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弁護士 堤 淳一

2011年08月01日

太平洋の覇権(15) -----バテレンたちの軍事計画

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

教俗一体となって行われた「東インド進出」

「私の意図するところは異教の地を悉く征服することである」

 イエズス会を創設したイグナチウス・ロヨラの言葉である。
 1541年7月7日ロヨラの指示を受けたフランシスコザビエルはミセル・パウロ及びフランシスコ・マシーリャスと共に、印度総督マルティン・アフォンソ・デ・ソーザが率いるサン・ディアゴ号にリスボンから乗船してゴアに到ったのは1542年5月6日のことであった。
ザビエルは1549年に来日し、開教するのであるが、日本開教以降、日本イエズス会は着実に日本における地歩を確立する。1570年までに約3万人の改宗者を獲得し、九州から畿内地方までの西日本各地に40ほどの教会を増築するにいたった。またこの時期には、畿内と九州地方を中心として「集団改宗」がおこなわれ、ヴァリニャーノが来日する1579年までにおよそ10万人の信者が誕生していた。在日イエズス会員の人数も教団の発展とともに増え、1565年当時は12人だったのが1575年は14人、翌76年には22人に増加、79年55人、80年50人、81人74人、そしてバテレン追放令が発せられた1586年には112人を数えている。この間大友、有島、大村の在地領主がキリシタンへと改宗しバテレン達にとって「布教保護者」となったことは以前に述べた。
 イエズス会の創設はプロテスタントによる「宗教改革」に対するカトリック教会側からの「対抗宗教改革」の動きの一つであり、それだけにカトリックの布教活動に弾みがついたのであろうが、それにしてもイエズス会の勢力が急進伸長するにはわけがある。
 まず1534年にポルトガル国王を布教保護者としてゴアに同教区が設立されたが、このことはカトリック布教が国家的プロジェクトとなったことを意味した。他方において1540年9月にローマ教皇パウルス三世が「大勅書」を発し、イエズス会を修道会として認めた。
 これらのことはポルトガルという国家とイエズス会とが「教俗一体」となってインドにおけるカトリック布教を推進することを意味し、また国家の側からみると、ポルトガル領東インドの獲得と経営―――  武力によると平和裡におけるとを問わず―――  は「福音の宣布による霊魂の救済」の名のもとに正当化されることを意味した。イエズス会にとってみるとその活動がポルトガル国家を後盾としている以上、国家の勢力の減退は自らの衰退へとつながりを持つことを意味した。
 要するにポルトガル国家とイエズス会の利害は一致していたのである。

