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弁護士 堤 淳一

2009年03月31日

太平洋の覇権(8) ああ、英仏百年戦争 -----その歴史的意味(その2)

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

王の早すぎた死、遅すぎた死

トロワ条約の締結により一段落を告げた観がある百年戦争はそう簡単に幕を降ろしたわけではない。フランス王シャルル6世の発狂は広く知られていた事実であり、かりそめの和解であったというより、誰かの画策によるのではないかと感じられる。
 アルマニャック派と、トロワ条約によって廃嫡とされた王太子シャルルが条約の無効を主張した。アルマニャック派はパリを追われながらもなおフランス中央部から南部(英領アキテーヌを除く)にかけて勢力を維持していた(北部はブルゴーニュ派の勢力圏)のである。条約によってシャルル6世の嗣子となることが決められていたイングランド王ヘンリー5世は摂政としてアルマニャック派の掃討に着手するのであるが形勢有利と見えた矢先、享年34歳在位9年にして病気(赤痢といわれている)のため歿してしまう。1422年8月のことである。ところが歴史の偶然か、同じ年の10月フランス王シャルル6世が53歳で歿する。シャルル6世の歿後、英仏二重王国の承継者に指定されていたヘンリー5世が黄泉に旅立ち、イングランド王シャルル6世の逝去がそれに遅れること2ヵ月とあってはトロワ条約が前提とする王の死没の順序が逆になり、条約は骨抜きになってしまった。かくてその動揺の間、アルマニャック派であった王太子シャルルはヘンリー5世の嗣子が前年の10月に生まれたばかりの嬰児であったことを衝いて素早く即位を宣言してフランス王シャルル7世を称した。

他方イギリスはといえば、ヘンリー5世の嗣子を伯父たちが推戴して、11月11日に「イングランド王兼フランス王ヘンリー6世」として即位せしめた。
ヘンリー6世のフランス摂政となったベッドフォード公ジョンは慎重な文治派であり、外交に注力し、まず自分がブルゴーニュ公フィリップの上の妹(アンヌ)と結婚し、下の妹マルグリットとアルテュール・リッシュモン(中立勢力であったブルターニュ公ジャン5世の弟)を結婚させるという二重結婚により、イングランドを引きつけようとしたが、ブルゴーニュ公はフランドル政策に没頭してアルマニャック派の掃討どころではなく、ブルターニュ公は中立を維持し続け、利朱門は逆にアルマニャック派に接近してフランスの大元帥に就任するなどベッドフォード公の策略は奏功しなかった。
 他方ヘンリー6世のイギリス摂政となったブロスター公ハンフリーも、スコットランドの脅威に対抗するためと称してフランス政策に消極的であった。
 前号に述べたように既にナショナリズムが発生していたこの時代に英仏二重王国などという政策は結果をみればもはや時代錯誤に陥っていたのである。

オルレアンの蹉跌

それはさておきベッドフォード公は占領地であるノルマンディーの行財政改革に注力することにつとめ、軍費調達のために三部会を開催し、安定した財政のもとにやがて来るべき戦いに慎重に備えていた。
 他方シャルル7世はスコットランド、カスティーリャと伝統的な友好国と同盟関係を固め、さらに、オルレアン公家、アンジュー公家、ブルボン公家、アランソン公家という親王家や、アルマニャック伯家、フォア伯家及びコマンジュ伯家という、アキテーヌで反イングランド王の立場を取るガスコーニュ勢まで参陣して、イングランド王が兼ねるフランス王より、よほど正統たるべき体裁を整えていた。
 しかし、シャルル7世は人柄からして優柔不断で無気力であり、一向に積極的な攻勢に転じようとはせず、またイングランド摂政ベッドフォード公の堅実な施政ともあいまって、両王位の即位から数年は小競り合いだけの膠着状態が続くにとどまった。

