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弁護士 堤 淳一

2013年01月01日

太平洋の覇権(18) -----東アジアにおけるオランダ    

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

オランダ東インド会社の沿革

オランダ東インド会社は中世末期の地中海において行われた出資形態(航海毎に出資が行われ航海を終えると解散する体の当座企業といわれる形態)の発展型である。1594年に9人のオランダ人商人によって設立された遠国会社と呼ばれる会社があり、1596年にはこれと別に「新航海会社」がアムステルダムに設立され、ホラント州議会と連邦議会から資金援助を受けていたがこの会社は程なく遠国会社と合併した。その後1600年には新ブラバント会社(イザーク・ル・メールなる人物らによって設立)と合併し、連合アムステルダム東インド会社と名称を変えた(1601年)。この会社はアムステルダム市当局からアムステルダム商人間の東インド貿易独占権を与えられた。
 他にこれらと類似する会社として、フェーレ会社(1598年)、ミッデルブルク会社(1598年)、旧会社(1598年。後に遠国会社に合併)、アゼラン会社(1598年)、新ブラーバント会社(1599年)、デフォルト会社(1601年)、連合ゼーラント会社(1601年)などが乱立するようになった。

そのため相互の競争は商品の仕入れ価格の高騰をもたらし、オランダ、ヨーロッパ各地に輸出される商品の価格は下落した。オランダ連邦議会はこの事態を憂慮し、オラニエ公マウリッツらも会社の統合を企図したが、ホラント州のみの利益を代弁する意見であるとしてゼーラント州などの反発を招き、にわかには成功しなかった。しかし1602年3月、難航の末オランダ連邦議会は諸会社の合併の議案を可決し、すでに設立されていた諸会社(フォール・コンパニーエン(前期諸会社という))を統合し、漸く連合インド会社(以下東インド会社と称する)の設立をみた。ホラント州の法律顧問であったヨーハン・ファン・オルデンバルネフェルトの貢献も大きかったと言われている。因みにこの頃のオランダは連邦形成の時代であるが、各支邦の権力は君侯と法律顧問の2人に分属する観を呈し、2人はいわば楕円の焦点のようであった。オルデンバルネフェルトは1586年にホラント州の法律顧問に就任して以来権力を握り、オランダ共和国を国際的に認知させることに力を尽くした。

特許状

東インド会社は、アムステルダム、エンクハイゼン、ホールン(以上現在の北ホラント州)、ロッテルダム、デフォルト(同南ホラント州)、ミッデルブルグ(ゼーラント州。カーメル名はゼーラント)の6箇所におかれる支部(カーメルと呼称)から成っていた。東インド会社はカーメル毎に出資金を募ったが、その総額は合計650万グルテン(換算法にもよるがイギリス東インド会社の10倍以上といわれる)に上った。連邦議会は既述した合併決議に付属して、統合された東インド会社に特許状を下付した。オランダ連邦議会が与えた特許は46箇条からなる長大なものでこの特許状は以後ヨーロッパ大陸諸国におけるモデルとなった。
 特許状は次のような事項を含んでいた。

  1. 東インド会社以外の船舶が東インドへ渡航することを禁ずる。
  2. 特許期間は21年間とし、更新できる(更新を重ね東インド会社は結局1798年まで存続した)。
  3. 出資者は取締役へ信託するという形で投資するのではなく、会社へ直接投資する。
     大口の出資者は多くがアントウエルペン(後のアントワープ)から逃れてきた大商人であった。オランダがスペインからの独立戦争の途次1585年にアントウエルペンがスペインの手に陥ちたことがあり、カトリックへの改宗を拒否してアントウェルペンから出て行くものには4年間の猶予が認められた。その際、プロテスタントである大商人は資産を持ってオランダの他の都市へ脱出することができた。この資産の恰好の投資先として東インド会社が選ばれたと考えられる。
  4. 取締役及び株主の責任が有限責任となった。
  5. 持ち分としての出資(株式)は証券化され、その譲渡が自由になった。但し確定資本金制度を欠き、株式の証券化は不十分であったほか、株式の分割制度がなかった。その意味でいまだ当座企業の性格を残していた。
  6. 会社の運営は「十七人会」と呼ばれる重役会によって総攬され、「十七人会」は各カーメルの出資額に応じて、アムステルダム8人、ゼーラント4人、その余の4カーメルから各一人、及びアムステルダム以外のグループから輪番で一人宛が選出される構成となっていた。会議は年3回、各地に巡回して開催されたが、アムステルダムにおいて開催されることが圧倒的に多かった。
  7. 十七人会のもとに60名(当初は73名)からなる取締役会が置かれていたが、取締役は必ずしも大株主である必要はなかった。

