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弁護士 堤 淳一

2012年08月01日

太平洋の覇権(17) -----日本の「大航海時代」(2)

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

家康の大洋への興味

 いま少し徳川時代の初期のことについて書く。
 徳川家康は関ヶ原の合戦(1600年)に勝利したあと、日本国内を治めるについて自信を得、兼ねて海外との交易を活発にしようと試みはじめた。他方、当時国力が隆盛にあったスペインはフィリピンとメキシコ(「新スペイン」を意味するノヴェスパニアと言った)の両方面から日本に接触しはじめた。
 1601年および1602年にフィリピンから交易を求めてやってきたスペイン人に対し家康はフィリピン付近において活動する不良日本人は駆逐し、その周辺の航海の安全を保証し、朱印状を与える旨、またメキシコからも来航を求める旨の返書を差し遣わし、その後スペイン船は時々日本に姿を見せた。1608年フィリピン総督ドン・ロドリーゴ・デ・ビヴェーロは毎年4隻の朱印船を日本からフィリピンに往来せしめられたいとの書面を幕府に送り、家康・秀忠はこれを応諾し、渡海船舶には必ず朱印状を携行せしむべき旨を返答している。

 かようにしてフィリピンとの交易はすべて順調とはいえないまでも(1605年フィリピンにおいて在比日本人の不穏な動きを鎮圧したスペイン人との間に闘争が起き、一触即発の状況となった)、少しずつ行われていったが、太平洋を隔てるメキシコとの交易は簡単ではなかった。
 メキシコとの通商を希望する家康は、造船・航海技術者と鉱山技術者の派遣をマニラのスペイン総督府にたびたび要請した。当時における日本の造船技術をもってしては太平洋を横断する船を造ることはできなかったのである。またスペインは南アメリカにおける植民地支配を通じて金銀の生産に優れた技術やノウハウを蓄えていた。日本国内の鉱石から精錬された銅は相当量の金銀を含んでいたが、従来それを銅から分離する十分な技術がなかった。ヨーロッパにおいては灰吹法といわれる精錬方法(南蛮吹き)が発達していた。 家康は是非ともスペインから精錬や採掘に関する優秀な技術を導入したいと希望していたのである。将来日本統治を目指す家康にとって、大量かつ良質な金・銀はいくらあっても足りないほどに欲しかったであろうし、その生産技術も抗しがたい魅力を持っていたに相違ない。
 家康はもしこの希望を容れてくれれば、その見返りとして日本沿岸にスペイン船の待避港を設け、かつ日本人による私貿易船の横行を取り締まるという提案を行った。
 この提案はマニラ総督府を困惑させた。即ち、既述の如く先の権力者である豊臣秀吉による入貢の申し入れという恫喝外交を受けたスペイン総督府は日本による武力侵攻への懸念が強く、フィリピンが今まで日本の攻撃を受けずに済んだのは日本に大型船と天測航法の技術がなかったためであるから、日本の要求通りに造船や航海技術者を派遣すれば日本人はたちまちこれらの技術を習得し、かくては戦略上の危険及ぶと考えたのであろうか、遷延策をとり、仲々家康の申し入れに応じなかった。ガレオン船の造船技術は国家の機密とされていたという事情もあった。
 そこにはフィリピンの安全保障の問題だけではなく、もし、航海技術を提供することによって日本とメキシコとの間に日本人の手によって航路が開かれれば、折角自分たちが開発した東南アジアとメキシコの間の太平洋貿易の独占体制を脅かされるという懸念もあったに違いない。  そこで家康はやむなくウィリアム・アダムズに命じて洋式帆船を試作させた。アダムズは若い頃にイギリスの造船所で働いていたのでその経験を生かして日本人の船大工を使って伊豆(静岡県)の伊東において80トンと120トンの2隻の帆船を建造した。その時期は何時の頃か資料が少なく特定することができないが、おそくとも1609年頃までとされている。