ところがイングランド側が動いた。1428年10月、ベッドフォード伯の態度にいらだつ主戦派のウォリック伯とソールズベリ伯が強引に軍を動かしてオルレアンに包囲陣を敷いたのである。ノルマンディに強固な支配を築き、メーヌの制圧も進めたかったベッドフォード公としては、アンジュー、トゥーレーヌ、ポワトゥーへと面の支配を丁寧に拡大したいところだったが、他方一気にロワール河まで前線を押し上げて、彼方のブールジュに侵攻すべきであり、リスクはあるがそのほうが戦争の進展は早い、占領地行政はその後に整えればよい、いうのが、ウォリック伯とソールズベリ伯ら主戦派の意見だった。

こうしてロワール河の北岸にあるオルレアンの包囲作戦が強行されたのであるが、オルレアンはもし陥落すればアルマニャック派の命脈は尽きるというほどに重要戦略拠点であった。
 ところで後世になってクラウゼ・ヴィッツが言うように、また20世紀になっても通用するように、包囲作戦は敵の3倍から5倍の兵力を必要とし、現代では持久よりも大兵力の集中とその一挙投入による方法が好ましいとされるに至っている。イングランド軍はオルレアンを包囲して持久戦に持ち込みオルレアンの衰弱を待つという戦術を採ったが包囲網は薄く、結果として兵力が分散されてしまったため、今一歩のところでオルレアンを陥落させることはできなかった。

ジャンヌ・ダルク

ここにおいて劇的な変化を及ぼしたのがジャンヌ・ダルクの登場というわけである。
 後に聖女となるジャンヌ・ダルクはシャンパーニュとロレーヌの境界にあるドムレミの農家の娘と伝えられ、1429年3月にシャルル7世との会見を果たし、そのまま軍勢を与えられてオルレアンに入城したとされているが、余りにも出来すぎの感があり、そのため背後に策謀(宮廷の自己演出)があったとする説もある。
 いずれにせよジャンヌ・ダルクは同年3月に糧秣も尽きかけ陥落寸前のオルレアンに入城した。いくつかある城門の一つであるブルゴーニュ門のみが封鎖を免れており、ここから入城したジャンヌ・ダルクは甲冑に身を固め、「天空に座する救世主と百合の花を掲げる天使」が描かれた三角旗をかざして軍兵の士気を鼓舞した。

包囲奪還の戦術は、薄く広がるイングランド軍包囲網の拠点(砦)を逐次陥落させてゆくという単純なものであった。包囲拠点には少数の兵が守備するにとどまったから、これに対し大きな兵力を集中させて各個撃破することは兵理に適ったものといえた。フランス軍は劣等な軍勢から成り立っていたわけではなかった。従前苦戦を強いられた主因は、統帥が行きわたらず戦意が不足していたことにあった。
 ジャンヌ・ダルクは後に魔女裁判によって処刑されるぐらいであったから、カリスマ的な要素を十分に備え、フランス軍の中にナショナリズムの火を灯し兵士の戦意を狂おしく高揚させたのであろう。そこにジャンヌ・ダルクの功績が認められる余地がある。

次々に砦を陥されたイングランド軍は5月8日にオルレアンから撤退し、6月18日にパテ―の戦いで大敗北を喫する。フランス王家はその勢いをかってシャンパーニュのランスまで北上し、シャルル7世は戴冠を行う(フランス王の戴冠式は伝統的にランスで行われた)。
 その後戦いはパリの奪還(イギリス色が濃い)に移るのであるが、市民兵を主力とするパリの守りは堅く容易に陥落しなかった。その後もジャンヌ・ダルクは各地を転戦するが戦局は容易にフランスに好転せず、1430年5月コンピュエーニュの戦いでブルゴーニュ公の軍勢によって捕虜にされる。身柄はイングランド摂政ベッドフォードに引き渡され宗教裁判にかけられ1431年5月に焚刑に処せられる。異端尋問においてジャンヌ・ダルクは「フランスを救え」と叫び、「おまえは神にフランスを救えと命ぜられたというが、神はキリスト教徒のいずれを選ぶものではない。イギリスを救えとは命ぜられなかったのか」との審問官の問に「そうは命じられなかった」という答弁によって推測されるように、彼女は国王に仕えたというよりも、「フランス人」なかんずくフランス庶民の心を代表したように思われる。