 十七人会も取締役会も専制的で会議の内容も非公開とされ、配当についても恣意的なところがあり、中小の投資家の批判の対象とされたにもかかわらず、大した変革はなされなかった。

国家内国家

以上のほか東インド会社の、何といっても最大の特徴は、特許状に従い、十七人会が東インドにおいて各種の条約を締結すること、自衛のための戦争を行うこと、要塞を構築し、貨幣を鋳造する権限を与えられていたこと、地方に長官や司令官を置く権限を有することなどの権限を与えられていたことである。イギリス東インド会社は当初このような権限を有せず、この点においてオランダのそれとは性格を異にしていた。こうした権限を東インド会社が行使できる地域は「喜望峰の東、マジェラン海峡の西」という太平洋全域を含む広大なものであった。
 しかしてこれらの権限はもともと国家が保有する大権であり、こうした権限を会社が保有していたとすればその会社はもはや国家内国家と称すべきものであった。東インド会社が戦争権限を保有することによって、「商船が武装している」のではなく、「軍艦が商売をしている」ような観を呈したのである。

 事実、東インド会社はアフリカの喜望峰を越えれば一国家であった。オランダはこのように国家の力を傾けてポルトガル、スペインに次いで、東アジアに形成されていた通商ネットワークに切り込みをかけたのである。
 オランダが海洋に乗り出すに際して採用した方針は、一つには予てからスペイン商人が多く入り込んでいる南アメリカやメキシコの中心部よりも北アメリカへ進出することであり、東インドにおいてはフィリピン(すでにスペインの勢力が浸透していた)よりもポルトガルがさほどの兵力を置いていないマラッカや香辛諸島へ進出することであった。
 敵の敵は味方である。オランダはポルトガルの東洋進出以来ポルトガルと敵対するようになったアチェーや、ポルトガルのマラッカ占領によってさびれてしまった対岸スマトラの諸港と同盟し、ポルトガルに対抗した。
 そしてオランダの何よりの願いはマラッカを凌ぐ根拠地を獲得して東インドに一大勢力を築くことであった。根拠地の候補探しは各地にわたって丹念に行われ、各地に商館が建てられたが、重要視されたのは西部ジャワのバンテンとマライ半島東岸のパタニであり、後に最も重要な根拠地となるジャカルタ(ジャカトラ)は未だ注目を浴びてはいなかった。

香辛諸島のうちで、オランダが着目したのはスペイン/ポルトガルが入り乱れているモルッカ諸島の北部ではなく遙か南のアンボンであり、1605年にポルトガルからこれを奪い取った。この島はオランダが東インドで得た初の領土となった。オランダとスペイン/ポルトガルとの抗争は各方面の島々で続いたが、ポルトガル人はその一方的な香料買い付けの方法と強引なキリスト教布教の態度によって原住民に嫌われるようになっており、そのためオランダ人のこの地域への進出はまず順調であった。
 ポルトガル人の進出の動機が「胡椒とキリスト教」と「軍隊」のセットであったのに対し、オランダ人にとってはキリスト教布教の目的は当初から計算に入っていなかった。利潤への情熱が宗教への情熱を上回っていたのである。オランダはその持てる軍船の性能に照らし海戦において優勢であり、陸戦においても軍規律において勝っていた。 ポルトガルの東洋貿易は王室の独占的貿易であり、王室内の官僚制が持ち込まれることを免れなかったのに対して、オランダの東インド会社は、今の株式会社の萌芽といわれるだけに内部の官僚機能はポルトガルに比べて比較的に(あくまで両者の相対において)優れていたといってよい。

