
2011年01月01日
Jack Amano
翻訳:堤 淳一
以下の記事の(1)~(13)までは若干の補訂を加えて当事務所ホームページ(https://www.mclaw.jp)に発表済みであり、
今後さらに補筆して順次発表する予定にしているのでご覧いただければ幸いです。
1582年に織田信長が部下の軍司令官の1人であった明智光秀によって本能寺に討たれたために空缺となった天下人の地位は、同じく信長の幕将であり、光秀と競い合っていた羽柴秀吉(筑前守)によって埋められた。
本能寺の変に反応して行われた備中の国から播磨の国への60マイル以上にわたる退却行動(対峙していた毛利軍との間に、凶変を秘匿したまま、変報の数日後に媾和を結び撤退した)があまりにも素早かったため、秀吉は光秀のクーデターを事前に知っていたとする説もある。
いずれにせよ秀吉は忽ちの間に自らの軍団と同調者、それに主君の子息の少しばかりの軍勢を駈って光秀を亡ぼし(他の軍団長たちはそれぞれが信長から与えられた担当フロント正面に貼りついていて、予定戦場である山城国の山崎へと駈けつけることはできなかったし、信長の僚友であった徳川家康は信長の招待に応じて、山城、河内方面を旅行中であった)、翌年には宿敵柴田勝家を屠り、その次の年は徳川家康との戦(小牧・長久手の戦)と懐柔に費やした揚句、1585年(天正13年)には関白の位に就任した。
秀吉は自らの征服の仕上げにかかるためにシンボルとして大坂城を築いた。この地は主君であった信長が手を焼き、自分も幕下にあって苦心させられた石山本願寺の跡地である。大坂の地はもと熊野街道の一寒村であったが浄土真宗(一向宗)の中興の祖である蓮如が石山の地に道場を開いたのち高名になった。これが城砦という程度に堅固になったのは証如の時代であり、これが焼失したあと、顕如の代になって再興され(石山本願寺)、顕如は織田信長と10年にわたり抗争した。
しかし1580年(天正8年)に顕如は信長と和睦し紀伊鷺森に退いた。新法主教如は暫くの間抗戦した後、紀伊の雑賀に下ったが、混乱の中、同年8月石山本願寺は焼失した。大坂城の普請は1583年(天正11年)9月に始まり、1585年(天正13年)4月に天守閣が完成したが、その後、壕の工事は何年にもわたって続けられた。
秀吉は得意満面であった。何しろ日本の中央に位置する大坂の地に巨城を設けることができ、自分の勢力の及んでいないのは、九州(島津氏)と関東(北条氏)と、奥羽(伊達氏)を残すのみとなっていたからである。
ところでイエズス会の布教区分によれば日本はそれまで最下位の「布教区」とされていたが、1581年以降「準管区」に格上げされ、ガスパール・コエリュが準管区長に任命された。この時期秀吉のキリシタンに対する処遇は極めて寛大なものであった。
キリシタンの勢力は順調に伸長してゆくように思われた。というのも1583年(天正11年)9月、オルガンチーノが教会施設を設けるため秀吉から河内国の最良の場所(天満橋付近とする説があるようだがはっきりしない)を与えられるという好遇を受けた(その面積も不確実であるが、130×110メートルとする推測がある)からである。
われわれは、このような秀吉のキリスト教に対する好意的な態度は、そのすぐ後にキリスト禁教へと方向を転換することを知っている。コエリュを喜ばせた4年後に起きる変化との間の落差はどのように理解したらよいか。九州における情勢と深く関わっていると思われるので瞥見しておこう。
肥前の国の有馬晴信と叔父の大村純信がキリシタンであり、晴信が同国の龍造寺隆信と抗争していたことは以前に述べた。他方においてこの龍造寺氏は肥後の国において島津氏と争っていた。そこで敵の敵は味方とばかり、晴信は1582年(天正10年)に島津氏に対し連合を懇請した。1584年(天正12年)4月に龍造寺隆信が有馬領に攻め入るとの報に接して、島津義久(国主)は弟の家久を島原に渡らせ、両軍は戦端を開き、結果は隆信の戦死によって島津方の勝利となった。この報は口之津にいたコエリュを狂喜させたが、島津氏は島原、三会の2つの城に兵を駐留させ、かつ有馬領においてキリスト教の施設を破却するなどの乱暴を働いた。島津氏は晴信に棄教するように圧力をかけたとも言われており、こうして晴信は島津氏に従属する結果となったのである。島津氏の版図は全九州に広がる勢いを示していた。
