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弁護士 堤 淳一

2010年11月01日

太平洋の覇権(13) -----日本のバテレンたち

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

明国(中国)の情勢

 明は華南に興った朱元璋(後に洪武帝となる)が1368年に元帝国を滅ぼして建国し、1644年に満州族である清によって滅ぼされるまで(但し清の建国それ自体は1616年)、276年にわたって存続した。
 明朝は建国当初は前の王朝であった元帝国の政策を引き継ぎ、東南アジア及びその沿岸地域において拡張主義的な政策を採り、中国の東南地方沿岸には海上貿易が繁栄した。
 この時期日本においてはようやく室町幕府がその基礎を固めつつあった頃であり(1394年に足利義満が太政大臣となり、1402年には義満を日本国王と認める旨の国書を明朝から受けた)、幕府は勘合符を得て明との間に朝貢貿易を始める一方、1390年代から倭寇(前期倭寇)と呼ばれる日本人を含む辺民が中国沿岸に出没し、「海賊」行為が行われるようになる。因みに述べておくと14世紀から15世紀にかけて日本の壱岐・対馬、五島列島周辺に日本人を中心にした「海賊」(武装した商人)が出没し、これに高麗の海賊が加わり、やがてむしろ朝鮮人を主体とする「倭寇」と呼ばれる勢力に発展した。以下に触れるように16世紀においても「倭寇」と呼ばれる海賊が現われ、同じように「倭寇」と呼ばれるが、これは中国(明)の沿岸において活動した中国人を主体とするもので2つの「倭寇」は名称は同じでもその性格を異にする。
 明朝の商船隊は東南アジアを越えてインド洋まで、さらにはアフリカ大陸沿岸や中東まで及んだ。イスラム教徒であった鄭和提督は大艦隊を率いて南海遠征を実施した(1405~1430年)。鄭和の遠征は7回にわたって行われ、第1回の鄭和艦隊は61隻の軍船と28,000人の乗組員が参加し、軍船の中には長さ140m、幅16mもの巨大船もあったといわれている。遠征の主目的の一つに明国への朝貢を促すことがあったと言われており、基本的に植民政策は視野に入っていなかった。面白い説としては洪武帝の後を襲った永楽帝は一族との間に帝位の承継を争ったが、敗れた建文帝の一族が南海方面に逃亡したかもしれないとの疑いを糾明することが目的であったとするものがある。
 明朝はこの結果国威を宣揚することができ、アジア諸国との間に外交関係を築くことに成功した。
 ところでもともと中国は北方の騎馬民族(中国では「胡」と呼ぶ)と低地地帯である華中華南の定住民族との間に常に抗争が絶えず、低地地帯から興った王朝はいずれもその対策に悩まされた。明朝は既述の通りモンゴルに興り、中国大陸の全域を版図に収めるに至った元帝国を滅ぼして建国されたのであるが、華南の肥沃な大河流域と低地地方の経済によって支えられていた明朝の初期の時代の政権は、地方に駆逐された元朝との継続感を求める感性と、「文治的な中国を求める」漢民族との二つの感性の対立をどのように克服するかに腐心した。
 歴代の皇帝は北方のステップ地帯(オルドス地方)と、永楽帝によって統治下におかれたヴェトナム地方に起こる諸問題を軍事的手段によって解決しようとしたが、いずれについても膨大な戦費を投下した割にははかばかしい成果を得られぬまま、国力を衰弱させていった。帝国内部にも絶え間ない帝位の相続争いと官僚化により、やがて明帝国は建国初期の拡大政策の修正を余儀なくされ、引きこもり政策へと移行してゆく。
 その結果北方においては万里の長城の本格的建築、南西方面においてはヴェトナムからの撤退と南海大遠征の中止を招く結果となり、海上交易についても管理貿易から海禁政策へと軸足を移した。この変化のプロセスは海外交易の停止と大規模な密貿易を招き、国力の衰弱にさらに拍車をかける結果となった。

