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弁護士 堤 淳一

2008年07月01日

太平洋の覇権(5) -----スペイン、イギリスそしてオランダ

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

太陽の沈まぬ国の形成

 スペインのフェリペ2世の治世下にスペインが領有していた土地の範囲は図1に示す通り、その版図は地中海とヨーロッパの要部に跨り、新大陸のスペイン領及び東洋においてはフィリピン、及びポルトガルの併合により旧ポルトガルを領有し、いまやスペインは世界中に覇権をとなえる大帝国となっていた。
 スペインはどのようにしてかかる大版図を手にし得たのか。まわり道になるかもしれないが、スペイン・ハプスブルク家の歴史をごく簡単に振り返ってみよう。

 ハプスブルク家は11世紀にライン川の上流域(スイス北東部にあるアアルガウ州からドイツ、フランス国境のアルザス一帯)に起源を有する。ハプスブルク家の始祖といわれるルードルフ1世が1273年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれたことにより、ハプスブルク家の名は歴史に刻まれる。3年後ルードルフ1世は、皇帝位に対し嫉視反目するボヘミア王を討伐し、ボヘミア王が所領としていたオーストリアの大半を領有するようになり、ハプスブルク家は東方に進出する。今日のスイスの母体となった誓約同盟によって旧領が蚕食されたこともその一因となった。以後ハプスブルク家は、スイスの独立運動に伴う軍事的敗北、血統による分裂、3代目以降におけるローマ帝国の王冠の喪失などによって衰弱し、いわば鳴かず飛ばずの時代を経験したが、ローマ皇帝位を喪失して130年を経た1440年ハプスブルク家のフリードリッヒ3世が漸くローマ帝位に選出された。

神聖ローマ帝国

 神聖ローマ帝国と聞くと、われわれはイタリアを連想したり、19世紀以降の帝国主義時代を想起する。しかし神聖ローマ帝国はイタリアとも「帝国主義」とも関係はない。イタリアのローマ帝国はゲルマン人の移住により早々に歴史から姿を消してしまっていたが、旧ローマ帝国において核をなしていたキリスト教(キリスト教は3世紀にローマ国教となっている)への信仰は生き残った。「神聖ローマ帝国」という名はキリスト教を信仰するゲルマン民族の集合体といった体のものであって、今日のドイツ、オランダ、ベルギー、フランス東部、スイス、イタリア北部、オーストリア、チェコなど広範囲に割拠して地域に独立した勢力を張る諸部族(王国、公国など名は様々)の緩やかな連合体であったが、時代と共に集合体は崩れ、後にドイツと呼ばれる地域にその影響力を残すに至った。
 しかし神聖ローマ帝国の皇帝は、イタリアのローマ教皇(法王)から王冠の授与を受ける。ローマ帝国を構成する君主たちは名誉のため、誰でも皇帝になりたがった。その地位は選挙侯と呼ばれる諸侯7名(ボヘミア王、ブランデンブルク侯、ザクセン侯、プアル宮中伯の世俗君主4名。残る3人は聖職者である)によって選ばれる。もっとも戴冠によって絶対権力が皇帝に付与されたわけでもなく、害にも薬にもならない、と言って悪ければ、比較的に力の弱い、人望はあるが無害とみられた君主が皇帝なったことも多いという。ローマ皇帝はいわば「同輩中の首席」である。

ブルゴーニュ公国

 ところで1477年フリードリッヒ3世の子息であるマクシミリアンがブルゴーニュ公女(マリア)と結婚することになった。ブルゴーニュ(ブルグント)公国は、ヨーロッパ内陸部(フランス東南部)に始祖を有するが、15世紀後半に北海へと進出する。やがて北方のブリュッセルへと重心を移し、アントワープ港やブリュージュ港を中心に、イギリスから廉価で羊毛を輸入し、これを毛織物や絨毯などに加工して、アフリカ、オリエントにまで輸出して貿易で収益を上げていた。当然のことであるが外洋船を発達させ(1560年頃には1800隻もの遠洋航海用の艦船を保有していたといわれている)、近海である北海においてはにしん鰊漁業にも熱心であった。こうして公国は当時のヨーロッパで政治、通商、文化の領域で最も高い水準にあり、人口の増加も著しく、都市化も進んでいた。
 後に日本ではオランダと呼ばれるようになった地域は、ブルゴーニュ公国の北部、今日のベルギーを含み古来ネーデルランドと称された地域にある。

