が持ち込んだ天然痘の流行により、エスパニョーラ島の人口は急激に減少していった)。
 黄金の発見を求めたスペイン人はさらに南北両アメリカの内陸へと進出した。1521年にコルテスがメキシコ(ユカタン半島)のアステカ帝国を亡ぼした10年後、ピサロはエルドラド(黄金郷)を求めて1532年に南米(アンデス)のインカ帝国に侵入し、インカ王を捕らえた。インカ王アタワルパは金銀の製品と引き換えに身柄の釈放を求めた。ピサロがその申し出を受け容れる擬態を示すや全国から金銀製品が続々と運び込まれた。ピサロのインカ王の釈放は奸計であり、ピサロは結局インカ王を殺し、ほんの申し訳程度の金を国王に納税した。
 ところで金はその産出量が少ないばかりでなく、その精錬に厖大な労働力を必要とするところから、国の富を潤すには至らず、これに代わって、新大陸で豊富に産出された銀がこの役を担った。1543年にメキシコのグアダハラに豊かな銀鉱が発見された。以後銀の開発が続き、1545年に旧インカ帝国領内の山中にあるポトシにおいて銀の大鉱脈が発見され、後に新大陸最大の銀鉱山になった。その後1566年頃にペルーのリマ地方のポトシで後に新大陸最大の銀山鉱脈が発見されたことをきっかけに、水銀が銀鉱石の製錬に利用されるようになった。ある統計によれば1521年から1660年までの間にスペイン向けの黄金200トン、銀18000トンが搬送されたといわれている。この金銀はヨーロッパに備蓄されあるいは流通し、その結果ヨーロッパは一挙に豊かになった。
 安価な銀が大量に流入したヨーロッパでは銀の価格が下落しインフレーションが生じたため、経済は急成長した。また、金に対する憧れは19世紀になっても止むことはなく、北アメリカにおいてゴールドラッシュが生じたことは良く知られている。
 黄金と銀とは、或る国々を一時的に富ませ、また別の国々はこれを新たな生産技術に結びつけて経済の再生産に導いた。

銀の行方と「明」

 メキシコをはじめとする中南米から産出された銀はマニラ航路を通じてマニラにも東回りで運ばれた。マニラは西太平洋におけるスペインのアカプルコ交易の基地であり、ポルトガルをはじめ明や日本の商人が集まる貿易の拠点であった。スペイン人によってアメリカ大陸からマニラ・ガレオン船によって運ばれる銀はマニラの軍事費に費やされ、明の様々な産品を買い付けするために用いられるなどされた。1818年から21年にかけて中南米からスペインに送られた銀の量と、マニラに送られたそれとの比は4:6であり、1581年から17世紀末までのそれについてみると1:2でいずれもマニラに送られた方が多かったという。そのため商品売買の代価として用いられた大量の銀が明に流入した。ついでながらその時代日本においても大量の銀が産出され、その銀は長崎(1540年開港)、ポルトガル領マカオを経て、絹製品を購入するために明に流入した。
 こうして中国に集まった銀の量については諸説があるが、17~18世紀にアメリカ大陸からマニラに送られた銀の大半が結局明に流れ、その量は4万トン程度に上ったといわれている。また日本産の8000トンの銀も中国に行きついたと推定されている。こうした対価と引換えにスペイン人は中国の珍しい産品を手に入れることができ、人々の豊かな生活に役立たせた。
 反面、明国に銀が大量に備蓄されたということは明の側からする輸出超過を示し、スペイン人からの輸入が極端に少なかったことが推測される(日本についても同様のことが言える)。それだけ中国には物産が豊かであり、その反面スペインは(日本も)明が手に入れたがっている物産を持っていなかったか、その量が少なかったのであろう。