ついでに商船の拿捕のことに触れておこう。拿捕は日常的に行われていた如くであるが、1603年にオランダ東インド会社ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク(アムステルダム・カーメルの船員)がポルトガル船(サンタ・カタリー号)を拿捕したことがある。これについてはオランダが国内に消極論があったけれども――やはり後ろめたさがあったのであろう、――オランダ東インド会社は国際法の父と後に言われるフーゴー・グロチウスに鑑定を依頼した。グロチウスは「自然法」に照らし、東インド会社の拿捕の正当性を論証しようと努めた。

頭の痛い問題

東インド会社の経営が利潤の追求であるということは、当然従業する個人についても言えることであり、給与が十分でない下級職員の間には私貿易により私財の獲得に走る者が続出し、時代が下るに従って全社的な問題となった。しかし17世紀においてはポルトガル東洋貿易に比べ、まだ秩序を保っていたといえるであろう。
 また東インド会社の独占貿易システムに満足できない人々による別組織の問題もあった。ネーデルランドの人々にとって航海の自由は天与のものであるとされる位に重視されてきた(グロチウスもそのように唱えた)が、東インド貿易を許す特許状は東インド会社以外に東インドへ渡海することを禁じた。このことは当然一部の人々の強い反発をかった。 新ブラバント会社を設立したイザーク・ル・メール(既述)は東インド会社の十七人会のメンバーとなったがその後持株を売却して東インド会社を脱退し、フランスと共に東インド会社に対抗しようとしたが失敗し(フランスも東インド会社を設立したがそれはずっと遅れて1664年のことである)、さらに1615年に南アメリカの南端を経て太平洋航路を啓開して東インド会社に対抗しようとした。他にもかかる試みの例をみることができるが、いずれも会社の妨害にあって挫折した。
しかし東インド会社にとって何より頭の痛い問題は諸外国との競争であった。
 上述の如く東インド会社がスペイン/ポルトガルと抗争している間においてオランダはヨーロッパにおいてスペインからの独立戦争を戦っていたのであるが、1609年にフランス、イギリスの仲裁のもとにアントウエルペンにおいて12年間の休戦協定が成立した。その結果オランダがスペイン/ポルトガルから奪った海外の領土は保証されたけれども、休戦協定にもかかわらずスペインはその奪回に必死の努力を尽くしたため、12年休戦は東インドにおいては無に等しいものであった。
 オランダの敵はスペイン/ポルトガルにとどまらない。既にみてきたように、イギリスが1600年に東インド会社を設立し、エリザベス女王(1世)のもと、ヨーロッパにおいて次第に力を蓄えつつあった海軍力を背景に、イギリス東インド会社は東洋においてもその力を着実に伸ばしてきた。イギリス船はオランダ船につきまとい、貿易の分け前にあずかろうとしたうるさい存在であったが、オランダとしては独立戦争の折には盟邦になってもらったこともあって無下にもあしらえず、その関係は微妙であった。

東インド会社総督

こうして東インドを巡る諸国の角逐は多岐であり、情勢は複雑であった。こうした事態に対処するため、東インド会社の首脳は1609年に、出先における指揮系統と組織を整備する必要を認め、総督の制度を定め、初代の総督にピーテル・ボートを任命した。
 東インド会社の持船は1609年5月にはじめて平戸に入港したが、その船が総督の指揮下にあったものかは時期に照らして微妙である。
 ボート総督はスペイン、ポルトガル、イギリス等のヨーロッパ諸国との勢力争いに有利を占めようと努力したが芳しい成果をあげられなかったが、後にジャワ島と言われるようになった島の西部を占めるバンテンとの関係の樹立については功績があった。
 このころ会社首脳部は東インド各地の君主たちと友好条約を結ぶようにと艦隊司令官たちに指示を与えており、そのうちにはジャカルタも含まれていた。艦隊司令官フエルフーフェンは部下を遣わしジャカルタと交渉してこれを成功させ、1610年に条約を締結することができた。これによりオランダは100m四方ほどの土地を譲り受けて商館と商品の貯蔵庫を建てる許可を得た。そして胡椒の買い入れについてはその重さの5%相当の関税を支払うことなどを取り決めた。しかしオランダ人はこの土地が後に彼らの植民地経営の根拠地になろうとは夢想もしていなかった。