 ハプスブルク家のマクシミリアンとブルゴーニュ公国の公女マリアとの結婚により、両地域は同化し、後にブルゴーニュ公国はハプスブルク家の風下に立つようになる。マリアはフィリップ美公、ファナ、フアン、マルガレーテを産む。そしてマクシミリアンは1486年にローマ皇帝に推戴される。

スペイン・ハプスブルク家

 スペインはもともと南部のアラゴン(フェルナント王)と北部のカスティリア王国(イサベラ女王)に分断されていたが、君主同士が結婚することによって統一国家となった。フェルナント王は公女フアナとフィリップ、フアン王子とマルガレーテ公女の二組の結婚を、すでに晩年にさしかかっていたローマ皇帝マクシミリアンに提案し、この2つの結婚は1496年に成立した。後者の結婚は不幸に終わったが、フアナは後にカール5世となる王子とフェルディナンド、その他3女を産んだ。
 カスティリア王国のイサベラ女王、次いでアラゴンの王であったフェルナントも嗣子なくしてそれぞれ死亡し、そのあとをフィリップが襲った。不幸にしてフィリップ自身もその後スペインにおいて客死したため、スペイン全土はフアナが産んだカール1人が統治することとなった。

ハプスブルク家とハンガリー

 他方東方においてもハプスブルク家の結婚政略が持ち上がった。1515年にハンガリー王家とハプスブルク家との間に2組の縁組みがまとまった。即ち1つはアンナ(ハンガリー王女)とフェルディナンド(フィリップ美公の2男)、もう一組はラヨシュ(ハンガリー王子)とマリア(フィリップ美公の3女)である。これもマクシミリアンの晩年最後の賭ともいうべき事跡である。

 ところが1526年、ハンガリー王ラヨシュは国境を越えて侵略してきたオスマントルコとの戦いで20歳の若さで戦死する。こうして故王の妹の夫であるフェルディナンドがハンガリーの王冠を手中に収めることになった。
 こうしてハプスブルク家はスペインとハンガリー両国の王冠を手に入れる。両方とも、多分に僥倖というべき運命のなせるわざとはいえ、ハプスブルク家にとっては笑いがとまらなかっただろう。軍隊を用いない通婚という、平和的閨中外交の成果といっては失敬であろうか。

スペインの統治

 話を少し戻す。マクシミリアンの長男であるカールの一行は1517年に大挙してスペインへ渡海した。ブルゴーニュ文化のきらびやかさはスペイン人を圧倒したが、当初はカールを迎えたスペイン人との間に軋轢を生じた。
 しかし、1519年マクシミリアン帝の死亡に伴って行われたローマ帝国の皇帝選挙において、カールはフランス王フランソワ1世に勝利したことにより、カールはスペイン支配を確実にした。
 カールはブルゴーニュから連れてきた側近たちと共にスペインの人々と同化し、名実共にスペインのカルロス1世となったのである。

 スペイン王カルロス1世の治世下において帰属していたのはナポリ王国、シチリア島、サルディニア島、新大陸(アメリカ)のスペイン領、及びフランドル(今日のベルギー)、ブラバンド(今日のオランダ南部)を含めたネーデルランド、即ちブルゴーニュ公国の旧領などである。更に既述のようにカルロスの弟フェルディナンドはオーストリア、ボヘミア、ハンガリーの君主なのである。こうしてヨーロッパの大半がハプスブルク家の統治するところとなった。

フェリペ2世

 ハプスブルク家はカルロス1世が1555年に退位し(1558年に死亡する)、ローマ帝国の王位は弟のフェルディナンドが承継した。カルロスの死後スペイン系とオーストリア系に分かれ、両家の間で交互に王位を承継しようという口約にもかかわらず、ローマ帝国の王位はスペインに戻ることはなかった。
 スペイン王位はフェリペ2世が承継し、1557年にサン・カンタンにおいてフランス軍と、1571年レパントにおいてイスラム教徒と戦い、いずれも勝利するなどこの時期頃までがスペイン王朝の最盛期であったろう。
 以後徐々に凋落が始まる。ただし最盛期を過ぎてもスペイン文化は爛熟し続けるのであるが。

