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弁護士 堤 淳一

2012年01月01日

太平洋の覇権(16) -----日本の「大航海時代」(1)

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

フランシスコ会

 この時期日本におけるキリスト教の布教はイエズス会に独占されていたような感があるが(もっともイエズス会以外のキリスト者が全く来日していなかったわけではない)、1580年代の後半になるとその「独占」は徐々に崩れる。
 その理由は、日本布教を拡大するためにはイエズス会の宣教師のみでは絶対的な人手不足を来すようになってきたこと、フランシスコ会やドミニコ会ら托鉢修道会(修道会会則により、私有財産を認めない修道会)の修道士が日本にやってきたことにある。
 フランシスコ会は1224年にローマ教会の承認を受けた団体であり、もとは清貧運動を特色とする説教活動を行っていたがやがて聖書研究にも注力するようになった。フランシスコ会は設立後間もない頃から東方宣教に力を入れ、1500年にはヴァスコ・ダ・ガマのインド遠征に随伴してカリカットへ上陸し、1518年にゴア、コチン周辺に修道院を開設している。
 フランシスコ会は日本へやってくる16世紀には既にフィリピン(1571年頃からスペインの版図となっていた)においても宣教を行うようになっていたが、フィリピンにおける托鉢修道会の活動は必ずしもうまくいってはいなかった。
 1584年マニラからマカオへ向かっていた托鉢修道会のジャンクが遭難して、乗船していたフランシスコ会とアウグスチノ修道会の4人の修道僧が長崎に漂着し、領主の松浦氏の歓迎を受けた。フィリピン領内における布教が思うに任せなかった彼らにとって日本は有望な布教地にみえた。フィリピンへ帰った彼らの話は多くの托鉢修道会の会士を発奮させた。

 これに対しイエズス会はローマ教会の本部に働きかけ、1585年1月、ローマ教皇(グレゴリウス13世)は日本への布教はイエズス会に限るとの小勅書を下した。これによりイエズス会以外の修道会による日本での布教は破門罪をもって禁遏された。このことはスペイン系の托鉢修道会にとっては納得しうるものではなく、反撥もしたであろうし、請願もしたであろう。1586年、次の教皇シスト5世は忽ちにしてフランシスコ会がアジア・中国に修道院を設ける許可を与えたため前年の勅書は骨抜きになった。イエズス会内部にもフランシスコ会らスペイン勢力の日本への浸透については賛否両論があり、スペイン人のイエズス会士はフランシスコ会に同情的であったが、これに対抗するポルトガル国籍の会士との間に対立が生じはじめた。日本への布教をめぐって生じたイエズス会と托鉢修道会の対立がまがりなりにも(法的な意味で)解決するのは1633年2月の教皇ウルバヌス8世の大勅書によってである。

 豊臣秀吉は1591年にフィリピン総督に対し入貢を命ずる親書を原田善右衞門に託した。当時日本は戦国時代がほぼ終熄しようとする時期であったが、10万に余る兵を優に養いうる能力を持っており(後述する文禄の役において日本軍は15万人を動員した)、マニラのスペイン総督府は日本の軍勢が攻め寄せるおそれを感じてか(但し日本の海軍は万余の軍勢をフィリピンまで輸送するに堪えうる程に充実していたかどうかについては、当時における日本の造船技術に照らし疑問のあるところだが)、周章狼狽すると共に遷延策をとることにし、ドミニコ会士のコーボ等を使節に任じ訪日させた。コーボは明国攻め(1592年に文禄の役が始まる)の前進基地である名護屋に在陣していた秀吉に謁見したが、帰路、台湾で遭難してしまった。

 そこでフィリピン総督ダスマリニャスは1592年今度はフランシスコ会士のペドロ・バプチスタらを第2次使節団として日本に派遣し秀吉に総督書簡を奉呈した。
 バプチスタは3人のフランシスコ会士を伴っていたが、このことは彼らが日本における布教を目論んでいたことを想像させるに難くない。しかし日本政府は前述の経緯に照らして彼らをスペインの入貢使節とみなした。そこで交渉が進む間、日本に逗留したいと願ったバプチスタの請願を容れ、秀吉は自らの帰京に同行させ、加茂川附近に住居まで与えて行動の自由を保障した。
 バプチスタは京都において直ちに布教を開始した。即ちバプチスタは秀吉に働きかけて1594年には教会等を、1595年には病院を開設し、大坂にも会堂を得た。しかしこの公然たる使徒的活動がこのあとフランシスコ会にとっての不幸を招く。

