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弁護士 堤 淳一

2010年08月01日

太平洋の覇権(12) -----アジアにおけるポルトガル(2)

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

ポルトガル帝国主義の膨張

 1501年にカラブルの艦隊が東洋の商品をアントワープに持ち帰ってから早くも3年後、1504年にはイギリス向けの商品がリスボンからファルマス港に到着している。ヴェネチアとエジプトが、こうした喜望峰経由の商品ルートの開発による影響に衝撃を感じないわけはない。ヴェネチア共和国はエジプトスルタン皇帝(当時はトルコの支配下にあった)に使いを出し、相互の権益を防衛するための条約を結んだ。またエルサレムの聖カタリナ修道院をも恫喝した。ポルトガルがインド航海をやめないなら、エルサレムの聖地を破壊する、と脅したのである。修道院側はローマ法王の援けを得て修道院のマウロ次長を使節としてリスボンへ派遣するが、それを知ったマヌエル1世は敵がそうくるならば、とばかり貴族のうちで由緒正しい血筋にあるフランシスコ・デ・アルメイダをインド副王に任じ、大艦隊を引率せしめ、インドに出征させた。1502年のことである。
 アルメイダはイスラム教徒の根拠地を征服することが必要であるという正しい認識のもとに、同年中にアフリカ東海岸の数港を攻略して要塞化し、2年後にはモザンビークをも手に入れた。そのうちのキルワには「フランス王といえども寄せつけぬ鉄壁」の城砦であると言う程の城砦を建設した。モンバサにもいったんは城砦を築いたがイスラム勢力の抵抗がやまず、やむなくアルメイダは市街地において財産を掠奪のうえ城砦を破却した。
 大アルメイダの息子のロウレンソ・アルメイダはポルトガル人商館員が居住していたキロンの街を砲撃し(商館員がイスラム人に殺害されたことへの報復として)、その後セイロンに向かう。この航海はその後150年間にわたるセイロン島支配の序曲であった。
 反抗する勢力は容赦のないポルトガル膨張政策に対し、やるなら今しかないとばかり、反抗に出る。1507年、ヴェネチアと共謀しその支援を受けたエジプト皇帝はレヴァント人、トルコ人、アラビア人から成る混成大艦隊を編成して、ヨーロッパの異教徒を討伐すべくインド洋へと送り出した。1508年3月、チョウル沖の海戦は引き分けに終わり、ロウレンソ・アルメイダは戦死を遂げる。
 他方父のフランシスコ・デ・アルメイダはコチンから北上してゴアとタブールを焼き払い遭遇するイスラム教徒の船舶を悉く焼き払った。そして1508年2月アルメイダはディウ沖で100隻余のエジプト艦隊を屠った。この勝利はまさに雌雄を決したものと言うべく、以後長年に亘り印度洋はポルトガルに制海権を握られるのである。
 しかし嚇々たる戦果をあげたアルメイダの最期は悲劇的なものであった。アルメイダがコチンに凱旋すると、そこには彼の地位にとって代わる辞令を携えた男が待ち受けていたのである。

アルブケルケ

 その名をアルブケルケ(1453-1515)。ポルトガル帝国主義の申し子とも言われるポルトガル植民時代の最大の英雄が、印度総督の辞令をもって待ち受けていた。 彼は印度「副王」にではなく、「総督」として、国王から印度支配を授権したというのである(アルブケルケの任命の経緯はカラブルが更迭され、ヴァスコ・ダ・ガマが後任者に任命された経緯と共にいまだ謎である)。数ヶ月の間アルメイダは抵抗を続けるが、1509年12月には屈服を余儀なくされ、間もなく故国への帰還の途に就くが、喜望峰の西にあるサルダーニャにおいてホッテントット族との些細ないさかいのために横死する。

   