 ボート総督は1614年に帰国の途次乗艦が沈没し、不慮の死を遂げ、オランダ人の商人であるヘラルド・レインストが2代目の総督に就任した。
 彼の就任期間は僅か1年であるが、彼のもとに事務総長としてヤン・ピーテルスゾーン・クーンがおり、クーンは後世歴史に名を刻むことになる。後に東インド会社の経営の基礎を固め、ポルトガルのアルプケルケに比肩されるまでになるク-ンはオランダはホールンに生まれ、13歳の頃から7年間フランドル商人の会社従業員としてイタリアにおいて商業見習をつとめ商業や簿記を学んだが、同時に地中海世界の生存競争を目の当たりにして独得の処世法を身につけた。相当にアクの強い人物であったと思われ、後における活躍の舞台において生来の人を制する才能がものをいうようになったとも言われている。
 クーンは27歳で事務総長に就任すると、盛んに本国に意見具申を行った。彼の主張によれば他の競争者を排除するためにはまずオランダ人の数を増やすことであり、そのためには多数の人員を乗せた強力な艦隊を東インドに送って植民地を建設するべきであるとするものであった。こうして送られた「自由市民」をモルッカ諸島に定住させればそれによって利益を独占する(中間の利潤を他者に吸い取られないようにする)ことが可能だと考えたのである。クーンの構想は「自由市民」をして、アジア/ヨーロッパ間のマクロ貿易を任務とする東インド会社が手をつけられないミクロの貿易(アジア各地の地域貿易)に従事させようとするものであったが、実際はいわば東インド会社の下請のようなものであり、どれほどの「自由市民」が生まれたかは不分明であるとされている。

2代目総督は1615年に死去するが、3代目総督はクーンではなく東インド会社モルッカ諸島長官のラウレンス・レアールに決まった。レアールはクーンよりも4歳年長であり、クーンとは万事に肌合いを異にし、クーンに無能呼ばわりされながらもクーンの才能を評価していたが、自分の頭ごしに会社首脳に意見具申するクーンにはとうとう音を上げ、就任後まもなく辞意を表明し、次に述べるように1617年に辞任する。レアール総督の時代にはイギリスが香辛諸島において益々優勢となり1616年にはバンダ諸島のルン島を占領するに至った。バンテンにもイギリスの勢力は及びオランダを凌駕する勢いを示したので、オランダはジャカルタへと軸足を移すことを考えるようになった。こうした情勢にあってレアールは香辛諸島のモルッカ島(東方)へ赴き、直接戦いの指揮をとろうとし、クーンにはジャカルタ(西方)の要塞化を任せたのであるが、戦闘指揮をもともと苦手とするレアールはついに年来の希望通り辞任することを決意し、1617年にクーンが総督に昇進した(但し正式な辞令は1619年)。

朱印船渡航地・日本町・オランダ商館所在地

朱印船渡航地・日本町・オランダ商館所在地(森岡美子著「世界の中の出島」71頁を一部改作)

クーン総督

 クーンは総督に就任後、ジャワ島のバンテン王国とイギリス連合軍によるジャカルタ商館への攻勢に悩まされたが、バンテン/イギリスの間に生じた利害の対立を利用した結果、攻防の末、ジャカルタは遂にオランダの占領するところとなった。
 クーンは直ちにジャカルタに「自由市民」を呼び寄せることを提唱するが、事務総長時代に唱えたモルッカ諸島への「植民」とは趣を異にした。モルッカ諸島への植民が貿易と密接につながっているのに対し、ジャワへのそれは東インドにおけるオランダ人の増加であり、クーンが招こうとしたのは「身分の高い既婚者」、「すでに東洋に来ている男達と結婚するような若い婦人」たちであった。