 1587年の秀吉のバテレン追放令に接して、嵐が過ぎ去るのを待つようにして九州各地へ分散し活動を隠密にしていたイエズス会士にとってフランシスコ会の雀躍ぶりは面白かろう筈はない。オルガンチーノは在京を許されていた数少ないイエズス会士であるが、ひそかにフランシスコ開始の行動を監視し続けた。
 1594年には第3次使節団(フランシスコ会にとっては第2次)が来日した。ジェロニモ・デ・ジェズースやリバデネイラなどの使節団はスペインの強大なることが書かれた書状を携帯していた。秀吉は彼らを伏見城で引見し、京都へ滞在し視察を行うことは許可したが、キリシタンの教えを広めることは許さず、と語ったという。

 ともあれフランシスコ会は先発のイエズス会が秀吉の追放令をかいくぐって布教してきたことを理解せず―――  後発者としては日本の情勢をすぐには把握することができなかったのか、不幸な通訳の誤りがあったのか―――  、公然と布教に熱を入れた。秀吉は追放令の後キリスト教者の布教活動を見て見ぬふりをしていた。それに呼応してイエズス会もいないふりをして潜伏活動をしていたのに、である。

サン・フェリーペ号事件と26聖人事件

 1596年10月、マニラ港から船出してメキシコを目指していた一隻の豪華貨客船があった。スペインの太平洋航路に就航していたサン・フェリーペ号であった。ところがこの船は台風のため土佐の浦戸湾において座礁し沈没した。現地を治めていた長宗我部元親は直ちにこのことを秀吉に報告したところ、秀吉は積荷を没収することを決め、現地に増田長盛(奉行職)を派遣した。
 増田奉行は積荷(上場のしゆす繻子5万反、唐木綿26万反、生糸16万斤など)を没収し、更に乗員(233名)の所持金25,000ペソも没収した。そして12月に帰京した増田奉行は浦戸における事情聴取の結果、スペインは宣教師を尖兵として送り込んで侵略の手先としてスペインの広大な版図を手に入れた、との事実を認識しえたと復命した。

 この復命の根拠とされた事情聴取がどのようであったかについては取り調べを受けた者の陳述に微妙な食い違いがあるといわれているが、船長(フランシスコ・デ・オランディア)ほか乗組員が、増田が示す地図についてスペインの強大さを示そうとして増田の疑惑を招く発言をしたことは認められるであろう(もっとも布教が侵略の尖兵だというのは事実として正しくない。ポルトガル/スペインの植民は軍事的侵攻の後に宣教・宣撫が続くのを常態としていた)。

 秀吉は増田奉行が復命した12月8日から10日ほど経った日に京・大坂の宣教師を悉く逮捕せよと命じ、同時に改めてバテレン追放令を公布した。官憲はフランシスコ会修道院を包囲し、パウチスタ以下フランシスコ会士6名、イエズス会関係者3名と15名の日本人信者、合計24名を逮捕し、1597年2月15日に長崎で磔刑に処した。世に26聖人の殉教と呼ばれた事件である。上記の通り24名が逮捕され、2名が不足しているが長崎へ送られる途中に同行していたフランシスコ会、イエズス会の世話人計2名が首服して逮捕されたので26名となった。
 秀吉が立腹していたのは新来のバテレン(フランシスコ会士)に対してであり、長崎に逼塞している(そのようなふりをしている)パードレたち(イエズス会会士)は自分の命に従っているので、(輸入ビジネスを専らにしている)、咎め立てする必要はないと述べたと言われ、イエズス会はこの弾圧から除外されていた。しかし処刑された人々の中にイエズス会士3名が入っているのは名簿作成上の不幸な手違いであると言われている。

