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弁護士 堤 淳一

2013年08月01日

太平洋の覇権(19) -----島原の乱/オランダ/出島

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

飢餓と圧政

 島原の乱は1637年10月に勃発し、1638年2月に終結したとされている江戸時代における最大の一揆であり、幕末に起きた戊辰戦争を除くと江戸時代を通じて勃発した最大の内戦である。
 島原の乱はまず肥前国高来郡島原藩(領主:松倉勝家)に起きた。
 島原はもと有馬晴信の所領で、晴信がキリシタンであったことからキリスト教信仰が盛んな土地柄であったが、1614年に有馬氏が転封となり、代わって松倉重政が入封した。重政は江戸城改築の普請を命ぜられるなど、これが島原領の財政を圧迫し、いきおい領民に対して重税を課すもととなった。そして重政はキリシタンに対する弾圧も開始するなど領内の統治は安定を欠いていた。

 1637年、肥前・肥後地方は飢饉に見舞われており、平戸にいたオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルは当代の領主松倉勝家が「領民には取れる限りの重税を課し、彼らは殆ど餓死寸前であった」とする日記を残している。そのうえ松倉家は税が滞納していることを理由に領民を川の中に漬けるなどの拷問を行い徴収を強制した。こうした苛政への恨みはいつ蜂起が生じても不思議ではない状況を招いていた。一揆勢は後述の通り1637年10月25日に蜂起したのであるが、既に10月も下旬にさしかかる頃には不穏の動きがあるという噂が島原に流れ、代官たちは分担してその動きを偵知しようと試みていた。

島原城の攻防

 有馬村の2名の百姓が天草に行って益田時貞(天草四郎)に帰依し、キリシタンの礼拝用絵像を持ち帰って、村民を集め公然と集会を開いた。
 そのとき領主である松倉勝家は江戸に在勤していたが、国許の家老は協議して有馬村においてこの2人を捕らえ城中にて斬首したが、村民達は集会をやめず10月25日、鎮定に向かった代官林兵左衛門を殺害して蜂起した。
 一揆はたちまちにして燎原の火のように広がり、口之津、加津佐、小浜、北岡(南有馬)の各地において代官、僧侶、下級神官らが惨殺されたり磔にされたりした。26日には既に7箇村の村民が蜂起し、島原城下に押しかけた。
 城方に味方した村民や城下町の町人たちは島原城に避難し、籠城する城方とこれを包囲する一揆方との攻防は一日中続いた。一揆勢は島原城を押し破ることは遂にできなかったが、10月27日から数日間島原城は城の周囲にある村落のキリシタンの攻撃にさらされた。松倉家の家老らは、事変を江戸に報告し、代官らは反撃に出ると共に、隣藩である細川(熊本)・鍋島(佐賀)両藩にも来援を求め、豊後に配されていた幕府の目付である林勝正、牧野成純にも急を報じた。
 細川、鍋島の両藩は兵を国境に出す準備はしたものの松倉藩内へ援兵を出すには至らなかった。けだし、事変があった場合は、「江戸ならびに何れの国においても、たといなんらの事これありと雖も、在国の輩はその所を守り、下知をあい俟つべき事」とする武家諸法度(第4条)によって行動を覉束されたからである。
 幕府の豊後目付もかかる想定外の事態に対処する命を予め受けておらず、幕閣の指揮を受ける外なしとして江戸へ飛脚をもって通報した。早馬によらず飛脚という悠長な方法をとったのは、事変の重大性を目付らが未だ認識していなかったためであろう。

 領内の村民にとって一揆の行方の如何にはまさに命がかかっていた。城方が優勢になるのかその逆なのか、村をあげて情勢を判断していずれに味方するかを決めた。この時代は戦国時代が漸く終わったとはいえ大名や武士が百姓を軍勢に取り込んで戦(いくさ)をするという状況に顕著な変化は未だみられなかったから、城方も一揆方も村民たちを味方につけるためさまざまな工作を行い、村民は戦いの或る時は一揆勢に、或る時は城方につくという有様で、敵味方の区別も混沌として容易に見定めることができない状況であった。
 10月も末になって一揆勢は島原城の包囲を解き、在所に帰って立て籠もるようになる。その結果藩内の三分の二を占める範囲(南目(なんめ)という)は一揆方に、三分の一ほどの範囲(北目という)が城方について、まさに藩内は真っ二つに割れる結果となったのである。