ポルトガルと明国の接触

中国人商人はマラッカに盛んに往来したが、不格好にみえる戒克(ジヤンク)は港内で異彩を放つ存在であった。ポルトガル人にとってはジャンクがやってくる東方の国は2世紀のマルコポーロの時代から見果てぬ国であり、百年にわたる航海の涯にあるものであった。
 1513年にジョルジェ・アルヴァレスの名はこの「古き国」に到達した初めてのヨーロッパ人として記録されているけれども、広東河(珠江)の河口にあるリンティン島へ航海したものの彼は市街に入ることはできなかった。1515年にラファエルベレストレリョが広東河をジャンクで航海し、珍奇で高価な物品と、地域の中国人はポルトガル人との交易を望んでいるという話を持ち帰った。
 こうした瀬踏み航海の後、1517年にフェルナンド・ペレス・アンドラーデとトメ・ピレスが引率する公式使節団がマラッカを出発したが、中国の繁文縟礼式の応接に悩まされ、うんざりする程待たされた後、ようやく広東市に入ることを許され、手広く商いを行った。しかし彼が希望する明国皇帝(正徳帝)への閲見は叶わなかった。
 その後1519年から1520年に第2次遠征隊が派遣されたが、アンドラーデの後任者であるでシモン(アンドラーデの弟)の不始末(目に余る中国人蔑視に因る)によってポルトガル人は放逐されるに至る。

明国の海禁策

1523年に嘉靖帝は高級官僚であった夏言の献策を容れ、遂に全面的な海禁策を採用する。これにより、それまで日本や東南アジアとの交易に従事していた沿岸地域(福建省など)の商人や貿易商は大打撃を受け、海禁政策に対する不満勢力が中心となって倭寇(後期倭寇)の活動が激化した。明国の海禁政策は、マカオや中国沿岸部の島々に中国人や日本人の武装商人による密貿易基地の建設を促し、これらによる密貿易が自由貿易に門戸を開いていた広南(ベトナム)、チャンパ、シャム(タイ)、ジャワなどの地方との間に大規模に行われるようになっていった。倭寇は中国の東南の沿岸地方を度々襲撃したが、これに対し、明朝の首都の宮廷は、有効な対策を何らとることができなかった。北辺政策と同じように、明朝の宮廷派は沿岸地方の取締についても強硬策を用いて海賊の根拠地を討伐し、海上交通の閉鎖や貿易活動を禁止しようと図った。
 しかしながら、長大な海岸線に警備船をパトロールさせて取締を行うというおよそ不可能を強いる施策は思い通りの成果を上げることができなかった。そして、沿岸地方の取締をめぐる問題も北方のステップ地方に対する施策と同じように、妥協を図ることでしか解決できないものであった。
 やがて明朝の貿易政策は変更され、1554年以降、関税による規制の外、ほとんど自由な交易が許されるようになった。

ポルトガルのマカオ進出

見涯てぬ「古き国」を求めるポルトガルの船は遅くとも1513年頃にはマカオに到着し、居留地を設けて中国や日本と貿易をするようになった。その後ポルトガルは当時東シナ海に跳梁していた倭寇の討伐に協力した代償として1557年(海禁政策緩和後)に、明王朝からマカオの永久居留権を認められた。ポルトガルはマカオをインド副王が治めるポルトガル領インディア(インド及び東南アジアに獲得した領有域一帯)に属せしめ、カピタン・モールなる名称の役職者をもってマカオを治めさせた(1583年に「市」に昇格)が、領土主権は中国側(明朝から清朝)に留保され、中国は海関(税関)を設け、中国官吏も自由に出入りした。マカオはカトリック教会の拠点ともなり、1579年にはマカオ司教区となった。
 既述のように明朝が全面的な海禁政策を採用した1523年から自由交易の許容(1554年)に至る30年間にマカオを通じて行われた貿易は密貿易であり、ポルトガルは中国商人から密輸入した物品を日本に輸出する中継貿易を行った。
 1581年にポルトガルはスペインと合邦し両国が同君連合になったことにより、1565年頃以降スペインの植民地となっていたフィリピンからもマカオに交易船が出入りするようになる。
 この頃日本は戦国時代でありやがて織田信長の時代を経て豊臣秀吉により国内が統一に向けて収斂してゆく時期にあたっているが、石見銀山をはじめとする鉱山採掘が進み、鉛の生産量が飛躍的に増加し、通貨として銀を欲していた中国に大量の銀が流れ込んだ。そのためポルトガルの中継貿易による利益は莫大な額に上った。日本船も日本とマカオの間を往来し、マカオに滞在する日本人も多かった。