 豊臣秀吉は托鉢修道会員が京においてすでに布教を行っていた事実を当然知っていたであろう。しかるに何故この時期に弾圧の挙に出たのであろうか。余談めくが、背景事情を少し探索してみよう。
 この時期(1596年)は、秀吉が明国攻めのため文禄の役(1592年-1596年)を開始してから4年目であり、朝鮮及び明軍と、日本軍との間に展開された戦闘がとりあえずのところ終熄の気運に至った。明国(朝鮮の宗主国)と朝鮮の軍事外交上の立場、緒戦における日本軍の勝利とこの時期における頽勢振り、日本政府内における終戦工作(秀吉に対する官僚らの欺瞞工作を含む)など、このあたりの内外の情勢は複雑で不可解な点も多いが、いずれにせよ1596年、丁度サン・フェリーペ号事件が起きる少し前、明国から使節が日本に来訪し、秀吉は大坂城において彼らを引見している。
 つとに1593年5月、和平を求める明の使者が名護屋に来訪し、秀吉と会見し、秀吉は明の王女を日本の天皇の妃として送ることなど7つの条件(その他の条件:勘合貿易の再開、和議の誓約、朝鮮領土4道の割譲、朝鮮王子1人を人質とすること、加藤清正が捕虜にした朝鮮2王子の釈放、朝鮮宮廷の日本への帰服)を提示していた。しかし明がかような条件を受け入れるはずもなく、和平交渉は遅れに遅れた。
 その後行われた上記大坂城における会見においても明国の使節はこの条件を呑むどころか日本を属国とし、秀吉を日本国王に封ずる旨を答えたのである(明国側には日本が降伏したとの情報が伝わっていた)。秀吉は当然激昂し(秀吉には明国が降伏したとの情報が伝わっていた)、怒りはその極みに達したであろう。
 秀吉は翌1597年に慶長の役を開始する。
 また丁度同じ時期、ヘドロ・マルチンスが日本司教区の司教として赴任し挨拶のため秀吉に謁見し、通訳としてロドリーゲスが同席していたこと、両名ともにイエズス会士であり托鉢修道会の日本駐留に反対していたことも大いに関係があるかもしれない。後にフランシスコ会はこの謁見の機会に、ポルトガル人がスペイン人を海賊であるとし、日本の国を奪おうとしていると秀吉に吹き込んだ、と主張している。 
 こうしたことを理由に、いわばやつあたりのようにして26名の磔刑に踏み切ったとするのは短絡的であろうが、秀吉の胸中の深いところに影響を与えているであろうことも想像できる。

 事件後フィリピン総督ドン・フランシスコ・テーリョは日本へ使節を送り、サン・フェリーペ号の積荷の返還と刑死者の遺骸の引渡を要求した。  これに対し秀吉は返書をもって要旨次のように述べている(意訳の引用は松田毅一「南蛮のバテレン」による)。

  1. 往年、バテレンが当国に来訪し異国の宗教を説き、国風を紊し、国政を害したので、予は堅くそれを禁じた。しかるに貴国より来た僧侶たちは帰国せず、各地に赴き、賤しい人々に異国の法を説いてやまぬので、予はそれを聞いて忍ぶことができず、誅戮せしめた。
  2. 聞くところによれば貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲しているということだが、もし本邦から教師や俗人が貴国に入り、神道を説いて人心を惑乱することがあれば、国王たる卿は歓びはしまい。これを思え。
  3. けだし卿らは、そのような手段をもってその地の旧主を退けて新たな君主となったように、予に背き、当国を支配せんと企てたのであろう。予がそのように憤怒の念を抱いていた折、本邦土佐に難破船が漂着した。予は船中の貨財を散せず、また分配することなく還付する考えであったが、貴国は既に法に叛したことをしていたので、貨財を没収したのである。 卿は予の処置が誤っていると思うか。
  4. しかし旧交を修めるため、卿は風波の危険を冒して使節を派遣し、友好を正道に導こうと望んでいる。予は異端の法を説くことを欲しておらぬのであり、商売のために往来することは差し支えなく、彼らは予の印を押した免許状を持参すれば、海陸とも何ら害を被ることはありえない。
  5. 本邦から貴地に往来する者で、貴国の人民を惑わし、法を守らぬものがあれば刑罰を与えていただいて結構である。