コエリュは、1585年3月3日付の在フィリピンの或るイエズス会士に対し、「フィリピン総督に兵士、弾薬、大砲、兵士のために必要な糧食及び1,2年分の食料購入用の金銭が十分に備わったフラガータ船(ガレオン船に随伴して作戦を行う少し小ぶりの補助艦。後にフリゲート艦という艦種に進化する)2、3隻を当地、日本に派遣してくれるよう要請して欲しい」旨を依頼している。日本のイエズス会による長崎の要塞化については以前に触れたが、このようなコエリュの希望は長崎要塞化の更なる推進(サン・マルティン・デ・ラ・アセンシオンの報告によれば、イエズス会のパードレたちは「長崎付近に有している村落のキリスト教徒達全員に3万名の火縄銃兵を整えてやることができた」と報告している)と関係しており、ポルトガル(1580年ポルトガルはスペインと合邦したことにも留意)の庇護のもとに自らの軍事活動を深めようとしたことが窺われるが、同時にマニラに派兵を要請しなければならないほど、島津氏の西九州支配が強まったことをも意味している。
島津氏はすでに肥後、筑前を制圧し、九州全土を支配下におくために大友宗麟の治める豊後を制圧することが次の政治/軍事日程に上っていた。島津氏はひたすらキリシタンを憎んで、有馬・大村氏を圧迫したわけではなく(決してキリシタンを好いたわけでもなかったが)、いわば戦略遂行の順序から言って有馬・大村氏は当然島津氏に従属しなければならなかったのである。
既述のようにコエリュは1581年にイエズス会の準管区長に任命されており、畿内への訪問は当然のことであったが、これが戦乱のために遷延していた。 九州における戦乱に対する不吉な予想はコエリュをして漸く畿内へと出発する決意を固めさせた。上方への出発の準備にとりかかった1585年10月、島津氏から使者が到着し、コエリュ一行の出発を牽制する書面が届いた。もし出発を思いとどまらなければキリシタンに禍が及ぶべしとするものであった。島津氏は副管区長が秀吉に豊後の救援を求めるのではないかと疑ったに相違ない。
そうした牽制を無視して、彼は1586年に上方に上り、畿内の巡察を行い同じ年の5月4日に、4名の司祭(ルイス・フロイス、オルガンティーノ、ダミアン・マリン、グレゴリオ・デ・セスペデス)と共に大坂城を訪れた。
4名の修道士、同宿(伝道師、侍者、聖具係として教会に奉仕した人)、セミナリオ神学校の少年がそれぞれ何人か同行し、その総数は30人を超えたと言われている。
引見は高山右近と諸侯たちが居合わせる中で行われたが、やがて信者である高山右近のみをバテレン達と同席させた秀吉は、打ちとけた様子でバテレンたちと会話をかわした。
フロイスによれば、秀吉は次のように述べたことになっている。
「日本国内を無事に統治することが実現したうえは、日本国を弟の羽柴秀長に譲り、自らは朝鮮とシナを征服することに従事したい。その準備として大軍を渡海させるために目下2000隻の船舶を建造するために木材を伐採せしめている。自分としてはバテレンたちに対して、十分に艤装した2隻の大型ナウを斡旋してもらいたいと願う外、援助を求めるつもりはない。それらのナウは無償で貰う考えは毛頭無く、代価は言うまでもなくそれらの船に必要なものは一切支払うであろう。提供されるポルトガルの航海士は練達の士であるべきで、彼らには俸禄及び銀をとらせるであろう。」
しかしこのときの秀吉とコエリュの対談に同席したオルガンティーノはヴァチカンに別の報告をしている。それによればコエリュはフロイスを通訳として、秀吉の九州出陣を要請し、明国征服にあたってはポルトガルの艤装した船をバテレンの側から斡旋しようと述べたという。オルガンティーノと高山右近はフロイスの物言いに危険を感じて、フロイスの言葉を遮ろうとした程であった。秀吉の秘書官である安威シモン(了左)も後に使者を通じてフロイスの傲慢な発言は在席者に不快の念を与えたと注意したという。してみるとフロイスは秀吉が明国へ出兵する際は副管区長に援助を依頼することがよろしいとか、コエリュ師はシモ下全域に影響力を持っているくらいのことは通訳の域を超えて述べたかもしれない。
フロイスのいったことは秀吉にどのような心理的影響を及ぼしたであろうか。イエズス会が九州の諸大名に対し相当強い支配力を及ぼすことができる地位にあると疑ったに相違あるまい。