日本への鉄砲伝来

1543年(天文12年)に鉄砲(マスケット銃と呼ばれる先込式の火縄銃)が種子島に伝来し、以後鉄砲は日本の戦術思想に大変化を与えた。よく知られていることであるが、日本への鉄砲の伝来はポルトガル人によるものとされている。日本人に鉄砲を供与し、その操法を教えたのはポルトガル人であったことは間違いはないであろうが、ボイス・ペンローズ「大航海時代」が述べるように、「1542年には、アントニオ・ダ・モタ、フランシスコ・セイモト及びアントニオ・ペシヨトの3人の男は長州(チンチヨウ)(香港南西の島)向けの船荷と共にシャムを出帆した。猛烈な台風は彼らを航路から吹き飛ばし、滅茶苦茶に叩き潰された戒克(ジヤンク)は2週間後にとある見知らぬ島に漂着する。そこでこの生存者達は小柄で優しく聡明な人々に迎えられた」とするのは簡略に過ぎよう。
 この船は肥前(長崎県)の平戸に居を構える倭寇のリーダーであった王直(中国人)の持ち船で、これが島の南端(川合岬)に漂着した。折柄種子島と屋久島の領主であった時堯(当時は16歳の若者だったといわれている)は、大隅半島の祢寝氏の襲撃を受け敗北し、屋久島を割譲することによって講和したが、反撃して屋久島の奪還を企図していたところ、漂泊船に乗っていた3人のポルトガル人が展示した鉄砲の性能に興味をそそられ、譲渡を受けたと解する説(鉄砲館編「鉄砲伝来 種子島鉄砲」)が妥当であるように思われる。
 なお、同書は種子島時堯は島の刀鍛冶である八板金兵衛に鉄砲の製作を命じたところ、金兵衛は短期間に国産化した、とするが褒め過ぎのようで、日本人は鉄砲に用いられている螺子を見たことがなく、その工夫に辛苦したと思われ、国産化はもう少し後のことではなかろうか。

長崎の開港

ポルトガル人が日本へ来航した初めは上述のように1543年であったと記録されているけれども、それは鉄砲をもたらしたという「大事件」であったためで、それ以前にも記録には残らずともポルトガル人や、ことによると他の国の西洋人も少ないながら日本に来航していたかもしれない。
 日本へ来航するようになったポルトガル船は良港を求めるため九州各地を流離(さすら)って適地を探索した。ポルトガル船の当初の寄港地は薩摩、日向、豊後など九州の南東方面であったと思われるが、漸次北上し、1550年(天文19年)に平戸へ達した。
 平戸は松浦(まつら)家が治める地であり、代々大陸貿易を行い貿易の利益について理解が深かった。そのため貿易を求めるポルトガル商人との間に利害が一致したのであるが、ポルトガルの貿易はキリスト教の布教とセットをなしていた(同時にポルトガル船は武装しており、戦闘力をも備えていたことは屡々述べた)。しかし当主の松浦隆信はキリスト教の布教には乗り気でなく、家臣を受洗させてお茶を濁そうとしたためポルトガル人の不信を買い、かつ日葡両国人間の乱闘事件をきっかけにポルトガル船の常時入港は早々にとりやめとなり、ポルトガル商船は地理的好条件にある平戸を去って新たな港探しを余儀なくされ、1562年(永禄5年)には大村領横瀬浦へと寄港地を移転する。
 横瀬浦は大村純忠の支配下にあった。純忠は他家(有馬氏)から大村家に養子となったため家臣団と折り合いが悪く、自らの立場を守るためキリスト教に改宗した。けだし改宗により貿易が可能になるならばそこから得られる経済力により自らの地位を安泰に導くことができると考えたのである。しかし純忠はやがて敬虔なクリスチャンになり、日本最初のキリシタン大名となった(洗礼名はドン・バルトロメウ)。そして領民にも熱心にキリスト教への改宗を勧め、神社仏閣を破却するという過激な行動に出たりもし、そのためもあって彼に敵対する勢力も増え、開港後わずか1年で港は襲撃され、横瀬浦は焼き払われて消滅してしまった。
 ポルトガル船は再び平戸へ入港するが松浦隆信の相も変わらぬキリスト教嫌いに失望したポルトガル人は1565年(永禄8年)には大村領であった福田へ入港する。福田は横瀬浦よりも港としての条件に劣っていたがキリスト教に親和性のあった大村氏の領地であることでポルトガル人にとっては安心感があった。
 福田への入港は松浦隆信の早々に知るところとなり彼は福田港のポルトガル船を襲撃し積荷を奪おうとするが、ポルトガル船の艦砲や鉄砲に散々に撃ちまくられ撃退される。こうして松浦氏とポルトガルとの間は決定的に険悪となったが福田は吃水の深い大型船の停泊に不便で良港ともいえず永続的な港湾となり得なかった。
 その後もポルトガル人は代替港を探すため有馬領の口之津など、いくつかの港を候補に挙げて調査を行ったが、いずれの地も満足とは言えず他を求め放浪を続けるが、有力な諸侯の治める土地は何かとわがままが言いにくいこともあって、結局はキリスト教のシンパである大村領にこれを求める方針を採ることにした。ポルトガル人が雇った日本人の水先案内人や伝道師たちが海岸線をなぞるように探査を続けた結果、思いがけず福田から山一つ隔てた地に良港にふさわしい入江を発見する。長崎である。

