• 事務所概要
  • 企業の皆様へ
  • 個人の皆様
  • 弁護士費用
  • ご利用方法
  • 所属弁護士

弁護士コラム・論文・エッセイ

弁護士コラム・論文・エッセイ

ホーム弁護士コラム・論文・エッセイ堤弁護士著作 一覧 > 太平洋の覇権(6) -----世界地図の発達
イメージ
弁護士 堤 淳一

2008年08月08日

太平洋の覇権(6) -----世界地図の発達

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

前回までの掲載誌
太平洋の覇権
  1. ―地理上の発見の時代 ・・・・・・・・・・・・・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"No.50(2007.4.20)46頁
  2. ―スペイン/ポルトガルの衰退 ・・・・・・・・本誌11号(2007.8.25)8頁
  3. ―日本の鎖国 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・同"BAAB"No.51(2007.10.31)18頁
  4. ―世界システムの形成 ・・・・・・・・・・・・・・・本誌12号(2007.8.25)9頁
  5. ―スペイン、イギリスそしてオランダ・・・同"BAAB"No.52(2008.7.1)○頁

なお以上の記事は若干の補訂を加えて当事務所ホームページ(https://www.mclaw.jp)に発表してあるのでご覧いただければ幸いである。

 大航海に用いられた船に積載される艤装、その他の装具について本紙12号に述べた。装具のうちで最も重要なものは地図である。地図がなければ大航海をすることはおろか近海をも航行できないことは当然のことである。本号においては地図のことについて触れてみよう。

世界地図の起源

 古代から人々は己が地上のどこにいるか、そして自分たちが住む地域はどのような形をしているかについて強い関心を寄せていたであろうことは想像に難くない。先史時代においてすでに地図が作られていたとされており、地図の歴史は文字が発明されるより以前になされていたとみられる。ギリシャ時代においては世界の大地の周辺はオケアノスと呼ばれる大洋に囲まれ、天空は平たい大地のうえを鉄の鐘のように覆っていると考えられていた(ホメロスの詩編)。ギリシャ人の地理的認識もまだ狭い範囲にしか及んでおらず、ホメロスに記載されている物語の舞台もほとんどエーゲ海を中心としたギリシャ半島の沿岸や諸島に限られ、シチリヤ島から以西の地中海や東方の黒海の地方についての具体的な記述はない。

ギリシャ時代の「地球観」

 紀元前8世紀頃からギリシャ人の植民活動が活発に展開されるようになると、地中海、黒海の沿岸各地に関する地図が作られるようになる。
ヘロドトスの「歴史」の記述はホメロスに記載されているオケアノスなどは観念上の海であり、それを世界図に描くことはまったく理由のないこととしてその存在を強く否定した。
 ギリシャ人の世界に対する地理的知識に革新的な役割を果たしたのはアレクサンダー大王(B.C.350-323)であった。マケドニアのアレクサンダー大王はギリシャの多年の宿敵であったペルシャ帝国の征服を目指して、B.C.327年にはインダス川上流のパンジャブ地方にまで進入した。遠征軍に従う人々は内陸アジアのステップや砂漠、熱帯のインドなどギリシャ人にとってはまったく目新しい世界を見た。
 同じ時期、ギリシャの植民地マッシリア(現在のフランスのマルセイユ)のピュアテスによって北西ヨーロッパ地方への探検航海が行われ、ギリシャ人はブリテン島やアイルランド島など北西ヨーロッパの地理的状況を知ることができた。ピュアテスは更に北に進んで北極圏に近いピューレ(スカンジナビア半島の北部あたりといわれている)に到達し、ピュアテスはこの地方を最も北極に近い土地とみなした。
 ギリシャ人の地球に対する知識によれば、ヘロドトスの頃までは地球は平たいものと思われていた。ピタゴラス学派の哲学者たちは物体のもっとも完全な形態が球体であるとすれば、宇宙の中心に位置する神聖な存在である地球は当然太陽や月と同じように球体をなすと主張し、ソクラテスやプラトンもそのように考えた。アリストテレス(B.C.384-322)は月蝕の際に月面にうつる地球の影が円形をなすのは地球が球体をなしているからであると考えた。更にギリシャ人の知識は深まり、ヘレニズム時代の代表的な地理学者エラトステネスは地球のおよその大きさを測定した。エラトステネスは地球の大きさを測定する他に地理書や世界図を著したといわれている。