 1609年9月総督ビヴェーロは任務を終えて帰国の途につく。ところが洋上において暴風に遭い、乗船サン・フランシスコ号は難破して上総国夷隅郡田尻に漂着した。ビヴェーロは大多喜城主本多氏により厚く保護されて江戸に導かれ、秀忠に謁し、ついで駿府において家康に謁した。
 その機にビヴェーロは家康に対し①キリスト教布教の自由②オランダ人は海賊にしてスペイン人の敵である③これに反しマニラから日本への来航船はスペインのものなるがゆえに保護願いたいこと、その他こまごまとした条件を含む項目を要求した。家康は交易についてのみ要求を容れ、同年12月28日に至ってメキシコからの来航は妨げない旨の朱印状を発布した。戦国の世を生き抜いてきた家康にとって②の如き讒訴は日常茶飯のことであろうと考えたのか、聞き流しにしたようである。
 朱印状は翌年秀忠からも発給された。その際、家康は日本の鉱山採掘のための鉱夫の派遣を求めたが、ビヴェーロは①日本の鉱山の採掘に関し、鉱物の半分は掘手に、半分はスペイン国と家康が折半すること、②オランダ人を追放すること(前年にオランダ船が平戸に入港していた)③日本におけるスペイン人による造船の自由④治外法権を求めたが、家康は③④は許すものの②に言うオランダ人の追放は否決し、①については確言を留保した。

 ビヴェーロとの駿府外交には宣教師であるルイス・ソテロが関わっていた。ソテロは1574年にスペインのセビリアに生まれ、1594年にフランシスコ会に入会し、1600年メキシコからフィリピンに渡り、マニラ郊外において日本人キリスト教徒の指導にあたるかたわら日本語を学び、1603年にはフィリピン総督の書を携えて日本に渡り、家康に謁し、以後外交に関与することになる。
 ビヴェーロの滞日中に行われた折衝において、日本とスペインの外交文書の作成にもソテロが関わったとされる。ソテロは語学に天才的な能力を発揮し、来日したときには既に日本語を話すことができたという。ソテロはその後江戸にも長く滞在し、東北地方へも赴いて伊達政宗の知遇を得ることとなる(そのことについては後述)。そのため1612年幕府によって直轄領においてではあるがキリスト教の布教が禁止され、逮捕監禁された際も、いったんは政宗の助命嘆願により赦免されている。
 ソテロの評判については、「空想と現実の分別を失った半狂僧」「僧侶としては惜しいほどの策略家」とされなど不評であるが、「神の栄光のための熱意に溢れる完全な修道者」とする好意的な批評もある。

 ビヴェーロの帰国は日本船によって叶えられた。家康はさきにウィリアム・アダムズの指導で建造した120トン型の帆船をサン・ベナベンチュラ号と命名して貸与し、同船は1610年6月相模国浦賀を発し9月にメキシコのアカプルコに到着している。この船は後にスペイン側に買い取られ永くメキシコとマニラ間の航路に就航した。日本の船大工の造船技術は満更ではなかったとみてよい。
 このメキシコ行きの船には田中勝介、米屋立成(りゆうせい)という2人の京都商人が同乗したが、メキシコのスペイン人は日本人の渡海を喜ばず、その渡海は決して厚遇を受けたとは言い難かった。
 この田中勝介を送還し、かつ前総督ビヴェーロの保護を謝するためセバスチャン・ビスカイノが来日した。この一行は浦賀に着き、江戸に赴いて秀忠将軍に謁してフェリペ3世の国書を捧呈した。その後駿河において家康に謁し、後に奥州に至って太平洋沿岸を測量し、その後京都に至り堺を見物してフィリピンへと旅立った。

 日本沿岸の測量は、マニラとアカプルコの間を往復する船舶(年8隻程度が往復していたとされている)が、日本近海において遭難する事故が頻発したため、スペインは予てより日本の東北地方沿岸に避難港を得たいと希望しており、スペインとの交易を望む家康はこれを許可した。一行は奥州の雄である伊達政宗に厚遇を受け、これに気をよくしてか、その領内の民をキリスト教徒にするとの約束を政宗から得たと喧伝している。
 これに対し、かかる海岸測量は日本侵略を企てるスペイン人を利するものであるがゆえに測量許可は危険であり、欧州各国においてはこれを許さないのが一般であるなどとする反対論も(多分オランダ人から)あったが、家康は「もし彼らの要求を容れないとすれば彼らをおそれていることになる。スペイン人もし戦わんと欲すれば国を挙げて来るべし。我には十分の備えあり」と答えたという。