デマルカシオンの行手

 「東インド」を指向していたのはポルトガルだけではない。コロンブスによる新大陸の発見を大きな節目とする時代は地球規模における地理上の発見の時代であったために、海外雄飛をいちはやく指向したポルトガルとスペインとの間には新しく発見した「領土」をめぐって争いが生じた。15世紀に半ばにローマ教皇によって発せられた「大勅書」は異教徒世界を二分する事業(デマルカシオン)に根拠を与え、分割した「領土問題」を解決するために新大陸発見の2年後の1494年、スペインとポルトガル両国は地球を分割するトリデシャリス条約を締結した。
 この条約は西アフリカ沖ヴェルデ岬諸島の西端から約557㎞の地点(西経50度位の線をもって南米大陸の東側を掠める)において北極と南極を結んで境界線を定め、その西側に発見する土地をスペイン領、その東をポルトガル領とするものであった。西経50度は地球の反対側においては東経130度ぐらいであり、日本列島を真中で分断するあたりがトルデシャリス条約の太平洋における境界である筈だが、当時はそのあたりまでは推定は働いていなかった。だいいち太平洋も発見されていなかった(BAAB誌第50号)。
 トリデシャリス条約締結後80年にわたり両国は競争で地球の分割に精を出し、ポルトガルは東まわりに、スペインは西まわりに進んで次々と発見する地をそれぞれの領土としてきた。
 そして西まわりのスペインはようやく1571年にフィリピンを領有するに至り、東インドに展開するポルトガル植民地群に楔を打ち込んだ。そのため条約上ポルトガルの領域であると主張するポルトガルとの間に争いも起きた。中国と日本がポルトガル国王のデアルカシオン司法権の範囲に包含されているということはポルトガル人によって異論のないところであったからである。しかしともかくフィリピンはスペイン領になり、大圏航路(フィリピンから日本列島へ至り更に北へと進み、やがては南へ転ずる航路)の啓開によりメキシコを結び、東洋における交易の一大拠点となった。マニラにはスペイン総督府が置かれた。因みにフィリピンはその後東南アジアにおいて殆ど唯一のキリスト教国となる。
 こうしてポルトガルとスペインとは東インドにおいて覇を競うのであるが、1581年にポルトガルがスペインに併合されると(同君連合と呼ばれはしたが)状況は一挙に変化する。ポルトガル海軍はスペインのそれと一体になり、東洋においてスペインの旗を掲げて遊弋するポルトガル軍艦も現れた。両国の国王はかのフェリペ2世である。ポルトガルとスペインの併合はデマルカシオンの体制をポルトガル/スペインの一極へ集中させ、この国は日の沈まぬ帝国となった。
 ヨーロッパの国王は、マルコポーロ以来中国に対したゆまざる憧れを抱いていた。
 本稿が扱っている頃のヨーロッパは開墾も十分でなく、農業も貧しい後進地域であった。ヨーロッパが蒸気機関の発明を皮切りとして始まった産業革命を迎えるまでは東南アジアに対して決して優越的な地位にあったわけではない。むしろ中国は絹や香料その他奢侈品を多産し、ヨーロッパの支配階級にとって長い間インドと並ぶ「憧憬の地」であった。とくに生糸はイエズス会にとって貴重な産品であった。「日本のキリスト教徒とイエズス会は一本の糸「中国からの生糸の輸入」に依存していたと述べるイエズス会士もいた(ヴァリニャーノ『日本巡察記』)。中国との交易を求める姿勢は紀元前1世紀にローマ人が中国を訪問していること、西暦166年、226年、268年に中国を訪問していることからも明らかである。マルコポーロが見た世界とは、中国から発した冨が南シナ海からインド洋に溢れ出てイスラム世界から往来した商品と交換されるという図であった。
 ポルトガル/スペイン帝国による東インドへの進出は西と東から中国とその隣に位置する日本をもってその終点を迎えることになったのである。

「海禁」の突破のために

 縷述してきたとおりポルトガルは国難を克服して中国に接近する方策を長年にわたってとってきたがなかなか成功しなかった(首尾よく入国できたキリシタンもいたがその数は少数にとどまった)。海禁政策を採用していた明国の門扉をこじ開けることは容易なことではない。明の開国と布教を指向するイエズス会は当然武力による開国も視野に入れていたであろう。
1582年ヴァリニャーノのマカオ発のフィリピン総督宛の手紙は次のように言う。

(東洋における)征服事業は霊的な面だけではなく、それに劣らず陛下の王国の世俗的な進展にとっても益するものである。それらの征服事業の中で最大のものの一つは、閣下のすぐ近くにある、このシナを征服することである。・・・これは主や国王陛下への奉仕にとって非常に重要な行為なのであるが、その事業に関して手にすべき真の計画なり、情報なりを提供できるような者はほとんどいない。そこで、私が当地で得た経験をもとに、その件のためにわかる若干の重要な事柄について、閣下と相談することが可能ならばとても嬉しい。

 1583年(天正11年)フィリピンのマニラ司教フライ・ドミンゴ・デ・ダラサールは、「中国の統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、陛下は武装してかの王国に攻め入ることのできる正当な権利を有する」と、スペイン国王フェリペ2世に説いている。
 その主張は、スペインのわずかな鉄砲隊でも何百人もの中国人を滅ぼすのに十分だし、中国からごく近くの日本人は中国人の仇敵だから、スペイン人が中国に攻め入るときには非常な敵意を燃やして加わるだろう、この点、日本人に対し在日イエズス会士の命令に従って間違いなく行動を起こすよう指令を送ればよい」と言うのであった。また、かつてイエズス会の日本布教長という地位にあったフランシスコ・カブラルも、1584年(天正12年)スペイン国王に「中国王国の全土の年貢徴収の台帳をすでにスペイン語に翻訳させ、1億5000万人の年貢納入者を確かめる仕事を完了していること、中国国民は国境守備隊を除けばすべて非武装の国民であり、国王だけが倉庫に武器を所有していること、中国全土に青銅の弾丸は一つもないこと、政治が過酷なためすでに謀反が起こる情勢であること、日本駐在のイエズス会パードレたちがたやすく日本人キリスト教徒2,3千の、陸海の戦闘に実に勇敢な兵隊を参加させることができること」、かくすればスペイン王は短期間に世界の帝王になれるなどと書き送っている。