天草における蜂起

 島原において一揆が起きてわずか2日後の10月27日には、事前に示し合わされていたのであろうが、肥前国天草諸島にも一揆が飛び火した。天草はもともとキリシタン大名であった小西行長の領地であったが、関ヶ原戦役後、肥前唐津藩の飛地となり、寺沢広高が入封し、島原の乱の当時は寺沢堅高が領していた。

 天草の下島北西の岬に富岡城があり、三宅重利が守っていたが、蜂起から2日後の10月29日、変報に接した重利は本渡(下島東海岸)に軍勢を派遣し、自らも同地に赴きキリシタンの指導者を処刑した。他方で重利は天草の主立った「頭百姓」から人質をとって蜂起が波及するのを抑えようとしたが、住民のうち元キリシタンで棄教していたものが再びキリシタンへ「立ち帰る」者も多く、蜂起は引き続き拡大した。こうして天草全村48箇村のうち、村ぐるみ「立ち帰り」を起こした村は8村、村民の半数が「立ち帰り」を起こした村は3村に上り、かくては鎮圧の軍勢が圧倒的に不足するとみて、重利は持久の姿勢をとりつつ唐津本藩からの来援を待つことを余儀なくされた。

幕府の対処

 11月5日に至り一揆の報は京都、大坂に達し、大坂定番である稲垣重長は、町奉行曽我古祐(ひさすけ)、大坂城代阿部正次、京都所司代板倉重宗の四名の連署を以って九州の諸大名に宛て、「本来幕府の指示を仰ぐべきであるが、書状の往復には時間を要し暴徒の勢いが増長するおそれがあるゆえ、臨機の措置を講ずべき旨」、「そのためには諸藩において警戒を厳重にし、蜂起の場所と他の地方との連絡を遮断し、領内において武器の売買を禁じ、自領内においてキリスト教徒の蜂起あらば下知を待つことなく速やかに誅伐し、また有馬地方には武具兵糧を入れないよう厳戒すべき旨」を通知した。

 11月9日には豊後目付からの注進の報がようやく江戸に達した。幕府は板倉重昌、石谷貞清を上使として九州に派遣し、隣国大名には時宜により上使の指揮の下に出兵すべきことを通達し、叛乱の根拠地の領主松倉勝家及び豊後府内藩主日根野吉明に対しては、即刻国許へ帰還することを許し、また佐賀藩主鍋島勝茂、唐津藩主寺沢堅高に対しては、松倉藩が苦戦を強いられた場合は「同国の誼で」加勢することを命じた。もっとも板倉らが江戸を進発した際には天草(寺沢領)の叛徒が島原に呼応した旨は知らなかった。
 板倉重昌は御書院番頭(三河の深溝の城主)で2万1800石、石谷貞清に至っては目付で1千石ほどの軽輩であり、幕府はどうやら此度の蜂起を通常規模の一揆とみなしていた節がある。

 幕府は8月13日頃には天草にも事変が生じたことを知り、14日には細川忠利(熊本)、黒田忠之(福岡)、立花宗茂(柳川)、鍋島勝茂(佐賀)、有馬豊氏(久留米)その他九州の諸大名に対し各自の子弟を帰国させ、自領内を鎮撫するよう命じた。そして、相良頼寛(肥後人吉)、伊東祐久(日向飫肥(おび))、寺沢堅高(唐津)を含む6領主に対して領内の事態に対処するため帰国を命じた。
 同時に山形の保科正之、庄内の酒井忠当にも帰国を命じた。キリシタンは東北地方にも勢力を張っており、隔地間の通信にも長けていたため幕府はこの方面に同時多発的に一揆が起きることを懸念したがゆえである。
 長崎については奉行である榊原職直、馬場利重を派遣し、付近の大村、細川、立花、有馬の諸大名に長崎への出兵を命じ警備せしめた。

 唐津藩士から鍋島家に対する通信によれば唐津から約3,000人の軍勢が10日頃に着陣する筈であると述べられており、その頃には天草に到着したようである。富岡城において戦闘態勢を整えていた三宅重利らの軍勢とあわせた人数が一揆鎮圧の軍勢となる勘定であるが、唐津からの援軍は3千~4千、藩方は2千であったという報告がある。
 14日には島子(上島北西海岸)、本渡において藩方と一揆勢とが交戦したが、三宅重利はじめ寺沢家の有力な家臣が戦死するという惨憺たる結果に終わり、藩方は富岡城に籠城を余儀なくされた。このとき一揆勢を指揮したのは、天草四郎であったという。本渡で唐津藩軍を破った一揆勢は勢いをかって18日から21日にかけて富岡城を攻めたがこれを陥落させることはできず、21日の戦では大損害を出した。
 こうした戦の一進一退が領内の村々の向背に影響を及ぼし、また村民の帰趨が戦いに影響したことは言うまでもない。
 25日から26日の間に大矢野、上津浦のキリシタンたちは天草四郎と共に島原へ敗退していったという。

