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弁護士 堤 淳一

2016年01月01日

太平洋の覇権(23) -----アメリカの独立

(丸の内中央法律事務所事務所報No.28,2016.1.1)

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

第1回大陸会議

□ 17749月に第1回大陸会議(Continental Congress)がペンシルバニアのフィラデルフィアで開催され、地元の先住民との抗争で手が離せず欠席したジョージアを除く植民地12州から代表56名がカーペンターズホールに参加して開かれた。会期は95日から1026日までにわたった。

余談にわたるようだが、ここに参集した植民地はProvinceColonyDominionなどと称し、現在Statesと呼ばれ、「州」と訳されるものの原型ではあるが、州と区別される。これらの植民地がStates と称するのは17767月に独立宣言が発せられる時からである。しかしここでは当分「州」で統一する。

□ 会議の背景には茶会事件(ボストン・ティーパーティー事件)の舞台となったボストン港の閉鎖、マサチューセッツ植民地の自治権・裁判権の縮小(マサチューセッツ勅許の取消)、全植民地に駐留するイギリス正規軍への宿舎・物資の提供などを要求する、植民地諸州にとって「耐え難き諸法」Intolerable Actsを押しつけられたことに対するアメリカ植民地人の強い反撥があった。

 また植民地諸州は同時期に制定された「ケベック法」に対しても反撥していた。「ケベック法」は7年戦争の結果フランス領から新たにイギリス領になったケベック州には議会を設けず、イギリス本国の直轄統治の下に置かれるものとされ、マサチューセッツ勅許の廃止問題と結びつけて批判の対象とされた。

□ 大陸会議は1020日には12州の代表の全員が承認した「植民地の権利の宣言」を採択した。その中には参加12州が連帯してイギリス製品をボイコットすることと、アメリカ製品の輸出禁止(同盟規約)が含まれていた。しかし、大陸会議の何よりも重要な成果は、植民地の人々に対し「アメリカ人」であるという意識を植えつけたことにある。

大陸会議の議長を務めたペイトン・ランドルフは「私はヴァージニアの住人ではなく、アメリカ人だ。」と述べてその時の気持ちを表わしている。

□ 一方イギリス本国政府にしてみると、植民地人の代表が集まって会議を開くなどもっての外のことであり、国王ジョージ三世やノース首相は、植民地は既に「反乱状態」にあると断定し、イギリス本国に帰服させるためには一戦も辞せずとの考えを持っていた。大陸会議は1775510日に第2回の大陸会議を開催することを決議して閉会したが、イギリス政府は17751月、今後の大陸会議の開催を禁止する声明を発表した。

 しかし、それにしてはイギリスの大臣たちがとった行動はいかにも的である。大臣たちは植民地住民の要求を受けつけないと決めていたのだから、掌握している全軍隊を召集し、既に兆候が現れていた反乱を粉砕すべきであった。しかし彼らはそうはせず、全く無力なボストン駐屯部隊を少しばかり強化しただけで、武装した北米植民地を相手に対峙せざるをえなくなったのである。

コンコード/レキシントンの戦い

□ イギリス本国政府は1775414日、ボストン茶会事件以来駐留していた在アメリカ駐留軍の総司令官であり、マサチューセッツ植民地総督をも兼務していたトマス・ゲージ将軍に対し、反乱状態にある植民地人に対する強圧的な対処を求める命令を下した。