アルブケルケは、ダ・ガマ(1469?-1524)やカブラル(1468-1520)が当時青年と言ってよい程の年輩であったとのに比べ1503年に東方へ出発した時には既に50歳に達する老雄であった。アルブケルケはマダガスカル、南部ソマリランド、オマーン海岸を攻撃し、主として北アフリカにおいて戦功があったが、コチンにおいて、サムリに領土をおかされていた領主を援け、王はポルトガル商館をコチンに城砦を築くことを許した。
 この一歩を誌したことにより要塞を築くことが支配の一歩であることを確認したアルブケルケは以後この方針を貫く。彼は陸上基地を設けることによってはじめてポルトガルの優位が示されること、即ち、少数の根拠地でも戦略的要衝にあれば、それによって断固たる決意をもったヨーロッパの一国がインド洋の広大な周辺を制しうることを知ったのである。

 アルブケルケはポルトガル帝国を支える四本の柱として、ゴア、マラッカ、ホルムーズ、そしてアデンを選んだ。
 1510年2月アルブケルケはまずゴアを強襲してこれを奪取するが、3ヶ月後熱狂的な6万人のイスラム教徒によって奪還される。しかし10月に捲土重来を期した彼は再びこれを奪回する。マラーバル海岸を北上する途中にあるゴアはこれまで立ち寄り港の港に甘んじていたが、以後アルブケルケの首府となり、総督の記念碑となるのである。ゴアは東方におけるポルトガルの最初の領土であり、以前におけるコチンやカナノールに建設された商館とは異なり、初めから植民地兼海軍基地を指向したものであった。その性格付けによってゴアには繁栄がもたらされ、殆ど500年を経た後もポルトガルの第1の植民地としての地位を保つことになる。
 その後ゴアには総督府の役人や民間の商人たちの数も次第に増え、1540年にはヨーロッパ人とその子孫の数は約1万人に達した。すでに1534年からはゴアは司教座都市となっていた。

 次の目標はマラッカである。この地は既述したように東インド諸島における要点であり、香料の大部分はこの港で荷の積み替えが行われた。
 このようにマラッカはイスラム商圏の通商ネットワークの中心に位置する重要拠点でありインド洋の支配を目指すためには、それがいかなる国であっても東の抑えであった。
 アルブケルケに先立ち、1509年にディオ・ロペス・デ・セケイラの艦隊が通商を求めてマラッカを訪れたが、イスラム商人の策略によって艦隊に危険が及ぼうとした。乗組員の1人であったフェルディナンド・マジェランという若い士官(この男こそ後に世界周航の指揮官になる御存知"マジェラン"である)がイスラム商人の陰謀を知らせ、艦隊は上陸させた同胞をイスラム人の手に残したままではあるが、撤退することができた。
 その後、アルブケルケは艦隊を率い1511年7月と8月の二度に亘りマラッカを強襲してこれを陥落させ人質となっていた同胞の救出に成功する。その後、ゴアに倣って植民地を建設し、後に1641年、オランダ人の手に帰するまでマラッカはポルトガルの東方経済の死命を制する鉄鐶の一つとなるのである。

香料諸島の経略

 マラッカを占領したポルトガルは占領の翌年である1511年から究極の目的である香料諸島へ進出し、この年から約10年にわたり定期的に渡航し、香料等を買い入れている。これまでモルッカ諸島や香料諸島を訪れていたジャワ北岸の商船は、新たに生じた敵マラッカとの海戦であえなく潰滅し、香料諸島への渡航もほとんど不可能となっていたので、新たにマラッカを敗ってこの土地に進出したポルトガル人はモルッカ諸島の土侯たちに歓迎され、モルッカ北部のテルナテ島の王はポルトガルと協定を結んだ。

 マラッカを占領したポルトガルは占領の翌年である1511年から究極の目的である香料諸島へ進出し、この年から約10年にわたり定期的に渡航し、香料等を買い入れている。これまでモルッカ諸島や香料諸島を訪れていたジャワ北岸の商船は、新たに生じた敵マラッカとの海戦であえなく潰滅し、香料諸島への渡航もほとんど不可能となっていたので、新たにマラッカを敗ってこの土地に進出したポルトガル人はモルッカ諸島の土侯たちに歓迎され、モルッカ北部のテルナテ島の王はポルトガルと協定を結んだ。