ローマ時代における世界の拡がり

 B.C.5世紀頃から勃興したローマはB.C.146年にはカルタゴとギリシャを支配し、B.C.30年にはエジプトを併合するなどますます版図を拡大し、やがてローマ帝国の境界はアルプスを超えてドナウ川岸に達し、さらに2世紀前半にはドナウ川を越えてダキア地方(カルパチア山脈とダニューブ川との間にある古代の王国)に侵入してこれを属国にし(B.C.106~270)、ローマ帝国の領土は最大に達した。ローマ帝国の領土にはゲルマニアや東ヨーロッパの一部を除いたヨーロッパ全域及び地中海を挟んで北アフリカから西アジアにかけての地中海沿岸一帯までが含まれた。ローマ時代の地理的知識はローマ的世界の発展によってギリシャ時代よりいっそう広い範囲に拡大された。
 B.C.1世紀頃から紅海からインド洋を横断してインドに向かう海上交通が発達するようになり、ローマ時代にはインドとの貿易によって香料・織物・宝石などの産物が多くローマにもたらされた。また中国とローマとの交易も開かれるようになり、中国から隊商交通によって中央アジアのステップや砂漠を経てローマまで絹が送られてきた。いわゆるシルクロードの啓開である。

プトレマイオス

 ローマ時代に天文学と地理学の発展にもっとも寄与したのはプトレマイオスであった。ローマ人は土木建築などの分野に才能を発揮したが、思弁的思考方法を好まず、地理学の発達に貢献したのはギリシャ系の地理学者であった。プトレマイオスもそうである。プトロマイオスが活躍したのはギリシャ文明が頂点に達したグレコローマン時代の2世紀半ばであり、プトロマイオスは天文学上の著書として「アルマゲスト」を著しこの著書は地球球形説を完璧に論証した。プトロマイオスは地球上の各地方の位置を等緯度の並行圏で区分し、その上で、球面上のいくつかの点を結ぶ円弧の幾何学(球面三角法)と、その計算に必要な弦の表(三角関数表)を用いて天体上の点としてとらえられる星の位置の相互関係と球体としての地球上の異なる点から、その点がどう変わるかを算出する方法を詳細に展開した。またプトレマイオスは「地理学(geo-graphia)」を著し、地球に関する地理学的な課題や地図作成の方法などについて述べている。地球上の諸地点の位置を決定するために、彼は天文学者ヒッパルコスに従って地球の円周を360度に等分した経線網を設定している。また球面をそのまま平面に展開することは不可能なので、球体である地球を平面に合理的に描出する方法として初めて投影図法の問題を取り上げ、彼は球面に接する円錐面に経線網を投影する円錐図法を考案した。ローマ時代の2世紀頃にヨーロッパ人に知られていた地域は全世界のほぼ4分の1の程度であったので、プトレマイオスの世界図も経度で180度、南緯20度までの地域を円錐図法によって表した半球図である。プトレマイオス図においては東アフリカの沿岸が南に向かわずに東に伸びインド洋が陸地に囲まれた大きな内陸海となっているなど誤りがあるが、世界図の作成に投影図法を用いた最初のものとして、その価値を保っている。しかしプトレマイオスの著書は以下に述べるように中世キリスト教世界においては葬り去られ、アラブ諸国によって保存され、研究された。