イエズス会領としての長崎

長崎は伊王島や香焼島によって外海から隠された入江の奥にあり、湾口は狭まっており、湾は巾着袋のような形をしていたため、探索者の目が行き届かなかったのであろう。長崎の地は大村純忠の家臣であり女婿でもある長崎純景の領地であり、人口2,000人にも満たない寒村であったが長崎の開港は純景の頭越しに大村純忠とポルトガル人との間に行われた。
 町割りは1571年(元亀2年)から大村家の町奉行によって行われ、大村町ほか合計6町の区画が定められ、この町がポルトガル人との貿易の舞台となった。長崎はポルトガル人が港としての適地と認めた以前から小規模な会堂を持つキリシタンの町となっていた。キリスト教の浸透の早さに驚かされる。
 やがて町域は内陸部へと拡がり、発展してゆくが、大村純忠は弱小のうえ周囲に多くの敵を持っていたため、絶えず侵略の危機にさらされていた。1579年(天正7年)純忠の甥である有馬晴信が肥前の強豪である龍造寺氏の攻撃を受けた。その際、イエズス会が晴信に糧秣、銃、弾丸などの後方支援を行ったため晴信は苦境を脱することができた。こうしたポルトガル宣教師の態度は大村純忠にとっても心強い限りであり、遂に1580年(天正8年)長崎をイエズス会に「寄進」することを決断する。もっとも大村純忠と長崎純景がイエズス会から多額の借金をしており、その代物弁済のような形で「寄進」を要求されたとする説も強い。
 その条件は①長崎と近傍の茂木(上述の6町街区と思われる)の所有権をイエズス会に無償譲与し、裁判権を与え、②ポルトガル船に停船料を与える、③ポルトガル船及び長崎への入港船の全てから貿易税(関税)を徴収する権利は純忠に留保される、というもので、ポルトガルと大村氏側の双方に利益のあるものであった。
 こうして長崎にはポルトガル船が来航するようになり、来航する商船(ナウ船という)による貿易から日葡双方の商人に上がる利益は巨額に上った。長崎はイエズス会領として日本の戦国時代において極めて特色的な地位を占めた。1570年代に木の防護柵をもって市街地を防衛する策が講ぜられたが、巡察師ヴァリニャーノ(後述)は1580年6月に「日本布教長のための規則」をもって長崎に大砲や銃器と弾薬を配備すること、城壁を築きポルトガル人を囲い入れ、長崎の住民と兵士を武装させることを指示し、コヨリエは長崎の要塞化を推進した。長崎は幾重かの木柵で守られ、バテレンたちの住むカーサの近くには砦が築かれ何門かの大砲が長崎港の入り口を守っていた。バテレンたちはフスタ船を作らせ海上を遊弋できるようにした。日本イエズス会の会計担当宣教師(プロクラドール)がポルトガルの貿易を独占し、会領の歳入歳出を采領し、市政はキリシタンである頭人中(とうにんちゆう)(後に町年寄や乙名(おとな)に発展)によって行われた。
 こうして長崎はキリシタンの町として発展するが豊臣秀吉が九州征伐を実施し平定を終えるや、1587年(天正15年)6月、帰陣した博多においてキリスト教徒の追放令を発し、長崎を天領(直轄領)にした。こうしてキリシタン町の繁栄は終わりを迎えるのである。このことについては後に述べる。

フスタ船

フスタ船

フスタ船は吃水の浅い洋型船であり、帆と櫂をもって進退し、数門の大砲と弾薬、それに兵員凡そ300名を乗り込ませることができた。

バテレン

「バテレン」の語は、ポルトガル語のPadre(即ち「司祭・神父」)に「伴天連」の漢字をあてて「バテレン」と読んだことに由来するものであるようで、戦国時代末期から徳川家光の治世まで約1世紀の間に日本にやって来たヨーロッパ人のキリスト教宣教師を指す。日本においてキリスト教の布教に従事したバテレンには修道会に属した者といずれの修道会にも属さない者があり、来日した修道会はイエズス会(1534年設立)、フランシスコ会(1209年)、ドミニコ会(1216年)、アウグスチノ会(1243年)の4つであった。宣教師の国籍はポルトガル人、スペイン人、イタリア人(但しこの頃には一国家としては未成熟)が大部分で、その余はフランス、ポーランド、フランドル(今のベルギー)からの出身者である。その人数についてははっきりしたことは判っていないが、徳川幕府がバテレンを日本から追放した1614年(慶長19年。この年大阪冬の陣)の直前が最多であったと思われ、イエズス会が138名(バテレン(司祭))が69名、司祭以外の修道士は69名)、フランシスコ会が29名であったとする説(松田「南蛮のバテレン」)を挙げておこう。