 香料の栽培は次第に北部もモルッカ以外の地方にも広まり、アンボン島のチョウジや、バンダ諸島のニクズクも産額が増加した。けれども、モルッカ北部の場合と同様、貿易を独占しようとするポルトガル人の意図は成功せず、のちにはむしろマラッカの港までアジア商人が運んでくるのを買い取る方法が一般的になった。
 このように、ポルトガル人の貿易は産地(東南アジア)から市場(ヨーロッパ)までの一貫した通商体制を夢みながら、決してそれに成功したとはいえず、時代を経るに従って、香料買入の末端はアジア人に一任する傾向が高まった。

アジア商人の反発

 しかし、ポルトガル人は引続き関税を確保しようとして扇の要の位置にあるマラッカを必死に守ろうとし、アジア諸国の商人を入港させようと努力するが、アジア人の商人たちは、税率の高い関税や貿易上の種々の拘束を嫌ってポルトガル占領後のマラッカを避けるようになる。即ち、マラッカの航海上の利点を敢えて避けてまでこれに代わる寄港地を求めて奔走するようになったのである。まずポルトガル人に逐われ、マラッカ旧王家が僅かに余命をつないでいたジョホールが航海上絶好の地にあったので候補とされたが、マラッカから至近距離にありアジア商人たちはこの地を避け、むしろ、ジャワ島とスマトラ島とを隔てるスンダ海峡から荒波を克服してスマトラ西岸を廻航する途を選んだ。ここにおいてクローズアップされたのがスマトラ西北端のアチェーであった。この港は近傍のペディール港市の支配を脱してアジア商人、とくにイスラム人の停泊地として急速に発展する。
 アチェーはこうしてポルトガル人に対抗するイスラム勢力のチャンピオンとなりイスラム諸国の盟主たるトルコなどとも同盟を結んでマラッカの封鎖を試みる。

 更にアジア商人たちはポルトガル人の根拠地であるインドのカリカットやゴアなどの港を避け、インドの南西にあるモルティヴ諸島を経由地とし、やはりポルトガルの支配に陥ちたホルムーズ(ペルシャ湾の入口にある)を避けて紅海に入ったのである。ポルトガルの支配海域を遊弋するポルトガル軍艦からの攻撃を避けるためであることは言うまでもない。こうして16世紀中頃にはトルコ/ヴェネチアによる紅海ルートは次第に復活する。
 アチェーだけでなく、ジャワ北岸もスンダ海峡の利用により活況を呈しはじめる。当時東部のグレシグが依然として力を保っていたが、やがてデマ王国の支配を脱したジェパラの港が勢力を得るに至る。また西部ジャワではスンダ=カラパを支配に収めたバンテン王国が発展する。

 このようにマラッカがポルトガル人の手に落ちたあと、アチェーとバンテンの2つの貿易国家がアジア人による貿易を分担することになるのであるが、いずれもマラッカの繁栄を承継するには力不足であった。しかし、マラッカが引続きその繁栄を保ち得たかというとそうでもなかった。けだし、港はもともと来航船あってのものであり、その船が進路を変更し、入港船の数を減ずれば、次第に衰退する運命にある。後にアレッサンド・ヴァリアーノ(日本に来訪し天正遣欧使節団を派遣する一役を負うに至る人物)は1580年頃に「アチェーを征服せぬ限り、マラッカは極めて小さな惨めなものである」と嘆いている。マラッカの衰退の予兆をみていたのであろう。

ホルムーズの制覇

 1513年、アルブケルケは西に転じてアデンの攻略を企図した。これは撃退され成功しなかったけれどもアデンを経て、紅海の奥深く侵入し、ナイル川から紅海に至る運河を開通させエジプトと紅海の間を両断するのがこの総督の野望であった。ゴアに次々と生起する出来事は、彼にペルシャ湾とユーフラテス流域の関門ホルムーズを再占領するだけの余生しかアルブケルケに与えなかった。1515年にアルブケルケが船上で歿したとき、その戦略拠点の連鎖はまだ完成していなかったけれども、アデンは1524年にポルトガルの属領となり、1538年にトルコ人に奪われるまで命脈を保っていたことを付言しておくべきであろう。