秀吉の野望

 秀吉も中国へ食指を伸ばしていた。
秀吉は1585年(天正13年)9月3日、家臣である一柳市介に宛てた朱印状の一節において、

  秀吉、日本国のことは申すに及ばず、唐国まで仰せつけられ候こころに候

と述べ中国大陸侵寇の意図を明らかにしている。

 コエリュは1586年(天正14年)5月8日に他の司祭ら4名、ほかに随員を伴って大阪城に赴き秀吉と歓談したが秀吉は、

  1. 日本国内の統治が実現したうえは、中国とシナを征服することに従事したいこと、
  2. その準備として2千隻の船舶を建造する準備をしているが、伴天連らに対して、十分に艤装した2隻の大型ナウを斡旋してもらいたいこと、
  3. それらの代価は言うまでもないこと
  4. 提供されるポルトガル航海士達は熟練の人々であるべきで、彼らには俸禄及び銀をとらせるであろうこと、

などと語ったことは以前に書いた(本誌17号)。秀吉はそれに引き続いて
 

また万一予がこの事業(の間)に死ぬことがあろうとも、予はなんら悔いるところはないであろう。なぜならば先に申し述べたように、予は後世に名を残し、日本の統治者にして古来いまだかつて企て及ばなかったことをあえてせん(と欲する)のみであるからだ。
 そしてもしこの計画が成功しシナ人が予に屈し、服従を表明するにいたっても、予はシナに何も求めず、予自身シナには居住せず、彼らの領土を奪うつもりはない(シナを征服した)暁にはその地のいたるところにキリシタンの教会を建てさせ、シナ人は悉くキリシタンになるよう命ずるであろう。その上で予は日本に帰るつもりである。(フロイス『日本史』)。

と述べており、何のための中国征服であるかは分明でない。要するに日本が明国に攻め入るから、ポルトガル/スペインはこれを援助して欲しい旨を述べているのである。

ポルトガル/スペインによる侵攻策

 その後ポルトガル/スペイン帝国とイエズス会の動きはどのようであったか。
 1585年(天正13年)、当時有馬にいた準管区長のコエリュは同年3月3日付けのローマ宛の書簡で「兵士、弾薬、大砲、兵士のために必要な食料、及び1,2年分の食料購入用の金銭が十分に備わったフラガータ船を3~4艘、当地日本に派遣してもらいたい」と記し、マニラ経由でのスペイン軍勢の日本派兵を要求している。この書簡は長崎の防衛のために書かれたものであるけれどもイエズス会とポルトガル国王でもあるフェリペ2世との軍事連携を明らかに念頭に置いた内容となっている。
 そしてコエリュは、日本のキリスト教徒の領主の援助を得て、この海岸全体を支配したいと明言したばかりか、「もしも、国王陛下の援助で、日本66ヶ国すべてが改宗するに至れば、フェリペ国王は、日本人のように好戦的で怜悧な兵隊を得て、一層容易に中国征服を成就することができるであろう」と書き添えていた。
 しかもフィリピン総督サンティアゴ・デ・ベーラは1587年(天正15年)メキシコ副王に対し、平戸王(松浦氏か)は、スペイン国王陛下から要請ありしだい、友人のドン・アウグスチン(小西行長)とともに、十分に武装した6000の日本兵を、わずかな傭兵料で、ブルネイ、シャム、モルッカ、中国にも差し向ける用意があると正式に言明した、という日本船船長の話を報じている。また平戸にかつて漂着した経験のあるアウグスチノ会士の一人フライ・フランシスコ・マンリーケも1588年(天正16年)にマカオから、日本のキリスト教徒の王は4人に過ぎないが、10万以上の兵を動かすことができ、日本兵は非常に勇敢にして大胆かつ残忍で、中国人に恐れられているから、彼らがスペイン軍の指揮下に入れば中国の占領はたやすい、とスペイン国王に報告している。
 要するにポルトガル/スペインは秀吉とは逆に自分たちが主導して日本勢を援兵として使うことを目論んでいた。その裏には倭寇の船団などを含む日本側の様々な方面から、軍隊提供の意向が述べられていたことも想像される。
 明国のへの侵攻はポルトガル/スペインと日本とがそれぞれの思惑から計画されたものであるが、東南アジアの政治・軍事情勢の中に適切に位置づけられるべきものである。即ちポルトガル/スペインが大陸侵攻に成功した場合の日本はどうなるか。秀吉の中国侵攻策はそうした分析が政府の中に働いていたのかどうかという視点から再検討されるべきではあるまいか。
 ポルトガル/スペインによるこうした中国侵攻は後述する理由から現実のものとならなかった。日本のみが1592年(文禄元年)と1597年(慶長2年)の2回にわたって侵攻した。日本の侵攻は既述のように積極的な目的を欠いていたため、北京での講和会議において秀吉は中国の皇女を日本の皇妃に迎えるなどと中国に対する従属の裏返しのような条件をつけている。