 クーンはイギリス嫌いで、ことある毎イギリス船を捕獲していた。
 日本を相手とする貿易船についてもそうであり、イギリス、ポルトガル及び中国船を狙った。クーンは特にマカオからのポルトガルの定期船を拿捕することを平戸の商館長に訓令している。イギリス商館長ウイッカムはオランダが当地において他の外国勢に比べ優勢であることを認め、中国船から奪った生糸をオランダ人が超安値で日本人に売ることの不当性を本国に向けて愚痴っている。
 しかし徳川幕府はかかる横奪を黙殺した。長崎近海においてオランダ船がポルトガルのジャンク船を拿捕したときの取扱いに関するオランダ商館長から幕府への伺いに対して家康は、ポルトガル船が朱印状を所持していないのであれば幕府は関知しないと回答した。家康は日本が海外で紛争に巻き込まれることを極端に嫌っていたのである。

英蘭両インド会社

 しかしてこの間ヨーロッパにおいては英蘭の関係に変化が生じていた。1619年に英蘭両国の東インド会社間に協定が成立したのである。既述したスペイン/ポルトガル両国との間に1609年に成立していた12年休戦がまもなく満了を迎えようとしていた。この休戦期間が満了した場合、小国オランダにはイギリスと戦闘を交える余裕は到底なかったのである。
 しかし英蘭両国東インド会社間の協定はほぼ対等合併のようなものであり、オランダにとっては不本意なものであった。即ち、東インドにおける商品の買い入れは共同で行うものとされ(但し香料についてはイギリスが3分の1、オランダが3分の2)、今までの両国が占領した地域は夫々の地位を相互に保証するものとするが、今後のそれは等分とする。東インドにおける戦争については両国によって設けられる防衛会議(両国から派遣する同数(4名)の委員からなる)によって決められることなど、東洋における両国の勢力関係を正確に反映するものではなかった。折角東洋から浮き足立っているイギリスに過分の立場を与えることはない。クーンもそのように考えたかどうか、防衛会議を発足させたもののその機能を骨抜きにし、新たな根拠地バタビア(ジャカルタ)に巨城を築きイギリス人を事毎に圧迫したから、両国の関係は悪化の一途をたどった。

ところでバンダ諸島の原住民が香料の引渡しを拒んで東インド会社に叛いた。クーンはかかる叛乱はイギリスの煽動によるものとし、それでも一応防衛会議に諮ったが拒絶されたため、バタビアから1621年1月にオランダ艦隊を率いてバンダ諸島に赴き、次々に島を占領したが、イギリスが支配していたルン島をも占領してしまった。これに対しイギリス側は抵抗を示さなかったので原住民は投降したが、クーンは捕虜をジャワへ送り、また島に残留して抵抗した47人を虐殺した。その後生存者は飢死し、もしくは逃亡者は捕らえられ皆殺しにされた。クーンは空白となった後に「自由市民」を植民した。
 クーンはその後アンボンとモルッカ諸島に進出したが、高圧的に土着君主に接したといわれている。
 クーンは1623年後任をピーテル・ド・カルペンティールに譲って総督を自らの意思で辞任している。

クーンが去った後モルッカ諸島のアンボン島において英蘭両国の間に紛争が生じた。アンボン島にあるイギリス商館は既述した英蘭の協定以来オランダの要塞の中に設けられていたが、イギリス人が雇用する日本人が要塞の内部を探索していたとの疑いがかけられ、イギリス商館の全員が逮捕された。拷問の結果、オランダ要塞の攻撃計画の存在を認めるような自白がされたため、英人10名、日本人10名、ポルトガル人1名が死刑にされた。アンボンの虐殺事件である。
 折からクーンの2度目の赴任が取りざたされていたが、この事件がクーン教唆ではないかと疑われ、対外世論の悪化を恐れたオランダは極秘にクーン再任(1627年)を決めるなど大きな影響があったが、何といってもこの事件の影響の最たるものは、イギリスが香辛諸島においてオランダとの協調をやめ、ジャワに再び注目しようと図ったことである。しかし既にジャワはオランダの力の及ぶところとなっていた。そのため紆余曲折の後にイギリスは17世紀末までにジャワ全土から手を引き、以後英領インドの経営に注力するようになる。