ネーデルランドの反乱

 叛乱の烽火がネーデルランドにあがった。
 ネーデルランド北部一帯はマクシミリアン帝のころから君主に対し不満を持っていたが、マルチン・ルターによる宗教改革に早いうちから影響を受けるようになった。カトリックの熱心な信奉者(極端なほどといってよい)であるフェリペ2世はカルロスからネーデルランドの統治を譲られていたが、プロテスタントに対し抑圧と厳罰を持って臨み、かつ密偵を放ち、異端審問を行った。
 こうして1568年ネーデルランド内の諸州はオラニエ公(後のヴィレム1世)が中心になり大規模な叛乱を起こした。80年戦争と呼ばれるオランダとスペインの戦いが始まった。ネーデルランドは以後不穏の空気に包まれて、反乱や他の形による政治的抵抗が絶えなかった。

 このようなネーデルランドにおける根強い反乱に反応し、スペインの版図全体の平和を維持する必要からスペインは損失を切り離し、広大な帝国におけるあまり重要でないこの地域を放棄すべきであるとする提案もなされたが、大勢はこのような考えを敗北主義とみなした。
 スペインは自分たちの広大な勢力圏を相互依存関係にある統合された組織体ととらえており、その一部を喪失すれば帝国全体の安全保障を危険にさらすという考えを持っていた。ネーデルランドに固執したのはこのようなスペインの基本的な戦略に負うところが多いが、ネーデルランドの放棄を敗北主義と決めつけることには実際的な理由があった
 第1にスペインによるネーデルランド領有はフランスを威嚇し続けるうえで死活的に重要であった。すなわちフランスを牽制するもっとも確実な方法はネーデルランドに強力な軍隊を維持することであった。すなわちフランスをイベリア半島とネーデルランドの南北から押さえ込む必要があったのである。第2にネーデルランドに1572年に激烈な内戦が発生し反乱軍が外国列強の支援を受けるようになると、スペインの敵国がネーデルランドでスペイン軍と戦っている限りこれらの国はスペイン本国を攻撃する資源を欠くことになり、かくしてネーデルランドは帝国全体にとって一種の「叩かれ役の」役割を果たすだろうというのである。そして第3に重要なことはもしネーデルランドにおいてスペインの敵対者に少しでも弱みをみせればイタリアや新大陸アメリカ、そしてイベリア半島周辺の支配でさえ早晩危うくなるかもしれないと危惧されたことである。

ネーデルランドの独立

 かくしてネーデルランドにおけるプロテスタント運動が最高潮に達した1566年、スペイン軍7万人のネーデルランドへの派遣が始まった。
 カトリックの勢力が強い南部ネーデルランドはスペイン側にとどまったが、プロテスタントが強い北部7州は1579年にユトレヒト同盟を結成し、1581年に独立を宣言した。スペインは1583年から87年の間に「反乱軍」によって占有されたネーデルランドのほとんどの領地を回復したが、北部諸州における抵抗を終熄させるには至らなかった。
 フェリペ2世が1598年に死没した後、ネーデルランド共和国とスペインは1609年に12年間停戦協定を結び、いったんは平和を回復した。しかし1621年に停戦期間が満了するや、ヨーロッパ全体を巻き込んだ30年戦争(最後の宗教戦争といわれる)へともつれ込み、1648年にウエストファリア条約によってオランダは漸く国際的にその地位が確認され、真の独立を果たす。日本ではこの国を形成する7州のうちホランド州が指導的立場に立っていることからオランダと呼んでいる(本稿では"オランダ"が日本語に定着している場合を除き"ネーデルランド"の用語で統一する)。因みに30年戦争はフランスが介入したことによって当初の宗教戦争の様相を変え、ブルボン家(フランス)とハプスブルク家の戦いの色彩を帯びるようになった。ウエストファリア条約の仲介の主導権をフランスに握られ、ハプスブルク家はすっかり勢いを落とすことになるのである。