原城への立て籠もり

 上にみた如く、島原においては藩方が島原城に籠もったきり城外への出撃は思いもよらぬことのように窺われたが、そうした中、11月24日江戸から松倉勝家が帰藩する。勝家が着陣し、かつ鍋島家が唐比(からこ)(島原半島の付け根にある)まで出陣したと聞き、叛徒側は今度は城方からの攻撃を受けることになるゆえ城砦が必要であると判断し、島原半島の故城である原城を修理しておよそ25,000人が立て籠もった。12月1日頃のことであるとされている。武器弾薬や村々に蓄えられた食料、口之津にあった島原藩の藩庫から横奪した米5,000石を運び込み、天草四郎も12月3日には入城した。
 籠城したのは農民たち(百姓)だけではなかった。島原の乱の指導者は一揆勢の中に5千や3千いたといわれている牢人たち武士であり、戦の指揮は彼らがとった。
一揆の中には女性や子供も含まれていた。村ぐるみキリシタンに立ち帰りないし改宗したことを想起すれば当然であろう。

 上使である板倉重昌、石谷貞清は12月3日に島原に着陣し、12月6日に討伐軍は島原を出陣した。松倉勝家の弟である重利が先陣をつとめ鍋島勢が別働隊として進み、8日には勝家が進発し、10日には原城に鉄砲、大砲を打ちかけた。原城は海に面して高台にあり、堅固であったから、攻撃には容易に堪えることができた。
 12日には鍋島勢が石火矢、鉄砲を打ちかけたが城内からの反撃に逢って敗退し、17日には有馬忠郷の久留米藩、立花忠茂(柳川藩)の軍勢も合流し、20日に討伐軍は鍋島、立花勢をもって攻撃したが、惨憺たる敗北を喫し、控置されていた有馬、松倉の軍勢には出番がなかった。攻撃側の抜け駆け等、軍令の不統一もあって敗北に終わったとも、上使が軽輩であり指揮が重みを持って受けとめられなかったためとも言われている。

元旦の力攻め

 しかしてこれに先立つ11月27日、幕府は老中松平信綱(3万石)と大垣城主戸田氏鉄(うじかね)(10万石)を九州に派遣することを決定している。この2人はさきに遣わされた上使よりずっと格上であり、一揆を放っておいたのでは政府の根幹を揺るがしかねないと考え、本格的な討伐の作戦を発起したものと考えられる。
この両名の派遣については先に板倉・石谷の2人を上使に派遣したがゆえに今頃はすでに首尾良く鎮定され、従ってその地方は戦により荒れ地と化しているであろうから戦後処理を行わしめるため派遣する旨が諸大名に触れ出された。かかる触れには板倉・石谷の顔を踏みつけにしないようにとられた方策であろうが、流説はいかようであれ、板倉らにしてみれば心穏やかではない。1638年の元旦早々に攻囲軍は勢いに逸って四方から攻めかかったが、軍令の不徹底や事前に偵察されていたことも原因となり大敗を喫し、板倉重昌は狙撃されて戦死し、石谷は負傷した。この戦で3~4千人の寄せ手が死傷したと伝えられている。
 この攻城戦が無理攻めであることは将軍家光も遺憾とするところであったとされるが、何故かかる性急な攻撃が発起されたのかは不確かな点がある。新たに上使として派遣されることになった戸田氏鉄と板倉重昌は縁つづきであり、「松平信綱と自分が参陣した後も戦が延引するようであれば、貴殿の面目が立たないから一揆に攻められよ」とする大坂からの書面が大晦日に届いたため元旦の力攻めを急遽決定したとする説があり、説得的である。

 1月4日には松平信綱、戸田氏鉄が戦場に到着して信綱が総司令官となり、攻撃の方策として陣には井楼を築き、築地を掻き上げるなど持久戦の構えとし、各大名の軍に幕府より戦目付(いくさめつけ)(監察兼連絡将校)を配属し、作戦の協同一致と命令の徹底を期すこととした。また包囲を固くし、城への糧道を断ち、隧道(トンネル)を開削して城中に乗り込もうなどと企てた。
 そして1月12日に板倉重昌が戦死した旨の報告が江戸へ届く。事態を重視した幕府は細川忠利(熊本)、鍋島勝茂(佐賀)、立花宗茂(柳川)、黒田(福岡)、有馬直純(延岡)らに対し、藩主が直々に戦場に臨むべきことを命じた。
 そして信綱は拙速に攻撃しても軍勢を損なうだけであるゆえ、城中が疲弊するまで銃砲による攻撃を徹底して行うつもりであることを大坂城代へ申し告げ、5月には戸田氏鉄と連名を以って、村に理由もなく放火してはならないこと、違反者は処罰すること、軍勢は持場を決めてそれを維持すること、鉄砲攻めの様子は昼夜にわたって検分するので各軍勢は鉄砲隊の担当者を申告すべき事などを定めた軍令を発している。

