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弁護士 堤 淳一

2010年01月01日

太平洋の覇権(11) -----アジアにおけるポルトガル(1)

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

来航と来寇

 1492年にコロンブスが西インド諸島を発見し、1509年にポルトガル人が西洋人としてはじめてマラッカを発見した。
 しかしこうした「発見した」という表現は西欧人の立場から見てそういえるのであり、西インド諸島やマラッカに元から住んでいた人びとにとっては、彼らがやってきたのを発見したのであり、西欧人の船乗りからみれば「おおい、島がみえたぞ」であるが、原住民からみれば「おおい、船がみえたぞ」なのである。そして「発見された」原住民にとっては西欧人の「来航」や「訪問」visitationは多くの場合「来寇」invasionであった。西欧人の歴史観は西欧の立場に傾きすぎるきらいがあり、それでは片手落ちというものである。コロンブス以降のことは、別に書いたので今回はインド及び東南アジアとポルトガルのことに触れてみよう。

ジャワ

 ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路としてシルクロードがあったことはよく知られているが、紀元8世紀の頃からは東西の海洋航路が陸上交通路をはるかに凌ぐようになった。しかし当時の海路を航行することは、水や風や岩礁の危険を孕んでいたし、海上においては商船を捕獲し積荷を略奪する海賊も横行していたであろうから陸路より安全とは到底いえなかった。他方船による物産品の運送量は、これを馬やラクダの背に乗せて運搬する陸路に比べてはるかに凌いでいたことも言うまでもない。
 国家や社会が形成する環境(専管水域)のことは別にし、地理的環境に注目すると、中国からの物産品をローマに運ぶことを前提に、東西の海上航通の西端はスエズ地峡や中近東の陸地である(そこからはラクダの背を利用して運搬する)。東端の交通障害となる地点はマレー半島である。マレー半島の一番くびれた地峡にクラ地峡があり、そこにはBC1世紀以来いくつかの商人のための道路があり、中国から物産品を船で運んできた商人たちはここで荷を積みかえて地峡を横断し、傭船して北西に向かいインドの南へ産物を運ばなければならなかった。
 もし、現在のシンガポールと対岸の島を分かつジョールバル水道を通り、マラッカ海峡を北へと進む航路が確立されれば便利であることはこのうえもない。従ってこの水域に強い国家があり海上の安全をコントロールして海賊の脅威を取り除くことができればマレー半島の周航が期待できるというわけである。
 この地域に最初に抬頭したのはスマトラ島の、現在のパレンバンを中心として繁栄したシュリーヴィジアであり、対岸のマレー半島にも勢力を伸ばした。7世紀の初めには唐の僧侶でインドに修行に赴いた義浄もパレンバンに立ち寄り、同地の大学に学んだといわれている。しかしこの国も次第に衰え、14世紀頃以降にはこれに代わってマラッカ王国が抬頭した。ジャワにあったパレンバンの一王子であったパラメーヴァらがマジャパイト王国の後継者争いに巻き込まれ、シンガプーラ(現在のシンガポール)あたりを転々とした後に、およそ1400年頃、やや北のマラッカに定着したのがこの国の始まりである。

マラッカ王国

 しかしマラッカの港は王国の始まりよりも少し早く誕生していたともいわれ、マラッカ王国の始まりとこの港町の発生とは必ずしも関係はない。マラッカ港は当初定期航路の拠点というより不規則に来航する船どまりの性格を持っていたが、やがてシンガプールを圧して発展してゆく。その利点はマラッカ海峡の最もせまい位置にあり、スマトラ島東岸と異なって、東風を受けることが少なかったことなどにより、港としての性能にすぐれていた。当時タイに興りつつあったアユタヤ朝はマレー半島を席捲する勢いであったが、マラッカ王国は明帝国から数回にわたり航海した鄭和の示威航海の動きに便乗するなどの外交手腕をみせ、容易にアユタヤ朝に屈しなかった。
 しかしマラッカ王国はさほど貿易に熱心だったわけではないとみえ、またマレー半島住民の文化程度も高かったと言えなかったことも原因となって東西貿易を担う力をつけるには至らず、マラッカの繁栄はここを行き来する商人達の手に握られていた。