フランシスコ・ザビエル

日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師はフランシスコ・ザビエルであると言われている。ザビエルは1506年にスペインのナバラ県に生まれ、パリに遊学してイグナスチウス・ロヨラにめぐり会い、イエズス会の設立(1534年)に参加する。折柄ポルトガルはインド方面に勢力を伸ばそうとして艦隊を盛んに派遣していた時期であり、新進のイエズス会はキリスト教布教の尖兵としての役割を期待されはじめており、ザビエルはその一員として1541年にゴアに向けた王室艦サンチャゴに乗り込んでリスボンを出発した。
 ゴアに上陸したザビエルは3年にわたりインド南西のマラバール海岸から南端のコモリン岬、さらにはセイロンなどで布教の成果を収めた。その後東へ向かいマラッカらモルッカ諸島へと足を伸ばし、マラッカへ戻った折、ポルトガル船長から日本人を紹介された。名を「ヤジロウ」と言い、日本の鹿児島の人で殺人を犯して薩摩半島の山川港に停泊していたポルトガル船に逃げ込んだという人物で従者を伴っていた。ザビエルはゴアのイエズス会の学院でヤジロウを学ばせ洗礼を受けさせたうえ、スペイン人の司祭と修道士、ほかに日本人中国人、インド人ら7名を率いてシナの戒克に乗り1549年(天文18年)鹿児島に到着した。
 その後ザビエルは平戸、山口を経て京都にのぼり、天皇や将軍に謁しようとしたが失敗に終わる。当時三好長慶が将軍義輝を京都から追い出す事件が起き(1550年(天文19年))、京都は戦火を被った。梟雄織田信長が政権を確立するのは1576年(天正4年)、彼がミカドから内大臣に叙任されて以降のことで、まだまだ先の話である。焼け跡の目立つ京都付近の状況はザビエルをいたく失望させもしたであろう。
 そこでザビエルは山口に戻って大内義隆の庇護を受けて布教に従事した後、日本滞在2年3ヶ月で豊後から乗船し(その際5人の日本人を伴っている。その中には豊後の大友義鎮がインド副王のもとに派遣した武士もいた。)、インドに帰り、中国に布教を試みようとするが入国は許されれずに広東沖のサンショアン島で入国の機会を窺ううちに発病し、1552年に同地で歿する。
 ザビエルの日本滞在はその時期からみて彼にとって不運であったといわざるをえない。
 当時、日本の政界は、戦乱と混迷のうちに明け暮れていた。ミカドは悲惨な境遇にあられたし、足利将軍は権威を失墜して、まさに京都から落ちのびようとしていた。換言すれば全日本に実力ある君主は事実上いなかったのである。ザビエルは、やがて実情を知って、目下、日本は正常な状態にはないと認め、やがて治安が確立する日を期待し、そのような平安をとりもどしたときにこそ堂々と日本人と対決できるのだと見做して、そのような趣旨のことをゴアのイエズス会へ報告している(反対に、動乱の時期こそ布教のチャンスであるという考えをとるバテレンもいた)。

