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弁護士 堤 淳一

2009年01月01日

太平洋の覇権(7) ああ、英仏百年戦争 -----その歴史的意味(その1)

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

前回までの掲載誌
太平洋の覇権
  1. ―地理上の発見の時代 ・・・・・・・・・・・・・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"No.50(2007.4.20)46頁
  2. ―スペイン/ポルトガルの衰退 ・・・・・・・・本誌11号(2007.8.25)8頁
  3. ―日本の鎖国 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・同"BAAB"No.51(2007.10.31)18頁
  4. ―世界システムの形成 ・・・・・・・・・・・・・・・本誌12号(2007.8.25)9頁
  5. ―スペイン、イギリスそしてオランダ・・・同"BAAB"No.52(2008.7.1)○頁
  6. ―世界地図の発達・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本紙13号(2008.8.8)6頁

なお以上の記事は若干の補訂を加えて当事務所ホームページ(https://www.mclaw.jp)に発表してあるのでご覧いただければ幸いである。

イギリス前史

 古来イギリスには多数の異なる民族が移住してきた。最初の大規模移住民族は紀元前5世紀頃からイベリア半島から移り住んだケルト族である。その後紀元前55年にカエサルの軍団がガリア地方(西ヨーロッパ)から渡来し、5世紀初頭頃までブリタニアと呼ばれていたグレート・ブリテン島を統治し、ローマ帝国の支配に編入した。次いで4世紀に始まるゲルマン民族の大移動の終点として、5世紀半ば頃にアングロサクソン人が北海から侵入し、イングランド地方に7つの王国(ケント、エセックス、サセックス、ウエセックス、イースト、アングリア、マーシャ及びノーサンブリア)を成立させる。829年にはそのうちのウエセックス王エグバードが初めてイングランドを統一した。折からデーン人(デンマーク)が侵入し、一時アルフレッド大王(エグバードの孫)により撃退されたが、1016年以来イングランドはデーン人であるクヌート王によって支配された。

 1066年に史上に名高いノルマン・コンクエストが起きる。ドーヴァー海峡の対岸であるノルマンジーから来たギョーム公がデーン軍(ハロルド王)をヘイスティングにおいて打ち破り、勝者となったノルマンディ公が1066年にウイリアム1世として即位するのである。

ノルマン人による征服

 ノルマンディ公国の祖はロロと言い、北方から大陸に流れ着きフランスを荒らしまわったヴァイキングの首領であり、イングランドを支配していたデーン人と同系にある。大陸には西フランク王(後のフランス王家)と言う権威があったところからロロは当時のシャルル3世に臣下として懐柔され、ノルマンディ(北の人の土地)と呼ばれる土地を正式に与えられて定住、通婚、キリスト教の受容を経てフランスに同化した。
 イングランドに侵入したのは6代目のノルマンディ公ギョーム2世であるとされる。

 1066年9月28日のことである。 ギョーム2世はイングランド王位の継承権は自分にあるという主張を力づくで押し通すため110キロの海峡を押し渡り、ドーヴァーの南西65キロの地点にあるペヴェンシー沖合に1,000隻とも3,000隻とも言われる帆船を揃えた。うち700隻は軍艦であり、7,000の兵が浅瀬に飛び降りてイングランドに上陸した。軍船は横帆一枚で船首と船尾が同じように反り返ったヴァイキング型の長艇であったであろう。
 ギョ-ムの艦隊はプレハブ式の砦を運んできた。ノルマンの征服以前にはイングランドには殆ど城と言えるものはなく、イングランド全域で5~6を算えるのみであったという。運ばれてきた3,000頭の軍馬は接近戦闘において威力を発揮した。
 上陸したノルマン人たちはたちまちのうちにデーン人を駆逐し北方へ追いやったが、後にこの追い払われた民族がアイルランドとスコットランドを形成するようになり、今日におけるアイルランド問題のもととなった。