アラスの和平

1431年以降戦線が膠着し、水面下における外交が活発に行われ、同年12月6日にシュールで行われた会談においてフランス王シャルル7世とイングランドの同盟者であるブルゴーニュ公フィリップは6年間の休戦に同意した。
 イングランド側はブルゴーニュ公の背反を、さきに行われたシャルル7世がフランス国王として戴冠した影響だと考え、こちらも、とばかりパリのノートルダム大聖堂においてヘンリー6世の「フランス王」としての戴冠を行うことで対抗するが、政治的に大きな影響力をもたらすには至らなかった。
 シャルル7世はこの機にブルゴーニュ公をイングランドとの同盟から引き抜こうと画策した。ブルゴーニュ公が妹をベッドフォード公に嫁がせたことは既述したが、そのアンヌが死没したことも、また下の妹(マルグリット)の夫であるリッシュモンがシャルル7世の大元帥になったことも、イングランド王家とブルゴーニュとの繋がりを薄くした。

1435年8月にアラスにおいて、フランス王家、イングランド王家、ブルゴーニュ公家の三者間で平和会議が開催された。席上イングランド王家は、「フランス王であるヘンリー6世」の封臣としてシャルル7世がフランス王国の南半分を差し出すこと、という途方もない案を提出したため決裂し、イングランド王国摂政のベッドフォードが9月14日に病死すると、たちまちのうちに(9月21日)ブルゴーニュ公は単独でフランス王と講和してしまった。「アラスの和平」の実現である。

シャルル7世は講和条件として賠償金の支払、領地の割譲、臣従礼の終身免除、さきにフィリップ公の父ジャン公を暗殺した犯人の処罰等、ブルゴーニュ側に多大な譲歩を余儀なくされたが、その見返りに得たものは途方もなく大きかった。即ちブルゴーニュ公をシャルル7世になびかせ、このことによってイングランドとブルゴーニュとの同盟を崩壊させることができたからである。そうだからといってすぐに目先の支援が得られたわけではないにしても、最大の諸侯であるブルゴーニュ公をして自らを「フランス王」として認めさせることができたことは華々しい外交成果である、とシャルル7世は満足に思った。
 こうしてシャルル7世の威勢は高まり、アルマニャック派に敵対し、ジャンヌ・ダルクの軍勢に堪え抜いてイングランド側についていたパリもついに1436年、リッシュモン元帥の軍門に降った。

シャルル7世の軍隊整備

しかしイングランド王家の占領地は引き続き広い範囲にわたっていた。ノルマンディ、アキテーヌは健在であった。アラスの和平後、シャルル7世は一気にイングランド軍の討伐に打って出ることはせず、パリを陥したあとノルマンディの辺境に迫った。1442年には南に転じてアキテーヌの北辺を侵し、アキテーヌの南部においても要衝を落としてアキテーヌを挟撃した。
 1444年5月シャルル7世とイングランドとの間に暫定的な休戦条約(トゥール休戦条約)が締結されたが、シャルル7世はこれを無視して軍を進め、1448年3月にル・マンを占領した。こうしてノルマンディとアキテーヌを鉄環をもって締め上げ、シャルル7世は来るべきイングランド軍との決戦に備えた。