 アルブケルケが残した功績は次の3点に求められる。
その1はホルムーズ―ゴア―マラッカを枢軸としてソアラ、モザンビーク、キルワ、モンバサ(東アフリカ沿岸)グラジナッドのデイヴ等にサブセンターを設けたこと、その2はポルトガル国王に忠誠を誓い朝貢する各地の土侯たちに対し宗主権を行使しうるようにしたこと、その3はゴア地区を植民化したこと(アルブケルケはゴアを「小ポルトガル化」しようとし市街地をポルトガル風に整備した)である。
インド及びアラビア半島の地図はこちらをクリックして下さい。→  MAP

艦船と大砲

 ポルトガルの成功はポルトガルとアジア諸国の間にかなりの武力差があったことに因る。トルコは別としておよそ紅海以東のイスラム教国は武装した艦隊をもたず、ポルトガルが有する外洋の航海に堪えるカラベル船や後に発展して大型化したガレオン船には対抗しうべくもなかったのである。これらの艦隊は新たに開発された多数の艦砲によって武装されており、また陸上において戦闘に従事する歩兵も鉄砲を携帯していた。

 イスラム教国の間には種々の利害の対立があり、ポルトガルという共同の敵に対し一致して戦う気運に欠けていた。ポルトガルは100年にもわたってヨーロッパで戦いを経験し、陸海戦のいずれにおいても実兵指揮の練度を向上させていた。既に絶対王制の時代に差しかかっていたポルトガルは軍の統帥においてイスラム教国に優越し、次に述べるような通商のための官僚組織を整備していたのである。

香料貿易とインド商務院

 インド航路が1501年に啓開されてまもない1506年におけるポルトガルの国内歳入(リスボン税関収入を含む)は19万7000クルザードであったがこれに対する海外からの総収入は、30万3500クルザードと全体の61パーセントを占め、香料だけで4分の1に近い23パーセントに達し、やがてインド香料貿易のピークを迎える1518-19年に至ると、アジアの香料だけで30万クルザードに上り、国内収入(28万5000クルザード)を上回って、全歳入の38.8パーセントを占め、海外収入は48万7500クルザードで、全体の63.1パーセントになるといわれており、この数値から改めて16世紀前半のポルトガルの国家財政が海外収入に大きく依存していることを窺うことができる。

 この頃には毎年3月か4月、約7隻の艦船から成る船団がリスボンを出港し、7月に喜望峰を迂回してインド洋に入る。船団は南西の季節風に乗って8月後半から9月前半にインド西海岸に到達する。各地で買い集められた香料を満載した船は翌年の1月ころコチンを離れると、今度は北東の季節風を利用して2月に喜望峰を越え、大西洋を北上し、6月中旬から9月上旬までにテージョ河に入港するという長い航海であった。

 この莫大な海外からの富を一手に扱ったのがテージョ河の岸辺にある王宮に設けられたインド商務院である。商務院はドン・エンリケ航海王の時代にアフリカ西岸に設置されたアフリカ貿易の取引所に起源をもち、同様にアフリカのミナの金取引が盛んになるとともにリスボンに移転されて、ミナ商務院となり、インドの香料交易の増大によってインド商務院として改組された。商務院はアジア、アフリカの各地に散在する商館から送られて来る香料・金・砂糖などの商品を受取り、それをフランドル商館に送ってヨーロッパ市場に売却するとともに、香料の対価物である銀やその他の工業製品を商務院を通じて輸入し、各地の商館が必要とする物資を輸送した。また商務院は、扱う商品別に香料を扱うインド館、金を扱うミナ館、奴隷を扱う奴隷館に分かれ、国王に直属する商務院長がこの3部門を統括して、インド船団を艤装し、海外商館の職員を任命する権限をもっていた。
 このようにポルトガルの交易は国家(王室)の独占事業として行われ、民間貿易は排斥されていた(但し、1551年から1570年にかけてインド洋から帰航する船舶は平均3隻と最盛時の半分以下に落ち込んだため、1570年、ついに王室は国王独占を断念し、民間商人との契約へと切り換えた)。