ローマ帝国の崩壊と中世の始まり

 2世紀頃には繁栄の頂点に達したローマ帝国もその後半の時代になると、土地の大部分は小数の大地主によって僣窃され、北方蛮族の南下も頻繁となるなど、内外諸々の衰因によって破滅への途をたどり、4世紀末には西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂した。そして476年にはゲルマン人の進入によって首都ローマは蹂躙されて西ローマ帝国は滅亡し、中世の時代が始まるのである。
 西ローマ帝国の崩壊とそれに続く民族大移動によって、ヨーロッパ世界では多くの都市は破壊され、古代文化の伝統や遺産もまた失われてしまった。このような動乱における精神的な不安を逃れるため人々は信仰に救いを求めて、中世ではキリスト教の勢力が益々強大となり、教会が精神の世界とともに知識の世界をも独占するようになる。カトリック教会は異説を厳しく弾圧した。その結果、ギリシャ・ローマ時代を通じて発展してきた古代科学は、中世においては異端の説として教会によって排撃され没落し、すべての科学は聖書こそ唯一絶対の真理とみなす神学に統一支配されていったのである。このようにして古代科学の衰退とともに、世界地図もまたギリシャ以前の段階にまで後退した。
 中世荘園制度の下に営まれた封建社会では交通と交易もきわめて限定的になり、文化の交流は少なく、地理的知識の発達もほとんど見られなくなった。地球球体説は聖書の説くところにもとる異端の説としてすべて否定し、中世では地球は平たい大地をなすものと再び考えられるようになった。教父ラクタンティウスは「地球の反対側では草や木が反対向きに生え、人間の両足は頭より高く、雨や雪が大地に向かって上向きに降るなどということは信じられない」として地球球体説は愚説であると論断した。

中世における世界地図

 中世のキリスト教徒の世界観では、平たい大地の周囲はオケアノスによってめぐらされ、その中心に位置するのはキリスト教徒の聖地エルサレムであり、また世界の周辺には古代や中世の伝説とも絡み合って悪魔のような怪異な形をした様々な人間や動物が実在するものと信じられた。いわばバビロニア人と同じ考えに逆戻りしたのである。
 中世における地図の一つとしてTO図と呼ばれるものがある(そのような図の一つを第1図に示す)。即ちO(地球をめぐる円)はオケアノスであり、世界の陸地はアジアアフリカヨーロッパに三分され、中世においては楽園が所在する東が上とされていたのでTO図の上半分がアジアである。またTの横画はアジアとヨーロッパとの境界をなすタナイス川(現在のドン川)とナイル川、縦画はヨーロッパとアフリカとの境界にあたる地中海を表し、地図の中心にエルサレムが示された。
 中世にはTO図のような図式的な地図の他に、マッパムンディと呼ばれる世界図がある。これは海図のように厳密な海岸線や地形の描写を目的とするものではなく、全く別の概念や主張、即ち聖書に記されている物語や事物あるいは古代や中世の伝承にもとづくキリスト教世界観を世界図の形を借りて表した絵図である。代表的なものには四分マップ、グレートマップ、ヘレフォード図などがある。
 このような反啓蒙的な(といって悪ければ精神世界と現実世界の混淆的)キリスト教の地理学は1000年もの間、幅をきかせていた。このような独善性は宗教の持つ魔力にもとづくものであり、抑々強い独善性を持たなければ不可知である神の存在を理論化することはできないのである。
 しかし、キリスト教の説くところがいかようであれ、航海に赴く船乗りにとっては正確な地図の存在は生命にかかわる問題であるゆえ、事実に基づき地理学を確立することは死活問題であった。キリスト教観にもとづく図はインドへの東方航海路の開発を企む航海者には何の役にも立たず、その資金をまかなうヨーロッパの君主や出資者は神学者のものの見方を排して、航海者の見方をとり入れざるをえなかったのである。