シャルル7世は1439年10月から11月にかけてオルレアンに全国王部会を招集した。ここにおいて外敵を追放するために軍を新編・再生させること、軍費調達のために国王課税を復活させることが宣言された。
 前にも書いたが、シャルル7世の祖父であるシャルル5世は1355年に国王課税を「発明」した。シャルル7世は祖父の例にならったともいえる。そういえば、傭兵隊の跳梁もシャルル5世の時代に似ていた。シャルル5世はポワティエの会戦後に解雇され、就職の見込みもなくなり、市民に略奪をほしいままにしていた浮浪傭兵をデュ・ゲクラン大元帥に授け、スペイン遠征に向かわせた。
シャルル7世の治世下においても浮浪傭兵対策は王を悩ませる問題であった。シャルル7世は祖父と異なり北方のロレーヌ地方に起きていた都市勢力の反乱鎮圧に傭兵を用いた。そして反乱鎮圧後に良兵を選抜して常備軍(「勅令隊」)に編成しなおし、その費用を駐屯地の負担とした。また各地の諸侯に対し、その備える軍勢を名簿に登録させ、これを予備役として編成、平民に対しても全国教会区毎に1人の兵を供出させ「国民弓兵隊」を組織した。

決戦

1442年にブルターニュ公に即位したフランソワ1世は20年ほど前にはイングランドのための好意的中立の姿勢をとっていたブルターニュ公国の姿勢を次第にフランス寄りに改め、シャルル7世のフランス王たる地位を認め臣従するようになった。これを快く思わないイングランド王家はブルターニュのフジェールを占領する暴挙に出た。これを好機ととらえたシャルル7世は封臣の利益の侵害とばかりこれを口実にトゥール休戦を破棄し、1449年8月イングランド王家の牙城であるノルマンジーへ大軍を進め、東部方向軍(ウー伯とサンポル伯)、中部方面軍(デュノワ伯)、西部方面軍(フランソワ1世、リッシュモン大元帥)を三方面から同調させ、同年11月にルーアンを包囲、陥落させた。
 イングランド軍はシェルブールに上陸し逆襲を試みるが、1450年4月にフランス軍の前に敗れる。その後7月から8月にかけて、フランス軍は各地にイングランド軍を敗り、約1年でノルマンディーはフランス王軍に征圧された。勢いを駈ったフランス軍は南転してアキテーヌに侵入し、10月に北部のベルジュラックを陥れ、1451年1月以降ボルドーを包囲し、6月19日に陥落させたが、1452年10月、イングランド軍に奪還された。しかし、フランス軍は1453年7月、カスティヨンの会戦において大勝し、10月19日に至り、ボルドーを再陥落に至らしめ、ここに百年戦争はフランス大勝という結果に終わった。

各地の反乱

最大の外様勢力であったイングランド王家はこうしてフランスからの撤退を余儀なくされた。しかしフランス王にとってはフランス全土征圧が終わったわけではない。内部勢力にあって対立する勢力との対峙が残っていたのである。
 前にも書いたが封建領主は王家にとって処遇が難しい。フランス内にいくつもの支配権が残っているのでは統一を目指す王家にとってみれば目障りこのうえない。「フランス」という感覚に目覚め、建前上は王家に臣従していても、そのことは直ちに諸侯が王家に従順であることを意味するものではない。封建領主にとってフランス王家が強大になることは一方では納得できないではないが、そのために彼ら封建領主の既得権益が侵されるということには不満があったであろうし、同時にある種のストレスが貯まったとしても不思議ではない。度々反乱が起きた。
 1439年に三部会が開催された直後の1440年には国内諸侯による「ブラグリーの乱」、1442年にはヌヴェール地方で反乱が繰り返され、後年に至っても1465年(ルイ11世の治世下)に「公益同盟戦争」、1485年(シャルル8世の治世下)には「道化戦争」の名で内乱状態に達する程の反乱が起きた。
 フランス王家も座視していたわけではない。王の身内の粛正を含む大掛りな鎮圧に乗り出し、平定につとめた。最大の外様勢力であるイングランドを排除した勢いを駈って外様勢力の殲滅に乗り出したのも自然の流れというべきであろう。