ヨーロッパにおける食糧事情と豚

 大航海時代をエポックとして人々の食生活も大いに変化したことも間違いない。以下にエピソードをまじえてそのあたりを見てみよう。
 ヨーロッパは森に覆われ全体としてみると必ずしも肥沃な土地柄とは言えず、生産性は低く食糧事情も良くなかったことは前に書いた(太平洋の覇権(1)のホームページ版参照)。
 フランス革命が起きた頃でさえヨーロッパ人の食生活は、小麦・ライ麦・大麦・燕麦・雑穀などによって養われており、貴重な蛋白源として用いられたのが、樫の実(どんぐり)で飼育する豚(「イベリコ豚」の先祖)であった。豚は毎年11月、12月にかけて屠殺され、塩漬け肉、ハム、ソーセージに加工されヨーロッパ人を養った。以前に香辛料をめぐって大航海時代が始まったことを書いたが、その腐食防止や加工のためにも香辛料が用いられたのである。
 後の話になるが、1844年頃(産業革命期)においてさえもイギリス人の食生活は人口の3分の1は殆どがジャガイモだけで生きている(というより飢えている)。次の3分の1はジャガイモのほかに燕麦ないし小麦のパンと脂肪の多い豚肉の1,2片と屠殺場の残りを週に1回食べるだけであった。残りの3分の1だけが上質の肉屋の肉を毎日食べたり、贅沢な鶏肉を年中手に入れることができたといわれている。

ジャガイモ

 このようなヨーロッパ人の食生活を救い支えたジャガイモはアンデス鉱山が原産地で紀元前3000年頃から栽培されはじめていたと言われているが、インカ人の手で食用食物として改良され、主要な食糧となっていた。ジャガイモは寒冷な気候にも耐え、作付面積あたりの収穫量が多い植物だったため、インカ帝国の繁栄の基礎となっており、種類が多く約240種にも及んだという。
 前述の通りペルーのポトシで銀山が発見されたが、この労働に従事するため、インディオが使役され、この労働者の命を支えていたのがジャガイモであったといわれている。インカ帝国を征服したスペイン人には「地下茎」を作る作物の知識がなく、ジャガイモを食品としてイメージできず、ヨーロッパに持ち込まれた後も当初民衆はジャガイモは種芋で増えるというという理由から「悪魔の作物」として嫌った。しかし、貯蔵に耐え、ビタミンCが豊富なジャガイモは壊血病を防ぐ食物として大航海時代の船乗りたちの食品となり、やがてヨーロッパにも急速に拡がっていった。
 ヨーロッパでジャガイモが食料として大規模に生産されたのは寒冷で土地が痩せたドイツであった。プロイセン王のウィルヘルム王はジャガイモ栽培を強制し、その後フリードリッヒ2世がジャガイモ栽培をさらに推進する。プロイセンの領土であるブランデンブルグ地方は寒冷で肥沃地が少ないため、屢々食糧難に悩まされ、ジャガイモがその克服策として用いられた。ジャガイモの獲得を目的として戦争が起きたこともある(プロイセンとオーストリアのバイエルン継承戦争)。
 アイルランドには1580年代にジャガイモの栽培法が伝えられたといわれている。しかしジャガイモは害虫が付きやすくアイルランド人はたびたびジャガイモ飢饉に見舞われた。特に19世紀に入って起きた飢饉は深刻で悲惨な結果を呼び、多くの人々がイギリス、アメリカ、カナダへと逃避した。

トマト

 トマトはコロンブスが第2回の航海(1493~1496年)の後ヨーロッパに伝えたとも、1519年にコルテスがメキシコに上陸し、その種子を持ち帰ったとも言われている。いずれにせよ大航海時代に大西洋を渡ってスペインに伝えられたトマトは黄金のリンゴと呼ばれたが、長い間ヨーロッパにおいては食用としては用いられず、観賞用の作物もしくは神秘的な効能を有する薬用植物ともみなされた。ひどい話であるがトマトは有毒植物であるベラドンナに似ていたため、毒草であると思われていたともいう。
 その後イギリスでは精力剤、催淫食物と考えられるようになり、栽培が禁止されたこともある。17世紀以降、温暖で露地栽培が可能なイタリアでトマトの栽培が本格化され、19世紀中頃には全イタリアにはパスタにトマトソースをかけるのが一般化した。また1804年のフランス人のニコラス・アペールが瓶詰めを発明すると瓶詰めトマトの使用が普及し19世紀以後トマトの普及は著しいものとなった。