イギリスの受けた脅威

 話はやや先走ったが、こうした中、スペインは1580年から1583年にポルトガルを領有し、これに伴い、ポルトガルが東洋に領有していた地域を手に入れ、ヨーロッパの地図は大きく塗りかえられることになった。
 このようなスペインの膨張は地政学的な意味でヨーロッパ諸国に大いなる脅威を与えた。スペインがポルトガルを手に入れ、イベリア半島を統一したことは、スペインの世界支配にむけた道のりの重要な一歩を象徴するものと受け取られたのであるが、ポルトガルを獲得するか失うかはスペインにとっても世界を獲得するか失うかを意味するのであった。
 ポルトガルをスペインが領有したことはとりわけイギリスにとって重大な脅威を意味した。
 けだし、リスボンからイングランドへは海上を経て遮るものがないがゆえに、イギリスに対する海上からの侵攻が可能になったのである。ポルトガルの領有がスペインにとって死活問題であることは、逆にイギリスがポルトガルを領有した場合を考えてみれば明かである。この場合にはスペインはイギリスから背後を襲われる危険に晒されることになるからである。
 「ポルトガルが鎮圧されればイングランドは我らのものである(サンタクルス侯爵)」として官僚たちも国王周辺にいるものも、チューダー朝エリザベス女王治政下のプロテスタント支配に対する先制攻撃を要求した。
 イギリスが受ける脅威は海上からの攻撃にとどまらない。スペインがロンバルディア・フランシュコンテ、スペイン領ネーデルランドを経由して海峡を渡り陸兵を送ることが可能となれば、イギリスは南北から挟撃を受ける立場にあったのである。

「イングランド作戦」

 イギリスに対する第1次侵攻計画は1571年イギリスにおけるカトリック教徒による反乱を支援するために企てられたが、首謀者の逮捕によって頓挫した。
 フェリペ2世の思いは「予はこの計画の達成を熱望し心からこれを愛し、これを神の大義と見なさなければならないことを確信しているが故に、何人たりとも予を止めることはできない。それに背く者を予は受け入れないし信じない。」という風に確信にまで高められていた。フェリペ2世はイングランドに対する1571年の侵攻計画を断腸の思いを持っていったん中止したが、フェリペ2世はあくまで「神の大義」に固執する。

 フェリペ2世のスペインには戦略がなかったというのが従来からの通説であったが、如何なものであろうか。
 ハプスブルク家は「キリスト教を守護するために神によって特別の加護があり、そのために特別に選抜された由緒ある家柄である」という揺るぎなき伝統的信念を保持し膨張を続ける点に戦略性を求めることはできるであろう。フェリペ2世は敬虔なカトリックであり、その国王としての神に仕える義務感に貫かれ、ほとんど不眠不休で政治の激務に立ち向かい、生活は質素であったともいわれている。
 しかし、戦略的に見れば国王が「神の大義」と外交目的とを不即不離のものとみなすことは危険な考えであった。すなわち自国で異端教徒を抑圧しカトリックへの忠誠教化を進めることと、他の国民に対して同一の基準を強要することとは全く別問題なのである。しかしフェリペ2世は自国における盲目的かつ情熱的な決意を持って海外での政策をしばしば追及したのである。アメリカ新大陸においても然り、東洋においても同様であった。

 「神の大義」にもとづくスペイン王のイギリス侵攻の熱望はやがて具体化する。王のイギリスに対する本格的な侵攻計画は「イングランド作戦」と呼ばれ、1585年から88年に至る、エリザベスのチューダー王朝の打倒を志向する大戦略であった。1587年頃までになしえたネーデルランドのスペイン領回復と支配力の強化は、イングランド侵攻のための理想的な出撃拠点を提供した。
 フランスにおいてもカトリック教徒による王位継承が確保され、折から他の内戦に巻き込まれて国外に眼を向ける余裕をなくしていた。スペインにとって背後の安全が確保されたのである。スペインがフランスに対する恐怖心から脱しえたことは、スペインのイギリス侵攻計画を本格化させるに十分な戦略的基盤を与え、他方エリザベス女王には新たなイングランド攻撃の脅威が増大していると感じさせた。女王はしばらくの間ネーデルランドの抵抗を強化するため秘密裡に、スペインを挑発しない程度の支援を送っていたが、次第にネーデルランドに対するスペインの支配力を減殺しようとつとめた。ネーデルランドとイギリスは既述の通り貿易や宗教において深い関係にあっただけでなく、この地域一帯のブルゴーニュ公国はシャルル侯の妃がイギリス王家の出身でもあったことから、イギリスとはもともと比較的良好な関係を築きやすかったのかもしれない。

 ところでスペインとポルトガルの商人はネーデルランドの反乱地域との間に秘密貿易を継続していた。これは利敵行為であるから禁輸の措置を講ずるのも当然であろうが、フェリペ国王はネーデルランドだけでなく、イベリア半島の港湾に来航するすべてのヨーロッパの艦船及び積み荷を没収する旨の政令を発した(1585年5月)。フェリペはやがては拿捕した艦船のうちネーデルランドの艦船をのぞいてすべての艦船を解放するように命じるのであるが、エリザベス女王はイングランドの船と乗組員が拿捕されたことを耳にした瞬間、この禁輸をスペインに対する開戦理由へと変えた。