蘭船の砲撃

 松平信綱は城への糧道を厳しく遮断するとともに、1月13日頃にオランダ商館長クーケバッケルに対し、平戸に停泊していた武装商船を島原へ回航し、原城に向けて砲撃を行うことを求めた。クーケバッケルは幕府の信用を得る好機とばかり自ら商船レイプ号に乗船し、他の一隻とともに2月24日島原に到着し艦砲射撃を行うと共に、兵員を上陸させ陸上からも砲撃を行わせた。 砲撃は連日のように行われ、叛徒に打撃を与えたが、オランダ側にも被害が生じた。オランダ側の挙げる数字によれば使用した砲は15門、砲弾426発を発射したという。3月1日、城内から攻撃軍に矢文が放たれ(この戦を通じて攻防軍の間に夥しい矢文合戦が行われた)、「日本には立派な武士が大勢いるのになぜ南蛮人の援助を求めるのか」と憤慨したという話も伝わっている。
 何故信綱はオランダ船を城攻めに加担させたのであろうか。オランダ人に加勢を頼んだことに対する風当たりが強かったことに鑑み、戦後信綱の述べるところによれば、「城中の一揆首謀者らは南蛮人とも申し合わせ、遠からず南蛮より援兵を得られる旨を触れて百姓を籠絡しているから、それが現実ではないことを知らしめるため、同じ南蛮人であるオランダ人をして原城を砲撃させ、叛徒の迷いを覚醒させるためである。しかしこれが日本の恥になるということには思い至らなかった」として砲撃の中止を決めたという。要するにオランダ艦による砲撃は対敵心理作戦だったと言うのである。オランダ側も城中からの狙撃により死傷者を出し、砲撃の命令を迷惑に感じていたこともあり、砲撃は止んだ。

攻城戦

 籠城戦においては城外からの援助がなくては城内は飢餓に陥ってしまうので援助なしに長期の籠城は不可能であり、城方はこれを期待するのが常である。松平信綱の読み筋通り首謀者が一揆勢に対し必ず南蛮から援軍がやってくるという風聞を流したとしても不思議ではない。オランダ船の砲撃はこのような夢を打ち破った点で戦略的意義があり、叛徒側の戦意は萎えたであろう。
 島原の戦は1638年2月28日の総攻撃(惣攻め)によって一揆方、攻囲側双方に多くの死傷者を出したが、攻囲側は立て籠った一揆勢の悉くを摺り鉢で摺り潰すように壊滅させたとか、全員が殉教したというように考えるのは誤りである。
 包囲戦の間、一揆勢から多数の落人(投降者)があった。寄せ手からも、強制されあるいは行き掛かりから籠城した者(籠城に先立ってキリスト教への改宗が強制され、一村丸ごとキリシタンとなる村もあった)には助命を約束して投降を勧奨する旨を矢文を利用して呼びかけた。
 戦の経過の中で矢文の応酬は盛んに行われ、1月12日に討伐軍側から放たれた矢文は、一揆勢に対し籠城の理由は将軍家に恨みがあるがゆえか、島原藩主に恨みがあるかを一揆勢に尋ね、その理由に合理性があれば媾和を考えないでもない、上述の如き不本意ながら籠城した者には飯米を2千石を支給し、今年の年貢は免除し、将来の租税については優遇措置を講ずることなどを呼びかけている。
 これに対し一揆勢は一揆がキリシタン「宗門」のことを動機として籠城している旨を述べ、キリシタン信仰の認容を幕府に求めているとする趣旨を返答している。島原の乱が俗世の問題だけではなかったことを窺わせる。
 籠城者のすべてが信仰によるものではないとする洞察に基づく討伐軍からの投降の呼びかけに対し、「ともかくデウス様のお計らい次第」として降伏を拒否する矢文もあったが、討伐軍の矢文による切り崩しが効果を上げなかったとも言えない。地元の有馬直純(延岡)が矢文を通じて一揆勢との間に談合を重ねる試みもなされ、2月に入ると落人の数は次第に増えた。食糧の不足から飢餓に陥ったことも大いに影響しているであろう。