トウモロコシ

 トウモロコシの起源ははっきりしないが、メキシコからグァテマラに自生していた野生種から作物化され、B.C.5000年頃までには南北アメリカ大陸の主要農作物となっていたとする説があり、マヤ文明、アステカ文明にもトウモロコシの記述があるという。これも大航海時代にヨーロッパに伝わりアジアには16世紀、アフリカ大陸には16~17世紀に伝わったとされている。

砂糖

 サトウキビの原産地は東南アジアのニューギニア地方であり、インド商人の手でインドに伝えられ、B.C.2000年頃にはインドにおいて既に甘味料に使われていたといわれている。その後8世紀以降イスラムの大交易圈が成立する中でインドから西アジアに、さらにキプロス島を経てアラブ人の手で地中海周辺へと伝えられた。ヨーロッパでは砂糖は大変な貴重品であり、薬品として用いられていた。砂糖はやがてポルトガル移民の手でさらにブラジルに移植され、16世紀から17世紀前半にはヨーロッパで消費される砂糖の大半はブラジルから供給されたといわれている。ポルトガルの植民地となったブラジルは1580年頃から大西洋沿岸諸島で行われていたサトウキビの栽培が移植され、アフリカ西岸の黒人奴隷を使役して行われるプランテーション経営が急速に拡大した。17世紀以降になるとオランダ、イギリス、フランスが収益性の高い砂糖生産に参入し、砂糖のプランテーションが拡大された。プランテーションは本国で売却することを目的とする商品作物の大量生産システムであり、巨大な富を本国にもたらした。18世紀に入ると砂糖はコーヒーや紅茶の飲用の普及とともに需要が増大して砂糖は重要な国際商品となり、大量生産による大衆化が進んだ。

コーヒー

 コーヒーはエチオピアで最初に発見された。すでに紀元前に携帯食として利用されていたといわれ、6世紀から9世紀頃にはアラブ諸国に伝播され、13世紀頃にはイスラム地域において飲用の習慣が広まった。その後オスマン帝国を経て16世紀頃にはヨーロッパに伝わり、たちまちヴェネツィア、オランダ、イギリス、マルセイユ、パリ、ドイツ、スウェーデンなどに普及した。ちなみに日本への伝来は長崎の出島(1641年開設)にオランダの商人が自家用に持ち込んだことによるとされている。

カカオ

 カカオは中南米を原産地とし、B.C.1000年頃、先行文明であるオルメカ文明の時代に栽培されはじめ、マヤ文明やアステカ文明に引き継がれた。大変な貴重品でアステカ帝国ではカカオ豆が貨幣として利用され、100粒単位で奴隷1人と交換できたとされている。1521年コルテスがアステカ帝国を亡ぼした頃スペインに伝わり、それが「チョコレート」としてヨーロッパに紹介された。カカオは最初スペインが独占販売体制を敷き、中央アメリカからスペインのみに輸出されたが、カリブ海のトリニダード島へ、次いでカラカス(ベネズエラ)へと移植され、カラカスはカカオの集散地となった。しかしこの独占体制もオランダの蚕食によって次第に崩れてゆく。
 17世紀にスペイン人は自領であるフィリピンにカカオを移植し、次いでオランダ人がセイロン諸島、インドネシアの島々やアフリカのギニアに移植した。

タバコ

 B.C.1000年頃マヤ文明において、アンデス山脈の高地の人々が自生していた草を喫煙するようになっていたのがタバコの起源であり、宗教的儀式にも用いられたと言われ、コロンブスが西インド諸島に上陸した際、スペインの服飾品と交換に入手し、ヨーロッパに持ち帰ったとされている。当初タバコ草の花を観賞用にしていたものの、やがて喫煙に用いられるようになり、またたく間にヨーロッパに拡がったが、タバコは当時貴重品であり、病気の治療に役立つとも言われた。フランス政府はタバコに高額の税を課し、フランス革命に至るまで課税が続いた。