ブルゴーニュ国家

フランス北西部にあるブルゴーニュ公国はヨーロッパ史にとって特色的である。
 もともとブルゴーニュ(ブルグント)公国は、ヨーロッパ内陸部(フランス東南部)に始祖を有し、葡萄の名産地である農業地帯を支配していた。ところが1369年にブルゴーニュ公フィリップと北海に面したフランドルの伯女マルグリットが結婚したことにより、ブルゴーニュ公は飛び地のようにしてフランドルを共同統治するようになった。ブルゴーニュ公国が南部において農業地帯を抑え、北海へと進出することによりかねて繁栄していた商業地帯を支配下におき、実力を蓄えることができたのは、王の結婚による。
 こうしてブルゴーニュ公国は15世紀後半には北海へ進出し、やがて北方のブリュッセルへと重心を移し、アントワープ港やブリュージュ港を中心に、イギリスから廉価で羊毛を輸入し、これを毛織物や絨毯などに加工して、アフリカ、オリエントにまで輸出して貿易で収益を上げるようになった(太平洋の覇権(7)丸の内中央法律事務所事務所報№14)。

ところでブルゴーニュ公家はフランス王家の血筋を引く家系であるが(フランス本家のフィリップ3世から分れた)、フランドル伯家はブルターニュ公家やアキテーヌ公家(イングランド王領)とともに外様勢力をなし、フィリップ6世の時代には伯領をイングランドのフランス侵攻の拠点として使わせてもいる。フランドルはもともと羊毛の輸入を通じてイギリスと親密だったのである。
 上述のように1416年12月にフランドル公女と結婚したブルゴーニュ公家のフィリップ(三代目)は、これにより親王(譜代)家と外様の両方の立場を代表するようになったことを意味するから、1416年12月に彼がイギリスとの間にイングランド・ブールギニヨン同盟を結んだことは、フランス側から見れば背信であるとみられなくはないが、それは今日的な見方であり叙上の経緯からすれば、必ずしも酷評には値しない。

ブルゴーニュ公家領はフィリップの時代においてフランス東部にブルゴーニュ本領(現在のオーストリア周辺)、ブルゴーニュ伯領、ヌヴェール伯領、これに北海に面したフランドル伯領(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク周辺)を領有し、さらにアラスの和平によってフランス北東部の一部の割譲を得ていた。
 そうすると現在の感覚でいえば、ルクセンブルクとオーストリアの間の間隙(いまではドイツ西部)を埋めさえすれば北はイギリス海峡/北海からアルプスまでつながる一大勢力となる。フィリップの後嗣であるシャルル公がそうした野心を抱いたことも頷ける。

ところでブルゴーニュ公国はシャルル公の時代に、公国が有する経済力にものを言わせて中央集権的な統治組織を持ち、フランス王の常備軍に匹敵する軍隊を組織し、それ自体「ブルゴーニュ国家」と通称されるような体裁を整えていた。フランス王家は領域内にもう一つの国家を抱えていたようなものである。
 シャルル公はロレーヌ伯領におけるフランス王家に対する反乱に介入したり、フランス王軍と小競り合いを繰り返しつつルクセンブルク地方への打通を図っていたが、1477年にスイス連合とロレーヌ軍を相手に正面衝突し、連戦連勝するが、同じ年にナンシーの包囲戦において戦死を遂げる。
 フランス王家は既に1461年にルイ11世が即位していたが、この権謀に優れた国王はロレーヌ伯と連携して侵攻作戦を発起し、1477年1月から6月にかけての戦争でブルゴーニュ本領、北東部のピカルディ、アルトワ、ブーロネ、エノーの諸地方を征圧する。