 その後女王はイベリア船籍の漁船を襲撃すべく、小艦隊をニューファウンドランドへ派遣した。この襲撃によってスペインの多数の乗組員がイングランドに拘束された。そしてイングランドはなおかつ禁輸で被った損害の賠償として外国商船拿捕免許状を発行し、スペインの軍旗を掲げた船舶を拘束することによって損害の補填に替えることを求めた。1585年8月エリザベスはネーデルランドと条約(ノンサッチ条約)を締結し、7000名以上の正規軍をネーデルランド陸軍へ拠出するとともに、ネーデルランドの国防費の4分1を支弁し、イングランドの顧問を派遣して反乱州における統治の調整と軍隊の指揮を執ることを約束した。
 また、フランシス・ドレイク男爵は旧世界及び新世界におけるスペインの艦船及び所有物を襲撃する権限を与えられた。1585年9月33隻からなるドレイクの艦隊はプリマスを出港し、ガリシアに到着し、その後10日間で近郊の村を襲い、教会へ乱入し、略奪を働き人質を取るなどした。1585年フェリペ2世はドレイクのガリシア略奪を理由に、10月24日イングランドへの侵攻を認めるローマ教皇からの委任を受託した。

進攻戦略

 しかしイングランド侵攻を決定するには当然のことながら戦略決定を行わなければならない。サンタクルス侯爵やパルマ侯フアルネーゼの案などが提出されたがフェリペの首席顧問であるズニーガは次のように考えた。すなわち無敵艦隊(アルマダ)を用いリスボンからアイルランドに直接向かい、そこに急襲部隊を揚陸させ、橋頭堡を確保する。その後無敵艦隊はアイルランドを離れ、英仏海峡へ向かう。同時にネーデルランドに駐留する侵攻の主力部隊(パルマ侯麾下の3万人の兵)はネーデルランドのフランドル(ベルギー)から渡橋してイングランドのケント州の海岸を奇襲する。そして無敵艦隊はイギリス海峡を制圧し、ネーデルランドから派遣された陸兵の上陸を援護し制海権を得る。次いで攻城砲や必要な物資を船から降ろし、最後に2カ所の橋頭堡と海上での安全確保によって上陸部隊に対する増援を行う。こうした陸海両面での圧倒的優位によってチューダー王朝を打倒しスペインにとって好ましいカトリックの王朝へと交代させる。そしてイングランドの駐留部隊がネーデルランドで占拠した土地をフェリペ2世の部隊へと引渡しネーデルランドでの反乱を丸く収める。こうした一石二鳥的な―― 悪く言えば都合のよい戦略を立てたのである。

 一方フランスではカトリックの連盟の指導者に対するスペインの資金援助が増額され、1587年4月連盟の部隊はネーデルランドとフランス国境付近のピカルディー地方において3つの都市を制圧し、フランスのプロテスタントからの援助がネーデルランドやイングランドにおける敵対者に一切届かないことを保障した。しかしスペインによる侵攻計画を知ったエリザベス女王は、1587年1月ドレイク男爵とその強力な艦隊を先制攻撃(スペイン国王の髭焦がし事件)へと送り出したため戦略状況は一変した(「丸の内中央法律事務所報」№11参照)。
 ドレイクの任務はアゾレス諸島沖において、東インド及び西インドから帰還するスペインのガレオン船の略奪にあり、無敵艦隊もこれの邀撃に出撃したためイングランドへの出撃はいったんは再考を余儀なくされた。

 無敵艦隊は1588年5月28日にリスボンを出港したが、艦隊司令官グスマンに与えられた任務は「英仏海峡に向かいマルデート岬の沖に停泊するまで進撃すること、パルマ侯に無敵艦隊が接近していることを警告すること。さすればパルマ侯は英仏海峡を渡峡するであろう。無敵艦隊は海峡の安全確保以外に何もせず、ただ通峡を妨害するため出没してくる敵の艦船を打ち破るべし。」とするものであったが、ついに両軍の統合は失敗に終わった。1588年7月ネーデルランド海軍の32隻の重装甲艦によってフランドル沿岸地域が封鎖され、パルマ侯の輸送船団は湾内に閉じ込められたからである。その一方で、ガレオン船の火砲は無敵艦隊を凌ぎ、イングランド海軍が用いた焼討船という奇計により、無敵艦隊はなす事もなく敗れ去ったのである(図1参照)。無敵艦隊壊滅の原因として退避行動中に被った暴風雨の影響もあったろうが、無敵艦隊司令長官がパルマ侯と合流するまでイギリス海峡及びアイリッシュ海峡の両海峡にとどまることができなかったことにある(前掲「丸の内中央法律事務所報」参照)。