 こうしてギョーム2世はウイリアム1世となり、ここにイングランドに「ノルマン朝」という主権的な国家が築かれた、と言うのが公式的な歴史のようであるが果たしてそうであったかといえば疑わしい点も多々ある。
 新しくイングランドの征服者となったノルマンディ公ギョームは海の向こう側にあるイギリスに王国を得てからもノルマンディに本拠を置くフランスの大豪族でありつづけ、イングランド内の反乱を鎮圧する時のほか、殆どイングランドを訪れてさえいない。要するにイングランド王国など王国という名のついた(ノルマンディ公国の)植民地にしか過ぎなかった。
 何のことはない、イギリス人にとっては不本意かもしれないが、「征服王ウイリアム(ギョームの英語名)」William the Conquerorはもとをただせばデーン人を祖とするフランスの一豪族なのである。更に言えばノルマンディ公家とフランス王家とは大陸の覇権を争うライバルだったのである。

封建制について

 侵攻したギョーム軍は土着の貴族たちの土地を片っ端から領有し、そのおよそ5分の1を王領として手元に残し、その余の土地はフランスから連れてきた家臣(直臣は11人程度といわれる)に分け与え、その見返りに彼らの忠誠を求めた。直臣は与えられた土地を「再下封」によって下位のものに分け与え、彼らの「王」となった。ノルマンからの侵入を支持した教会は、王への奉仕と引換に引き続き領地の保有を認められた。
 こうして「ウイリアム1世」が即位する前までに、後に封建制と呼ばれるようになる制度が形作られていた。これはギョームが大陸で経験したこの社会政治形態に慣れていたからでもあったが、こうした形態が統治の方法として好都合だったからでもある。

 封建制とは主君と家臣とが契約し互いに義務を負うことによって成立する。主君と家臣が土地を支配し、そこから生産される富が封建制を支えた。土地を所有するのは主君(王、領主)であり、主君は家臣に土地や支配を与え、家臣はその見返りに奉仕(主として軍事的な)を受け持つ。家臣は自ら土地を耕作するわけではなく、一定の条件のもとに小作人に耕作を委ねた。
 このような政治形態は形を変えて、フランス、ドイツ、東洋においては日本において行われた。後に資本主義がこうした形態をとる国ぐにに生まれ、封建制をとらないロシア、中国(及びその衛星国)、インドなどの国においては資本主義の発達が大いに遅れたことは実に興味深い。このことについては追いおい言及することになるであろう。

 フランスにあっても西ローマ帝国の分裂以来諸地域には諸公侯国が乱立し、相続と通婚、そして様々な損得打算のうえにたってそれぞれがそれぞれの思惑から離合集散し(あるいは滅亡し)て行った過程における寄り合い世帯であった。その過程の中において「フランスらしきもの」が形成され、その中核となる一族を周辺の国が推戴してまとまりを得て行った。従ってフランス王家といえども公侯国に対しては、共同の敵との戦いに要する軍事費を除き課税等の負担をなしえず、「フランス」といっても緩やかなまとまりを持つにすぎなかったのである。封建制とはそうしたものである。

プランタジネット朝

 このような契約にもとづいて成立する「臣下」が、「主君」よりも広大な領地を領有する例が生じた。そのような一例としてアンジュー伯家がフランス王家を凌いだ話を挙げよう。アンジュー伯家はフランスの中央やや北西にあってフランス王家に臣従していたが、ジョフロワ伯の時代(12世紀のはじめ頃)に伯がノルマンディ公家の令嬢マチルドと結婚したことにより、イングランドにあったイギリス王家を手に入れ、ジョフロワ伯が歿すると、相続人の一人であるアンリは父伯の所領であったアンジュー、メーヌ、トゥレーヌを手に入れ、1154年にはイギリス王(ヘンリー2世)となった。そしてアンリはアリエノール・アキテーヌと結婚したことにより(アリエノールの前夫はフランス王ルイ7世であり「結婚の無効」により離婚し、アンリと再婚したのである)、アリエノールの実家であるアキテーヌ公家をも所領に加えた。こうしてアンリは北のスコットランド国境から、南のピレネー山脈にまで至る大版図を確保する巨大勢力となった(第1図参照)。