中世からの脱却とプトレマイオスの復活

 地中海と大陸沿岸に航海が限定されている限りその航法は沿岸の地形や島を目印にした沿岸航法で足りた。しかしいったん地図のない大洋(ocean)にでると、目印は全くなくなる。代わって正午の太陽の高度、北極星の高度をはじめとする天体の見え方が船の位置を決定する重要な手がかりとして登場する。かくしてプトレマイエスの「アルマゲスト」と「地理学」が復活する。
 ギリシャ人の手になるプトレマイオスの「地理学」の写本は13世紀初頭以降のものが現在まで伝わっている。しかしヨーロッパにおいてギリシャ語を読める人々は数少なかったのでプトレマイオスの研究はラテン語に翻訳されてから広く知られるようになる。1400年にパッラ・ストロッツィ(1373-1462)の手で、次いで1406年に「地理学」がイタリアのアンゲルスによってギリシャ語からラテン語に翻訳された、また「アルマゲスト」は既に12世紀に北イタリアのゲラルドによってアラビア語からラテン語に翻訳され、ドイツの天文学者であるレビオ・モンタヌス(1436-1476)が師であるプールバッハ(1423-1461)の遺志を引き継いで、アルマゲストをギリシャ語からラテン語に完訳した。後者は1496年に出版され、西欧社会におけるプトレマイオスの復活はこの頃から本格化する。
 プトレマイオスの復活は経験主義的精神の目覚めないし再認識を意味した。プトレマイオスの再発見はルネッサンスにつながる知識の復活の序曲であり、近世世界の幕開けを知らせるものであった。プトレマイオスの写本(現存しているもののうち、第1巻のみが原本であるといわれており、その他の巻はビサンティン帝国やアラブの学者たちが何百年もかけて編纂したものである)はおびただしい数に昇り、その科学上の欠陥にもかかわらず(例えばプトレマイオスが地球の円周を過小に見積もったことによってアジアの東側の拡がりを過大に見積もる結果となり、大西洋を経由してアジアへと向かう距離がひどく短くなっていた。コロンブスもそうした「事実」に影響を受けた1人といえる)、その後の探険者たちに影響を与える。
 こうして、プトレマイオス図の写本は地図としてもまた、彩り豊かに製作された室内装飾品としても大量に作られ、ヨーロッパに普及していった。
 1454年にグーテンベルクが聖書を印刷し、印刷術がまだ揺籃期にあった時代ですらプトレマイオスの「地理学」は7種類も印刷され、16世紀に入ると少なくとも32種類もの版が制作され、プトレマイオスの「本」は聖典(でなければ高級ブランド品)となった。

東方からの文明移転

プトレマイオスの復活は上述のようにイスラム圏からの文明の移転であった。
東方貿易(東を意味するレバント貿易ともいう。イタリアにおけるそれは都市当局が仕立てる商船隊を東地中海と西地中海に向かわせる貿易方法をいい、前者はイスラム都市で東方の物産と西欧のそれとを交換して戻り、後者は西欧諸国に東方物産を売り、西欧物産を仕入れて帰るという2組の仲立貿易によった)を通じてもたらされた文明の移転はこれにとどまらない。
インドで生まれアラビアで完成された十進位数字とそれにもとづく計算術は商人が行う損益計算の発展に大いに役立った。他方、手形(為替手形)決済が行われるようになり、遠隔地貿易の便益を提供した。
帳簿も複式簿記へと発展し、やがて大航海時代を通じて日本の戦国大名(キリシタン大名)へも伝播されて行く。 天文地理の分野ではプトレマイオスの次に(実に1000年を経て)コペルニクス(1473~1543)、ケプラー(1571~1630)が登場する。コペルニクスは「天球の回転について」を著し、ケプラーは惑星の軌道は楕円であることを発見した。
以上、余談。地図の話に戻ろう。