しかし秀吉はそのような心理はおくびにも出さず、終始上機嫌でバテレンたちを天守閣に案内するなどした。
コエリュが心から願ってやまなかったのはバテレンたちがデウスの教えを説くことについて必要な特許状を秀吉から入手することであった。この方法についてバテレンたちが考えついたのは大坂城内にいるキリシタンの婦人たちの協力のもとに関白夫人を味方に付けるほかはないという奇想天外ともいうべき策であった。この方法は、その可能性について悲観論もある中で、思いもよらぬことに成功を収め、関白夫人は関白の決裁を得、その署名のある1586年(天正14年)5月4日付の特許状2通(普通は署名をせず朱印が押捺されるにとどまる)を大坂に滞在していたコエリュに届けた。その内容は、
特許状の1通はバテレンたちが日本国内を布教のために巡回する際に携帯するためのもの、他の1通はインドもしくはポルトガルへ送るためのものであった。コエリュが狂喜したであろうことは想像に難くない。
秀吉は関白に就任するとすぐに「綸命」とか「叡慮」とか、天皇の影響力を表わす言葉を用いて九州地方の大名に対し所論領争奪戦(国々もしくは郡の「境目論争」)をやめるよう命令したが、1586年(天正14年)に島津氏はこれを拒否した。関白の地位に対するこの挑戦的な態度は秀吉をして軍事的征圧の途を選ばせた。
同年の5月4にコエリュが、同月23日には大友宗麟が、大坂城を訪れて島津征伐を求めたことと、同じ年越後の上杉景勝が上洛して臣従の労をとったこともその決心を手助けしたことだろう。
こうして1586年(天正14年)12月、秀吉は翌年3月に島津征伐のために出陣することを予告した。秀吉は同月19日に朝廷から太政大臣に任ぜられ、豊臣の姓を賜り、翌1587年(天正15年)3月1日に大坂を出立した。その軍勢は37ヶ国から徴募された兵から成り、その数は20万余騎と称された。また海上からは堺の代官小西立佐(ジョウチン)が采配する輜重のための船舶が米を満載して西進した。先陣は毛利氏に仰付けられた。行軍は迅速を極め、3月25日には下関に到達している。
九州における戦における関白の軍勢は2軍編成となし、肥後路(西九州)を秀吉本体(10万余)が、日向路(東九州)を秀長隊(15万)が進み、これまで中央において一向一揆などとの対決で用いられたあらゆる戦術を用いて島津の軍勢に戦いを挑み、戦局の全体からすれば、秀吉軍の優位のうちに進んだ。 しかしその一方で4月末に行われた戦は上方軍を苦しめたとする戦記もある。折から降り続く雨の中で戦線はセンダイ川内(薩摩半島の付け根西側にある)で膠着状態となり、関白の軍勢は兵員の損失を被っただけではなく、極端な兵站不良に陥り、薩摩国内に深入りすることがためらわれる戦況となった。秀吉軍はそれを秘匿し、幾日も前から使者を薩領に遣わし島津軍に降伏を勧告した。薩軍は関白の軍勢の飢餓については知る由もなかったので最終的な崩壊を恐れ、島津義久が5月8日に関白の陣を訪れ、秀吉も降伏を受け入れた。後に判明したところによれば、義久の降伏があと5日遅れていれば関白軍の前線は崩壊したであろうと言われた。
いずれにせよ秀吉軍は九州征伐に勝利を収め、関白は5月18日に帰陣の途についた。関白は1587年(天正15年)6月7日に箱崎に至り、6月10日にこの地から軍船に乗り込んで博多へ赴き、11日から博多の町割りを行うことにした。
関白は6月10日に多くの軍船を率いて海上に出たところ、偶然コエリュが乗船するフスタ船と行き遭い、これをみた関白は小舟を漕ぎ寄せてコエリュの乗る船に乗り込んだ。
突然のことであったが司祭たちは急いで中甲板に一室を設け、とりあえずのもてなしをした。秀吉は菓子やワインでもてなされ、フスタ船の大砲を試射せしめ、船内をくまなく巡視するなどしたうえ、司祭と親しく話をした。
その後のキリシタン禁教に至る動きは次のように実に慌ただしく、不可解でもある。以下フロイス「日本史」による。
まず、6月17日、高山右近はフスタ船に赴きコエリュとその同僚たちと情報交換を行ったが、右近はコエリュらに対し、「デウスの事業はつねに悪魔から妨害されるものなのである。私には間もなく悪魔による大いなる妨害と反撃が始まるように思えてならぬゆえ、パードレ司祭たちも又我々にしても、そうした事態に対して十分な備えが必要である」と謎めいた言葉を吐いた。右近は何か知っていたのだろう。