 ゲージ将軍は、駐留イギリス軍の本拠地であるボストンから50キロほど離れたコンコードの町に、アメリカ人たちが武器弾薬を集めているとの情報を得て、直ちに接収部隊をコンコードへと進発させた。 この行動はすぐにアメリカ側の知るところとなり、彼らは、マスケット銃を手にコンコード周辺へ集結し始めた。彼らは植民地会議(この時はマサチューセッツ植民地会議)の召集に応じて軍務についていた、いわばパートタイムの兵士たち(ミニットマンと呼ばれた)であった。419日早朝、イギリス軍先発隊がコンコードから6キロほどの距離にあるレキシントンの村に到着したとき、そこには銃を手にしたアメリカ民兵が待ち構えていた。イギリス軍指揮官は部下に戦闘隊形をとらせたうえで民兵に解散を呼びかけたが、一発の銃声がたちまちにして緊張を破った。イギリス兵は民兵に対し一斉射撃を始め、民兵に18名の死傷者を出す損害を与えた。さらにイギリス軍は民兵を掃討しつつ午前8時ころコンコードへと到達し、武器弾薬の所在を捜索して破壊につとめていたとき、町の北側に300から400ほどのアメリカ民兵が集結し、コンコードの北側の橋を占拠すべく前進を開始していた。イギリス兵はただちに応戦し、民兵側は2名を失ったが、イギリス兵も3名が戦死し、9名が負傷した。貯蔵物資の破壊という目的を達したと判断したイギリス軍は撤退するが、その途上、家々から民兵の狙撃を受け続け、イギリス軍は287名の死傷者を出した。

□ このレキシントンとコンコードでの小競り合いで思い知らされたのは、組織されていない地元の散発的な反乱を鎮圧するのでさえ、イギリス軍が絶望的なまでに力不足であるということであった。一方アメリカ人は、装備や練度で劣る民兵が精強イギリス軍と互角に渡りあったとばかり、自信過剰なまでに戦意を高めていった。

 但し、この小競り合いによってボストンの町の支配権をアメリカが奪回したかというとそのようなことはない。イギリス軍は引続きボストンの街に駐屯していた。

 後になってみればこの戦が8年にわたるアメリカ独立戦争の始まりであった。

第2回大陸会議

□ 1775510日、フィラデルフィアで予定通り第2回の大陸会議が開催され、この会議には13州が参加した。以後大陸会議は178131日まで常設機関として機能する。Continental Congressの語は「会議」と訳され、臨時的なもののような響きがあるが、本来「議会」と訳されるのが適切で、後に連合会議(1781-1789)、次いで連邦議会へと引き継がれる。

 この会議で今後予想されるイギリス軍との広域的な戦域に展開するため植民地の壁を越えた常備軍の必要性が唱えられた。

 そこでひとまずボストン周辺に集結していた民兵を会議の統率のもとに置き、これを大陸軍とすることが決定され、正規軍とされた(但し、実体を伴わない、紙の上のことであったが)。大陸軍兵士の給与はイギリス軍兵士のそれよりも多く、衣服も支給され、任期は1年と言われたが、給与については滞り勝ちであった。

 総司令官にはヴァージニア植民地人であり、後にアメリカ合衆国初代大統領になるジョージ・ワシントンが選出された。622日、イギリス軍との衝突が再び発生した。ワシントンがボストン周辺に展開するアメリカ軍のもとに赴任する準備中のことであった。

 バンカーヒル(ボストン近郊の丘)で発生した戦いで、堡塁に籠もったアメリカ人たちはイギリス軍への攻撃に後退を余儀なくされていた。この知らせを受けた大陸会議は、76日に「武器を取る理由と必要性についての宣言」を発し、今回の一連の戦闘は植民地のアメリカ人の権利を守るためのものであり、本国からの独立を意図するものではないことを言明した。アメリカ人たちは大陸軍を創設する一方で、依然として本国との和解を期待していたのである。何しろイギリス軍は当時世界第一級の軍隊であり(1775年現在、世界中に展開するイギリス正規軍は35000人と言われれており、しかも随時補強が可能であった)、対するアメリカ軍は「正規軍」と言っても装備も粗末な、事実上は民兵だったのである。

ボストンの「奪還」

□ 72日、ボストン近郊のケンブリッジに到着したワシントンは、いまやアメリカ植民地の正規軍となった16,000ほどの兵士たちの指揮を引き継いだが、今後数年間このような素人集団を軍隊として育て上げることも、ワシントンの重要な仕事となった。

 この時期、トマス・ペインによる「コモン・センス」と題された一冊のパンフレットが出版された。この著書は国王の慈悲を期待することは馬鹿げており、アメリカが反逆者の汚名を雪ぐには独立するのほかないと主張したものであり、しまいには50万部を超えるベストセラーとなった。