フランドル伯領は征服を免れたが、それには理由がある。ハプスブルク家のマクシミリアン公(1486年以降神聖ローマ皇帝)がブルゴーニュ公国の公女(女相続人)マリアと結婚しており、その軍勢がフランドル伯領を必死に守り通したのである。
 このことによってフランドル伯領はハプスブルク家(ドイツ・ハプスブルク家)の領有することになり、後にネーデルランドと呼ばれ、その地域から現在ではベルギー・ルクセンブルク、ネーデルランド(日本ではオランダと称呼)の各国が生まれる。オランダとハプスブルク家との相剋及びオランダの独立については以前に書いた(太平洋の覇権(5)本誌52号23頁)。

ブルゴーニュ国家が撃破されたことを以ってフランス王国に対抗できる勢力はいなくなった。残るアンジュー公家は1481年にシャルルが歿したあと、その遺領を王家が相続する方法で整理・統合され、これによりアンジュー、メーヌ、プロヴァンスが王領となった。
 ブルターニュ公家についてはシャルル8世(1483年即位)が1491年にブルターニュ公女(女相続人)と結婚することによって事実上の王領となった。
 こうしてフランス王国は現在のフランスの版図にほぼ重なる領域を領有することになった。

百年戦争の持つ意味

英仏百年戦争は「イギリスとフランスとが戦った戦争である」と評価するのは歴史の評価の仕方を誤っている。けだし、百年にわたるこの戦争の結果、今日にいうイギリスとフランスという国家が誕生したからである。
 百年戦争は当事はヨーロッパと呼ばれる地域の西辺に諸勢力が叢生し、糾合し、戦いによって勃興し(他方において滅亡し)た中から、後世のわれわれがフランス人と呼ぶ人びとが頭角をあらわし、その一部がブリテン島にわたって勢力を伸ばし、本家である「フランス」王家の正統性を争った戦争である。

そして戦いの途中において、フランス王家を中心としたナショナリズムが芽萌え、同時ではないにせよ大きな時の流れからみると同一時期にブリテン島においても同様の動きが生じた。
 そして戦争の終わりは、一方においてはイギリス、他方においてはフランスという王制を中心としつつナショナリズムが加味された形で国民国家へと収斂してゆくターニングポイントとなった。
 こうして生まれた「イギリス」は大陸への関心をきっぱりと捨て、以後独自路線を歩みはじめて孤立し、生き残りをかけて外海への進出を図るのである。

百年戦争の更に重要なことについては本稿が最も多くを負うている佐藤賢一「英仏百年戦争」に直接語ってもらおう。
実際のところ英仏百年戦争は大きな分岐点だった。一方の中央集権国家と他方のナショナリズムを左右の両輪として、いよいよ国民国家というものが歴史の前面に出てくる。その典型として、イギリスとフランスが台頭したことをいうのではない。むしろ特筆するべきは、両国を模範としてヨーロッパ諸国が、さらには世界各国が国民国家であることを理想とし、かつまたイギリス社会、フランス政治、イギリス経済、フランス文化というように、それを人間の営みを論じる上での大前提と考えるようになったことである。

日本との比較

英仏百年戦争が始まった頃、日本においては足利尊氏が征夷大将軍に就任し、室町幕府を開いた(1338年)。
 それに先立つ150年ほど前のことになるが、近世に至るまでの間における日本史上最大の事件ともいうべき政治的変化が生じた。
 それ以前における日本は奈良と京都を中心に天皇(ミカド)及びそれに連なるグループによって政治が行われており、11世紀頃から擡頭した武士の階級の影響を受けて、その枠組は次第に変化してはいたが、1192年に武士の棟梁と目された源頼朝が鎌倉に幕府を開いたことにより政治の構図に劇的な変化が生じたのである。