   

慶長使節団

 既述した伊達政宗は海外雄飛に興味を持っていた。因みに政宗の長女五郎八(いろは)姫は家康の六男忠輝の正室である。そのためであったかどうか、家康から外交(天下人(てんかびと)外交)を付託されていた。
 1613年10月、石巻に近い月の浦から政宗がローマへ派遣する使節団を乗せたサン・ファン・バプチスタ号が船出した。この船はどの様な船であり、誰によって造られたかは疑問視されていたが、政宗が幕府海軍のトップであった向井将監と相談して輩下の船大工である長十郎らの派遣を受け、気仙沼あたりから筏り出した木材を用いた国産の船であり、近時では、船体は高い船尾楼とビークヘッドを持ち、前檣と主檣に2枚ずつの横帆、後檣に三角帆を持つガレオン系の船であったとされている。もっとも日本人のみの手によって建造が可能であったとは考えにくく、ビスカイノが滞在中に政宗との間に建艦と航海について契約を締結したうえで技術支援が行われたと思われる。
 政宗はビスカイノ一行との邂逅によってヨーロッパとの通商について刺激を受け、通商の目的でメキシコへ使者を派遣するつもりであったらしい。家康の海外事業を展開するつもりでもあったろうか。

 ところが計画が進むうちにソテロはスペイン王とローマ教皇への使節を派遣すると言いだし、政宗は押し切られる形でソテロの申し出を容れた。ローマへの使節派遣の誘惑は彼の虚栄心を満足させるものであったかもしれない。メキシコへの使節は2人の家臣を人選済みであったが、ローマ行きの使節には新たに支倉常長が選ばれた。使節団は常長ほか伊達藩士12名、幕府船奉行向井将監家来10名、サン・フランシスコ号の生き残り40名、それに日本人商人を含め約180名とされた。使節のスペイン側の長はビスカイノであったが、ルイス・ソテロは司令官のように振舞った。ソテロが日本語について天才的能力を発揮したことは前述したが、宣教の目的を政宗が持っていたとは考えにくく、スペイン王やローマ教皇への書簡はソテロが自由に書いたとされている。

 使節団は約3ヶ月の航海の後太平洋を横断し、1614年1月28日アカプルコに入港した。
 使節団の15名ほどはヨーロッパへ向かう。アカプルコまで使節を運んだバプチスタ号は約3ヶ月間同地に留まり、持参した商品を販売し各種の織物を積んで1614年4月アカプルコを出港して約3ヶ月の後に浦賀へ帰港した。
 こうして日本製の船(バプチスタ号)による初の太平洋横断は往復都合約6ヶ月の航海をもって成功した。因みに操艦はスペイン人の乗組員によって行われたがこれはスペイン人が太平洋航海技術を日本人が習得することを嫌っていたためと考えられている。

 ローマ使節団は1614年6月10日、スペイン艦隊のサン・ホセに便乗してキューバのハバナを経て10月5日にスペインの南にあるサンルカール・デ・バラメダに入った。その後セビリア(ソテロの生地である)を経て1615年1月30日、首都マドリードにおいてフェリペ3世に謁した。使節団は8月22日にマドリードを発し、10月25日にローマに到着した。
 ソテロが起案し、スペイン王、ローマ教皇(パウルス5世)に奉呈された書状には日本での宣教の援助を求めることが述べられていたがその目的を達せず、常長は幕府とは違った見解を述べる者とみなされて冷たくあしらわれた。日本において既に1612年にキリスト教禁教政策がとられたことをスペイン王も、ローマ教皇も知っていたからである。しかし外交儀礼に従ってフェリペ3世は返礼のためディゴ・サンタ・カタリーナ(司祭)を使節に任じ、訪日させるが、すでにキリスト教禁教令が発せられていたために、書簡も贈り物も受理されず、カタリーナは一時監禁されてしまった。
 1618年4月2日常長とソテロはメキシコにおいて、カタリーナを送り返してきたバプチスタ号に乗船した。この便はマニラ行きであり常長は同年8月にマニラに到着し、この地でバプチスタ号を売却、便船を得て1620年日本へ帰着し、仙台へ帰ったが、長旅の7年間に伊達藩の状況はすっかり変化しており、禁教令のもと、政宗の態度も冷たく、常長は結局棄教したうえで政宗に謁したといわれている。
 ソテロは1622年にマニラから日本へ潜入するが直ちに逮捕され、1624年に焚刑に処せられ殉教した。