ネーデルランドの海外進出

 ネーデルランドは長年にわたるスペインとの戦争から、戦うための技術を学び、以後乏しい人数でも戦うことができるという伝統を築き上げていった。オランダ人は既述の通りフェリペ2世によってセビリアやリスボンの港から商船を閉め出されるまでの間、ポルトガルから多くの東方についての貴重な情報を得ていた。すなわち海岸、岩礁、暗礁、島嶼、港湾、航路、風向風力、潮流、季節的な暴風雨、緯度と羅針盤の方位、陸地を示す鳥、友人と敵の区別、最も重要なポルトガルの長所と短所を学んでいたのである。これらをもとにオランダ人は初めての自力航海に赴いた。
 当初からネーデルランドは通商国家を志し、まず北米大陸への進出を図るのであるが、北アメリカにはすでにイギリス、フランスが進出しており成功しなかった。
 そこでネーデルランドは全力を東インド(東南アジア一帯)へ振り向け、独立宣言後はアジアの海に船を送って1602年には東インド会社を設立した。しかしその過程は容易なものではなかった。即ち、力によって左右されその価格もきわめて恣意的に決められるビジネス商売、複雑不安定なアジアの政治情勢、そこには先鞭をつけたポルトガル、スペインの介入があり、状況はきわめて混迷していた。
 ヨーロッパ人同士も激しいライバル関係にあって他人を出し抜くためなら手段を選ばなかった。航海中も決して安全ではない。アジアの海にはアジアの原住民(中国や、あるいは日本人もいたかもしれない)とヨーロッパ人が入り乱れての海賊行為が横行し、危険は至る所にあった。その中でオランダ人は必死に生き延びようと戦う技術を磨いていったのである。

東インド会社

 本国のアムステルダムに設立された東インド会社の幹部たちもこうしたリスクに頭を痛めていた。東インド会社は香料諸島(モルッカ諸島)に勢力を確立すべく必死になった。1605年モルッカ諸島のアンボイナをスペイン(ポルトガル)から奪取し、1619年ジャカルタを香料貿易の基地とし、そこから香料諸島を押さえる一方、1641年にはマラッカをスペイン(ポルトガル)の手から奪い、またアフリカ南端にケープ植民地を築いて香料輸送の安全を確保した。東アジアではスペイン(ポルトガル)の手から日本の生糸貿易の独占を奪い、台湾で中国人商人から生糸を購入して長崎に運び、南インドの木綿製品をインドネシアに運んだ。こうしたアジア内における地域間貿易でも東インド会社は大きな収益を上げた。年を経るにつれ東インド会社の現地駐在員はあたかも君主のように振る舞うようになっていった。たぶん本国も貿易だけでなく、軍事、外交を行う権限を与えていた(もしくはそれらの権限を黙認していた)からであろう。スペイン(ポルトガル)領への襲撃、イギリス人との戦闘、海賊の追跡と海賊行為、地元支配者への攻撃、契約の締結とその裏切り等、軍事行動を含むこれらの行為はみな現地駐在員が独断で行ったものである。他のヨーロッパ諸国はネーデルランド人を信心家の皮を被った強欲な偽善者と見なすようになり、ネーデルランド人は他のヨーロッパ人を同じキリスト教徒といえども誰も信用してはならないこと、またアジア人やイスラム教徒はさらに信用できないことを学んだ。
 香辛諸島の香辛料、ジャワの米、コーヒー、砂糖など利益の大部分は農産物の独占から生じたものであったが、長い歳月の間には独占の安定性は揺らぎ、それを維持するためには経費が高くつく軍事行動を伴うことが必要とされたのである。経費の高騰が商品の価格を上げ、高価格となった商品の獲得には多額の経費を要するという悪循環の連鎖は続き、18世紀中にオランダ東インド会社の貿易量は落ち、それにともなって収益も下降線をたどった。やがてイギリスとの戦争が生じたこともあり、東インド会社の業績は凋落に向かい、やがて国家が東インド会社を接収するに至るのであるが、ネーデルランドはその後も巧みに植民地経営を行ってこの海外領土を維持し続ける。植民地(日本では蘭領印度支那と呼ばれた地域)が解放されたのは大東亜戦争日本軍の攻撃を待たなければならなかった。