 このようにして成立した王家をアンジュー帝国、もしくはイギリスにおいてはプランタジネット朝と称するが(ジョフロワ伯が、フランス語ではプランダジュネという「エニシダ」(第2図参照)の枝を帽子に差し、これが公家のニックネームとなっていた事から転訛した名称)、アンジュー帝国の成立をめぐる一連の事実は「フランス人」と「フランス人」の通婚及び相続の結果であったのである。

百年戦争のはじまり

 14世紀から15世紀半ばまでヨーロッパ大陸に生じ、後に英仏百年戦争と呼ばれる長い戦いの目的は一貫してフランスの王位継承にあった。戦いの間にはフランドル地方に発端する羊毛の貿易、ボルドー地方における葡萄酒をめぐる経済問題などが焦点となった時期もあるけれども、何と言ってもフランスの「支邦」としてのイギリス王家(ヘンリー2世を祖とするプランタジネット朝及びヘンリー4世を祖とするランカスター王朝)が、本家筋であるフランスの王位(フィリップ6世を祖とするヴァロア朝)の承継を、ことある毎に要求し続けたことを本質とする。「英・仏」百年戦争はあくまでも「フランス問題」なのである。
 百年戦争は、1337年にイングランド王エドワード3世がフランス王フィリップ6世に奉げた臣下の礼を撤回し、自らがフランス王たることを宣言し、フランス王に公然に挑戦状をを突きつけたことに始まり、1453年フランス王軍がボルドーを陥れ、ブランタジネット王家領であるアキテーヌ地方を奪還したことを以て終わる、とするのが通説であるが、1329年(フランス軍によるアキテーヌの押収)から1475年(ピキティ条約によりイギリス王エドワード4世がここから撤退を約した)までとするなど、異説もいくつかある。

百年戦争はイギリス王家は二代(プランタジネット朝8代の王位、ランカスター朝3代の王位)、フランス王家はヴァロア朝5代の王位に亘った長い戦いであるが、戦闘は何回かの休戦期間を含んで間歇的に行われ、間断なく戦いが継続していたのではない。

アンジュー帝国の失地

 既述の通り、フランスといい、イギリスといい、中世においては国家というものに対する意識はなく、それぞれの家門と領地の繁栄のみが優先した。王家の都合など時と次第によっては知ったことではない、というのが臣下の本音であったといっても過言でない。諸侯・貴族はその利益を害されたときは王家に戦を仕掛けたりもする。。封建制というのはそうしたものである。アンジュー帝国がいかに巨大であろうとそれはそれはたんなる土地の集合にとどまった。
 アンジュー帝国の中にも分裂と内紛が生じ、大陸にあるイギリス領の伯侯たちとの通謀などの効果としてフランスが介入し、アンジュー帝国の3代目であるジャン王(英名はジョン)の時代にフランスのフィリップ2世はアンジュー帝国が大陸に有していた領地の征服に踏み切った。ジャンは後に「失地王」と呼ばれる程に領土を奪われた。
 戦いの結果として1259年にパリ条約が締結されアンジュー家はフランス王(フィリップ2世)からガスコーニュ(南アキテーヌ)の領有を認められる代わりにノルマンディ、アンジュー、メーヌ、トゥレーヌ、ポワトゥー(北アキテーヌ)を放棄することを認めさせられた。

 こうして、プランタジネット家はイングランドに渡ることを余儀なくされ、今までは海外植民地であった島国に冊封されることになる。不本意であったろうがここにイングランドをイングランドとして認識する素地が生まれた。

エドワード3世の挑戦

 しかし、海を渡ったプランタジネット王家は、イングランドに籠もりきりになっていたわけではない。1338年にフランス王フィリップ(シャルル)4世が歿すると、従兄弟のシャルル・ド・ヴァロワ伯がフィリップ6世として即位し、ヴァロア朝を開くが、王位の承継にイングランド王エドワード3世が異議を唱えた。エドワード3世はフィリップ4世の娘イザベラの血統であることを主張したのである(イザベラは父王エドワードと結婚し、エドワード3世を産んでいる)。しかし、エドワード3世は諸侯を説得できず、結局フィリップ6世に臣下の礼をとった。