貿易のにない手

 商人の出身地は、インドのグラジェート、マラバール、コロマンデル、ベンガルの諸地方、ビルマのペグー地方、スマトラ西北端のパセ、西イリアン付近のアル島、ジャワ、中国、スマトラ中西部のミンナカバウ、スマトラ南部のタンジョンプラ、スラウェシのマカツサル、ブルネイ島、ルソン島などあらゆる方面に及んでいた。商人たちの中には、マラッカに残留する者も多く、4人の港務長官(ペルシャ語でシャーバンダル)が選ばれて商品価格の決定や商事調停などを行った。4人のそれぞれに地域の分担が決まっており、その1はインド北西部のグラジェーリートの代表、その2はインドのその他の地域(コロマンデル人、ベンガル人)、ペグー人、及びスマトラのパセ人の代表、その3は東南アジアの島嶼部(ジャワ、モルッカ、バンダ、パレンバン、カリマンタン、フィリピン)の代表、その4は中国人や琉球人の代表であったといわれている。
 そして船の出入りも(風向の影響を受けてのことであろうが)時期によって様々で、インド方面からは3月に来航、5月末には出帆、ジャワの船は5月から9月にあらわれ、1月頃出港、中国船は年末に来港し翌年6月頃立ち去るという具合で、マラッカの船の出入りは季節を問わず殷賑を極めた。マラッカはまさに国際都市であった。
 これらの貿易商人のうちでめざましく活躍したのが西方のグランジェート商人と東方のインドネシア商人であり、前者はインド産の綿織物を、後者はインドネシアにある香料諸島から運ばれる香料を、それぞれ輸送する仲介人となった。
 東西の航路と並んで中国との交易も盛んに行われた。中国(明帝国時代)の特産品は、麝香、大黄、樟脳、真珠、金、銀、生糸、絹織物などで、これらは中国商人によってマラッカに運ばれ、その代わりに胡椒、各種の香料、象牙、錫、白檀などの香木を積んで帰途についた。日本についていえば(鎌倉時代)、まだ直行便はなく、琉球を経た仲介貿易が行われた。日本からの輸出品は銅、金、銀、樟脳、陶磁器、刀剣、漆器、扇子、紙などであった。南アジアへの貿易について関心が日本にようやく強まるのは戦国時代以降のことである。

マラッカと周辺諸港

 マラッカと対岸のスマトラは指呼の間にある。スマトラ半島北東岸の大部分は広大な湿地で良港はなく、海岸を南東に辿って、インドラギリ、カンパル、ドジャンビ(ジャンビ)、パレンバンがあり、北方にパセ、サムドウラ、ペディールなどの港があった(そののち、北端のアチェが勃興する)。
 ジャワにおいては13世紀に最後のヒンドゥー教国であるマジャパイト国が栄えたが、16世紀初頭頃にはすっかり勢いを落とし、圧迫されていたパジャジャラン王国の復興も一時のことで、王国の港町であったデマ、チレボン、スンダーカラバ(後のバタビア、さらに後にはジャカルタ)、バンテンなどの都市が独立した勢力を持つようになった。
 その後パセ(スマトラ北端)に生まれたとされるイスラム教徒ファレハン(別名スーナン・グヌン・ジャティ)がバンテン付近に勢力を得て、その子であるハサヌツディンの時代(1586年)にバンテンは独立して王国となった。

香料ルート

 これらの新興港湾都市よりも古くから要衝となっていたのがジャワ島東端に近いグレシグである。香料諸島はセレベス島とニューギニア島との間に点在する島のことであるが、グレシグは香料諸島(ハルマヘラ島を中心とする)―バンダ諸島―グレシグ―マラッカという貿易ルートを形成する要点となっていたのである。
 大商人達はこの航路を利用して、インドから綿織物を直接運んで、生活品の自給力を持っていない香料諸島で香料と交換することができたが、小商人達の交易ルートは別であった。例えば小商人達はグレシグで輸入されてくる綿織物を売り捌いて換金し、その金でスンハワ島の廉価な綿織物や米を仕入れて香料諸島へ持ち込んだのである。
 米は何もグレシグで仕入れなくともよい。ジャワ北部一帯でもよいし、バリ島でもよかった。このように香料を運搬する航路はまちまちで小商人達の往来する航路は網の目のようであり、これらを率いる1人や2人の貿易商がいたと考えるのは早計である。 小商人達は港々で商談と噂話に花を咲かせ、バンダからマラッカ海峡には船の行き来は賑やかであったに相違ない。そのような交易のセンターに位置していたのがモルッカであった。
 こうして東アジアの商人達による東西交易は盛んに行われ、18世紀以降に生じた帝国主義を支える物質文明の著しい発達によって東西の落差が生ずるまでの間、東アジアの文明とヨーロッパのそれとの間には大した差はなかったのである。