国内におけるキリシタンの軍事行動

 話を大陸への侵攻から始めたが、ここでバテレンたちの日本国内における軍事行動を少し遡ってみよう。
 イエズス会が中国産の生糸や絹織物、麝香、白檀などの香薬類、マスケット銃及びこれに付属する鉛や硝石などの軍需品などを交易船(武装商船でもあった)の寄港地において日本人に与え、それと引換にキリスト教徒の獲得に努めていたことは以前に書いた。イエズス会の財政はこの交易から上がる収益とポルトガル国王からの金銭的援助によって成り立っていた。イエズス会は日本人の武器に対する嗜好が異常に強い点に着目し、軍需物資を当初は「外交儀礼品」として提供することによって領主たちを親キリスト教へと導いたことは想像に難くない。
 ところで、当時日本は豊臣秀吉による統一へと向かいつつあったものの各地に戦乱が引き続いており、とくにポルトガル船の誘致に熱心であった九州の大名たちは周囲の大名相互の確執に対処するため領国の強兵化を図る必要に迫られていた。
 大村純忠の、ポルトガル船舶に積載されている軍需物資に対する認識について、『長崎港草』は
「大村民部少輔純忠福田ノ地頭福田左京ニ申越レケルハ彼黒船ハ鉄砲西洋砲ナドモ積乗せ来レバコレヲ他所ニヤルベカラズ諸ノ軍器多シト云ヘドモコレニ勝ル者アルコトナシ」
と言及している。「コレヲ他所ニヤルベカラズ」として鉄砲の輸入を独占したい気持ちが述べられている点が注意を惹く。
 また、『豊薩軍記』巻之一には、田原紹忍がポルトガル船から得られる軍需物資の威力について大友宗麟に対し、

「鉄炮火矢を放ち掛は假令何十萬騎の敵なりとも退治は何そ難しからん・・・鉄炮石火矢は差て力の勝劣にも依らす誰か放かけたりとも如何なる鉄城石郭なりともなとか破らて有ヘキと辨に任せて云ちらす」


 このような在地領主の認識は、イエズス会宣教師によって外交儀礼品としての性格を与えられていた軍需物資が以後日本イエズス会の本格的な軍事活動に拍車をかける重要な物資となる

戦争被害と在地領主に対する軍事援助

キリシタンたちは戦争による被害を受けた。

キリスト教徒たちは絶え間ない戦争が原因で極めて容易に異教徒達に支配されてしまう。

と述べたのはヴァリニャーノである(口之津発1579年12月5日付け書簡)
国内の戦争によって、日本イエズス会は布教などの諸活動をおこないえず、また改宗した日本人信者の信仰の維持が難しく、かつ会員の生命が脅かされていたこと、コレジオなど修道生活に不可欠な施設の建設ができないようになってきたこと、要するに日本イエズス会は、霊的な面において機能不全に陥っていたのである。
日本イエズス会はいかにして在日宣教師たちと日本人信者の身の安全を図ったらよいかに悩んでいた。宗教活動よりも「戦火からの避難」対策が急務であった。そのため彼らは交易船の後を追うように移動することを余儀なくされた。交易船は動く要塞であり、武器供給体だったからである。
 戦火と絶えざる移動は教会財産をおびやかした。
この事態を解消するためにはどうしたよいか。ヴァリニャーノは、