オランダ船と太平洋

 新生ネーデルランドが独立宣言後に行った太平洋の航海は(1598年)、日本とつながりを持つエピソードを残した。1598年6月ロッテルダムから出港した5隻のネーデルランドの船隊はマゼラン海峡を通過し、太平洋を横断してアジアに到達しようとしたが、船隊は四散し、ただ一隻リーフデ号だけが太平洋を横切って九州の豊後に漂着した。関ヶ原の戦いの直前の、1600年3月のことである。
 この船の航海長として乗船していたイギリス人ウィリアム・アダムズがのち徳川家康に仕え、三浦按針となって外交顧問の役割を果たした。ウィリアム・アダムズはプロテスタントであったことに注目する必要がある。従来日本に渡来したキリスト教徒はカトリック教徒であるイエズス会の信徒とプロテスタントが混在していたが、プロテスタントが徳川将軍に仕えたことはカトリック僧にとっては驚くべきことであり、日本においてプロテスタントとカトリックの相剋に拍車をかけた。

 ネーデルランドは香辛諸島(モルッカ諸島)にあまりにも強く執心したために太平洋全体に対してさしたる注意は払っていなかったようにみえる。たとえばオーストラリアについても彼らが探検航海を行ったのは北部、西部、南部に限られ、今日シドニーやブリスベンの大都市があるオーストラリア南部海岸地方にはまったく接触していていなかった。しかしそうはいってもネーデルランド人が太平洋に航跡を残さなかったわけではない。ネーデルランドは17世紀中頃には15,000~16,000隻の船舶を保有していたといわれている。当時全ヨーロッパにあった艦船はおよそ2万席であったと言われているから、ネーデルランド船の数には驚かされる。

 1598年から1601年にハン・ノールトは無事太平洋を横断し、フィリピンボルネオ経由でジャワに着いたのち喜望峰経由でオランダに帰港した。マゼラン、ドレイク、キャデンディッシュに次ぐ4回目の世界周航である。
 また1642年バタビアからモーリシャスを経て南下し、オーストラリア南海岸を沿岸航海してタスマニアに至ったタスマンは、そこからさらに東進してニュージーランド北島の南端に到達した。彼はさらに北東に進んでトンガ諸島に到着した。ここで鉄やビーズと引き替えに豚、ヤムイモ(yam)、ココヤシなどを大量に仕入れ、北西に進路を変え、2月にはフィジー諸島北部の島々を巡った。その後タスマンはオントンジャワを経由してビスマルク諸島のニューブリテン島に着いたがタスマンは同島がニューギニアと一体をなしていると信じた(図2参照)。
 タスマンが残した功績の一つにポリネシア、メラネシアのいくつかの重要な島の住民が、芋栽培や豚の飼育によって食料を蓄え、引き替えに鉄とビーズを欲しがることを知ったことである。それ以降の太平洋航海者たちがタスマンからの情報をもとにそうした品々を大量に準備してゆく習慣のもととなったという。
 西インド会社(1621年に設立されアメリカ方面で活躍した)の委嘱を受けて1721年8月、ヤコブ・ロヘーベンはケセル港を出帆し、南アメリカ南端のホーン岬経由で太平洋に入った。彼は翌年4月にイースター島に到着し(巨像モアイを見た初めてのヨーロッパ人である)、1週間の滞在ののち西進し、トウアモトウ諸島経由でソシエテ島に至り(6月)、ボラボラ、マウピティ、サモア、マヌア、マヌア諸島のトウトウイラ、ウポル等を回航した。