羅針盤とポルトラーノ

しかして経緯線によって作られたプトレマイオス図の流布とは別に(あるいは並行して)様々な技術が航海図の発展に寄与した。
 その1は羅針盤の発展である。
既に中国においては11世紀頃に航海図に磁針の針が用いられるようになったといわれている。おそらくこの知識がアラビア人を通じてヨーロッパ人に伝わり、12世紀頃には尖軸(pivot)に支えられた磁針を方位盤に取り付けた羅針盤が発明されて航海に用いられるようになった。ヨーロッパの文献に初めてコンパスについての記述が表れたのは、アレクサンダー・ネッカム(1157-1217)の著作においてであった。この羅針盤(コンパス)の発明によって航海術や地図の作成技術に革命がもたらされた。
 まずポルトラーノと称される特殊な海図が出現した。ポルトラーノはおそらく14世紀頃以前にベネチア、ジェノバなどの北イタリアに始まり、やがて地中海の海上交通が発達するにつれ、バルセロナ、マヨルカ島のパルマなど西地中海方面でも多く手書きで作られるようになった。ポルトラーノはペリプルスと呼ばれる航海案内書に起源を有する。航海案内書は海上交通の航路標識として海岸や港湾の状況方位や距離などについてのできるだけ正確な知識を記載したものである。ペリプルスは風配図と呼ばれ、4、8、あるいは12方位程度の放射線を持っており、この放射線に沿って航行すれば目的地に到達できるように工夫された。放射線は風向きを表すものであった。
 風配図の放射線は32の厳密な方位を持った磁気羅針盤にとって代わられた。ポルトラーノの図上に表された多くの方位盤から放射状に張りめぐらされた放射線は重なって網状をなし、これらの方位線を基準にすれば航海者がひとつの港から他の港へ向かうに必要な航路の方角すなわち舵角(舵の角度)を地図上でたやすく読み取ることができる。ポルトラーノ型海図には、海岸線の形態、岩礁、砂州などの位置や港湾の状況、港湾間の方角や距離、航海者の経験や直接の観測をもとにして地図に表現された。地図上の地点の位置は天文学的観測による緯度経度をもって決定されたものではなく、推測航法によって経験的に推定された相対的な位置である。地球を球体とみなした経緯線による投影法は用いられていない。
 ポルトラーノは1600年頃にメルカトール図法が発明される以前は海図として広く用いられ、最初の頃の風配図は主に地中海、黒海の海域に限られていたのに対し、大航海時代には新大陸やインド洋、東南アジアなどの海域を描いたポルトラーノも多く作られた(香辛料諸島の西側にあるジャワ・ボルネオ島付近のポルトラーノを第2図に示す)。しかし船乗りたちの保守的性格は四角い桝目にもとづく地図を用いることを久しく妨げ、手書きのポルトラーノ地図も250年以上にわたって愛用され続けた。

メルカトール地図

メルカトール図法のこと、彼がカトリック勢力によって迫害されたこと、その図は大いに売れたことなどについては塚本企業法実務研究会誌(BAAB)第52号29頁に書いたがお読みでない方のために述べておこう。
 メルカトール図は経緯線から成り立っているが、メルカトルは経線をオレンジの皮に入れた刻み目のようなものだと考え、それを細くむいて、順番にテーブルのうえに並べたのである。さらに、これらを伸縮自在のものと見なし、先へ行くに従って細くなっている部分をそれぞれ引き伸ばして、隣りあった各断片が矩形になって端から端まで密着するようにした。こうして、球面全体をおおう表皮は、地表の模様を再現しながら一つの大きな矩形となり、経線はそれぞれ北極から南極まで並行に表されたわけである。引き伸ばす作業を慎重に行えば、面積は広くなるものの、地表の陸地や海洋の形は実物どおりに保たれるのだった。

経度の測定

 ところで、緯度は大洋や星の観測によって測定することができ航海者は航海中においても自己の位置を容易に判定することができるが、経度測定は容易ではなかった。大航海時代には推測航法によって経度が推定された。即ち羅針盤によって東西の方向に船を進ませた距離を1日の船の進行速度を基準にしてその地点の経度による位置が推定された。船の速度は結び目のある縄を付けた木片を船首から海面に投げ、それが船尾を過ぎる時間を計って算出された。問題は時間の測定である。経度を測定するためには精密な時計が必要である。そのような時計の発明にはイギリス議会によって賞金がかけられ、1735年にイギリスのジョン・ハリソンは揺れや温度変化を吸収するバネの工夫と、これをねじが巻かれている間も機械が作動し、ねじが巻かれた当初と緩んだ後も時計の回転力が一定になる装置を発明し、揺れに強い置き時計「クロノメーター」を製作した。
その誤差はイギリスからジャマイカまでの81日間の航海にあたり、8.1秒の遅れにとどまったという。クロノメーターの発明によって経度の測定性能は飛躍的に向上した