日本では騒乱と戦争が絶え間ないので、我々の存続にはキリスト教徒をいろいろな場所に配し、各領主の許に置くことが非常に重要である。というのも、ある場所で戦争が起こっても、我々は牧群とともに収容されることのできる安全な場所を手にすることができるからである。

と述べている(口之津発総長宛1597年12月10日付)。
 イエズス会が日本での宣教・改宗活動を推進し、教勢を拡大することに対してはさまざまな中傷、誹謗その他、実力行使をともなった攻撃(たとえば教会への放火、宣教師や信者への暴力など)が行われた。この種の武力行使は、信者が自衛するなど当面の危機が回避できれば、その時点で所期の目的が達成される性格のものである。しかしもし日本イエズス会全体の存亡に関わる事態が生じた場合には対応しきれない。そのような事態を回避する一つの方法は、日本におけるイエズス会の保護者たる「キリスト教領主」に対する軍事援助を行い、その代わりに庇護を得る方法である。ヴァリニャーノは日本人達は、彼らの領主に依存するところが大きいので、領主たちからの好意と援助がなければ、キリスト教徒たちが保持され、進歩することはなく、改宗も拡大が不可能である」と表明している(1580年)。
 この場合の軍事援助における教会側の介入の在り方の1つは宣教師たちがポルトガル商人との間を周旋し、ヨーロッパ製の武器などをキリスト教徒の領主に調達し供与するものである。この種の行為は、1560年代における大友氏への大砲の斡旋や、1566年に大村氏が福田港に停泊中のポルトガル人から銃の提供を受け、松浦隆信の襲撃を撃退し危機を回避したことがあげられる。これら大友、大村両氏に対する武器の提供におけるイエズス会の介入は、直接「武力行使者」としてではなく、「軍需品調達者」としてである。このようにポルトガル商船とキリシタンのタイアップは、九州各地を転々とする中で在地領主に武器をもたらしていたのである。
 その2は、それまでの調達者としての立場から、武力行使の直接的な「当事者」として、その主体性をより強めているものである。有馬晴信が龍造寺隆信と交戦中、家臣の裏切りなどもあって、領内の城砦がつぎつぎと陥落して苦境に陥っていた際、「キリスト教徒は実に容易に異教徒によって支配され、崩壊してしまうので、きわめて深刻で確実な危険に常時さらされている」という強い危機感を抱いた巡察師ヴァリニャーノは、有馬氏に軍事援助を行った。巡察師は、貧者全員に施していた喜捨に加えて、食糧を大量に購入させた。その喜捨は貧者たちがカーサに請い求めていたものである。また焼失した諸要塞も救うよう命じ、自分でできる範囲とそれらの困窮の度合いに応じて、それらの要塞に食糧と金銭、さらに鉛と硝石をも支給した。それらの事柄をこのように遂行するために、巡察師はナウ船とともに入念に打合せをしていた。そして、これらの物資に約600クルザド近くを費やした(ロレンソ・メシアは、先に紹介した、1580年10月20日付けの「年度報告書」でこう報告している)。
巡察師ヴァリニャーノがかかる援助を行ったことは日本イエズス会が従来の武力の「調達者」から武力の「行使者」として立場を転換し、軍事活動においてポルトガルとの軍事的連携を、より深めてゆこうとする姿勢が窺われる。
 その3は、キリスト教徒領主への「軍資金」の提供があった。ヴァリニャーノ自身も「戦争の時には、巨額の費用をかけて幾人かのキリスト教徒領主たちにも援助を施さねばならない場合があった。彼らには、大村の領主ドン・バルトロメや有馬の領主に対して何度もおこなったように、金銭で援助する必要がある」と述べている。
 しかしキリシタンを常に庇護してくれる「領主」がいるわけではないし、強力であったわけでもない。イエズス会の保護者である大友氏、大村氏や有馬氏など、キリスト教徒領主の軍事力が、教会関係者を救済する能力を有さないほどに、脆弱であると認識された以上(秀吉の九州征伐によりそのことは明白になったし、大友宗麟と大村純忠は1587年に歿する)、宣教師達はキリスト教徒領主の下から軍事的に「自立」せざるをえなくなった。保護者としての地位も極めて不安定な在地の個別領主権力を避難所とするのではなく、日本のキリスト教界最大の力として位置づけられていた長崎を避難所とし、その後これを要塞化する途を選んだ。
 長崎のことについては既述した(BAAB誌55号参照)。