 しかして投降者の数を推定することは難しい。籠城した者の数と惣責め(総攻撃)時の人数が判ればその差が投降者ということになるが、二つの数字そのものに諸説がある。籠城者の数については37,000人~47,000人、総攻撃時の数については27,000人~37,000人と諸説があり判然としないが、約1万人が城を去っており、投降者は決して少なくはなかったと思われる。
 総攻撃時の籠城者が37,000人として(「キリシタンはことごとくなで斬りにした。城内に3万7千人の男女がおり、そのキリシタンを残らず殺そうとしたため鎮圧軍の手負、死者も多かった」とする細川家の記録に拠るとして)、そのうち多くの者が討ち死にし、もしくは餓死したであろう。しかし討伐軍によって全員が殺戮(中にはキリシタンは生き還るからという理由で残忍な殺し方をした例もあるという)されたかどうかは疑わしい。
 戦の渦中において、もしくは総攻撃の直前に海上へ逃れた者もあるともいい、かなりの人数が城から離脱したと考える方が正しいであろう。

<島原の乱要図>→ここをクリックして下さい。

戦後処理

 松平信綱は4月4日上使として太田資宗が小倉を訪れた際、資宗と共に小倉に諸大名と会同し、島原の乱に関する将軍の命を伝えた。主な賞罰は次の通りである。

  • 寺沢堅高(唐津)・・・・領内統治方不十分として天草の領地没収、その後自害。
  • 松倉勝家・・・・同様の理由でいったん改易。その後領内における別の不行届が露見し、かつ統治について残忍なる処置があったことを理由に斬罪(切腹説もある)。
  • 板倉重矩(重昌の子)及び石谷貞清・・・・元旦の無理攻めの挙句失敗した責任を問われ逼塞(その後赦免)。
  • 牧野成純、林勝正・・・・一揆の報に接した後の指図不行届。閉門(その後赦免)。
  • 松平行隆・・・・戦況視察のため上使として現地に遣わされたが復命怠慢の責めを問われ改易(後に赦免)。
  • 鍋島勝茂及びその軍目付榊原職直(長崎奉行)・・・・・2月28日の総攻撃の前日に軍令を待たず抜け駆けに及んだとして出仕停止(後に赦免)。

 このように幕府は戦後処理について夫々の責任に応じ責任者に罰を与えたが、他方嘉賞としては戸田氏鉄に刀一振が下賜されたのみで、極めて手薄かった。
 その後天草の地には山崎家治を備中から封じ、高力忠房を浜松から封じた。
 なお、幕府は武家諸法度の第4条を修正し、自今国法に背き乱をなす者があれば、隣国相助けて速やかにこれを平定するべしと改め、また軍艦に非らざる限り500石以上の大船を造ることを許すこととした。

島原の乱の原因

 島原の乱とキリシタンの関係は強調されるべきであるにしても、乱への参加者が全員敬虔かつ熱心なキリシタンであったわけではない。
 一揆構成員の多くが上述のように「立ち帰りキリシタン」であったことからもそれは明らかである。彼らは一旦禁教令による迫害に屈して棄教し、その後キリシタンに改宗したものであり、島原の乱の過程の中では多くの者が「立ち帰った」。こうした熱心とも言えない教徒は有馬晴信、小西行長らキリシタン大名の治政下においては大勢に従ってキリシタンとなり、迫害が厳しくなってからは大勢に従って棄教した者であろう。 そして島原の乱が起きると天草四郎というカリスマの下にキリシタンへ立ち帰った。島原の乱において百姓たちは戦力としてキリシタン勢力に囲い込まれ、また藩方からも同様にしてその勢力下に組み込まれた。一般の百姓ないし領民は否応なくどちらか一方の勢力に組み込まれたのである。戦いの帰趨に応じ右往左往したことも考えられ、島原の乱全体が敬虔なキリシタンたちの受難と殉教というような単純な見方で把握するのは困難であろう。