ポルトガルのアフリカ探険

 ポルトガルはジョアン1世のもとにおいて政策として海外への進出を指向したことは以前に書いた。エンリケ航海王子が死去したときにはポルトガルはシエラ・シオネまで進出していた。西アフリカの開発は一時期大商人に委託されていた時期もあり、黒人との間にはじめて金取引を行うなど盛況をみたが、1474年、当時国王であったアフォンソ5世は西アフリカの交権権独占を宣言する。
 アフォンソ5世の後を襲ったジョアン2世は国内の中央集権化を促進すると共に、西アフリカの探険も積極的に進め、「ギニアの領主」を名乗り、いまや王室の積極的な財源となっていたギニア黄金海岸の金取引を盛んにした。そこでカスティーリャやフランス人の侵入者から守るために要塞を兼ねるサン・ジョルジュ・ダ・ミナ商館を設立した。以後この商館を通じ1520年代までに毎年800㎏の金が本国に送られた。ジョアン2世はディエゴ・カンに命じてサンタ・カリーナ岬以南の探険を進め、さらにアフリカ南端を迂回してインド洋に達する航路の啓開を企図し、当時西廻りのインド到達計画を試みようとしていたコロンブスの進言を拒否した(そのためコロンブスはアラゴンのイザベラ女王に接近する)。
 こうしてジョアン2世は1487年以降陸海両路から中東・インド方面の情報収集に努めた。まず、バルトロメウ・ディアスをアフリカ南端の探険へ派遣し、陸路においてはアフォンソ・デ・パィヴァを中東・インドへ、またペロ・ダ・コヴィリアンをして東アフリカ方面の情報収集にあたらせた。
 1488年、ディアスは遂に南アフリカの迂回に成功、この岬を喜望峰と命名したが、乗組員の反対にあって、インド洋への進出を果たしえず帰国した。
 その4年後の1492年「新大陸」を発見し、その帰途についたコロンブスはリスボンに寄港しジョアン2世に謁見してその報告を行っている。
 さらにその2年後の1494年にスペインとポルトガルはトルデシリャス線を定め、世界を2分する取り決めをしたことについては太平洋の覇権(1)に述べた通りである。以後結果としてスペインは西廻り、ポルトガルは東廻りの世界進出を推進することになる。