バテレン追放令の影響

 1587年(天正15年)6月20日、秀吉によって発せられたバテレン追放令は叙上のような背景のもとに理解されなければならない。(「バテレンの追放令」本誌18号参照)。
 追放令は在日キリシタンに強い衝撃を与えた。コエリュは直ちに肥前に走り、有馬晴信(ジョアン・プロタシオ)やその他のキリスト教徒の領主たちに、力を結集して関白への敵対を宣言するように働きかけ、在日イエズス会に多数のマスケット銃の買入を命じ、火薬・硝石その他の弾薬を準備させる一方でスペイン軍を日本に導入し、パードレを要塞化し、関白の政策に対抗する計画を樹てた。
 宣教師追放発布間もない1587年10月15日付け、いきつき生月発、ペドロ・ラモンの総会長宛て書簡にも、また1589年1月30日付け、加津佐発、フロイスの総会長宛て書簡にもフェリペ国王がその軍隊をもって要塞を設け、何らかの迫害が勃発した場合に、そこにパードレたちが避難でき、また彼らが資産や衣服、生活に必要な諸物資をその要塞に保存することができるようにすること、そうしなければ日本における布教活動を続けることはできないことを述べている。
 ここにはポルトガル/スペインの軍事力と主体的に関わり、それを教団の日本における基盤確立のために積極的に利用する意図と、ポルトガル/スペインの対日軍事進出を強く勧告するイエズス会宣教師の強い意志が表れている。
 1589年2月、準管区長のガスパル・コエリュ以下の幹部パードレらは、有馬の高来でイエズス会の協議会を開催し、フィリピンのスペイン関係者に日本へのスペイン兵派遣を要請することを決議した。
 ほぼ同じ頃、1590年(天正18年)、ヴァリニャーノに従ってバテレン追放令下の長崎に上陸したイエズス会士の一人、ペドロ・デ・ラ・クルス(スペイン生まれ)は、フェリペ2世が日本で権能を持ち防備力を備え、日本の武力征服つまり植民地化を図ることこそが、日本布教のただ1つの希望だと述べている。また、聖なる摂理は、マカオを基地とする生糸貿易に、我々との同盟に応ずる日本の領主のみを参加させ、国王陛下は日本の銀鉱を発見するためだけではなく、日本の国々の平定統合と、キリスト教的な善政を布くための要素に邁進すべきであるという。さらに、中国の征服・改宗を主張しスペイン人はその事業、ことに日本兵は勇敢で安価に調達できるが、機会を得て敢行すべき中国征服の事業にとって好都合であるとしてポルトガル・スペイン人と日本人との連合による中国征服の構想を提案し、貿易よりも軍事力の方が日本と中国に布教と軍事のための基地を獲得する方法として断然まさっている、といった。この1590年は秀吉が明に向けて出征を命ずる2年前である。
 ポルトガル/スペインが秀吉に遅れをとらぬよう警鐘を鳴らしでもしたのであろうか。
 この年コエリュは加津佐において歿している。

軍事行動の封印

 日本イエズス会の軍事的活動は豊臣政府の「キリスト教勢力の日本征服」疑惑を招く結果となり、1590年の8月に加津佐において開催された第2回日本イエズス会全体協議会において、金銭や食糧を除く軍需物資の調達や供与など、在日宣教師たちが日本での戦争問題に介入することは一切禁止され、極力「局外中立」の立場を堅持することが決議された。
 一方在日イエズス会宣教師たちの政治的・軍事的介入に起因して豊臣秀吉による深刻な迫害が引き起こされた、との各種報告を日本から受け取ったイエズス会ローマ本部では1597年4月10日付けで、在日イエズス会宣教師たちの軍事介入を厳禁する「指令」をヴァリニャーノ宛てに公布するにいたった。
 しかし全体協議会やローマのイエズス会本部によって軍事行動に掣肘が加えられたとはいえ、教団内部には依然として、日本には戦争が絶えないこと、キリスト教者に敵対する勢力が勝利を得る場合には、その者たちは大勢のパードレを殺害し、キリスト教徒たちとイエズス会に深刻な破壊をもたらしうるとの見解がくすぶっていた。このような懸念が在日宣教師たちに共有されている限り、戦争介入を含む武力導入を是とする考えが、ふたたび表面化することになっても、決して不可思議なことではなかった。1596年(慶長元年)に起きたサン・フェリペ号事件と、それにつづく二十六聖人の磔刑事件を機にペドロ・デ・ラ・クルス代表される「教会過激派」の宣教師によって、対日武力征服とそれに基づく武力総改宗論が勢いを盛り返すことになる。