キリスト教徒の広がり

ザビエルが来日してから15年位の間に在日イエズス会員はバテレン(祭司)7名、イルマン(修道士)5名を数えるようになった。
 イエズス会は日本を「下地区(肥前、肥後)」、「豊後」「都(みやこ)(畿内)」の三地区に分割し布教する態勢をとった。因みにイエズス会は管区―準管区―布教区の序列をもって編成され、日本は創設以来インド管区の中に含まれる最下位の布教区であったが、1580年以来準管区(管区長:コエリヨ)に、徳川時代に入って1611年に管区(管区長:カルヴァーリョ)に昇格した。
 九州では薩摩、豊後、大村、中国地方においては山口、畿内では河内、大和、山城、和泉の諸地方においてキリシタン宗団が燎原の火の如くという勢いではないにしても続々と形成されていった。1563年に肥前の大村純忠が受洗したことは既述した。その年、奈良において、結城山城守、清原枝賢(えかた)、高山飛騨守(高山右近の父)がバテレンであるヴィレラによって改宗した。そのため河内、摂津においては宗団が次第に増えていった。大名たちはともかく、改宗した者のほとんどは貧しい民でありその数も多いとは言えなかった。一説によれば豊後地区に1万人、下地区(肥前、肥後)に11万5000人程度、1590年頃にはその2倍に達していたと言われている。
 キリシタンに改宗した者の中には後々キリスト教の布教に暗い翳を落とすような行為を行う者が出始めた。
 先述した高山右近は父飛騨守がキリシタンであったためであろうか幼少期にジュストの教名で洗礼を受けたが織田軍の幕下にあって1573年(天正元年)に高槻城主となると領内の神社仏閣に対する弾圧を始めた。神官や僧侶に改宗を勧め、聞き入れない場合には領外に退去するよう勧告を行い、すべての寺社に対してではないけれどもそのいくつかを没収もしくは破却した。河内の三ケ(現:大東市)の三ケ瀬サンチョという熱心なキリシタンは1577年(天正5年)には領内のすべての寺社を破壊した。こうした動きが最も熾烈であったのは九州の大村純忠(既述)、有馬鎮純(後の晴信。1580年プロタジオとして受洗)、大友宗麟(1578年フランシスコとして受洗)らによる神社仏閣の破壊と神官・僧侶の追放であった。日本人キリシタンによるもののほか、南蛮のバテレンが率先して行動したり、行動に随伴したり、あるいは神社仏閣の破却を使嗾したこともあったと思われる。

二つの日本観

バテレンたちは日本に渡来して、西洋のきらびやかな宝物で眩惑したり軍事力を背景にしてキリスト教を強圧的に押しつけるといった、自分たちがそれまで他の異教世界で採用してきた鈍感な布教方針ではとうてい日本人に対して伝道の成果を上げることができないことを知った。日本人は他の地域にみられたように彼らを必ずしも高尚な者たちとは考えず、軽蔑もし、侮辱もした。そこで、バテレンたちの日本人観は分裂し、それに伴って、日本での布教方針は定まるどころか対立することになった。
 1570年(元亀元年。室町幕府が終末をあと3年に控えている頃)、南蛮船の来航を機に天草(肥前)の志木においてイエズス会員はポルトガル人カブラルを、日本布教長であったトルレスの後任者に選任した。
 バテレンたちの中には「神の国」に仕える一念で日本に在任した者(ザビエル、トルレス、フェルナンデスら)と、母国の軍事的・政治的・経済的な背景を強く意識している人たちがいた。新布教長カブラル、さらにその後継者コエリュがその例である。
 イタリアのバテレンはその出身地が統一国家ではなく様々な侯国に分かれていたゆえか、西欧の強大な国家を背景に、母国に依存して布教するという考えはあまりなかったように窺える。そうしてみると日本人に対する見方の相違は彼らの祖国とも関係があるように思われる。
 例えばカブラルは日本人について「私は日本人ほど傲慢かつ貪欲で、不安定で、偽装的な国民を見たことがない。彼らが(修道会に入って)共同の、そして従順な生活ができるとすればそれはほかに生活手段がない場合に限られる。・・・日本人のもとでは、誰にも心の中を打ち明けず、読み取られぬようにすることは、名誉なこと、賢明なこととみなされている。・・・」と述べている。 またロドリーゲス・ツヅは少年時代から来日し豊臣秀吉から徳川家康の時代にかけて通訳を務め日本通であるといわれていたが「元来、日本人は、ヨーロッパから来た者に比べて、天賦の才に乏しく、徳を全うする能力に欠けるところがある。」等と述べている。
 これに対しイタリア生まれのオルガンチーノ(カラブルと同時期に来日)は、日本人について「日本人は、全世界で、もっとも賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同に遙かに優っている。我らの主なるデウスが、何を人類に伝え給もたうかを見たい者は、すべからく日本に来さえすればよい。私たちヨーロッパ人は、互いに賢明に見えるが、彼ら日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私は、ほんとうのところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。」と上掲の2人とは全く正反対のことを述べている。