 ところでフランスの北東部にフランドルと呼ばれる地域があり、11世紀頃からイングランドから輸入する羊毛を織物に加工して、ヨーロッパの経済の中心となっていた。この地域は後にネーデルランドと呼ばれる地帯であるが、当時イングランドとも貿易を通じて関係が深かった。この地帯を1300年にフランスが併合した。これに対し、フランドルの都市勢力が反乱を起こし1323年には親フランス政策をとったフランドル伯が追放され、1328年にフィリップ6世はこれを援助して復位させるなど政情は混乱していた。

 一方、イングランド王国は13世紀頃からグレート・ブリテン島の統一を図るべく北部のスコットランドの征服を度々試みていたが、1329年エドワード3世は大規模な軍事侵攻を行ない、スコットランド王ディビットを放逐し傀儡としてエドワード・ベイリアルを即位させた。ディヴィットはフランスの庇護を求めて渡仏し、フィリップ6世はエドワード3世によるディヴィッドの引渡を拒んだ。

 この問題をめぐってイングランドとフランスの緊張は高まり、事態を打開しようとするローマ教皇の仲裁も奏功せず、ついに1337年5月にフィリップ6世はイングランド領ガスコーニュ領の没収を宣言した。エドワード3世は同年10月にフランス王家への臣下の礼を撤回すると共に自らがフランス王位の正統な継承者であると宣言した。エドワード3世軍は1338年にフランドルに上陸し、1339年にはフランス王領にも侵入を始めたが、フランス軍はイングランド南岸に艦隊を派遣して攻撃し制海権を確保し、フランドルに増派されたイングランド艦隊と対決する。しかしイングランド軍は軍資金に枯渇し一時休戦となった。

フランスの大敗

 ところが、1341年にブルターニュ公領に相続問題が発生した。公位要求者であるモンフォール伯はイングランド王をフランス王として認めることを以て地位の安堵を求めたが、フィリップ6世はこれを認めず軍勢を出した。こうして始まったブルターニュ継承問題は1343年にローマ教皇の仲裁によって収まったが、イングランド王エドワードはこの機を逸せず、休戦期間の満了を待ってノルマンジーに上陸し、1346年以降侵攻を開始する。フィリップ6世はこれを同年8月26日クレーシーに迎撃するが、イングランド軍に大敗する。大軍4万を擁するフランス軍は寄せ集めで指揮系統が乱れ、フランス軍の騎兵はイングランド軍の長弓兵(歩兵)によって完敗したのである。イングランドがフランスに比べてコンパクトではあるが「くに邦」としてのまとまりを得つつあったことの効果であろうか。「征服王ウィリアム」が国中の領主や貴族をフランスから連れてきた者たちによって総入れ替えにしたためイングランドには「外様」がおらず、既述のように王が長く不在であったこともあいまってイングランドは君主個人に依存ないし効率的な政治形態へと変貌していたのである。
 1350年にフィリップ6世が歿し、長子であるノルマンディ公ジャン(2世)が即位する。イングランド軍との戦いはローマ教皇の仲裁(1347年)と黒死病の流行によって鈍り、恒久的な平和条約が模索された。

 フランス王はイングランドの関係復活を認める代わりにフランス王位の要求を断念することを提案したが、エドワード3世はこれを拒否し、1356年息子のエドワード黒太子(黒の甲冑に身を固めた百年戦争のスター)が率いるイングランド軍はボルドーを発進し再び侵攻を開始した。1356年6月、アキテーヌ領地のポワティエにおいて黒太子軍とジャン2世のフランス王軍が激突し、またもフランス軍は大敗し、王はイングランド軍の捕虜となった。