フェリペ2世による日本への侵攻計画はあったか

 イエズス会を尖兵とするキリスト教(カトリック)が東へ東へと進む動きは世界史の潮流として認められる。だがデマルカシオンの終末点である日本や中国を軍事行動を用いてまで征服しようとする動きがスペイン(フェリペ2世)の国家戦略として立案されていたかとなると議論のあるところである。
 以下にフェリペ2世の統治方法(governance)について瞥見してみよう。
 この時期ポルトガル/スペイン両国の統治者であったフェリペ2世は、筋金入りのカトリック教徒であったからイエズス会(その構成、その国籍はポルトガル、スペイン、イタリアその他の国に分かれていた)もゴア、マカオ、マニラにあるヒエラルキーをを通してフェリペ2世に意見を述べ献策しようとしたことは上に屡々述べたとおりである。
 フェリペ2世の政府には閣議も陸軍省も、もちろん参謀本部も(この制度が世界史にあらわれるのは19世紀プロイセン帝国においてである)、国防アセスメントのための機関も存在しなかった。フェリペ2世はいくつもの評議会からなる複雑な組織から助言を受けていたがそれぞれの評議会の管轄は曖昧でかつ細分化されていた。フェリペ2世は①評議会の議決や勧告に必ずしも拘束されず、評議会以外の者(特定の重臣など)に依拠して政策を決め、②国内外から国王に直接書面を送ることを認め、③自らの名で発出される書簡のすべてに目を通し、関係する評議会の勧告はすべて親裁するというユニークな政策決定の方式をとったが、②と③を通じて費やされる事務量は驚くべきものがある。一説には国王は一日400通に上る書簡に署名し一日30件の誓願を処理していたとされ、国王が些末なことに忙殺されていたため、屡々事務処理が遅れがちになった。例えば、1578年、ある重臣から送られてきた書類について国王は次のように不満を漏らしていた。
 

先ほど貴殿より書類一式を受領したが、余は、見る時間も余力もない。明日開封する予定である。もう夜の10時過ぎであるが、余はまだ夕食すらとってもいない。今日はこれ以上仕事ができないが、机の上には明日目を通す書類が山積みになっている。

時折フェリペ2世は自分の体調について不満を漏らし、ある日、「昨日に比べれば今日はあまり疲れていないが、目がほとんど見えない」と記し、またある日は「目を半分閉じながら仕事をしている」と記している。
 フェリペ2世中心の統治機構は、戦略計画の分野で次の2つの欠陥があった。第1は、国王が政府の日常業務にまで巻き込まれていたため、長期的な視点から問題を考察することができなくなっていたことであり、第2はフェリペ2世が政策決定に必要な情報を様々なソースに依存し、「混乱させ、統治する」システムによって、他のメンバーが国王ほど事態を把握できなくなっていた。それゆえ政府が状況への対応に追われ、状況を方向付けることができなくなっていた点にある。新たな危機が生じたり、国王が新たな政策を要求したりするとき、フェリペ2世の政府は問題の解決の方法は一からやり直しを余儀なくされていたのである。
 この時期スペインをめぐる状況は多難であった。
1570年代から1580年代にかけてフェリペ2世はフィリピンの殆どの地域を征圧し、1580年から83年の間にポルトガル帝国の全体を併合し、さらに1583年から87年の間にネーデルランドの殆どの領地を回復した。スペイン経済は少なくとも他のヨーロッパ諸国に比べて拡大基調にあった。しかし他方においてこのような活動に費やす国費は膨大であり、国庫は豊かではなかった。 1585年、ドレークによるスペイン沿岸の侵掠以来イングランドとの緊張が高まり、フェリペ2世はイングランド王国征服の夢に駆られておりその面でも多忙であった。
 そして何よりも1588年(天正16年)イギリスのドーバー海峡において行われた海戦においてポルトガル/スペイン帝国の誇る無敵艦隊(アルマダ)がイギリス海軍に敗れている。
 1570年から1590年前後においてこのような状況に置かれていたスペイン政府が東インド領において更なる拡張政策のための具体的プランを樹てようとするであろうか。それどころではないというのが実感であったろう。
 フェリペ2世の政策決定の方法に照らしポルトガル/スペインが中国や日本征服を本気で考えていたとすれば、それはフェリペ2世による戦争プランに具体化されなければならない。スペインに近い海域で戦われたイングランド戦も夥しい兵員と複雑を極める船舶と兵員との動員計画を必要とした。東シナ海を航海して陸兵を載せた海軍を送り、武器(馬匹を含む)弾薬の補給を必要とする日本の武力侵攻は兵站の面で破綻を免れなかったであろう。そのようなフェリペ2世の戦争プランの実在は不明である。
 こうしてみるとスペイン/ポルトガルの武力行使による日本征服プランは現実性が薄く(スペインに近い海域で戦われたイングランド戦における船舶や兵員を上廻る兵站能力1つを考えてもそのような計画は成り立ちにくい)イエズス会の武装や武力の行使はポルトガル/スペインの海外植民地事業の統一的戦略の中に位置づけることは難しい。