 一方、イギリス国王ジョージ三世(在位1760-1820)は、ドイツ人の傭兵を雇い入れ(イギリス国王ジョージ三世がドイツ人であったことがドイツから傭兵を雇い入れたことと関係があるとの推測が成立つ)、その数は30,000人を算えると言われた。これにより1779年までにおけるイギリス軍の総数は60,000人を超えた。もっともこの兵力は時の経過と共に北西部のカナダから南部のフロリダ戦線に薄く広がり、集中的な用兵が難しく、このことが数において劣るアメリカ軍によって苦杯をなめさせられる結果となる。

□ 17763月ワシントンはタイコンデロガ(ボストンの北西350キロ)において兵力を補給、イギリス軍が守備するボストンへ進撃し、177510月以来、イギリス軍の指揮権をゲージ将軍から承行していたハウ少将と対峙した。しかしタイコンデロガで捕獲した大砲がイギリス軍を見下ろす髙地に据え付けられるとハウ将軍はボストン防衛を断念し、317日ボストンから忠誠派(親国王派)の市民を連れてノバ・スコシアのハリファックス海軍基地へと撤退した。こうしてワシントンの大陸軍は愛国派(大陸会議支援派)に迎え入れられボストンへ進駐するが、ワシントンは間を置かず、次の戦略拠点であるニューヨークへと移動する。

独立宣言

□ ペインによる「コモン・センス」の発行、ワシントンによるボストン奪還に勢いづいて、各植民地に独自の憲法制定の動きが見られるようになった。独立へと収斂する大陸会議の動きに弾みがついた。

 4月には大陸会議はアメリカ各地の港をイギリスの商船以外にも開放すると宣言し、イギリスに敵対するフランスには援助を求めて使節を派遣した。

 徐々に常設機関として植民地の中央政府的役割を果たしていた大陸会議は、何度も独立への逡巡と各植民地の代表者間の交渉の後、やっとのことで母国からの完全な分離を満場一致で決定し、ジョン・アダムズ、トマス・ジェーファーソン、ベンジャミン・フランクリンらからなる独立宣言起草委員会を設置し、177674日、委員会の手になる独立宣言が、大陸会議において採択された。ここに13植民地は独立した州となりUnited States of Americaが誕生した。

□ 独立宣言はヴァージニア代議員のトーマス・ジェファーソンの手によって執筆された。

 独立宣言の本質的部分はフランスのジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」から藉りたものであり、新しい共和国の理念が宣明された。ルソーの書物の中における思想はここに現実の政治的プログラムに組み込まれたのである。独立宣言が提示したテーゼの1は人間があまねく平等であること、その2は支配者と被支配者との間の道徳的基盤を保証するものは契約であるということである。独立宣言の本質は次の宣言に表われている。

われわれは自明の真理として、すべての人びとは生まれながらにして平等であり、すべての人びとは神より、侵されざるべき所定の権利を与えられている、その権利の内には、生命、自由、そして幸福の追求があるものと信ずる。これらの権利を保障するものとして、人びとのあいだに政府が打ち立てられ、その正当な権力は被統治者の同意に由来する。

(中略)

そして宣言は「現在の英国国王による歴史は、毀損と収奪の繰り返しであり、その直接の目的は州邦に絶対専制を樹立することにある」として英国国王に対する問責を書き連ねる。そうしたうえで次のように宣言する(以下の見出番号は訳者が便宜的に挿入)。

それゆえ、われわれアメリカ合衆国の代表は、大陸会議を召集し、われわれの意図の公正さを世界の至高の審判者に訴え、アメリカ植民地の善良な民の名の下に、その権威を以って、次のことを厳粛に発表し宣言する。

①アメリカ植民地は自由かつ独立の国家であり、自由かつ独立の国家たるべきは当然の理である。

②アメリカ植民地は、英国国王に対するあらゆる忠誠の義務から解放される。

③アメリカ植民地と英国とのすべての政治的関係は完全に解消されており、また解消されてしかるべきである。

④自由かつ独立の国家として、戦争を始め、和を講じ、同盟を結び、通商を開く完全なる権能を有し、独立国が当然に行うべきその他すべての行為をし、物事を実施することができる。