三部会及び国王課税

フランス本国においては王位代行者となったシャルル王太子は軍資金と、捕虜となったジャン2世の身代金を調達するため、いわゆる三部会(第一身分=聖職者、第二身分=貴族、第三身分=平民の各代表で組織され、国家の施政に助言と同意を与えるものとして1302年にフィリップ4世によって創始されたとされる代議機関)をパリにおいて開催したが、パリの商人頭(事実上のパリ市長)エティエンヌ・マリセルの台頭により紛糾した。敗戦の影響は大きかったのである。そこでシャルル王太子は保守色の濃い近隣諸都市において別の三部会を招集し、パリを包囲して入城し、力を回復した。シャルル王太子はジャン2世が捕虜のままロンドンで歿するとシャルル5世として即位する。シャルル5世はフランス王家直轄領からの年貢による税制を改め、勢力の及ぶ公・伯領に「国王課税」を施す方式に改め、歳入を飛躍的に伸ばすことに成功した。そのため後に「税金の父」と呼ばれる。
 この間、イングランドとフランスの間には間歇的に和平交渉が行われ、また通婚を通じての外交も展開されたが戦いもまた繰り返された。

 1336年にシャルル5世はイベリア半島のカスティーリヤ王国から亡命したエンリケを援け、国王に推すため軍を派遣し、これを成功させたが、これによって追放されたペドロ1世はイングランドに加勢を求め、ここにイングランド軍とフランス軍の衝突が起き、結果としてペドロ1世は復権を果たした。エドワード3世のスペイン出征は多額の戦時負債を生じ、その負担を押しつけられたガスコーニュ(アキテーヌ南部)諸侯の怒りを買い(アキテーヌはイギリスに完全に臣従してはいなかったのである)、法律論争となった。提訴を受けたパリ高等法院に黒太子が出頭しなかったため、シャルル5世はそのことを理由にフランスにあるイングランド領を没収し、戦火は熄むことはなかった。
 戦いは1372年から75年にかけてフランス軍優位のうちにすすみ、短期の休戦が合意されたものの、イングランドの王家首脳(エドワード3世と黒太子)が相次いで死亡したため和平条約は締結に至らなかった。

英仏の内憂

イギリスにおいては、幼少のリチャード2世(エドワード黒太子の息子)が即位し(1377年)、これを補佐するため諸侯による評議会が設けられたが、戦費調達のための人頭税課税をめぐる反乱が生じ、王は親政を宣言する。しかし寵臣政治に墜したため、議会は王の閣僚の解任を求め、王も親フランス派を処刑し、かつ、議会派との亀裂が深まるなど内政は混乱を極めた。ついに1399年に議会はリチャード2世を逮捕しヘンリー4世が即位する(ランカスター朝の成立)。

 一方、フランスにも政情不安が生じていた。シャルル5世が歿し(1380年)、幼少のシャルル6世を後見した諸侯(アンジュー伯、ブルボン公、ブルゴーニュ公ら)は国王課税の私物化を図った。シャルル6世は親政を宣言し、これに与する官僚派(オルレアン公ルイを首班とする)と後見派との間に深刻な対立が生じ、1392年シャルル6世は精神錯乱に陥るなどフランスの政情も大混乱に陥り内乱状態となった。その結果、両派(オルレアン派(後にアルマニャック派) と、ブルゴーニュ派)がともにイングランドに接近する。

イングランド軍の再侵攻

しかし1411年にブルゴーニュ派に請われたときも、また1412年にアルマニャック派に請われたときもヘンリー4世の軍隊派遣は小規模にとどまった。ところが1413年にヘンリー4世が歿し、ヘンリー5世が即位すると、若さも手伝ってヘンリー5世は好戦的性格を露わにする。1414年に彼はフランスに対し、プランタジネット朝、更には遡ってノルマン朝の正当な承継人であるという地位までも主張し、パリ条約も何のその、旧領をフランスから奪還することを宣言し、1415年8月ノルマンディ北岸に軍隊を上陸させた。