大航海の功罪

 大航海時代にもたらされたアメリカの発見と喜望峰まわりのインド航路の啓発(東回りの航海)は人類の発見の中で特に重要な出来事であった。
 アメリカの発見と植民地化はヨーロッパを全体としてみるとき、人々の生活豊かにし、地域に産業を拡大させたと言ってよいであろう。アメリカの余剰生産物がヨーロッパに輸入されるようになり、ヨーロッパ人は以前には入手できなかった利便品や必要品、娯楽品、装飾品などの商品を入手できるようになった。大航海に伴う産業はスペイン、ポルトガル、後にはオランダ、フランス、イギリスなど、植民地と直接に貿易を行う国々で発達したが、同時に他国を介して自国の生産物を植民地に送っているすべての国(例えばオーストリア領の一部の国やドイツの一部の国)において産業が発達した。
 大航海はこの遠隔の地にあるいくつかの地域を結びつけ、それぞれ不足を補い合うことによって、それぞれの生活を豊かにし、またそれぞれの産業を刺激しあうことによって、総体として人類に好影響を与えるはずであった。しかしアジアとアメリカの先住民にとって得られるはずだった商業的利益は、それによって生じた恐ろしい不運のためにすべて失われた。この二つの大きな出来事は発見の時期に、たまたまヨーロッパ人が圧倒的に強い力(軍事的にもまた知識や技術の面でも)を保有していたため、ヨーロッパ人の或る者は遠方の国々で何の処罰も受けることもなく、あらゆる種類にわたって考えうる限りの正義に反する行動(殺戮、掠奪、不法な利益の奪取を含む)をとることができたのである。

大航海時代と世界システム

  大航海時代以降ヨーロッパ人の大西洋、インド洋、太平洋などの大洋への進出はますます加速し、その視野と経済圏は大きく広がってゆく。
 18世紀になるとイギリスやフランスから積み出された火器や綿布、雑貨がアフリカ西海岸で黒人奴隷と交換され、黒人奴隷がアメリカ大陸で売却されて砂糖や綿花などが購入されたり、またやがて北アメリカに入植して以降は食料や木材を西インド諸島に運搬して砂糖や、糖蜜を利用して醸造されるラム酒(船乗りに愛飲された)をヨーロッパに運んで工業製品を購入するという、いわゆる三角貿易が開始されるに至る。
 地動説やニュートン物理学などの新たな科学の発達はヨーロッパ人の視野をいっそうグローバルにし経済活動の広域化を支えた。商品取引量の激増はやがてヨーロッパに商業革命(重商主義に支えられる)をもたらし、環大西洋世界に世界規模の資本主義が形成されるもととなった。  こうした大航海時代以後の新しい動きについては次回以降に触れることにしよう。

(未完)

〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。なお挿画は丸の内中央法律事務所事務局の高橋亜希子さんを煩わせた。

〈参考文献〉(前回参考にした分を含む)
  • 岸田秀「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」(新書館、2007)
  • 増田義郎「太平洋------開かれた海の歴史」(集英社新書0273D、2004)
  • Attilio Cucari & Enzo Angelucci "Ships"(日本語版、堀元美訳「船の歴史事典」原書房、2002)
  • 清水馨八郎「侵略の世界史」(祥伝社、1998)
  • John Keegan "A History of Warfare" (日本語版、・遠藤利国訳「戦略の歴史------抹殺・征服の技術の変遷、石器時代からサダム・フセインまで」心交社、1997)
  • 小林幸雄「図説イングランド海軍の歴史」(原書房・2007)
  • 井澤元彦「逆説の日本史9 戦国野望編」(小学館文庫、2005)
  • 井澤元彦「逆説の日本史11 戦国乱世編」(小学館文庫、2007)
  • 宮崎正勝「モノの世界史------刻み込まれた人類の歩み」(原書房、2002)
  • H.Kinder & W.Hilgemann "The Penguin Atlas of World History vol. 1" (Penguin Books, 1987)
  • 西岡香織「アジアの独立と『大東亜戦争』」(芙蓉書房、1996)
  • 村田良平「海洋をめぐる世界と日本」(成山堂書店、2001)
  • 高橋裕史「イエズス会の世界戦略」講談社選書メチエ372(講談社、2006)
  • 秦新二「文政十一年のスパイ合戦------検証、謎のシーボルト事件」双葉文庫、日本推理作家協会賞受賞全集73、2007
  • Adam Smith "An Inquiry into The Nature and Causes of the Wealth of Nations", 山岡洋一訳「国富論」―国の豊かさの本質と原因についての研究―(日本経済新聞出版社、2007.3)

(2007.12.15)

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