キリスト教の布教活動と商業活動

 ポルトガル国王は1456年にフォンソ3世が、1514年にマヌエル1世がローマ教皇から布教保護権を与えられて新しい征服地におけるカトリック布教者と教会を保護する権利と義務を認められており、トルデシリャス条約によって排他的な支配領域に定められた東アジア(日本を含む)においてカトリックの布教を支援していた。つまり、ポルトガルの商業的な進出とキリスト教の布教とは一体のものであり、商業活動は同時に布教活動を伴っていた。ある場合には商業活動が先行し、それが阻害されると軍隊を出動させ利権を回復しようと努め(失敗に終わることもあったが)、別の場合にあっては軍事的進出が先行し、その後に商業的活動や植民が行われた。つまり、布教活動を伴う商業的進出は常に軍事行動を背景に行われたのである。
 そして1542年に新しい世界の布教に熱心なジョアン3世によって派遣されたフランシスコ・ザビエルがインドに渡来してから、イエズス会が東洋布教の中心的役割を果たすことになる。各地にセミナリオやコレジオが設立されてキリスト教の布教、ヨーロッパ文化の紹介の紹介が行われた。

ポルトガル帝国の衰退

 ポルトガルはアルブケルケの歿後精彩を失い、以後徐々に衰退が始まり進昂した。1550年頃までは衰退は緩やかであったがそれから1600年までの間に次第にその歩度は速くなって行き、1600年の後半を過ぎるとその頽勢は蔽うべくもなくなった。
 その原因は一つのものに帰するわけには行かないが、第1にはポルトガルの母国が小さく人口が少なかったことである。ポルトガルは現在でも人口1000万人を算えるにとどまり、その面積は9万2000㎢で、日本の面積(37万㎢)と比べて約4分の1である。16世紀の中期においてはその人口は200万人程度であったが、人材の海外流出により100万人位に激減したと言われている。リスボンに黒死病が蔓延し人口の伸びが低下したこと、国家の礎である青年たちの多くは兵士や船乗りになって海外に行ってしまい、ヨーロッパへ帰還しえた者は10人に1人にも達しなかったと言われている。こうした有様では有能な人材はおろか、並の指導者をも生み出せない状態を生み出した。1578年にポルトガルと合邦したスペインもアメリカ大陸に多くの若者を送りだしたが、ポルトガルとは違ってそのことによって国力を消耗させはしなかった。スペインは16世紀において約800万人の人口を有していたからである。

 その2は征服者たちの人種的変化である。ポルトガルの女性で印度に移住した数はごく少なく、ポルトガルは伝統的に有色人に対する偏見はさほど強くなかったから、ポルトガル人と現地人女性との結婚は奨励された。その結果、若干ポルトガル人側にたった偏見じみた見方であるが、双方の人種の劣性形質が継承され、反面優れたそれを失った混血を生じた。そして純血ポルトガル人が逝ったあとその地位は半分アジア人、半分ヨーロッパ人である現地生まれの者によって受けつがれた。これらの者は操船技術が見劣っていても艦船に配属させられ、やがてシーレーンの確保にも影響を及ぼすようになるのである。

 第3の原因は植民地政府全体にびまん瀰漫した不正と腐敗である。王室の独占貿易とはいうもののそれは表面上のことで、実際に貿易に携わるポルトガル人には大幅な裁量の余地があったわけで、しかも給料は滞り勝ちであったのである。闇取引、密貿易、ゆすり強請、恐喝、贈収賄、詐欺、横領などの組織を腐らせるあらゆる不正が大規模かつ慣習的に行われた。当初ポルトガル人が独占していた職場にもアジア人が進出した。
 官僚組織だけではなく教会も腐敗した。
 ポルトガルの征服者は土着の宗教に驚くべき鈍感さをもって接した。キリスト教への改宗の強制と、本国でも行われていた異端審問(ゴアにおいては1560年から)はキリスト教の堕落を促進し、また、教会や修道院はインドの富の多くを吸い上げた。