インドネシアの支配

クーンは1627年に再び総督に復帰する。イギリスの脅威は著しく減少し、スペイン/ポルトガルは香辛諸島をはじめとするインドネシア地域から手を引いた。ジャワ島の大部分を占めるまでに発展したアタラムは農業国であり、オランダの貿易と衝突することはなかった。こうしてオランダ東インド会社に敵対する勢力はなくなった。
 この時期より少し前の1618年オラニエ公マウリッツはクーデターを起こし、以前乱立していた遠国貿易各社を統合して東インド会社の設立に腕を振るったオンデルバルネフェルトを死に追いやったこともあって、公の専制が行われ、このことだけが理由ではなかろうが東インド会社の専制的な体質に批判が起きた。1623年の特許状更新の時期(設立後20年ごとに更新されることになっていたことは既述の通り)には、民主化を指向する改訂が加えられたが、取締役団の専横を抑制する役には立たなかった。
 クーン総督は以前の「自由貿易」の立場を捨て、東インド会社による独占貿易をひたすら推進した。

クーンは勢力をジャワ島に伸張してきたマタラム国との戦い(1628~1629年。これによりマタラムの西方への進出を阻止することができた)の途中に病死し、その後総督は何人かが交代する。
 1636年にファン・デーメンが総督の時期に東インド会社は最盛期を迎える。根拠地であるバタビアは安泰の時期を迎え、香辛諸島のテルテナ島に起きたスルタンの叛乱を収拾し、1638年にはセイロンからポルトガル人を追い払った。
 そして特筆すべきは1641年のマラッカの占領である。マラッカはポルトガルによって支配されていたがオランダはマラッカ海峡を封鎖しマラッカを何度も孤立化させようとし、かつ攻撃を加えた末、オランダの司令官カルテークは遂にこれを陥落したのである。マラッカの交易上の価値は既に衰弱していたとはいえポルトガルにとって東洋のシンボルを失ったうえはその衰退は免れえなかった。他方オランダにとっては、マラッカ海域支配の完成とも言いうる出来事だったのである。
 なお、ファン・デーメンは探検航海を奨励し、アベル・タスマンは1642-1643年に東の果てに新しく島を発見した。これらの島はニュージーランドおよびタスマニアと後に名付けられた島々であり、またタスマンはオーストラリア大陸の数カ所を探検した。
 北方においては彼の時代に日本が鎖国を迎える。これはオランダにとって一面においては打撃であったが、他方においてオランダ一国のほか中国人のみ貿易を許され、他のヨーロッパ諸国は貿易の制限を受けたのであり、このことはオランダにとって明らかに利益だった。

日本とオランダの貿易摩擦

この頃東アジア水域におけるイギリスとオランダとの間の敵意は益々熾(さか)んになり、1616年以来オランダはイギリス商船を拿捕するようになった。既述の通り1619年に英蘭両東インド会社間に協定が成立した後も両国の敵意は下火になったとはいえなかったようである。
 他方オランダはポルトガルが占領していたマカオを奪い取ろうと考え、1622年に司令官コルネリス・レイエルセンの艦隊がこれを攻撃したが失敗に終わった。そこでオランダは目を台湾(高山国とか高砂国と呼ばれた)に転じ、台湾の沖合にある澎湖島に要塞を築いたが中国福建州当局の抵抗に遭い、レイエルセンの後任であるマルティヌス・ソンクは台湾本島西岸の安平(アンピン)に移り1624年ここに塞を築いた。これがオラニエ城であり、後にゼーランディア城(オランダのゼーラント州に因む)と改称された港である。ゼーランディアは一時(1624年から1626年に鄭成功がオランダ人を追放するまで)台湾全土を支配した。ゼーランディアは船荷の積みおろしには至便の港であった。中国当局はオランダがゼーランディアを用いて貿易を行うことに異議はなかったものの、日本人貿易商人がオランダ人に文句をつけた。日本人の東アジアへの渡海はオランダ人より遙かに古い。朱印船の中にも台湾に寄港するものも多く、オランダ商人との間に競争が生じたのはごく当然のことであった。特に1625年朱印船2隻がこの港を訪れ生糸を買い付けようとしたところ、オランダ要塞の長官がこの商品に1割の関税をかけるなどしたため、以後日蘭の緊張が急速に高まった。その後も日蘭商人のいざこざが相次ぎ、平戸商館にも影響が及んだ。長官ナイエンローデは東インド総督(当時はクーン)に上申し、事情を幕府に説明しようとした。1627年使節(正:ピーテル・ノィツ、副:ピーテル・ムイゼチル)が派遣され、8月1日平戸へ、次いで10月1日に江戸へ着き、平戸領主の松浦肥前守を通じて総督書簡を幕府に提出した。しかし、幕閣は従前将軍宛の書簡はオラニエ公マウリッツの名義で作成されていたのに、此度は総督名義になっているのはどういうわけか、などとして使節の引見を引き延ばしに延ばした。押問答があったであろうが、結局ノィツは空しく12月初めに台湾へ帰った。