 また島原の乱をもって、幕府という権力に対し立ち上がった反権力による体制変革であるようにとらえるのも事実に相違すると思われ、むしろ武力をもって言い分を通そうとする一種の争訟行為とみる見方が可能である。
 このような見方は現代の我々にとっては受け入れ難いけれども、戦国時代まではかような形で言い分を通すことは非日常的なことではなかった。
 豊臣政権を経て江戸幕府が成立する以前の中世社会においては紛争を統一的に解決する機関が存在せず、幕府、公家、荘園領主がその影響力を及ぼす範囲において夫々立法権、司法権を行使し、守護、地頭や村落(なかんずく惣村と呼ばれる地域的広がりを持つ独立村落)までが裁判権を行使していた。そのため、本来統一的司法機関があればそれによるべき紛争を当事者において自力救済的に解決せざるを得なかった。中世社会の惣村は互いに独立して当事者間の紛争を解決しようと試み、その方法は武力行使をも辞さないものであった。場合によっては領主にも対抗し、租税の減免や協定を克ちとった。

 江戸幕府も三代に至ると、司法権の全国統一への動きはあったものの、未だ中世社会の紛争解決の方法よらざるを得ない気分や風潮といったものが存在していた。
 島原における一般領民は他の地域と同じように庄屋たち指導者を中心に村に拠って団結していたと考えられ、村は形勢をみながら或る時はキリシタン側につき、或る時は藩方につくなどしたが、そうした行動は全体的にみて、必ずしも反権力の立場にたっていたものではなく、自らの立場を守ろうとしたのである。
 キリシタンにしても既述した矢文合戦において「我々は上様(将軍家)への言い分はなく、松倉殿への言い分もございません」「我々は他ならぬ宗門のことで籠城しているのであり、西国の諸大名を残らず動員され、外国人まで動員して攻撃する必要はありません」などとして、キリシタン組織の存立を掛けてはいたものの、天下を転覆する意思はない旨を強調している。

オランダによる日本との交易

 オランダが松平信綱の求めに応じて原城に対して砲撃を行ったことは既述した。
 オランダ商人がキリスト教布教よりも比較的に金銭的利得に執着する傾向は、他のヨーロッパ人(なかんずくポルトガル/スペイン)から嘖々(さくさく)たる悪評を浴びていた。島原城の攻撃への加担は、「宗派が違うとはいえ(オランダはプロテスタント)、同じキリスト教徒(叛徒の中には大勢のカトリック信者がいた)を裏切ってまでも幕府にとり入りたいのか」とする新しい非難の根拠を他のヨーロッパ人に与えかねなかったことは容易に想像できるところであるが、それにもかかわらず、あえて幕府への協力に踏み切ったのは何故か。

 既述してきた通り、日本貿易の嚆矢となったのはポルトガルでありスペインであった(1580年以降両国は同君連合国となる)。ポルトガル/スペインはカトリック(イエズス会・フランシスコ会など)の布教活動と表裏一体となって日本貿易を独占した。徳川幕府はキリシタンたちが貿易に専念するのであればこれを許すという態度であったが、禁教令(特に1614年の全面禁教以降)を冒して貿易と布教活動とセットにして行うポルトガル/スペインのやり方を嫌忌していた。
 幕府としては何としてもキリスト教と貿易を分離したいと、本音では思っていたに相違ない。
 1609年ポルトガル船を追尾しつつオランダ船が平戸に入港したことについては以前に書いた(本誌21号8頁)。既に1605年オランダに対し、もし日本に来航する折は自由に港への出入を許可する旨の朱印状を与えていたことに照らし、漸くにして入港してきたオランダ船は家康の歓迎するところとなった。

 幕府はポルトガル/スペインに取って代わる外国勢の参入を許すことによってポルトガル/スペイン勢に対抗する勢力を拵えたいと欲していたのである。しかしやがていずれかの時点でポルトガル/スペインと断絶するとしても、むやみにそうしたのでは人気商品である中国産の生糸の輸入(中国から密輸出される生糸をポルトガル商船が買い受け、これを日本に売るタイプの貿易)が杜絶する結果を生ずることになって、元も子もない。そうしたことからオランダ人の来航は幕府の目には好ましいものに映った。
 けだし、大航海の後発勢力であるオランダは世界の行く先々でポルトガルの築いた地歩を奪い商圏を自らのものにしようと汲々としていたからである。ちなみに同じように日本との貿易を目指す後発勢力であるイギリスも同じ様に、ポルトガルを目の敵にしており、両国は共同してポルトガルに対抗し、その商船を拿捕して積荷を奪うこともした。もっとも両国が仲が良かったからそうしたという問題ではない。偶々利害が一致し、1619年に英蘭両国の東インド会社間に協定が締結されたことにより(本誌22号15頁)、拿捕に協力し合っただけのことであり、この協定は僅か3年で1622年に破棄され、英蘭両国の仲は次第に険悪になってゆく。
 幕府はこうしたオランダの跳梁をじっと見守る姿勢をとった。