この論は正論であり、スペイン側から反論することはなかなかに困難であったろう。

秀吉の死

 豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を発出してから11年間、一方で布教を許さずとの態度を取りつつ、ポルトガル人が(後にスペイン人も)日本(特に近畿から西日本、九州)においてビジネスを行うことはこれを許すと共に、布教については見て見ぬふりをし、かたやあからさまな布教に対しては極刑をもって臨んだ。
 しかし1598年9月18日、遂に秀吉は伏見城において最期を迎える。ロドリゲスは臨終間近に秀吉に会っているが秀吉はロドリゲスのこれまでの労苦を労って褒美を与え、秀頼にも引きあわせた。ただし、ロドリゲスが魂の救済について語ろうとしても耳をかそうとしなかったという。臨終の枕頭で魂のことについて説教するバテレンをうるさく感じたのであろうか。
 秀吉の死にともなって5人の上級閣僚(五大老)及び5人の閣僚(五奉行)によって密かに朝鮮からの撤兵(慶長の役の幕引き)が開始された。しかし秀吉の死は朝鮮在陣の日本軍将兵には知らされなかった。
 10月15日五大老による帰国命令が発せられて、諸将は11月以降撤退を始めるが、和平が成ったうえでの撤兵ではないから陸海にわたる退却戦となり、苦心惨憺の末、11月下旬までには出征大名は日本に帰還することができた。
 この戦乱について和平が成るのは朝鮮については1607年、政権が徳川家へと代わって、それも二代将軍秀忠の時代になってからである。明については1644年に清にとって代わられ、国が滅亡したため和平を行うことは不能になり、日本が鎖国を行ったため、日清間に貿易は行われたものの、ついに国交は回復しないまま明治時代を迎えることになる。

 秀吉の死がどのように受け取られたかはバテレンによって様々であろう。長崎に在住の俗人カトリック教者であるスペイン商人アビラ・ヒロンは「太閤様が亡くなったという知らせが届いたが、彼は我らのいわば父であったから我々は皆悲しんだ」と書いている。反面秀吉が歿する1ヶ月前に3度目の来日を果たしたヴァリニャーノは秀吉を評して「性行悪く、貪欲、不正直、傲慢な人物」と評したが、キリシタン諸侯からバテレンたちに太閤の死について喜ぶような態度を示してはならぬと注意が与えられた、とも述べている。

徳川政権の成立

 太閤の死は日本の政界を大きく変える出来事であった。その死の直前期にあって既に豊臣政権の威風は北は奥羽地方から南は九州に至るまで及んでおり、政権は前述の通り太閤が死亡する2ヶ月程前には、秀吉と共にその主である織田信長に仕えた古老を含む上級官僚(五大老)と、秀吉が傅育してきた文事に明るい5人の閣僚(五奉行)から成るキャビネットによって担当されていた。その中で最有力者は、関東地方に籠もる一地方政権(小田原北条氏)を秀吉が滅ぼした戦いの後に(因みにこのとき奥羽地方の地方政権である伊達政宗が秀吉に臣従し、北日本の統一が成った)、北条氏の旧領を含む関東全域を東海地方の旧領没収と引換に与えられた徳川家康であった。

 五大老、五奉行らは秀吉の死に際会し、誓紙をもってその愛妾の子である豊臣秀頼に臣従を誓ってはいたが、徳川家康は閣議による政治運営を蔑ろにし、大名間に婚を通ずるなど(後出の伊達政宗との通婚をはじめとしていくつもの例がある)次第に勢力を伸ばし、同僚である大老の病死やその老耄の影響もあって、遅くとも1600年頃には他の閣僚に大きく水を開ける状況を作り出していた。
 しかしこうした家康の専横を快く思わぬ諸侯も多く、彼らは豊臣恩顧を標榜し、閣僚の1人である石田三成の稀にみる組織力によって秀頼のもとに結束した。
 こうして1600年9月15日、徳川家康のもとに集う軍勢3万8千(東軍と呼ばれた)と、実質上は石田三成を核心とするが形式上は毛利輝元を盟主と仰ぐ軍勢3万3千(西軍と呼ばれた)とが、いまの岐阜県関ヶ原盆地(濃尾平野の北西)において激突し、半日間の戦闘によって東軍が勝利した。U字型を成す西軍の布陣の中に嵌り込んだ東軍は戦術的に到底勝ち目はなかったが西軍の勝利を失わしめたのは秀吉の養子である若い武将の裏切りであった。それに引き続き翌日から17日にかけて佐和山城(石田三成の居城)攻略が行われ、これによって東軍の勝利が確定する。
 こうして関ヶ原の戦役の後1603年2月12日家康は征夷大将軍となり、自領である関東の中心である江戸に幕府を開き、それは1868年まで15代にわたって日本の政治を担うことになる。もっとも政権が初期の安定をみたのは1614年(大阪冬の陣)及び1615年(大坂夏の陣)の2回にわたる豊臣家討滅の戦を経た後のことである。