ヴァスコ・ダ・ガマの航海

 1495年ジョアン2世が死去し、マヌエル1世が王位を継ぐが、即位2年後の1497年7月にヴァスコ・ダ・ガマに命じ、4隻の艦船を率いてリスボン郊外のベレンから出港せしめた。艦隊は11月22日に喜望峰を迂回し、アフリカ東岸を北上し、イスラム教徒の妨害を回避しつつ、1498年5月20日にインド東海岸のカリカットに到着した。ガマは同地においてサムリと呼ばれるカリカット王との間に通商交渉を図るが、サムリをして来航の目的を納得させることに失敗し、かつポルトガル人に敵対的なイスラム商人の妨害もあって果たせず、わずかのほんの見本という程度の香料を入手しただけで翌1499年9月、リスボンに帰還した。帰還しえたのは4隻のうち横帆船の「サンガブリエル号」とカラヴェル船の「ペリオ号」で2隻と、当初の乗組員170名のうち55人であった。ガマの航海の成功は西洋と東洋を結ぶ実用的な海路があることを示した。
 ガマの帰航によって東洋における富への扉が開かれようとしていること、及びインド洋全域にわたって独占を維持しているムスリムから商業支配権を奪い取ることなしにポルトガルの貿易利益の獲得は不可能であることが明白になった。
 ということはつまり次のようなことである。
 既に述べたように15世紀の末頃には中国から紅海に至る海域にはイスラム人によってよく組織された通商網が張りめぐらされており、東からの商品の流通が西からのそれと出会うカリカットはこの貿易システムのセンターであった。即ち、東方のマラッカにおいて、広東から来るジャンクと香料諸島から来る船が積荷を交換する。そして西への航路はペルシャ湾経由と紅海経由の2ルートがあって、それぞれが西洋への大道をなしていたがこのルートもイスラム商人によって握られていたのである。
 ペルシャ湾経由のルートは地中海東側のアレッポへ、また紅海経由のルートはスエズを通って地中海南岸のアレクサンドリアへと至る。いずれのルートも終点はヴェネチアであった。この全体的システムの基礎はモンスーンといわれる季節風であり、この風は冬期においては西航を、夏期においては東航を可能にする。
 ポルトガルの東インドへの進出はアジア各地の商人達が作り上げてきたアジアとヨーロッパの精緻な貿易網に対する挑戦であった。例えていえばアジア各地の商人による乱戦市場に対する新規参入の体をなしていた。

ご参考:東南アジア要部の地図はここをクリックして下さい。

カブラルの航海

 ポルトガルの第2次インド航海は、そのことごとくが舷側砲で武装した軍艦によって行われ、ペドロ・アルヴァレス・カブラルが指揮をとった。喜望峰を発見したパルド・ロメウ・ディアスほか老練の船乗りが参加した。
 1500年3月8日艦隊は初のインド「通商」航海へと旅だった。艦隊は南南西に進路をとり南緯17度においてブラジルの東岸に達する。これが南アメリカ大陸におけるポルトガル支配の第一歩となった(この発見は進路を西にとり続けたための偶然であろうとする説と意識的な航海の結果であるとする両説がある)。
 艦隊は南大西洋を横断している最中に激しい暴風雨に遭い7隻が沈没し、ディアスは船と共に水没した。
 艦隊はアフリカ東海岸のモザンビークやキルワにおいて冷淡な扱いを受け、通商の実をあげることはできなかったが、マリンディにおいてはガマの航海と同じように水先案内人を雇うことができ、出航以来6ヵ月を要して(この日数は蒸気船の時代を迎えるまでの標準的日数であった)、1500年8月末にゴアの南にあるアンジェデヴィアに到着することができた。
 カブラルは海岸沿いにカリカットまで南下し、幕僚達と共にサムリと会見し「通商」を求めた。ガマの来航以来第2ラウンドというわけである。
 ところが会見はイスラム商人達の猛反発を引き起こす結果となったが、漸くポルトガル商館を建設すること、70名の職員を置くことが取り決められた。 しかしカブラルがイスラム商人の持船を拿捕した(サムリへの贈り物として象1頭を確保するためであったと言われている。ガマの交渉時においてはポルトガルからの贈り物に難癖をつけられた経緯がある)ことが導火線となり、イスラムたちは50人のポルトガル人を殺戮した。カブラルはこの報復にアラビア船10隻を乗員もろとも焼毀し、艦隊の全砲門を開いてカリカットの町を砲撃し、町は瓦礫と化した。
 カリカットにおいてはこれ以上得るところがないとみて、艦隊は南方のコチンへ移動した。カリカットの惨状はいち早くコチンに届いており、コチンの王は艦隊を快く迎えた。隣人の被った惨禍を内心では快く思ったのか、伝え聞く砲撃のすさまじさに驚愕したのか、多分その両方であったろう。
 艦隊はコチンでは多量の香料を船積みすることができ、カリカットの北方のカナールにおいても土侯から供給を受け、船腹を一杯にしてポルトガルへの帰航の途についた。喜望峰を回航したのち、艦隊は単艦行動に移り、各個別々にリスボンへと向かった。最も早く帰還したのはイタリア人の持船アヌンチアダ号であり、1501年6月23日のことであった。
 ところで往路南大西洋において激しい暴風雨に見舞われて行方不明となったディオゴ・ディアスの船は風に押し流され、アフリカ東岸の島に到った。マダガスカル島であり、彼はこの島の発見者となる。そしてアフリカが海岸線を北に辿ればエチオピアに至ることを西洋人に伝えることができた。
 このような地理上の成果だけでなく、カブラル艦隊が経済面に及ぼした影響は甚大である。1501年のうちに艦隊が持ち帰った香料は早くもアントワープの市場に出まわり、ドイツやイタリアの金融業者が続々とリスボンにやって来始めた。他方ヴェネチアにとっては「肇国以来の凶報」であった。