 ポルトガルと日本の関係は、1609年に起きたマードル・デ・デウス号事件(島原半島の大名であった有馬晴信によるポルトガル船焼き討ち事件。後に「岡本大八事件」へと発展し、本格的なキリスト禁教令の端緒となる)を機に冷え込んでいた。焼討ち後ポルトガルとの貿易は断絶したがほどなく再開された。しかし幕府は1612年ポルトガル船が入港して以来、貿易の窓口を長崎に限定する。ポルトガルに対する締付けを行ったのである。
 他方、1620年(1617年とする説もある)オランダ艦と艦隊を組んで遊弋中のイギリス艦エリザベス号が、マニラからマカオ経由で日本に向かう堺の平山常陳の持船を拿捕したところ、拿捕された船に2名の宣教師が同乗していた。オランダ/イギリスはこの船を平戸まで曳航し、幕府へ訴え出た。日本船の拿捕を不当と訴える常陳側と、宣教師を同乗させていたという問題点を主張するオランダ/イギリス側は真っ向から対立したが、取り調べの結果、2名はそれぞれ、アウグスチノ会のデ・ニヅカとドミニコ会のフロレスであることが明らかとなり、常陳側一同は処刑され、2名の宣教師も後に元和の大殉教において、他の宣教師とともに殉教を遂げる。
 この事件を日本側では「阿蘭陀忠節(おらんだちゆうせつ)」とよび、英蘭両国が日本の禁教政策に「忠節を尽くした」ととらえたので、オランダ/イギリスは点数を稼いだ。オランダ/イギリス側にしてみれば、ポルトガルを追い落とそうとした策謀の余禄に過ぎなかったが、この事件の結果、日本の商船が海外へ渡航している限り、キリシタン宣教師の潜入を防ぐことはできず、徹底した禁教は不可能であるということが事実として判り、結果としてこの事件は、日本人の海外渡航の禁止という政策に影響を及ぼすことになった。

オランダの勝利

 しかしオランダの日本貿易への割り込みはやすやすと成功した訳ではない。1625年、台湾貿易をめぐってオランダと日本は軋轢を起こし、1632年に貿易が復活するまでオランダは日本への出入りは差止となった(本誌22号16頁)。

 島原の乱はこうした国際環境の中に起きた。平戸のオランダ商館長が松平信綱から島原城の砲撃を命ぜられたことを好機ととらえたと上述したのは、かような経緯を踏まえている。オランダ人がキリシタン・カトリックに対して行った砲撃は誠意があるものとして幕府に受け容れられたことは想像に難くない。砲撃の命令が踏み絵と呼ばれる所以である。

 こうして幕府はオランダの忠誠心を試しながら、オランダによる生糸の調達能力が一定程度に達し、もしポルトガルとの関係が手切れになっても生糸の供給に支障がないと判断したのであろう。幕府は1639年にポルトガル人の追放に踏み切る。
 幕府のポルトガル/スペイン人嫌いは徹底しており、翌1640年に貿易再開を求めて来航したルイス・パエス・パチコの一行を拿捕したうえに、非キリシタンを除き61名の乗員を斬首した。この事件で日本とポルトガル/スペインとの外交関係は断絶し、一触即発の事態に至るとみた幕府は西日本の沿岸諸藩に厳戒態勢をとるよう命じた。しかしポルトガルは既に17世紀初頭には東インドにおいて勢力を衰弱させ、1622年にはホルムーズがイギリスに奪われ、1641年には東インド貿易の要衝であるマラッカが遂にオランダに奪われるという有様で、とうてい日本と事を構えることができる情勢でもなかった。
 イギリスは既に日本との貿易に見切りをつけ、1623年に平戸から撤退していたので、いまやオランダはヨーロッパでは日本と通商ができる唯一の国家となった。あの手この手を尽くした外交の勝利である。日本を出発してジャワのバタヴィアに帰港したオランダ船から、ライバルであるポルトガル船が日本へ渡航することを禁ぜられた旨の報告に接した東インド総督は日本貿易を独占できることを喜び、12月に祝賀と感謝のため盛大な宴を張ったという。