台湾へ帰着していたノィツのもとに翌年末次平蔵の持船が入港した。前年の幕府交渉において屈辱感を味わったノィツはこれを好機としてとらえ、末次船の積荷に武器が混じっていることなどに難癖をつけ、抗議のため上陸した船長の浜田弥兵衛ほか数名を抑留した。日本船の積荷の一部は没収され、帰国願いも却下されるなど、浜田船長らとの談判は一向に埒(らち)があかなかった。ノィツは江戸での引きのばしに対する報復をするつもりであったと思われる。しかし日本人船長はおとなしくはなかった。何度目かの談判の折浜田弥兵衛は隙をみてノィツに飛びかかり人質にとって「殺すぞ」とばかり威嚇し、これを知った朱印船からも乗組員が次々に上陸したため、オランダ側も譲歩のやむなきに至り、朱印船の被った損害を賠償することにした。日蘭双方から5人宛の人質をそれぞれの国の船に乗せ平戸に赴き、そこにおいて人質を交換して一件落着ということにしようとすることになった。オランダ側は先の遣日副使ムイゼルが人質に加わっていたが船が長崎に入港するや幕府は台湾におけるオランダの振る舞いが幕府を侮辱するものであったとしてノィツを拘束し、平戸のオランダ商館も封鎖され日蘭の間は険悪となる。

しかし反オランダの雰囲気も1630年に朱印船貿易の巨頭であった末次平蔵が死亡すると治まってゆき、1632年9月台湾の長官が人質となって日本に送られてきたことによりこれをもって幕府は満足との意を表明し、5年にわたる日蘭の紛争は解決をみるに至る。
 オランダとの紛争がこのようにして解決をみるに至ったことは何を意味するか。一つにはもともと海外への発展に積極的でなかった幕府がこれ以降鎖国へと向かう予兆ととらえることができることであり、さらには豊臣政権下に禁教令が出された後もキリスト教の布教活動を一向にやめないポルトガル/スペインに対する敵意が、結果としてこれら両国と敵対関係にあるオランダとの結びつきを深める契機となったことである。

(未完)

〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。

〈参考文献(今回参考にしたもの)〉
  • ボイス・ペンローズ「大航海時代-旅と発見の二世紀」荒尾克己訳(筑摩書房、1985)
  • 三上参次「江戸時代史(上)」(講談社学術文庫、1992)
  • 赤瀬 浩「株式会社長崎出島」(講談社選書メチエ、2005)
  • 永積 昭「オランダ東インド会社」(講談社学術文庫、2000)
  • 浅田實「東インド会社」(講談社現代新書、1989)
  • 松田毅一「南蛮のバテレン」(朝文社、1991)
  • 浜渦哲雄「イギリス東インド会社」(中央公論新社、2009)
  • 増田義郎「太平洋―開かれた海の歴史」(集英社新書、2004)
  • 石井謙治「和船Ⅱ」(ものと人間の文化史76-Ⅱ、法政大学出版局、1995)
  • 佐藤弘幸「図解 オランダの歴史」(河出書房新社、2012)
  • 森岡美子「世界史の中の出島―日欧通交史上長崎の果たした役割―」(長崎文献社、2001)

(2013.1.1)

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