メルカトルの地図とオルテリウスの地図帳

 ネーデルランド人の海洋に関する功績として地図の作成がある。ゲラルドウス・メルカトル(1512-1594)はご存じのように「メルカトール投影法」を考案した。球体の一部分を平らな紙に移動し、船の針路を直線で描くためにはどうしたらよいか。メルカトルは経線をオレンジの皮に入れた刻み目のようなものだと考え、それを細くむいて、順番にテーブルのうえに並べたのである。さらに、これらを伸縮自在のものと見なし、先へ行くに従って細くなっている部分をそれぞれ引き伸ばして、隣りあった各断片が矩形になって端から端まで密着するようにした。こうして、球面全体をおおう表皮は、地表の模様を再現しながら一つの大きな矩形となり、経線はそれぞれ北極から南極まで並行に表されたわけである。引き伸ばす作業を慎重に行えば、面積は広くなるものの、地表の陸地や海洋の形は実物どおりに保たれるのだった。」(ダニエル・ブアスティン「地図はなぜ四角になったのか―――大発見②」(鈴木主税外訳、集英社文庫)
 メルカトルはフランドル(ベルギー)に生まれ、ルーヴァン大学で哲学と神学を学び、その後数学と天文学そして彫版と器械製作と測量の技術を修めた。メルカトルが生活していたフランドルは、カトリックであるハンガリー女王マリアによって治められていたが、異教徒狩り政策によってメルカトルも逮捕・投獄された。司祭の奔走によって処刑を免れたメルカトルはプロイセンに移住し、1569年には自分が考案した投影法を用いて画期的な世界地図を作った。

 メルカトルの年下の友人であるアブラハム・オルテリウス(1527-1598)の地図に関する興味はこれを商品として扱うことにあった。オルテリアスが生まれた南ネーデルランドは既述のようにカトリックが優勢であったが、オルテリウスが作る地図は異端のものとみなされ、彼も異端審問に悩まされた。オルテリウスはイギリス、ドイツ、イタリア、フランスの市場で自分が彩色した地図を売った。当時動乱の巷にあったヨーロッパでは戦争目的のためと商品流通のため、正確な地図の需要は急増していた。
 オルテリウスは折から発達しつつあった印刷技術(銅板刷り)を利用し、メルカトルの助力を得て、正確な地図を集め、1570年に最初の近代地図帳(「世界の舞台」)を作り、アントワープから売り出した。この地図帳は、大変な売れ行きを示し、6箇国で翻訳され、彼が死没するときには28版を重ね、死後にいたって41版を重版するという大ベストセラーとなった。

(未完)

〈参考文献〉(前回参考にした分を含む)
  • 岸田秀「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」(新書館、2007)
  • 増田義郎「太平洋------  開かれた海の歴史」(集英社新書0273D、2004)
  • Attilio Cucari & Enzo Angelucci "Ships"(日本語版、堀元美訳「船の歴史事典」原書房、2002)
  • 清水馨八郎「侵略の世界史」(祥伝社、1998)
  • John Keegan "A History of Warfare" (日本語版、・遠藤利国訳「戦略の歴史------  抹殺・征服の技術の変遷、石器時代からサダム・フセインまで」心交社、1997)
  • 小林幸雄「図説イングランド海軍の歴史」(原書房・2007)
  • 井澤元彦「逆説の日本史9 戦国野望編」(小学館文庫、2005)
  • 井澤元彦「逆説の日本史11 戦国乱世編」(小学館文庫、2007)
  • 宮崎正勝「モノの世界史------  刻み込まれた人類の歩み」(原書房、2002)
  • H.Kinder & W.Hilgemann "The Penguin Atlas of World History vol. 1" (Penguin Books, 1987)
  • 西岡香織「アジアの独立と『大東亜戦争』」(芙蓉書房、1996)
  • 村田良平「海洋をめぐる世界と日本」(成山堂書店、2001)
  • 高橋裕史「イエズス会の世界戦略」講談社選書メチエ372(講談社、2006)
  • 秦新二「文政十一年のスパイ合戦------  検証、謎のシーボルト事件」双葉文庫、日本推理作家協会賞受賞全集73、2007
  • Adam Smith "An Inquiry into The Nature and Causes of the Wealth of Nations", 山岡洋一訳「国富論」―国の豊かさの本質と原因についての研究―(日本経済新聞出版社、2007.3)
  • ジェフリー・パーカー(吉崎知典訳)「ハプスブルク家のスペイン戦略形成―フェリペ2世による「支配への賭け」(1556~1598)」(ウィリアム・マーレー外編著「戦略の形成―支配者、国家、戦争・上」所収)(中央公論社、2007)
  • 江村洋「ハプスブルク家」(講談社現代新書1017、1990)
  • ダニエル・ブアスティン(鈴木主税外訳)「地図はなぜ四角になったか―大発見②」(集英社、1991)
  • 織田武雄「地図の歴史」(講談社、1973)

〈地図製作〉高橋亜希子(丸の内中央法律事務所)

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