家康の外交と通商

 徳川家康は海外貿易の利に着目し、善隣外交をもって海外通商の方針とした。即ち日本は世界に対して門戸を開き、諸外国人の入国は歓迎する、他方日本人は海外に広く進出する、その際相互に自国の法律を遵守するものとする、という態度を取った。そして決して一国との通商に偏せず、複数の国と通商しつつ、それを相互に牽制させることを基本とするアングロ・サクソン流の「分割して統治する」という方針であった。
 家康は1598年に太閤が歿した後三十五日忌をさえ待たず、マニラから再来日して潜伏していた托鉢修道士ジェロニモを探し出させ修道会に対し密かに太平洋貿易の開始とスペインの様々な技術を導入したい旨をフィリピン総督に依頼させるという素早さをみせている(その後家康は政権獲得後、通商問題について修道会を窓口としてフィリピン総督と交渉した)。
 そして1601年以降家康は安南、マニラ、カンボジア、シャム、パタニなどの東南アジア諸国との間に積極的に外交関係を樹立した。

 家康の外交・通商問題に具体的に触れる前に外交顧問を務めた2人の西洋人のことについて述べておこう。
 オランダ人ジャックス・マホールがロッテルダムの航海会社に雇われて5隻の艦隊を編成し、マゼラン海峡を経て東洋を目指したが途中において風土の変化、食糧の欠乏、疫病の猖獗とにより、マホールは病死、航海は難渋を極めて4隻は沈没、うち1隻リーフデ号のみがようやく豊後のさしぶ佐志生に漂着した。関ヶ原の合戦の5ヶ月ほど前のことである。出帆当時110人いた乗組員のうち生存者は24人(うち3人は漂着後死亡)歩行可能な者6人という悲惨な有様であった。その船員の中にウイリアム・アダムス(水先人)とオランダ人ヤン・ヨーステンがいた。
 不法入国を疑う当局者の取調が当然行われた。ところで日本にはアダムズやヨーステンが話す英語やオランダ語を解するものがおらず、在日のポルトガル人とスペイン人たちによって通訳が行われた。周知のようにポルトガル/スペインはカトリック教徒の国であり、オランダ/イギリスは折から彼地に興っていた宗教改革をもたらしたプロテスタントの国であった。彼らの来日は漂着であれ何であれ、カトリックたちにとって驚天動地の出来事であった。先着のカトリック教の信者にとってはプロテスタントは仇敵のような存在であったから、敵意を込めた意訳やあるいは誤訳を試みたかもしれない。「彼らは海賊である」などと。
 そのためアダムズは囚獄の扱いを受けたが、やがて不法な意図をもってした入国ではないことが判明し釈放された。