多方面の戦線

□ しかし宣言で真の独立が達成されたわけではなかった。イギリス本国政府が植民地の一方的な独立を認めるはずもなかった。

 ボストンで両軍がにらみ合っていた1775年の夏から76年の夏にかけて、北方においてはカナダにおいて、又南方ではサウスカロライナにおいても戦闘は行われていた。

 アメリカ軍はカナダを植民地から解放すべく、3500の兵力で北上を開始したが、優勢なイギリス海軍の支援を受けるケベックの攻略に失敗し、カナダからの撤退を余儀なくされた。

 他方イギリスは17761月にヘンリー・クリントン少将率いる1万数千の部隊をサウスカロライナへ派遣するが、6500の守備隊のアメリカ軍が守るチャールストンを攻略することができなかった。

□ イギリスは従来からの楽観論を捨て、フランスやスペインといったかつての敵国が介入する前に終戦に持ち込もうとして、ドイツ人傭兵3万人を含む5万人規模の派遣軍の編成を決定した。本腰を入れたイギリス軍の攻略目標はニューヨークであった。

 17766月、ハリファックスへ後退していたハウ将軍は9300名の兵士と共に72日、ニューヨーク湾の入口にあるスタテン島へ上陸した。ボストン攻略後、ただちに南下していたワシントンは、既に約18000の兵力でニューヨークの守りを固めていた。彼らはそれぞれの持ち場で独立宣言の採択の一報に接した。

 イギリス軍は増強を受けて22,000にその数を増やし、ロングアイランド島を攻撃した。イギリス軍は主力迂回包囲機動に打って出てアメリカ軍に1,400人の損害を与え、ワシントンは同島から撤退した。915日に戦闘が再開したが、イギリス軍は大陸軍の守備するマンハッタン島へ上陸し、大陸軍を撤退に追い込んだ。ワシントンは1万の兵を率いて北へ撤退し、次いで求めたホワイトプーンの合戦においても敗退し、ハドソン河を渡って敗走を重ねた。

□ ハウの軍勢はさらに追撃し、ワシントンはペンシルバニアまで後退したが、デラウェア河に阻まれたイギリス軍はワシントンを討ち漏らした(そのときのアメリカ軍の兵力は脱走が相次いだことにより3,000を切っていたといわれている)。

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フィラデルフィアの陥落とサラトガの戦い

□ さきに「コモンセンス」なる著作物を出版したトマス・ペインは、177612月「アメリカの危機」と題してパンフレットを出版した。この著作はアメリカ人の士気を奮い立たせるのに大きな役割を果たした。 1225日、2,400ほどの軍勢を率いたワシントンはイギリス軍の前哨基地トレントンへの奇襲攻撃を敢行し、1,000名近くの捕虜を得た。

 さらに翌17771月、ワシントンは今度はプリンストン守備隊を撃破することに成功する。

 ハウからワシントンを捕虜にする任を命ぜられたコーンウォリスは、これに失敗、ブランズウィッグまで兵を退き、ワシントンもこれ以上の攻撃を断念し、モリスタウンでの冬営準備を開始した。

 イギリス軍の戦線後退によって、大陸軍は海沿いのいくつかの町を除くニュージャージーの大半を奪還した。

この一連の戦いはアメリカ人を勇気づけると同時にイギリスの強硬派を刺激した。

□ 17776月、イギリスは正規軍7,000を核心とし、これに忠誠派民兵や先住民数百名を加えたジョン・バーゴイン少将指揮下の軍勢をカナダから南下させてアメリカへ侵攻せしめ、最終的にはニューヨークを進発してハドソン川を北上するハウの軍勢と合流し、ニューイングランドと呼ばれる北部植民地と、中部・南部とをハドソン川を境にして分断する戦略をとった。ところがバーゴインは民衆の支持を得ることができず、816日、ベニントンにおいて、アメリカ民兵の前に900の兵を失い、敗北を喫した。これがきっかけで従軍していた先住民の大半が部隊を離脱し、南下作戦は最初のつまづきを見せた。

□ 他方、バーゴインはニューヨークから北上してくるはずのハウの部隊とも邂逅できなかった。というのも、ハウの軍勢はこの時、大陸会議の置かれているフィラデルフィアへ向かっていたのである。その理由は、本国のジャーマン植民地大臣が北上作戦とフィラデルフィア作戦(南下作戦)の2つの作戦をハウに認可していたためである。