オランダ人がやってきた

 1602年にオランダ東インド会社が設立され、1603年にはマライ半島の東岸パタニにオランダ商館が開かれたことなどの知らせは江戸にあって家康の外交顧問を努めていたウィリアム・アダムズの耳に入った。
 アダムズは家康の許しを得てリーフデ号乗員の生き残りである元船長ヤコブ・クアケルナックと船員メルヒオール・フアン・サントフォールトを九州平戸藩の松浦侯の船に托してパタニに派遣した。彼らは1605年12月パタニに上陸し、マライ半島先端のジョホールにおいてオランダ本国から来航したマテリーフ・ド・ヨンゲの艦隊に会い、日本がオランダとの貿易を希望している旨を伝えた。家康は日本における貿易がポルトガルによって独占されていること(独占という言葉は必ずしも的を得ていないがそれでも主力はポルトガルであったに違いない)をよしとせず、さればこそさきのオランダ船リーフデ号の漂着を歓迎したのであった。

 ただし、対するオランダはといえば、当初東インド会社を足場にした香辛料貿易を主目的としており遠隔地である日本との貿易に熱意を示していなかったようで、この艦隊が中国との貿易開設を任務とし、かつその航海中、ポルトガル艦隊との戦闘に忙殺されていたこともあり、日本への来航は果たせなかった。1581年に連邦国家として独立を宣言したものの、ネーデルランド(オランダ)は、1580年から1583年にかけてポルトガルと合併したスペインによって領土を奪還されるなど、ポルトガルとスペインは仇敵同士であったのである。
 もっともフェリペ2世が1598年に死亡し、フェリペ3世が後を継ぐと、和平交渉の気運が生まれ、1609年4月にアントウェルペン(アントワープ)において12年間休戦条約が成立し、1621年に休戦期間が切れるまでスペインとの戦争状態は熄んだようにみえるが、このような動きがアジアの涯まで出征してきている両国艦船の船長(スキツパー)たちにまで刻々と伝えられていたかは疑わしく、海上において両国は引き続き敵対関係にあったろう。

 1609年5月28日にオランダ船2隻(ローデ・レーウ・メット・バイレン号とフリフィーン号)が平戸に入港した。この2隻は東インド会社の持船で、ピーテル・ウィルレムスゾーン・フェルフェーフェンの艦隊に所属し、オラニエ公マウリッツの書状等を携え、バタニを出港して北上した。
 二隻のオランダ船は航海中にポルトガル船を発見、拿捕を企てその航行を追尾し、ポルトガル船に2日遅れて平戸に入った。平戸の領主であった松浦法印と孫の隆信はこれを迎え、2隻の商務員頭(がしら)アブラハム・ファン・デン・ブルックとニコラス・ポイタの両名に、供と通訳を付けて駿府に送った。
 この報はカトリック教徒であるフランシスコ会派にとってもイエズス会派にとっても驚天動地の出来ごとであった。オランダが当時のスペイン/ポルトガルにとって敵国であったからだけではない。オランダ人たちはプロテスタントであったからにほかならない。  既に1600年にリーフデ号が日本に入ったが、これは漂着したものである。それでもその乗員であったウィリアム・アダムスが家康の顧問格に就任したことはカトリック教徒を十分に驚かせたが、此度の衝撃はその比ではなかった。
 何しろ、此度の入港船はオランダ公国であるオラニエ公マルリッツの親書を携えており、公式の使節であり、幕府もそう認めたからである。オラニエ公はネーデルランドに最も強い指導力を発揮するホラント州(ホラント州はこの当時、連邦の運営に必要な経費の58%を負担していた)の総督に就任するのを例としたのである。
 使節は7月下旬に駿府で家康に会い、「日本国内のどこの湾に入港しても差し支えない」旨の朱印状を得た。使節団はその後平戸に帰り9月20日に会議を開いて平戸にオランダ商館をおくことを決議し、その初代館長としてジャック・スペックスが選出され、4人のオランダ人と共に平戸に留まることにした。
 次いで1611年オランダ船が国王の親書を持参して来着し、①交易の開始を謝し、更なる朱印状を請うと共に、②ポルトガル人がオランダ人を海賊などと讒訴するに聞く耳を持たなかったことを謝すと共に、③ポルトガル人は姦邪である、などと述べたもので、キリスト人の間におけるののしりあいの様相をも呈していた。