日本図及び日本における世界図

 我が国においては奈良時代から全国の国郡図が存在しており、日本全図がこれに基づいて作られたことは容易に想像できる。聖武天皇の時代に行基(668-749)によって描かれた行基式日本図と総称される古拙な形態の日本図が古くから江戸時代初期までいくつかの地図を通じて踏襲されてきた。これは山城(京都)を中心に国々が俵を連ねたように重なり合って配列され、日本全体の形態が丸みを帯びた輪郭を示しており、ただ奥羽地方の部分のみが東に大きくふくらみ日本が東西に延びた島となっている、という特色を有する。仏教の伝来と共に、古代においてもインドや西域諸国の知識が仏典などを通じておぼろげながら伝えられている。「五天竺図」(法隆寺所蔵)はおそらく中国から伝来した図を14世紀に書写したものと思われ、これと同種の地図もいくつか残っている。五天竺図は南瞻部洲の東端にはシナ、東北の海中には日本、東南の海中にはセイロンが記載されており、ヨーロッパ中世のキリスト教的世界図(マッパムンディ)がエルサレムを中心として描かれているのに対して、五天竺図はインドを中心とした仏教的世界観を表現している。

南蛮船の渡来と世界図の伝来

 織豊時代から江戸時代初期にかけて日本人の海外発展や南蛮人の渡来により世界に対する日本人の地理的知識に飛躍的発展がみられた。なかでもポルトガル船、スペイン船の来航やキリスト教宣教師たちの渡来が多くなり、それにともなって、キリスト教とともに科学知識や数多くの文物がもたらされ、その中には世界地図や地球儀も含まれ、これらは権力者であった織田信長、豊臣秀吉や徳川家康などに献上された。ローマへ少年遣欧使節を発案した宣教師ワリ・ニアーニも帰国後、1591年に豊臣秀吉に謁見し、その際ヨーロッパから持参した世界図を献じている。それはオルテリウスの1570年版アトラスであったといわれている。徳川家康はキリスト教に対して強い関心を持っていなかかったとはいえ、通商貿易に対しては強い関心を有し、その姿勢で南蛮人を扱った。ヨーロッパ人の渡来に伴って庶民の間にも世界意識が高まり当時の美術や風俗に南蛮趣味が流行した。世界図屏風も作られ、江戸時代に入るといろいろな屏風図が作られた。原図をかなり忠実に写したものもあれば、装飾性を高めるために図形を意識的に崩して濃淡を施した華美なもの、あるいは世界の人物図や都市図が附属したものなどデザインも様々である。ただ例外なく日本とその近隣だけはヨーロッパの原図によらず、当時の日本人が有していた知識で書き改められている。
 織豊時代から鎖国に至るまでの江戸初期の約30年間は朱印船貿易時代と呼ばれるように、海外交通の最盛期を迎え、多くの貿易商人が輩出した。朱印船も安南(ベトナム)、ルソン、カンボジア、シャムなどの諸国をはじめ遠く南洋諸島方面にまで航行し、これらの地方には日本人町も発達した。これらの朱印船はポルトガル人やオランダ人などをパイロット(水先案内人)として雇ったので、彼らによってヨーロッパの航海術やポルトラーノ型海図が伝えられた。
 そのうちヨーロッパ製の海図以外のものは朱印船の航海者たちがヨーロッパ製の海図を原図にして、皮革か厚手の和紙に詳細に模写したもので、外国地名も多く仮名書きされ、日本の周辺だけは日本人の知識によって書き改められている。17世紀になると、日本だけを表したポルトラーノ型海図もみられる。すでにポルトラーノ型海図の作成に熟達していた日本の航海者によって、日本の沿岸航海用に作られたものである。日本の図形はよく整い、海岸線の細部などは実際に近いものとなっている。世界図としては1465年頃作成された万国総図(作者不明)がある。上流社会に流行した世界図屏風に対して、庶民の世界知識の啓蒙を目的として刊行されたものである。
 鎖国が行われて以降の日本における世界図の作成は停頓し、代わって日本国内各地を表わした地図の作成が精密に行われた。

ページトップ