巡察師ヴァリニャーノ

アレッサンドロ・ヴァリニャーノは1539年にスペインの支配下にあったナポリ王国のキエチの名門に生まれた。そしてヴェネツィア領のパドヴァ大学を卒業した後、1566年、27歳の折にイエズス会に入ったが、第4代の総長メルクリアンは、ヴァリニャーノの才能を認め、入会後わずか7年にしかならない34歳の若いこの司祭を大抜擢し、「東インド巡察師」の重責を託した。
 イエズス会はイエズス会総会長(初代はイグナチウス・ロヨラ)―総会長顧問―巡察師―管区長―準管区長―布教長という風にヒエラルキー化されており、ヴァリニャーノが任命された巡察師とは総会長から直接管区に派遣される特別職であり、①総会長と各布教地に駐在する会員達との間の密接な交信を確保する、②布教地に生ずる諸問題を解決し宣教・改修事業の拡大と発展をはかる、③巡察地に係る情報を総会長に報告する、などの事項を任務とし、その任期は任務の終了もしくは総会長の死亡の時までとされていた。
 ヴァリニャーノが巡察を命ぜられた地域は、ポルトガル領か、もしくは、ポルトガル国王に布教保護権が委ねられている広大な地域であった。そこへ、若輩のイタリア人が、絶大な権限と栄誉を携えて派遣されるのであるから、ポルトガル人の聖職者達が不満を抱いたのは自然でったが、ポルトガルはすでに国力が衰えつつあって、彼が着任した2年後の1581年には、スペインと合邦してしまう。
 ヴァリニャーノは1574年3月にリスボンを発ち、その年の9月にゴアに到着、インドの管区をくまなく巡察した。1577年9月にゴアを出発し10月にマラッカに入り、1578年マカオに到着し短期間滞在の後1579年に日本へ向かう。1579年(天正7年)7月に肥前の口之津に上陸し、以後1582年(天正10年)まで在日する。
 ヴァリニャーノは安土、臼杵、長崎と地域を分けて会議を催し、同僚や日本人信徒の代表者達とも会談した。「中国人を別として、日本人はアジア人全体で、最も有能で、よく教育された国民である。天稟の才能があるから、教育すれば、日本人は、すべての科学を多くのヨーロッパ人以上に覚えるであろう。我らは彼らの国に住んでいるのであり、彼らなくしては、日本におけるイエズス会は、働くことも存続することもできない。日本は外国人が支配してゆけるような国ではなく、今後とも、同様である。日本人は、それを堪え忍ぶほど無気力でもなければ無知でもない。日本の教会の統轄を、日本人に委ねるよりほかに考うべきではない。」と判断し、従来の布教方針を徹底的に改革することにした。
 その方法は、後に「適応主義」と呼ばれる方法であった(もっともヴァリニャーノの創案ともいえない面もあるが)。日本人は自分たちの土地において、自分たちのものを放棄するはずがないがゆえに布教は日本文化に順応して行わなければならないという前提を立てたのである。
 そのため、下地区(肥前)、豊後(豊前と豊後)地区、そして都(みやこ)地区に一箇所ずつカーサ(所定の修業課程を修めた後に、喜捨のみに依存して使徒としての活動に従事するイエズス会員のための住居)を設けることを提案した。そして日本人のために学校を開いて(肥前の有馬、豊後の府内、臼杵など)、日本人バテレンを養成する道を拓き、ヨーロッパ人のバテレンは、ほとんど全面的に日本の風習を学び、それに順応するようにと規定した(1580年6月24日「日本布教長のための規則」)。
 日本の礼儀を学び守ることは、南蛮人には至難の業であった。だが自分たちの風習が日本人の気に入らぬというのなら、日本の礼儀を守るのが当然ではないか。こう考えて、彼は、京都五山の長、南禅寺を範として、その位階を修道会内の職階に適宜適用した。また、大友宗麟の協力を得て「日本在住バテレン礼法心得」というべき書を作製した。
 このような考え方は日本人蔑視の視点に立つカブラルと激しく衝突し、1582年にはカブラルを更迭し帰国せしめている。
 また、ヴァリニャーノは離日に際し日本人にヨーロッパの事情を見分させ、日本をヨーロッパに知らしめる目的でヨーロッパに使節団を送ることを企図し、使節団を伴ってゴアまで付き添った。ヴァリニャーノはゴアに滞在し、ローマ教皇に閲見して帰路についた使節団(後に天正使節団と呼ばれる)をゴアに迎え、共に再び日本を訪れた。
 日本の国王はすでに豊臣秀吉に変わっており、1591年に聚楽第で秀吉と会見している。ヴァリニャーノは日本に初めて活版印刷を導入し、「キリシタン版」と呼ばれる書物を印刷している。またイエズス会の後発として来日したフランシスコ会(1593年にフィリピン総督の使節としてペドロ・バプチスタが来日している)との軋轢の解決に尽力した。1603年(慶長8年)(日本の政権は徳川へと移っていた)に、任務を終え離日し、1606年にマカオでその生涯を閉じた。
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織田信長とバテレン