 第4の原因は通商経路の確保の画期的な方法とされた要塞の設置が逆の作用を示したことである。従来の東西交通が地域ごとに分担者を異にし、度重なる荷の積み替えや荷主の変更を伴ったのに対し、ポルトガル人は中国から西洋までの海上交通を一貫して行うことにし、その貿易路線にいくつかの拠点を得てこれを要塞化しようとした。そうすればマカオ・マラッカ・ゴア等を経由して転送される商品の流れにそれまで必要とされていた多数の手数料や入港税を商人に払わずに済むと考えられた。
 しかし、南アジアや東南アジアにおけるイスラム国家の巻き返しは激しさを増した。任意に他国の船を攻撃して掠奪することから、いまや動かない要塞を守る立場になったポルトガルは一転して追われる者の辛さを覚えることになった。要塞の維持費はかさむ一方で、貿易の利潤はさほど伸びなかった。印度北部のムガール帝国やデカン高原のヴィジャナガル帝国も16世紀中頃までにイスラムの手に落ち、後にイギリスがこの地に登場するまでの間、マラッカ、コロンボ、そしてゴアそのものも度重なるイスラムの攻撃にさらされた。ポルトガルは東方に一つの帝国を確立したかにみえたが、拠点各地に対する絶え間ざる攻撃とその防禦に、それでなくとも衰弱する国家資源を投ぜざるをえなかったのである。

スペインによる併合

 衰頽の最後にして最大の原因はスペインによるポルトガルの併合である。ここでスペインによるポルトガルの併合について触れておこう。
 1521年にマヌエル1世が歿し、その後を継いだジョアン3世が1557年に歿した。その後を幼少のドン・セバスチャンが継ぐが、母后のカタリーナが摂政の地位に就いた。カタリーナはスペインのカルロス5世の妹(かのフェリペ2世の伯母)であったため、このあたりからスペインの影響力が強まった。その後親政についたセバスチャンはイスラム征伐の夢にとりつかれたか、北アフリカのモロッコに、インドに代わる新たな植民地帝国を築きあげようとする国内の一部勢力の動きに乗った。1578年にモロッコのムレイ・ムハマッド王がトルコ軍の支援を受けた叔父に逐われ、ポルトガル王に庇護を求めた。この機を把らえてセバスチャンは約17,000の大軍を率いて北アフリカのケルジーウに上陸し、同年8月アルカセルキビールにおいてにおいてイスラム教徒軍と対戦したが、セバスチャンの拙劣な指揮によってポルトガル戦史上最大の敗北を喫し、セバスチャンは戦死を遂げてしまう。

 セバスチャンの跡目は老齢の大叔父であるドン・エンリケ(航海王エンリケとは別人)が継いだが、後継者はおらず、やがて後継者未定のまま1580年にエンリケ王は死去してしまう。後継者の候補はフェリペ2世(=ジョアン3世の妹であるイザベルとスペインのカルロス1世との間の子)とドン・アントニオ(ジョアン3世の弟であるルイスとプロテスタントの女性との間の庶子)の2人に絞られた。

 すでに1512年ナバラ王国を併合していたスペイン王にとってポルトガルに後嗣問題が生じたことはイベリア半島を統一するチヤンス好機であった。
 その根拠となる第1の理由はアルカセルキビールの戦いに要した大いなる費えと捕虜交換に莫大な身代金の出捐を余儀なくされた貴族たちが困窮したこと、第2は上述のようにインド交易の衰退により大商人も衰微に向かいつつあり、「新大陸」(=アメリカ)において銀を豊富に手にしていたスペインに接近しようとしていたこと、第3に商人たちはイギリスやフランスの私掠船による掠奪から身を守るためスペインの無敵艦隊(その頃は未だ健在)の保護を求めたいと考えていたこと、第4に既述した諸々の理由からインド交易を維持するため、シ-レーンの防衛や陸上基地の維持による莫大な出費がポルトガルに国家的な経済危機を招いておりポルトガルが全体として衰弱していたことなどである。
 このような状況に臨んでポルトガルの諸勢力は様々な懐柔策を用いてスペインへの併合を工作した。ポルトガルの独立を守ろうとする勢力は少なかった。
 サンタレンにおいて民衆から担ぎ出されたドン・アントニオがスペインに対し挙兵し、リスボンの城外アルンカンタラでスペイン軍と対戦したが、その手勢は僅かにとどまり、スペインのアルバ公の軍にあえなく敗北した。こうして1581年ポルトガルに入国したフェリペ2世はトマールにコルテスを招集し、ポルトガル王フェリペ1世として即位した。
 こうして多くのポルトガル人はある朝目を覚ましてみるとジョアン1世を祖とするポルトガル王家は終焉を迎え、スペイン王のフェリペ2世の臣下になっていた自分を発見するのである。