ポルトガル人とのあつれき

 オランダ船の来港はスペイン/ポルトガルにとってはまことに都合の悪い時期にあたっていた。1607年、有馬晴信の朱印船が交易を終え、占城国(チヤンパ)(ベトナムの南部)からの帰路、風待ちのためにマカオに寄港したが良い風が吹かなかったため港で越年を余儀なくされた。退屈のあまり上陸した大勢の船員が市中で乱暴を働き、鎮圧のために出動したマカオ当局の軍隊との間に諍いを起こし、抜刀して二軒の家に立て籠もった。治安部隊は退去の説得に応じなかった60人以上の日本人船員を射殺するという事件が起こった。  この虐殺事件の報告は直ちに有馬家と幕府に達した。有馬家はこれを討つべしとして幕府からその許可を得たところ、同年12月9日ポルトガル船が折から長崎に入港したので、これを襲撃する計画が立てられた。この企ては日本人キリスト教徒によってポルトガル側に通報され、ポルトガル船は港外に逃れようとしたが逆風のため果たせず、有馬家側はポルトガル船に舟を寄せ井楼を設けて放火しポルトガル船を燔沈した。有馬家の当主は、もとよりキリスト教徒である。それゆえこの事件はいわばキリスト教徒がキリスト教徒を討ったことになりポルトガル人にとっては大きな衝撃であった。
 事件は幕閣を硬化させており、この問題が未解決であるうえは、スペイン/ポルトガルは日本貿易から締め出され、布教活動も禁遏されるのではないかと感じられたのである。

 これに対しスペイン/ポルトガル政庁は巻き返しに出た。1609年マカオ総督のアンドレ・ペッソアを日本に派遣し、家康との間に関係修復と日本人のマカオへの寄港を禁止することに成功した。当時マカオに滞在していた日本人は無頼の者も多く、マカオの安寧を脅かしてもいたので家康は日本人の寄港禁止に同意したといわれているが、事実はマカオ通商から日本人を締め出す策に家康が乗せられたとの説もある。
 他方オランダ人にとっては日本との貿易をポルトガル人からとって代わる好機であると考え、スペイン/ポルトガル人を盛んに讒訴したが、幕閣はとりあわず1612年にポルトガル人が来航した際には朱印状を与えている。

オランダの対日貿易

 平戸に商館は開かれたものの、オランダ船はその年も翌年も入港しないので、スペックスは自らパタニ商館におもむいたり、館員をタイに派遣したりして、オランダ船の誘致に奔走し、その尽力の甲斐もあって、オランダ本国の十七人会(東インド会社の取締役会の上位に位置する幹部会議)は日本貿易に次第に関心を示し、以後東インド会社は日本向けの商品を定期的に送るようになった。その最初の便船は1612年8月に平戸に到着した。しかしオランダ本国には日本に売る商品はなく、日本もまたオランダに売る商品はなかったため(日本からの輸出品は銀、刀剣、工芸品、東南アジア向けの小麦、米など)、平戸でオラン人が始めた儲けになる貿易は、主として中国で集荷した生糸を台湾経由で日本へ持ち込みその対価として日本の丁銀(銀貨)を持ち出し、それを使って東南アジアやインドで胡椒や綿布、硝石(火薬の原料)などを買い本国に持ち込むことによって利益を生むという貿易(三角貿易)であった。この方法はつとにポルトガルが行っていた貿易とほぼ同様の方法であった。1604年以来ポルトガル船が日本にもたらした生糸は商人の代表としての鑑定人の評価する価格で買い取るパンカドといわれる取引方法で買い取られていた。この生糸はさらに日本人商人仲間(糸割符商人)に一定の割合で配分された。
パンカド価格は1633年にオランダ船にも適用されることになった