ガマの第2次航海

 マヌエル王国はカブラル艦隊の一商艦が帰港するのを待つことなく、ジョアン・ダ・ノヴァの指揮下に4隻からなる艦隊を派遣した。これ以後年次航海が開始される。艦隊はカリカットの少し北のカナノールへ直航して十分な積荷を確保し、追いすがるサムリの艦隊を撃退して帰還したが、帰途にセントヘレナ島を発見してもいる。
 カブラルが帰還してカリカット商館における50人のポルトガル人殺戮が報告されるやマヌエル国王は直ちに報復のため第2次遠征が企画された。当然のように指揮をとるのはカブラルに決まり、彼は出航準備に取りかかったが突然更迭され、後任にヴァスコ・ダ・ガマが任命された。その理由は今日に至るも謎とされている。推測ではあるがガマの第1次航海はその功績に比し、またカブラルの克ち得た名声に比して冷淡に扱われたことへの僻みもあったかもしれない。提督達の権勢争いが垣間みえる。
 ガマは「インド提督」という称号を賜り、1502年2月再びリスボンを出航した。今回は15隻の艦隊を引率し(後に弟のステパノが5隻を率いて合流)、その目的はカリカットをポルトガルの植民地にしようとすることであった。往路の途次キルワを経由し1502年10月、カリカットに到着したがガマは沖合からサムリに降伏を勧め、市中のムスリムのすべてを退去させることを要求したが、サムリの時間かせぎにあったため港内にいた多数の商人や漁師を手当たり次第に捕まえて縛り首にしたえ、その死体を切り刻んで彼へ送りつけた。その上で激しい砲火を浴びせ邀撃するサムリの艦隊を撃滅した。市内を占領したうえ財宝を掠奪してリスボンへ持ち帰った。
 しかしガマの艦隊の目的の一つに報復の意図があったとしてもすべてがそうであったわけではなく、1503年9月、貨物を満載して抜錨する際、ガマは航海ルートを航行するイスラム商人の行動を牽制、阻止するために5隻の船と叔父をその指揮官として残置した。ヨーロッパ人がアジアの海域に海軍を常駐させた嚆矢である。

ポルトガルの世紀

 その後に来るのはインドをポルトガルの植民地にすることであった。ポルトガルの初代総督フランシスコ・デ・アルメイダは1509年にイスラムの艦隊を撃破し、2代目の総督アフォンソ・デ・アルブケルケは総督になる前の1507年にペルシャ湾の入り口を扼するホルムズ海峡を制圧した。
 アルブケルケは1510年にインド西岸のゴアをポルトガル属領の首都とし、ついで1511年にマラッカを武力制圧し、東西海上貿易路を手中にした。
 こうして、いまやポルトガルはインド洋を制覇し、ガマのインド到達(1502年)からオランダやイギリスの勢力が伸長していくまで(1600年以降)の間を「ポルトガルの世紀」と呼ぶ者もあるが、果たしてそうであったろうか。歴史は一筋縄では観察できないのである。
そのことについては次回にでも。

(未完)

〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。

〈参考文献〉(今回参考にしたもの)
  • 金七紀男「増補版ポルトガル史」(彩流社、2003)
  • ダニエル・ブアスティン(鈴木主税外訳)「地図はなぜ四角になったのか―大発見②」(集英社、1991)
  • 飯塚一郎「大航海時代へのイベリア―スペイン植民地主義の形成」(中央公論社中公新書603、1981)
  • 永積昭「オランダ東インド会社」(講談社学術文庫1454、2005)

〈地図製作〉高橋亜希子(丸の内中央法律事務所)

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