 徳川家康はオランダ船漂着の報に接し使者を現地に派遣してアダムズを召喚し、大坂城で会見した(5月12日)。そしてリーフデ号を堺に回航し、自ら同船を見分した。
 リーフデ号はマスケット銃(火縄銃)500挺、砲弾5000発、連鎖弾300発、火薬500ポンドを積載していたと言われ、関ヶ原の合戦を目前に控えていたこともあり、これらの軍需品は家康の強い興味を惹くに十分であった。乗組員の砲手を会津攻め(関ヶ原合戦の陽動として行った上杉征伐)に同行せしめたとか、リーフデ号の兵器を関ヶ原の合戦に用いたとする説もある。
 アダムズとヨーステンは関ヶ原の合戦の後に家康の顧問として仕え、海外事情を知らせたり造船の計画を手伝ったりした。アダムズは相模国三浦郡へみ逸見村に250石の領地を、また江戸安針町に邸を下賜された。ヤン・ヨーステンは、江戸河岸に邸を賜っている。因みにその場所は、「ヤン・ヨーステン」が転訛して八重(代)洲と呼ばれるようになった。家康はアダムズに生涯イギリスへの帰国を許すことはなかった。信任がそれだけ篤かったのか、日本の情報が彼の口からイギリスへ漏洩することを防止するためだったかは判らない。

大御所政治と駿府

 ところで家康は幕府を開いてから僅か2年後の1605年に将軍位を息子の徳川秀忠に譲った。家康が将軍位についたのは戦乱を収めるためであり、その地位は一代限り、家康の死後政権は大坂にいる豊臣秀頼に還されるものと考える諸侯も少なからず存在した。しかしそうした風説や思惑を事実をもって否定するため、早々と将軍家の後嗣を定めたとするのが通説である。
 その後、家康は駿河国駿府(現在の静岡市)にあった城(家康は1585年浜松の居城から移ってここに居たことがある)を取り毀し、西側を流れる安倍川と藁科川を合流させて駿府の町の大改造に着手する。そして1607年7月に駿府城(現在の静岡県庁の北側にあたる)を完成させた(但し同年12月火災により焼失、1608年再築。その後も度々火災に見舞われる)。

 家康は駿府を大御所の地と決めるにあたって、「城」と「城下町」について壮大な計画を持っていた。それは「大航海時代」を意識した都市計画で、ガレオン船をはじめとする外国船が投錨できるよう港を建設することにあり、家康は「駿府」に大船を接岸させ、ここを日本の国際的外交の拠点にしようと考えた。
 家康は安倍川を大改修し、運河で駿府城と城下を結び天守閣の真下にヨーロッパ諸国からの船を着岸させるといった壮大な構想を持っていたといわれているが、安倍川の流れは時として「暴れ水」となったため、城と港を一体化するいう計画は実現不可能とされ、ずっと北側内陸部に寄った場所となったのが大方の経緯と想像できる。

 家康は江戸における将軍家に対し、自らを大御所と称し、駿府城において実質的な主権者として振る舞った(家康は1616年に歿したが、1620年に秀忠が諸大名に命じた大坂城の普請が「秀忠御代始めのご普請」とされていることから将軍秀忠の実質的権力掌握は家康の死後のことであると推認される。)。家康が将軍位を秀忠に譲った理由は上記の説明で理解できるかもしれないが、駿府を居城としたのは何故であろうか。
 家康は諸侯に対し秀忠の将軍就任を慶賀するよう大坂にいる豊臣秀頼にも求めた。しかし大坂方はこれを拒絶したため、家康/秀忠は10万とも16万ともいわれる軍勢(東日本に領地を持つ諸侯から成っていた)を編成し、将軍宣下を受けるため上洛せしめている。秀頼を支持する西国大名に対するあざといというよりほかない示威である。当時はまだまだ徳川家の政権は安定せず、いつ東西の戦端が開かれるやもしれず、こうした事態に備え、東に箱根山を背負い、西に安倍川、大井川などの諸川を望む駿府の地をもって防衛の一つの拠点としようとしたというのが概ね一致した説である。秀忠が関東、甲信以東の諸侯を指揮し、家康が駿府にあって東海道沿いにある諸侯を掌握しながら天下を治めようとしたのである。