イギリス人の来航

 イギリスは1588年にスペインの無敵艦隊を打ち破って以降、喜望峰廻りのインド航路を啓開すべく1589年頃から探査を始め、1591年には無敵艦隊撃滅戦の殊勲者ジョージ・レイモンド指揮の3隻の艦隊がプリマス港を出発した。しかしこの航海は無残な失敗に終わり、次いで1596年に行われたベンジャミン・ウッドの試みも同じく失敗した。それにもかかわらずロンドンにおいては、1595年に北海の島から出発したオランダ船がついにジャワ島に至り大量の胡椒を入手して帰国するという快挙(そのため胡椒の価格は3倍にさえ高騰した)に刺激され、1600年10月31日、トマス・スマイス卿の音頭取りで後述の通り「官許印度会社」が設立された。以後インド航海が度重ねられ、オランダと真正面から衝突しながら競争状態に入る。そして第8次航海(1611~1613年)においてついに英国船が日本へ到達するのである。

 イギリス東インド会社のジョン・セリースが東インド会社から日本に安全かつ貿易至便な港を発見して諸物資を売り込むことを命ぜられ、クローブ号に乗船し、1613年に平戸に至った。
 既に家康に仕えていたウィリアム・アダムズは1611年頃には平戸からジャワのバンタムのイギリス人宛に度々書簡を送り、機会あるごとにこれがイギリスに届くように託している。こうした努力がセリースの派遣に結びついたのであろうか。
 家康の側近としてオランダ貿易の便宜を計ってきたアダムズは、実は自国人の日本進出を心から望んでいたのである。
 ウィリアム・アダムズは、家康がイギリス船の日本来港を切望していること、寄港地として平戸は不便であり、「国王陛下の城に近い日本の東部、つまり北緯35度10分辺りが良い」とインド在住のイギリス人に、書き送っている。
 江戸の町は北緯36度より少し南にあり、35度10分あたりとは浦賀や自分の領地のある三浦半島逸見あたりを、あるいは駿府(ちょうど北緯35度にある)を視野に入れていたとも考えられる。平戸や長崎は江戸や駿府から遠くて不便であるのは確かであるが、イギリス人のために関東や浦賀あるいは駿府あたりを候補地として薦めたのはスペイン人やポルトガル人と競合させない方が得策と考えたことによるのであろう。
 アダムズは商館の候補位置をセリースにも推薦していた。ところが、セリースはこれを読みながら気にとめず、1613年6月に平戸に入港してしまった。
 松浦藩ではもちろんイギリス船を歓迎し、アダムズが平戸に急行した頃にはすでに商館の建物も定まり、関東や東海への移転は事実上不可能となっていた。
 平戸商館長にはリチャード・コックスが就任し、他にイギリス人7人が館員として留まることとなったので、同じ町にあるオランダ商館との競争は、ジャワのバンテンやジャカルタほどではないにせよ、かなり激しいものとなっていた。
 セリースは次いで駿府において国王ジェームズ1世の書を奉呈し、①貿易を求めたきこと②遭難船の保護③英国船に対する狼藉防遏(あつ)のこと④日英人の紛争について理非を糺して裁判されたきことなど7つの要求をした。家康は諸国に与えたと同様、修交貿易を許して朱印状を与えた。
 アダムズはセリースと家康の会見に立ち会い、通訳や国王親書の翻訳にあたった。

イギリスとオランダの東インド会社

 上述の通り、東南アジアからの富を得るためヨーロッパのいくつかの国によって「東インド会社」が設立された。既にオランダ東インド会社のことに触れたが、東インド会社はオランダの他にイギリス、デンマーク(1620年)、フランス(1664年)などのものがある。
 東インド会社をはじめて設立したのはオランダに先立つイギリスであり、1600年のことであった(オランダ東インド会社が設立されたのは1602年のことである)。以下このことについて触れる。
 イギリス東インド会社は公式には1874年まで存続し、それまでの間、組織は幾多の変転を重ねるが、もともとはロンドンの商人たちがエリザベス1世から授与された東洋貿易の特許状に基づいて設立された。特許状はロンドンと東洋(といってもアフリカの喜望峰と南米のホーン岬の間)の貿易を15年に限って許可するものである。しかし、貿易の独占といっても艦船の安全は会社が独力で守らねばならず、密貿易による貨物は接収され、国王と会社が没収した。また「独占」と背馳する国王の二枚舌にこの会社が悩まされることもあった。
 会社保有の船舶は武装していたが、オランダの東インド会社のように設立の当初から、会戦、講和、条約の締結の権利は保有していなかった(これらの権利をイギリス東インド会社が持つようになるのは1657年のクロムウェル特許状による)。