6月19日秀吉は早暁に神谷宗湛、島井宗室を箱崎の陣所の茶室に招いて茶会を催した。この日、関白はポルトガル艦隊の総司令官ドミンゴス・モンテイロを引見、ついで高山右近を追放に処し、「伴天連追放令」を発令した。
その日、6月19日の夜分秀吉は、「予は以前からキリシタン宗国を五畿内から遠ざけかつ伴天連たちをその地から追放しようと欲していた。だがそのようにしたところで、このシモ下の9ヶ国には、まだなお多数のバテレンや教会やキリシタンが残っていることだから、今日まで延引してきたのだ。このシモ下の地方でその悪魔の宗派を破壊すれば、畿内にある同宗派のすべてを壊滅させることはいとも容易なことである」と怒り狂って家臣に当たり散らした。
そして同じ日の夜分、小西行長の一家臣が関白の秘書官である安威五右衞門(すでに棄教)と共にフスタ船のコエリュを訪れ、直ちに下船して行長の宿所に出頭して訊問を受けるように、との関白からの伝言を申し渡した。使者の両名は関白が激昂して種々述べたけれども、殊に以下の3件についてはバテレンに伝えるよう命じられたと述べた。
汝らはなにゆえに日本の地において今まであのように振る舞ってきたのか。他の宗派(仏教)の僧侶たちを見習うべきではなかったか。仏僧たちは汝らのように宗徒を作ろうとして一地方の者をもって他地方の者を熱烈に扇動するようなことはしない。よって爾後汝らは当シモ下地区に留まるように命ずる。また普通の方法でない布教手段を講じてはならない。もしそれが不服ならば汝らは全員マカオへ帰還せよ。都・大坂・堺の修道院や教会は予が接収し、そこにある家財は汝らの許へ送付するように命ずるであろう。
もし本年マカオからナウ船が来航せずそのために帰還ができぬのなら、また旅費に事欠くようなら、予は汝らに米1万俵を付与するゆえ帰るがよい。
汝らは何故に馬や牛を食するのか。それは道理に反することである。馬は道中人間の労苦を和らげ、荷物を運び戦場で仕えるために飼育されたものである。また耕作用の牛は百姓の道具として存在する。しかるにもし汝らがそれらを食するならば日本の諸国は人々にとってはなはだ大切な2つの労力を奪われることになる。
予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが多数の日本人を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それは許すべからざる行為である。よって汝伴天連は現在までにインドその他遠隔の地に売られていったすべての日本人を再び日本に連れ戻すよう取りはからわれよ。
もしそれが遠隔の地ゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人が購入している人々を放免せよ。余はそれに費やした銀子を支払うであろう。
コエリュの答弁は次のようであった。
見受けるところ世界中、当地方(東洋)においては日本人ほど自由な国民はいないのであり、強制を必要とするまでもなく、手もかからず、道理と真理が用いられたにすぎない。元来日本人は極めて理性を重んじる国民であるから、彼らはデウスの教えについて聞いたことを固く信じ、そしていとも容易に自分たちの偶像を放棄したのである。我らが諸国を歴訪して我らの教えを説いたことは事実である。なぜなら我らは外国人であり、説く教えは彼らの耳には新規なものだから人々を求めて我らが歩かぬ限り他の方法によって我々の教えを公布することはできないからである。
仰せの通り我らが牛肉を食べることは確かである。これは世界で最も古い習慣だからで、そこには国家に何ら損失を及ぼすことも農業に害を与えることもなくこの習慣が保たれている。けだしその目的のために大量の家畜が飼育されているからである。司祭たちはポルトガル船が入港の際、同国人と一緒にときとして牛肉を食べることはあったが、五畿内その他遠隔の地に散在している司祭達については既に日本の常食に馴染んでいる。
日本人の売買に関しては格別の厳罰をもって禁じていただきたいということは司祭(コエリュ)が既に殿下に懇願すべき用意していた覚書のうち最も主要な箇条の1つであった。日本人のように名誉をいとも尊ぶ国民にとり人身売買を行うことは寒心に堪えざるところであった。だがこの忌むべき行為の濫用はここシモ下の九ヶ国においてのみ拡がったもので五畿内や坂東地方では見られぬことである。我らパードレたちは人身売買及び奴隷を廃止させようとどれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいて肝要なのは外国船が貿易のために来航する港の殿たちがそれを厳重に禁止せねばならぬ点である。