 ハウはバーゴイン作戦が順調に進んでいると誤判断し、船団を組んで海路南下してチェサピーク湾の奥深くにあるヘッド・オブ・エルクへ上陸した。ワシントンは冬営地のモリスタウンから約15,000の兵を率いて南下し、ブランディワイン川左岸において迎え撃った。911日早朝から開始された戦闘はワシントンの完敗に終わった。

平地における戦闘においてイギリス軍のとった主力迂回機動戦に、練度不足のアメリカ軍はまだ敵ではなかったのである。

 ワシントンを破ったハウは926日、アメリカ連合の事実上の首都であったフィラデルフィアに入城した(大陸会議は、いちはやく西方のヨークへ疎開していた)。

 フィラデルフィアへの入城を果たしたハウはここで驚くべきニュースに接する。カナダから南下していた筈のバーゴインがアメリカ軍に降服したというのである。

□ ハウの軍勢とオルバニーにおいて合流すべく南下を続けていたバーゴインはベニントンで敗北し、その後も919日と107日に発生したフリーマン農場とビーミス高地周辺での戦いで約1,200名の損失を出し、その進軍は頓挫していた。

 この戦いで、ペンシルバニア、メリーランド、ヴァージニアの三植民地から派遣されたライフル銃装備の民兵が威力を発揮した。ライフル兵は散開隊形をとり、イギリス兵に装備されているマスケット銃の射程外から射撃を行い、バーゴイン軍に大損害を与えた。

 バーゴイン軍は、ビーミス高地近郊のサラトガ村へと後退し、これを追撃したゲーツ大佐率いるアメリカ軍はエドワード砦へと至る退路を遮断し、射撃を浴びせた。食糧も尽き、脱走兵も相次ぐイギリス軍は抗すること適わず、1014日、ついに降服したのである。

フランス/スペインの参戦

□ サラトガにおけるイギリス正規軍の降服はフランスの態度を一変させた。フランスは17782月、アメリカとの同盟に踏み切ったのである。それまでにも第2回大陸会議は17764月にフランスに使節を派遣して援助を求め、フランスは、これに応じて武器弾薬や衣類をアメリカに送り、密かに「愛国派」を支援していたが、同盟者としてアメリカがむに足るかどうかを注視していた。サラトガにおける勝利はフランスのアメリカを見る眼を変えたのである。

□ フランスは、イギリスとアメリカが和平交渉を開始する前に戦争へ介入することを決め、17782月アメリカとの同盟に踏み切った。そしてフランスは、同年7月に発生した英仏海峡での砲撃戦を契機としてイギリスに宣戦を布告し、引続き北米に兵力を派遣することとなる。またこの後、17795月にはジブラルタル奪還を狙うスペインがイギリスに宣戦し(フランスとスペイン王家はともにブルボン王家)、さらに1780年にはイギリスの中立国船舶に対する臨検に反撥したロシア、スウェーデン、デンマークが武装中立同盟を結び、1781年にはオランダやポルトガルも同盟に参加したため、イギリスは国際的に孤立してゆく反面、アメリカには支持が集まっていった。

 後にフランス革命に参加する若きラファイエット侯爵や、ロシア・プロイセンによる分割に抵抗したポーランドのコシューシコなどは義勇兵として参加し、プロイセンのシュトルベン男爵の如くアメリカに渡り、ワシントン軍に訓練を施す者も現れるに至った。

□ 7年戦争(17561763)においてイギリスが「1人勝ち」を収め、列国の怨嗟をかったことは以前に述べた。上に述べた列国によるイギリス包囲網はかかるイギリスへの反撥の結果である。ベンジャミン・フランクリンを中心とするアメリカの植民地外交官たちは、叡智を結集してイギリスと利害の対立していたフランスなど欧州諸国への外交的働きかけを大々的に行い、その結果、欧州大陸諸国を味方に引き入れ、もしくは武装中立の姿勢をとらせることに成功した。もしこれらの外交努力がなければ独立戦争の軍事的勝利も、ひいてはアメリカの真の独立も覚束なかったと思われるのである。