頼朝はミカドから征夷大将軍の位を授けられた。古来日本の官制は中国に倣い、ミカドが地方長官を任命する郡県制を基礎にしていたが、外敵に対処する特別職として征夷大将軍の位が昔からあった。
 しかしこの官制は頼朝の開府によって重要な変化を来し、征夷大将軍の地位はミカドから政治・軍事の大権を委任された者という性格を帯びるようになった。かくて頼朝は実際に政治を行う官庁(幕府)を京都から280マイルも離れた東国に置き、当初はローカル色の強かった権力を徐々に全国(といっても今の日本の東北地方の南部から九州地方まで)にわたって伸長させ、彼に服属する武士に土地の支配を認めるようになり(本領安堵)、ヨーロッパ西部におけるそれと似た(ある意味では相違する)封建制度の基礎を作った。
 もっともミカドのグループ内に武士の支配に反対する動きがなかったわけではなくミカドの親政を回復しようとする動きもあったが、皇室内の血筋争いを利用され、相続問題として処理することにより終熄させられた。
 以後670年にわたり、王位にあるミカドは政治の権限を武士に委任し(ミカドからみれば簒奪され)、支配権の行使を留保したが、その有する重要人事に関する大権は引き続き保持するという役割に徹するようになった。

英仏百年戦争の時代に武士階級のトップであった足利氏は、頼朝の幕府が形を変えつつ存続し、モンゴル帝国の侵攻(元寇)を受け、これを撃退したもののやがて滅亡した後に生じた政権である。足利幕府も二大封臣の争い(応仁の乱)ののち衰亡し、やがて150年にわたる争乱の時代に入る。

鎌倉時代から戦国時代と呼ばれる時代における争乱は王位をめぐる戦争ではない。各地に自立的に勢力を扶植してきた土地支配者(後に収斂して戦国大名と呼ばれる)の群れが、自分の権益を賭けて争った戦争であった。
 あえてなぞらえれば王位は引き続きミカドに帰属していた。戦国大名が目指したのは英仏百年戦争のように「王位」ではない。即ちミカドの地位の争奪を志向したのではないということである。後に戦国レースのトップに立った織田信長、豊臣秀吉及びその幕下の諸将らはその実力に照らし西洋人の感覚からは王であったかもしれないが、そろって古式に則った官位・官職をミカドから下賜されている。後に封建制度を完成した徳川家康もそうである。

古来から群雄たちがミカドに手を触れなかったために日本のミカド家(皇室)は、過去から(ミカドがいつから王権を確立したかについては諸説もあるがはっきりしていない)現在まで連綿として続いている、世界にも珍しい家系となった。ミカドは権威の保持に徹し、争乱に関与しなかったために(関与する場合は手紙を利用した)断絶を免れることができた。
 因みに皇室は世俗的権威のほかに、神道を伝える宗教的な権威をも帯びており、神的権威にのみ着眼してヨーロッパに強いて例を求めれば教皇に似ている。ただし神道はキリスト教におけるような確固たる教義を持たず(いわゆる国家神道は20世紀になってようやく作られたもので、古来神道とは異なるものとして観察した方がよい)、また日本一国のみに流布されている閉鎖的な文化である。

英仏百年戦争はフランス王位の承継を直接に争う戦争であったこと、その終点はナショナリズム勃興の始点であったことなどについてはすでに述べた。
 日本の場合はそうはならず、西ヨーロッパにおける封建制よりも遙かに完成度の高い封建制度の基礎が徳川家康によって作られ、「鎖国」を経て19世紀末を迎えることになるのである。

(未完)

〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。なお挿画は丸の内中央法律事務所事務局の高橋亜希子さんを煩わせた。

〈参考文献〉(今回参考にしたもの)
  • 佐藤賢一「英仏百年戦争」集英社新書№0216(集英社、2003)
  • ジョセフ・ギース、フランシス・ギース(栗原泉訳)「中世ヨーロッパの城の生活」講談社学術文庫№712(講談社、2005)
  • アッティリオ・クカーリ、エンツォ・アンジェルッチ(堀元美訳)「船の歴史事典」(原書房、2002)
  • 小林幸雄「図説イングランド海軍の歴史」(原書房、2007)
  • 帝国書院編集部「最新世界史図説タペストリー(五訂版)」(帝国書院、2007)

〈地図及び挿画製作〉高橋亜希子(丸の内中央法律事務所)

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