織田信長は1568年(永禄11年)に老朽化した足利幕府の将軍義昭を奉じて京都に入り、遅くとも1576年(天正4年)には政権を樹立する。そして征途半ばにして1582年(天正10年)臣下であった明智光秀(最上級の軍団司令官の1人)が叛乱を起こしたため自害を遂げる。
 信長はバテレンに強い興味を持ち、この16年間に彼は多くのバテレンと会見を行った。松田「南蛮のバテレン」が引用する統計によれば、この間信長は少なくとも京都で15回、安土で12回、岐阜で4回、つまり31回以上バテレンたちと逢っている(逢わなかったと思われるのは、1570年と1576年の2年程で、ことに本能寺で自害する前の2年間はしばしば相会し、月に2度に及ぶこともあった)。 もっとも多く交わったのはポルトガル人フロイス(18回以上)であり、次いでイタリア人のオルガンチーノ(17回以上)、その他イタリア人ヴァリニャーノ、ステファノーニ、フォルラネッティ、ポルトガル人カブラル、スペイン人カリオン、セスペデスのバテレンたち、およびポルトガル人メスキータ、シモン・デ・アルメイダ、インド生まれのペレリラ修道士たちの名を挙げることができる。国籍別にみると、ポルトガル人5名、イタリア人4名、スペイン人2名、合わせて11名ということになる。
 信長がどのような宗教観を持っていたかは不明である。仏教に帰依していたかといえば比叡山を焼き討ちしていることなどに照らし、そうでもなさそうで、晩年になって、総見寺なる建物を建て、自らを神として讃仰させようとも図っていることからみると、すべての宗教的権威を超越する心境に至っていたのかもしれない。バテレンを寵愛したのも、信長にはキリスト教に改宗する気はないものの、彼らが持つ外国に対する知識や、海外交易、ひいては軍人としての感性から、西欧が持つ軍事技術などの実利的な面に関する利益の獲得を志向し、日本国内にキリスト教を受容したのも、ことによるとキリスト教を媒介としてヨーロッパ文明の後押しを得て日本を変えようと考えたのかもしれない。後半生に至ってからの日本人離れしたラディカリズムに照らすと、成り立ちうる推論であるように思える。
 信長は1581年(天正9年)2月京都において「馬揃え」と称する一大軍事パレードを催した。このパレードはミカドである正親町天皇をはじめとする公家及び大衆や、海を越えたポルトガルひいてはローマ教皇会に対し日本に新たな帝王が誕生したことを見せつけるメッセージであった。
 ヴァリニャーノはこの軍事パレードに贈物をした。マカオに住む敬虔なポルトガル人から贈与を受けた金の装飾が施された濃紅色のビロードの椅子であった。信長はこれを大いに喜んで、パレードの途中、それに座ってみせた。ヴァリニャーノはフロイスやイエズス会士を引き連れて特設の桟敷に招待されていた。ことによるとこの馬揃えそのものがバテレンの助言によるものであったかもしれない(もっとも日本の軍隊にはそれまで、歩調をとりつつ鼻面を揃えて馬を分列行進させるというドリルを行った経験は一般的に持ちあわせていなかったので、バテレンたちの評判はどうであったろうか)。
 しかし信長に対するキリシタンの見方は後に変化を見せる。キリシタン側からみても、信長がすべての宗教的権威を超越するものであると考えることは神(デウス)と対立、ないし否定することになり、究極的には自分たちとは相容れない者と考えたかもしれない。そうした考えを推及し、信長が本能寺に攻められたのは、信長の急進的な改革政策や皇位承継問題への容喙に恐怖を覚え、かつ室町幕府における旧体制の基盤となる諸々の権威にノスタルジアを感ずる禁裏を含む公卿勢力がキリシタンと結んで、同じような考えを持つ明智光秀を使嗾して行ったという説がある(立花「信長と十字架」)。

(未完)

〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。なお挿画は丸の内中央法律事務所事務局の高橋亜希子さんを煩わせた。

〈参考文献〉(今回参考にしたもの)
  • 金七紀男「増補版ポルトガル史」(彩流社、2003)
  • ダニエル・ブアスティン(鈴木主税外訳)「地図はなぜ四角になったのか―大発見②」(集英社、1991)
  • 飯塚一郎「大航海時代へのイベリア―スペイン植民地主義の形成」(中央公論社中公新書603、1981)
  • 永積昭「オランダ東インド会社」(講談社学術文庫1454、2005)

〈地図製作〉高橋亜希子(丸の内中央法律事務所)

(2010.10.15)

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