□ フランスがイギリスに宣戦したことによって、西インド諸島とフロリダに戦略的な変化が生じた。これらの地域は7年戦争によってイギリスがフランスから得たものであり、フランスによる奪回作戦への防衛のため、この方面へ兵力を割く必要が生じたのである。

 ハウ将軍は折柄辞任し、クリントン将軍が後任を拝命していたが、イギリス本国政府は新任の将軍に対しフィラデルフィアを放棄して西インド諸島とフロリダに出兵すること及びニューヨークを確保することを命じた。

 そしてニューヨークに参陣したクリントンは新たにニューヨークで南部植民地における作戦を展開するよう本国政府から別命を受けた。南部に所在する植民地(ヴァージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ)には西インド諸島防衛に有用な良港もあるうえに、忠誠派市民がイギリス軍の派遣を求めていたのである。177811月、クリントンは3,500の兵を南部へと送り出した。この部隊はジョージアに上陸後、難なくサヴァナを攻略し、直ちに忠誠派による植民地政府が樹立され、ジョージアはイギリスの手に戻された。翌177912月クリントンは自ら南部植民地を平定すべく、8,700名の兵を引きつれて海路サウスカロライナへと向かった。

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南部戦線

□ 17802月、サウスカロライナへ上陸したクリントン軍は、海軍の支援を受けつつチャールストンの町を包囲、5月にはアメリカ軍の守備隊を降伏させた。

 クリントンは、南部戦線の指揮をコーンウォリスに4,000の兵を与えて任せ、ニューヨークへと引き揚げた。

 クリントンから南部の戦線の指揮を引き継いだコーンウォリスは、南部方面軍を編成して反撃を開始したアメリカ軍をキャムデンで打ち破った。その結果大陸軍はサウスカロライナから駆逐され、南部を制圧するというイギリス軍の作戦はこのまま順調に推移するかと思われたがそうはゆかなかった。

□ 17808月、キングスマウンテンの地でイギリス人士官に率いられた忠誠派部隊と愛国派パルチザンとが衝突し、愛国派が勝利する。178012月、キャムデンの戦においてゲーツの後任に指名されたナサニエル・グリーン准将は、食糧を確保するために大陸軍と民兵からなる南部方面軍2,700を二手に分けた。コーンウォリスは敵が二手に分かれたことを知ると、タールトンの部隊(1,000名)をカウペンスへ出撃させ、大陸軍850名と対峙した。

 1781117日、戦闘はタールトンの騎兵隊の突撃で始まった。初撃を受けた大陸軍は戦術的後退を行い、イギリス軍がかさにかかって追撃するとみるや、撤退したと思われた第2線の民兵がイギリス軍の左翼に現われ、かたや主力部隊が右翼をついたため、イギリス軍の横隊は包囲され崩壊した。タールトン自身は騎兵の進撃を逃れ、わずかの兵を引きつれて逃げ延びた。

 同年2月ノースカロライナのギルフォード郡庁舎付近においてイギリス軍と大陸軍が対戦する。戦術的後退と包囲を試みる大陸軍に対しイギリス軍は大砲に散弾を用いる作戦をとった。そのため戦いは凄惨を極め、大陸軍は撤退を開始したが、イギリス軍も被害が大きく追撃することができず、海沿いのウィルミルトンまで兵を引いた。

□ イギリス軍後退の報に接したサウスカロライナでは愛国派パルチザンの行動が活発化し、合わせて1500の兵が南下を開始、次々とイギリス軍の拠点を陥落させた。

 コーンウォリスは、アメリカ南部方面軍の息の根を止めるにはその補給源を遮断する必要があると痛感し、クリントン総司令官の指示を待たずにヴァージニアへと北上した。そこにはフランスから参加したラファイエットの部隊が駐屯していたが、集寡敵せず後退した。コーンウォリスは後退したラファイエットを追撃しえなかった。何故ならばクリントンから海軍基地として使用できる港の確保を優先するよう命じられたからである。この命令によってコーンウォリスは反転し、ヨーク川の河口に位置するヨークタウンへと入った。