 フェリペ1世はポルトガルに対して次のような約束をした。

  1. ポルトガルの自由、特権、法律、慣習の尊重とコルテスの自治
  2. ポルトガル総督、副王への就任をポルトガル人に限定すること
  3. 行政・司法・官僚・軍隊はポルトガル人により運営されること
  4. ポルトガル植民地における商業のオランダ人による独占
  5. ポルトガル・スペイン国境の税関の廃止
  6. ポルトガル語は引続き公用語とし、ポルトガル通貨の通用を認めること

 フェリペ1世の治世においては新大陸からの銀の輸入によってスペインは国力が豊かだったため、このように余裕のある言い方もできたのであろうが、次第にヨーロッパの戦が激しくなってくるにつれ、そうもいっていられなくなる。
 たしかにフェリペ1世の約束事をみるとポルトガルの独立は維持されているようにも見え、フェリペは対等併合(ないしは同君連合)を謳ったが、上述の経緯や、両国の国力からみてそのようではありえず、フェリペの後継者はポルトガルの立場を無視し圧政を行った。
 やがてポルトガルはヨーロッパの権謀渦まく大渦に巻き込まれ、いまやアジアからヨーロッパにまたがる大国となったスペインの敵をことごとく自分の敵としなければならないという不利を被った。

 1588年にイギリスとの間に生じた海戦(この海戦はイギリス海峡で戦われ、ポルトガルも31隻の戦闘艦を動員された)でスペインは無敵艦隊の多くを失い、アジアへ眼を向ける余裕はなくなった。ようやく1640年にポルトガルが自由を回復したときはインド地方はオランダとイギリスの手に陥ち、以後ポルトガルは東方の覇権を二度と手にすることはなかった。

帝国の残照

 このように述べたからといってこれらが一気に起こり、一つの事件によりポルトガルが突然インド洋における覇権を失ってしまったように考えるのは早計である。1606年にはマラッカが、そして1607年にはモザンビークがオランダ人の攻撃を受け、いずれも果敢な防衛戦でこれを撃退し、1622年6月マカオに対するオランダ人の攻撃をもオランダ植民史上最大の損害を及ぼす戦捷を博して撃退している。
 しかしその後はポルトガルの放つ光芒は次第に弱まり、1622年ホルムーズがイギリスによって奪取され、マカオにおいては日本人との軋轢によってマカオ貿易が終熄に向かい、1641年マラッカが遂にオランダ人の手に陥ちた。こうしてアルブケルケが構想し実現した戦略拠点が一つ一つ失われてゆく。
 その後1656年から1665年までの10年間にボンベイ(セイロン)がイギリスに割譲され、キロン、コチン、カナノールはオランダ人に奪取され、以後ポルトガルはインド洋の強国ではなくなってゆくのである。

〈参考文献〉(今回参考にしたもの)
  • 金七紀男「増補版ポルトガル史」(彩流社、2003)
  • ダニエル・ブアスティン(鈴木主税外訳)「地図はなぜ四角になったのか―大発見②」(集英社、1991)
  • 飯塚一郎「大航海時代へのイベリア―スペイン植民地主義の形成」(中央公論社中公新書603、1981)
  • 永積昭「オランダ東インド会社」(講談社学術文庫1454、2005)

〈地図製作〉高橋亜希子(丸の内中央法律事務所)

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