正戦論

イエズス会の日本国内における軍事行動の中には迫害や暴力に対する自衛のために行ったものも垣間見える。
 戦争は可能なかぎり回避しなければならない。しかし、すべての戦争が悪として全面的に禁止されるのではなく、正義にもとづく「平和の回復」を目的としておこなわれる戦争はその遂行が許される。その1つが自衛戦争である。このような考え方は古来から存在し、13世紀にトマス・アクィナスが体系化したと言われる正戦論である。長崎の要塞化についても又二十六聖人磔刑事件後に生じた主戦論にも援用された。このような立場から「イエズス会の世界戦略」(髙橋234頁)は、「イエズス会の対日武力行使問題が、中世ヨーロッパの時代からカトリック教会に受け継がれてきた『正当戦争』理論という大きな思潮の流れの上に立ったものでもあることを捨象しては、正鵠を射た理解は困難であろう」と指摘している。

〈参考文献〉(今回参考にしたもの)
  • 藤本久志「天下統一と朝鮮侵略―織田・豊臣政権の実像」(講談社学術文庫、2005)
  • 高橋裕史「イエズス会の世界戦略」講談社選書メチエ372(講談社、2006)
  • ルイス・フロイス「フロイス日本史1」松田毅一、川﨑桃田訳(中央公論社、1977)

以下の記事の(1)~(14)までは若干の補訂を加えて当事務所ホームページ(https://www.mclaw.jp)に発表済みであり、今後さらに補筆して順次発表する予定にしているのでご覧いただければ幸いです。

太平洋の覇権

  1. ―地理上の発見の時代
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"No.50(2007.4.20)46頁
  2. ―スペイン/ポルトガルの衰退
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌11号(2007.8.25)8頁
  3. ―日本の鎖国
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"No.51(2007.10.31)18頁
  4. ―世界システムの形成
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌12号(2008.1.1)9頁
  5. ―スペイン、イギリスそしてオランダ
    ・・・・・・・・・・・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"No.52(2008.7.1)20頁
  6. ―世界地図の発達
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌13号(2008.8.8)6頁
  7. ―ああ、英仏百年戦争 ―その歴史的意味(その1)
    ・・・本誌14号(2009.1.1)5頁
  8. ―ああ、英仏百年戦争 ―その歴史的意味(その2)
    ・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"№53(2009.3.31)22頁
  9. ―薔薇戦争とイギリス海軍の建設
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌15号(2009.8.3)7頁
  10. ―大航海時代に至るまでのポルトガル
    ・・・・・・・・・・・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"№54(2010.1.10)23頁
  11. ―アジアにおけるポルトガル(1)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌16号(2010.1.1)9頁
  12. ―アジアにおけるポルトガル(2)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌17号(2010.8.1)3頁
  13. ―日本のバテレンたち
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"№55(2010.11.1)36頁
  14. ―バテレンの追放令
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌18号(2010.1.1)5頁
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