地図

マゼランの航海と大圈航路

1519年11月の末、マゼランは後に太平洋と称されるに至る大海原(当時大きな湾であると信じられていた)に入り、フィリピンに至った。やがてアメリカ大陸からフィリピンへの航路は何とか確保されたがその逆の東向きの航路は海流と風の関係で容易に啓開されなかった。
しかしその後1565年、アンドレス・デ・ウルネーダが高緯度まで日本近海を北上し、北緯49度あたりで偏西風をとらえることによって東向航路(大圏航路)を開くことに成功した(「開かれた太平洋」53頁より)

 東インド会社の設立時期はオランダに先んじていたとはいえ、イギリス人は来日以来既に数年の経験を積んでいたオランダに明らかに遅れをとっていた。
 オランダの有力商人たちは東インド会社の設立以前である1598年にはすでに22隻を下らぬ船舶を、さらにその後の3年間に、その2倍近くの船舶を東洋に進出させており、彼らが大同団結して設立した東インド会社は財政的に強固であるうえに、政府の支援を受けていた。そのためオランダ東インド会社は国策会社の色彩が強く、調達資金はイギリス東インド会社の8倍であった。資本金はイギリス3万ポンドに対してオランダ54万ポンド、1610年までに出した船舶は同じく17隻に対して60隻で、オランダはイギリスを圧倒していた。

 平戸商館長コックスの方針も大きな見通しを欠き、イギリス東インド会社の利益はあまり思わしくなかった。当初コックスは江戸と大坂に分館を置き、商館員をおいて取引に当たらせたが、1616年に家康が歿すると、急に貿易の制限が強化され、イギリス・オランダ両国とも、平戸と長崎の2港以外で貿易を行うことを禁じられた。
 これは将軍秀忠のスペイン、ポルトガル宣教師の活動に対する憂慮から出たものではあるが、既述したいわゆるパンカドの制度を、イギリス、オランダの両国商人にも適用しようとする日本商人の策動があったものとも考えられている。
 この頃、東インド水域におけるイギリスとオランダとの敵意はますます露骨になり、1616年以来、オランダが香辛諸島を往来するイギリス船を捕獲するようになると、平戸の両国商館員も事毎に衝突し、不穏の形勢となった。イギリス東インド会社は平戸商館の出費ばかりが多くて一向に利益が上がらないのに業を煮やし、1623年には商館長コックスに平戸商館の閉鎖を命じたので、結局イギリス人は莫大な売掛金を回収できぬまま、日本を立ち去ることになり、日英貿易はわずか10年程度で打ち切られることになった。    以後幕末に至るまでイギリスが日本に来ることはなかった。

(未完)

〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。

〈参考文献(今回参考にしたもの)〉
  • ボイス・ペンローズ「大航海時代-旅と発見の二世紀」荒尾克己訳(筑摩書房、1985)
  • 三上参次「江戸時代史(上)」(講談社学術文庫、1992)
  • 赤瀬 浩「株式会社長崎出島」(講談社選書メチエ、2005)
  • 永積 昭「オランダ東インド会社」(講談社学術文庫、2000)
  • 浅田實「東インド会社」(講談社現代新書、1989)
  • 松田毅一「南蛮のバテレン」(朝文社、1991)
  • 浜渦哲雄「イギリス東インド会社」(中央公論新社、2009)
  • 増田義郎「太平洋―開かれた海の歴史」(集英社新書、2004)
  • 石井謙治「和船Ⅱ」(ものと人間の文化史76-Ⅱ、法政大学出版局、1995)
  • 佐藤弘幸「図解 オランダの歴史」(河出書房新社、2012)

(2012.1.1)

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