 フランス側は内紛状態にあって、イングランドの助けを求めていたアルマニャック派、ブルゴーニュ派の両派ともに、いずれにも加勢するわけではないイギリス軍の侵攻に適切に対応できず、1415年10月25日、アルマニャック派が寄せ集めで編成した5万のフランス王軍と12,000のイギリス侵攻軍とがアジャンクールにおいて激突した。軍紀の緩んでいたフランス軍はまたもイングランド軍の長弓兵と騎兵の前に大敗する。アジャンクールの大敗によってアルマニャック派は多くの将星を失い、その衰退を招いた。

 ブルゴーニュ派はこの機に乗じ、1418年に王太子シャルル以下のアルマニャック派を追放し、フランス政府を組織するが、領内におけるイギリスの跳梁には依然として有効な手を打てなかった。ブルゴーニュ公ジャンはイングランドの意図を下算していたのかどうか親イングランドの姿勢をとるが、パリ入城をも窺わせるイングランド軍の侵攻に慌ててアルマニャック派のシャルルに接近するが、シャルルは配下をしてジャンを殺害してしまう。そのためブルゴーニュ家を相続したフィリップ公はイングランドと手を結び、1416年12月イングランド・ブルゴーニュ同盟を締結する。

 ところでブルゴーニュはよくある政略結婚の結果として飛地のような位置にあるフランドルをも統治していた。即ち1369年ことであるが、ブルゴーニュ公フィリップはフランドル伯女マルグリッドと結婚し、フランドル公ルイの死後マルグリッドは一人娘の女相続人であったことからフランドル家を相続し、夫であるブルゴーニュ公はフランドル家を妻と共に共同統治することになったのである。こうした関係でブルゴーニュ家がイングランドと同盟したことによってフランドル家もこれに自動的に参加することになった。

トロワ条約

 この同盟の影響は甚大であった。ブルゴーニュ公フィリップはフランス政府を掌握している以上、親の仇であり、発狂していたシャルル王の名を自由に使うことはたやすいわけで、イングランド・ブルゴーニュ同盟のもとにおいて戦争に決着をつけることは容易であった。
 1419年から始まった和平交渉は1420年5月21日、トワロ条約として結実する。その内容は①仏王シャルル王位の安泰②シャルル6世は王女のカトリーヌと英王ヘンリー5世の結婚に同意する、③ヘンリー5世はシャルル6世の息子となり、フランスの相続人となる、④シャルル6世の歿後イングランド王国とフランス王国は統合され、ヘンリー5世およびその承継人によって支配される、⑤以後においてもそれぞれの王国においてはそれぞれの権利、独自の自由・慣習及び法が尊重される、⑥アルマニャック派の王太子(シャルル)を廃嫡とする、というもので、これをもって百年戦争(仮に百年戦争前期という)は一段落を告げる。

ナショナリズムの萌芽

 百年戦争前期の経過を通じて窺いうることは戦費の調達を通じ、王家が商人その他の平民階層の持つ経済力に頼らざるをえなくなり、王家の力が相対的に低下する契機となったこと(フランスにおける三部会の影響力の増大、イギリスにおける議会の力の増大など)、税金(国王課税)の思想が生まれたことなどであるが、最も印象的なのはナショナリズムが英・仏両国に生まれたことである。
 即ちそれまでは戦争といえば王家の戦争であったものが、いまや誇張していえば王は誰でもよくなり、「イングランド」がイギリス国になり、フランスがフランス国へとまとまり、戦争の形も「イングランド」が大陸を侵攻するもしくは「イングランド」がフランスを服従させるという意識(後年になって生まれる国民国家意識)が芽生えはじめたということであろう。

百年戦争後期については次回に述べよう。

(未完)

〈参考文献〉(今回参考にしたもの)
  • 佐藤賢一「英仏百年戦争」集英社新書№0216(集英社、2003)
  • ジョセフ・ギース、フランシス・ギース(栗原泉訳)「中世ヨーロッパの城の生活」講談社学術文庫№712(講談社、2005)
  • アッティリオ・クカーリ、エンツォ・アンジェルッチ(堀元美訳)「船の歴史事典」(原書房、2002)
  • 小林幸雄「図説イングランド海軍の歴史」(原書房、2007)

〈地図及び挿画製作〉高橋亜希子(丸の内中央法律事務所)

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