6月20日秀吉は早朝に起床し、伺候してきた家臣に対し前夜より激しくキリシタンを痛罵した。
「日本の祖、イザナミ伊弉冉、イザナギ伊弉諾の子孫たる我らは、当初から神ならびに仏を崇敬し来った。もし我らが、これらの犬ども(伴天連たち)が為すがままに任せるならば、我らの(神仏の)宗教とその教えは失われてしまうだろう。奴らは大いなる知識と計略の持主であり、自分たちの教えを権威づけようとして、今日まで予の好意と庇護を利用してきたのである。
(奴らは)雄弁にしてよく仕組まれた言葉、および汝らに食物として供する甘物の中に毒を潜めているからである。もし予が深く注意し自覚して処していなければ、予もすでに欺かれていたことであろう。 奴らは一面、一向宗(徒)に似ているが、予は奴らのほうがより危険であり有害と考える。なぜなら汝らも知るように、一向宗が弘まったのは百姓や下賎のものの間に留まるが、奴ら(伴天連ら)は、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、(日本の)諸国を占領し、(全)国を征服せんとするためであることは微塵だに疑念の余地を残さぬ。」と。
そして関白は同日(6月20日)に1通の布告書をフスタ船にいたポルトガルの司令官であるモンテイロに手交した。この書面には朱印が押捺されていた(以下フロイス「日本史」の註(334頁)に引用されている「松浦家文書」による禁制文を意訳して掲げる)。
「一.日本は神国であるところ、キリシタンの国より邪法を授けられることは甚だあってはならないことである。」
「一.領国や郡々に居住する者を近寄らせて宗徒にし、神社仏閣を打ち破らせたことは前代未聞のことである。領国や郡々の在所知行等、給人に下さることは当座のことであり、天下よりの御法度を守り、諸事その意を受べきところ、下々として義をミダ猥ることは悪事である。」
つまり、いまや領主も国郡も、もはや独立の領主や独立した地ではなく、土地・領主はあくまでも「当座」の知行・給人であるから上位の法である「天下よりの御法度」に服すべきものであるとする。即ちキリシタン大名による治外法権に類似する支配を明確に否定したことを布告したものである。
「一.バテレンがその知識をもって、思いのままに宗徒を獲得しているものと関白が考えるようなことになれば、そのようなことは日本の仏法を相破ることになり悪事であるがゆえに、バテレンたちは日本の地には置くことはできないので、今日より20日間準備して帰国すべきこと、もしこの期間中に下々の者がバテレンに対して害を加えるものがあれば、罰せられるであろう。」 「一.黒船(ポルトガル船のこと)については、商取引のことであり、それとは別のことであるがゆえ、年月を経ても諸事売買することはできるものとする。」
「一.今後、仏法の妨げをなさざる人々(ヤカラ輩)は、商人は言うに及ばず、いずれのキリシタン国からも日本と往き来をすることは妨げるものではない。」「以上告知する。」天正15年6月19日
秀吉はこれとは別に、6月19日、秀吉は諸侯に向けて11箇条の「覚」を発している。この「覚」は11箇条から成り、その内容はバテレンたちに発した「定書」を踏まえたもののように窺われる。「覚」のうち①~⑤および⑨は地位の高い諸侯がキリスト教信者になる際は「公儀」の「御意」(許可)を得なければならないが、下層の民については自由であることを定め、建前としては信仰の自由を保障するものであった。しかし⑥~⑧においてはかつて一向宗が「現世」の権力に対抗したと同じおそれから、諸侯が領内の人民をキリスト教へ改宗するよう慫慂することは国内統一の大いなる障礙になると述べられている。
秀吉は6月20日に在陣していた諸将を博多の箱崎に置かれていた九州征伐の司令部に集合させ、キリシタンは一向宗の「坊主が下賎の民の心をとらえたのと違って、宣教師は大名、貴族をひきつけているので」一向宗よりもいっそう危険である旨を述べ、キリシタンへの警戒を訓示した。
(未完)