出島

 しかし、オランダ人の日本における貿易は、往年ポルトガル人が謳歌したようには放恣を享受することはもはやできなかった。
 江戸時代のごく初期の段階まで長崎の町においては日本人とポルトガル人は密接に触れ合うことができた。というのも長崎はそもそもがキリシタンの町であったから、布教と貿易に熱心なポルトガル人は長崎を闊歩していた。しかしポルトガル人が日本人と親密になることはキリスト教禁遏の政策にとって好ましいことではない。そこで幕府は幾たびもポルトガル人を日本人から隔離するための施策を講じてきたが1636年、長崎湾に、後に出島と呼ばれる小さな築地を築いた(もっともその費用は幕命を受けた長崎の有力者によって賄われた)。ポルトガル人をここに押し込めることによって日本人との接触を絶てばキリスト信仰は下火になると幕府は考えたのである。しかし出島築造後僅々数年後の1939年にポルトガル人は追放され、出島に入れるべきキリシタンはいなくなってしまった。

 日本へ渡航して以来オランダ人は(イギリス人が撤退するまではイギリス人と共に)平戸に拠点を設けてきたが、平戸における生活は極めて自由であり、城下町を往来することができた。オランダ人は平戸に商館や倉庫を建設し、根拠地としての強化を図っていたが、1641年、幕府はポルトガル人が去った後の出島へ移るよう突然オランダ人に命じたのである。  幕府はポルトガル人を嫌っていたからといってオランダ人やイギリス人が好きであったというようには見えない。キリスト禁教政策のもとにおいては一視同仁であり、1639年、ポルトガル人を追放した幕府は、オランダ/イギリス人と日本人の間に生まれた温血児とその母親など30人余りをバタビアに追放するなどのこともしている。
 出島は上記の通りキリシタンを隔離するために築かれたものであるから、後にオランダ人はこの島を「国立監獄」と呼んだ。出島は面積約3,969坪(当時の間尺によると、1間は191cmであり、これにより換算すると約14,490㎡)の扇形をしており、四方を海に囲まれ、出入りは1箇所に設けられた橋一筋のみという不便さで、東に隣接する高台から長崎奉行所の役人の監視を受けた。極めて住み心地が悪かったことは想像に余りある。 出島に居住していたのは任期付で勤務する商館員(商館長、荷倉役、簿記役、書記など)と、1、2名の医師、賄い方、大工、庭師などの職人、下僕など20~30名程度の男世帯であった。オランダ人が妻子を出島に入れることは許されなかった。
 これに対し出島に出入りしていた日本人は長崎奉行配下の町年寄、出島乙名などであり、このほかオランダ通詞(通詞目付、大通詞、小通詞、稽古通詞などの段階がある)が重要な役割を果たした。大小各通詞が年番として1年交代で出島に勤め、ほぼ毎年1~2隻、旧暦6~7月に入港し2~3ヶ月の間沖合に停泊するオランダ船の検疫、上陸者の把握、各種文書(有名なものとして「オランダ風説書」がある)の翻訳、貿易取引への立会に携わった。女性が島へ出入りすることは許されなかったが、遊女は除かれた。
 このようにオランダ人の出島での生活は不便極まりなかったであろうが、それでも出島の機能が廃される(外国人居留地へ編入)1866年まで二百数十年にわたりここに住むことにしたのはひとえに貿易のためであったことは言うまでもない。
 日本からの輸出品は当初は銀が主要なものであり(1641~1667年の間だけでも12万9700貫)、長崎へ入ってくる輸入品に見合う価値の銀が流出し、その後銅も併用される。物産としては、海産物、陶磁器、樟脳、醤油などが輸出された。オランダ側からの輸入品としては、中国産生糸が最も多く、オランダ本国の産品としては羅紗のほか長崎奉行所からの注文品として書籍、地図類、望遠鏡、眼鏡、時計類などがあった。

(未完)

〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。

〈参考文献〉
  • 三上参次「江戸時代史(上)」(講談社学術文庫、1992)
  • 赤瀬 浩「株式会社長崎出島」(講談社選書メチエ、2005)
  • 永積 昭「オランダ東インド会社」(講談社学術文庫、2000)
  • 浅田實「東インド会社」(講談社現代新書、1989)
  • 浜渦哲雄「イギリス東インド会社」(中央公論新社、2009)
  • 松田毅一「南蛮のバテレン」(朝文社、1991)
  • 石井謙治「和船Ⅱ」(ものと人間の文化史76-Ⅱ、法政大学出版局、1995)
  • 佐藤弘幸「図解 オランダの歴史」(河出書房新社、2012)
  • 森岡美子「世界史の中の出島―日欧通交史上長崎の果たした役割―」(長崎文献社、2001)
  • 神田千里「島原の乱」(中央公論新社、中公新書1817、2005)
  • 渡辺京二「日本近世の起源―――戦国乱世から徳川の平和(パツクス・トクガワーナ)へ」(洋泉社、2011)

(2013.8.1)

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