ヨークタウンの戦い

□ 17813月、「連合規約」が発効した。

 連合規約は177711月に大陸会議で可決され、予てより各邦の批准を求めるため回付されていたものであり、最後に批准したメリーランド州の代表が178131日に署名を終えたことによって漸く発効に漕ぎつけた。同日をもって大陸会議は解散し、翌日同メンバーをもって連合会議へと移行した。

 この時期、北米大陸にはコント・ド・ロシャンボー伯に率いられた5,500以上のフランス兵が駐留し、イギリス軍が放棄したニューポートにはフランス艦隊(ド・パラス提督)が入港していた。さらに、スペインとの共同作戦のために西インド諸島へと派遣されていた艦隊(ド・グラース提督)も、10月中旬までは北米での作戦に協力できる体制にあった。

 ワシントンはこれらフランス軍の協力を得て、ヨークタウンへ入り込んだコーンウォリスの軍を一挙に叩くことを決意する。ワシントンは大陸軍2,500を引きつれ、ロシャンボーのフランス陸軍とド・パラス艦隊、それにド・グラース艦隊と機動する作戦を立てた。

□ ヨーク半島への上陸軍と2つの艦隊は見事に同調し、作戦は成功裡に終わった。ヨークタウンを包囲する戦列艦だけでも34隻を数え、ヴァージニア沖の制海権は米仏同盟軍が握ることになった。ワシントンとローシャンボーの陸兵はラファイエット部隊と合わせて8,500に上り、ヨークタウンを包囲した。他方7,000の兵力を要するコーンウォリスは籠城の姿勢をとってクリントンの援軍を待ったが、これに対し米仏同盟軍は、106日の夜から、攻城戦のセオリー通りに敵の射撃から歩兵を遮蔽する塹壕を掘り始め、同時にヨークタウンへの砲撃を開始した。14日には、町の南東の海岸沿いに唯一残されていたイギリス軍の堡塁が陥落し、コーンウォリスはヨーク河を渡河して対岸へ逃れようと図ったが、嵐によってその行動も失敗に終わった。クリントンが約束した援軍はいっこうに姿を見せず、包囲軍の砲撃は激しさを増す。進退窮まったコーンウォリスは、ついに降伏した。

パリ講和条約

□ ヨークタウンの敗報を受けて、イギリス国内では費用対効果の見合わぬ植民地戦争に反対する声が高まり、ジャーマン植民地相とノース首相が辞任を余儀なくされ、北米イギリス軍の総司令官もクリントンからガイ・カールトンへと交代した。

 新内閣を組閣したシェルバーンは、アメリカやフランス、スペインとの和平交渉を開始した。常に強気だった国王ジョージ三世も、やむなくこれを承認した。

□ イギリスとアメリカを含む各国との講和条約は17839月、フランスのパリにおいて正式に調印された。アメリカは独立を承認され、ミシシッピ河以東の領土を獲得した。イギリス領フロリダもスペイン領となり、イギリスはカナダを除く北米植民地の多くから手を引かざるを得なくなった。イギリス支持の側についた忠誠派アメリカ人10万は、イギリスやカナダに亡命し、その資産はアメリカによって差し押さえられた。

□ イギリスは圧倒的な戦力を持ちながらも、政府と指揮官たちの意思統一を欠いたことにより、軍が広い戦線にばらまかれた結果、戦力の集中的使用ができず、決定的な局面で勝利を得られなかった。

 この戦いに大いに裨益したフランスには甚大な影響が及んだ。フランスは独立戦争へ参戦することによって領土的には何の利益をも得なかっただけでなく、巨額の軍事費の出費によって疲弊し、アメリカの独立はフランス革命に火をつける結果となったのである。

<参考文献>

・猿谷要「物語アメリカの歴史―超大国の行方」(中央公論新社(中公新書)、1991

・C・チェスタトン「アメリカ史の真実―なぜ「情け容赦のない国」が生まれたのか」(祥伝社、2011

・中西輝政「国まさに亡びんとす―英国史にみる日本の未来」(文春文庫、2002

・荒川佳夫「【戦史分析】最強大英帝国vs不屈の市民軍 アメリカ独立戦争」歴史群像№67P66(学習研究社、2004.10

 

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