朱印船による東南アジア貿易

 家康は海外に対して深い興味を示し、その興味は従前から日本人が進出していた東南アジアから、太平洋を越えメキシコに及んでいる。
 まず朱印船と称する船を用いて行われた東南アジア方面への通商についてみてみよう。
 朱印船の起源は天下統一を果たした豊臣秀吉が日本人の海外交易を統制して、かつ倭寇と区別する必要から、1592年に朱印状を発行して、マニラ、アユタヤ、パタニなどに船を派遣したことにあるとされているがはっきりした記録はないとされている。
 徳川幕府は私貿易をその統制下に置くため1604年に異国渡海御朱印(朱印状)を発行し、日本から海外へ官許貿易を許した。この時期が朱印船のことを記録上遡りうる最も古い時期とされている。
 「御朱印」を受けた船は1年平均11隻、多いときは20隻を越す盛況ぶりであった。
 朱印状は渡航の許可を与えた者に渡航証明または船籍証明を示す朱印状(朱印のもの。黒印の押印があるものは黒印状)を交付すると共に相手国へ朱印状を持参した船への便宜を与えるように依頼するという、いわばパスポートを日本人に与えるもの(渡航許可型朱印状)と、当該外国船舶が日本の港に入港・寄港し、商売することを許す体の、いわばビザを外国人に与えるもの(来航許可型朱印状)とがあり、多く朱印状が駿府において与えられたという。そのため巴川の河口にあって駿府の外港をなしていた清水港はガレオン船を含む多数の外国船が出入りする殷賑振りを示した。
 朱印状貿易は船主が単独で行った交易ではなく、長崎に例をとると、交易に必要な資金を集め船団を組んで海を渡っていく大規模な貿易で、出資したのは大名から小商人まで幅広く、文字通り町をあげての貿易であった。渡海に必要な操船技術には倭寇以来の蓄積があり、また中国語・朝鮮語などに通じた者たちも多かった。もっとも資本の結合は弱く交易が終わると利益を分配して解散する体のものであったと思われる。

典型的な朱印船「末次船」

 1604年から1635年までの32年間に105人に朱印状が交付され、少なくとも356隻の朱印船が安南(ベトナム)、呂宋(フィリピン)など19の土地に渡海した。長崎に関連する大名、役人、商人、外国人が占め、渡海船356隻のうち119隻が長崎の船であった。
 大名にあっては有馬、加藤(清正)、鍋島、島津、大村、松浦、後藤、山口、細川、亀井等(いずれも九州等西国の大名)である。亀井家は海外に縁故の深い家で、秀吉のときすでに、琉球守および台州守に封ぜられている。

 また寺院にあっては金地院および相国寺、中円光寺、方広寺などがいる。商人にあっては京都の角倉了以および与一親子、末次平蔵、船本彌七郎、茨城屋又左衛門の母、茶屋四郎左衞門、大黒屋助左衛門、荒木宗太郎、末吉孫左衛門、細屋喜斎、原彌次右衞門、亀屋栄任、皮屋助右衞門、西野与三、田那辺屋又左衛門、窪田与四郎、高瀬屋新蔵、伊丹宗味、浦井宗普、小西長左衛門、木屋彌三右衛門、今屋宗忠、長谷川権六、村上等安などである。

 外国人にも、ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステン、バテレン・トーマス、シンニヨロ・マルトロメテイナなどがおり、また、中国人にも林三官、四官、五官、六官、華宇などがいた。最も珍しいのはお夏の方(徳川家康の愛妾。奈津とも書く)であろう。

 「異国渡海御朱印帳」によれば、来往した国々は、実に20余に及んだ。主なものは暹羅(シヤム)、呂宋(ルソン)、柬埔寨(カンボジヤ)、西洋、安南(アンナン)、東京(トンキン)、占城(チヤンパ)、太泥(パタニ)(マレー半島)、芠莢(ボルネオの一部)、その他にも、田弾・蜜西耶(フィリピンにあり)・摩陸(セレベス島東モルッカ)、摩利伽、迦知安、中国では信州(泉州)、福建および順化などである。これら漢字表記の中には不分明のものもあるが、朱印船往来の範囲は中国の南部よりインド大陸の東岸及び南洋諸島全体にわたった。文中に西洋とはシンガポール以西の地を指すものと思われる。

 朱印状を許された商人が乗船した船を朱印船と称し、唐船造二重底、三しよう檣のマストを有し、とも艫(船首)に櫓を設けた。角倉氏(伊勢松坂)の持船は長さ20間(36m)、幅9間(16.2m)、乗員397人、加藤清正のものは、長さ20間(36m)、幅5間(9m)、三層の座敷があり16畳(約53㎡)の広間や浴室も備えられていたという。
 当時の朱印船の特徴は、(1)船体の基本は中国式ジャンクであるが、船尾構造や舵などに西欧のガレオン船の技術を導入していること、(2)帆装もジャンク式の網代帆を主体としているけれども船首にバウスプリット(船首斜檣)を突出させ、これに横帆(やり出し帆)を展張し、後檣にラテンセール(三角帆)を張るというガレオン船系帆装となっていること、(3)船首に大船首楼を設けていること(日本軍船の矢倉形式で、ガレオン船の先駆型であるカラックの巨大な船首楼の日本的受容と解釈できる)などであり、以上のような特徴から朱印船は中国のジャンクと西欧のガレオンとを折衷し日本的要素を加えた「ミスツィス造り」(混血型)の船ということになる。

 朱印船によって日本から輸出されたものは、金属器(銅・銅器・刀剣)、漆器、蒔絵、屏風類、扇子、蚊帳、麦粉、硫黄、傘などであり、輸入されたものは、生糸その他種々の織物(毛織物類、絹織物―繻子(しゆす)、緞子(どんす)、縮緬(ちりめん)、紗綾(しやあや)、金襴(きんらん)、綸子(りんず))、砂糖、薬品、染め物材料、香木、珍木、米、水銀、玻璃器、陶磁器、鉛、象牙等であり、中でも織物がその首位を占めていた。

(未完)

〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。

〈参考文献〉
  • 藤本久志「天下統一と朝鮮侵略―織田・豊臣政権の実像」(講談社学術文庫、2005)
  • 高橋裕史「イエズス会の世界戦略」講談社選書メチエ372(講談社、2006)
  • ルイス・フロイス「フロイス日本史1」「同2」松田毅一、川﨑桃田訳(中央公論社、1977)
  • 石井謙治「和船Ⅱ」(法政大学出版局、1995)
  • 松田毅一「南蛮のバテレン」(朝文社、1991)
  • 赤瀬 浩「株式会社長崎出島」(講談社選書メチエ、2005)
  • 三上参次「江戸時代史(上)」(講談社学術文庫、1992)
  • 永積 昭「オランダ東インド会社」(講談社学術文庫、2000)
  • 高木昭作「江戸幕府の成立」(岩波講座 日本の歴史9 近世1・1975所収)
  • エリック・ケントリー「船」(ビジュアル博物館36巻 同朋舎、1992)

以下の記事の(1)~(14)までは若干の補訂を加えて当事務所ホームページ(https://www.mclaw.jp)に発表済みであり、今後さらに補筆して順次発表する予定にしているのでご覧いただければ幸いです。

太平洋の覇権

  1. ―地理上の発見の時代
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"No.50(2007.4.20)46頁
  2. ―スペイン/ポルトガルの衰退
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌11号(2007.8.25)8頁
  3. ―日本の鎖国
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"No.51(2007.10.31)18頁
  4. ―世界システムの形成
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌12号(2008.1.1)9頁
  5. ―スペイン、イギリスそしてオランダ
    ・・・・・・・・・・・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"No.52(2008.7.1)20頁
  6. ―世界地図の発達
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌13号(2008.8.8)6頁
  7. ―ああ、英仏百年戦争 ―その歴史的意味(その1)
    ・・・本誌14号(2009.1.1)5頁
  8. ―ああ、英仏百年戦争 ―その歴史的意味(その2)
    ・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"№53(2009.3.31)22頁
  9. ―薔薇戦争とイギリス海軍の建設
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌15号(2009.8.3)7頁
  10. ―大航海時代に至るまでのポルトガル
    ・・・・・・・・・・・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"№54(2010.1.10)23頁
  11. ―アジアにおけるポルトガル(1)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌16号(2010.1.1)9頁
  12. ―アジアにおけるポルトガル(2)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌17号(2010.8.1)3頁
  13. ―日本のバテレンたち
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本企業法実務研究会"BAAB"№55(2010.11.1)36頁
  14. ―バテレンの追放令
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌18号(2010.1.1)5頁
  15. ―バテレンたちの軍事計画
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌19号(2011.8.1)5頁
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