• 事務所概要
  • 企業の皆様へ
  • 個人の皆様
  • 弁護士費用
  • ご利用方法
  • 所属弁護士

弁護士コラム・論文・エッセイ

弁護士コラム・論文・エッセイ

ホーム弁護士コラム・論文・エッセイ堤弁護士著作 一覧 > 太平洋の覇権(24) -----アメリカ合衆国憲法の制定
イメージ
弁護士 堤 淳一

2016年09月01日

太平洋の覇権(24) -----アメリカ合衆国憲法の制定

(丸の内中央法律事務所報No.29, 2016.8.1)

連合規約

□ 前章において1774年と1775年に2回開かれた大陸会議(The Continental Congress)のことに触れた。

 1776年の独立宣言を受けて、その年から翌年にかけて多くの州(state)が独自の憲法(州憲法)を制定した。

 各州のうちには植民地時代の特許状など、成文法による統治の伝統を踏まえつつ、統治機構に関する部分と、人権に関する条項(権利章典 Bill of Rights)を併せ持った憲法を制定した州もあった。州が有する議会で憲法を制定した州と、マサチューセッツ州のように特別な憲法制定議会が制定した州もあり、制定の方法はまちまちであった。

 こうして各州がそれぞれ州憲法に裏付けられた政府を持ち独立独歩の動きを示すようになると、事実上の連邦政府に過ぎない大陸議会の権威はむしろ低下した。

□ そこで大陸会議はこの13州の結合に確固たる法的正当性を付与するため、1777年末に全13条からなる連合規約(The Articles of Confederation)を制定するが、実態的にみれば13州は「アメリカ連合諸州」にとどまった。

けだし連合会議は事実上戦争を含む外交の権限を有するものとされたけれども、課税権は限定された範囲にとどまり、対外通商・州際通商の規制権も与えられておらず、財政は各州の拠出金に頼らざるをえなかったからである。ましてや州を連合政府に服従させ、命令を強制し、イギリスとの間に交わした条約の履行を強制する力などとうてい持ちあわせていなかったのである。

□ こうして企てられた連合規約は全州の批准を発効の要件としたため、結果としてこれには3年以上もの年月を要した。しかしようやく1781年に全州の批准が完了し、連合会議は正式に各州を結束する役割を果たすようになった。以後、大陸会議は連合会議(The Congress of Confederation)ないし連合政府と呼ばれることになった。

 連合会議の下には、外務、財務、軍務など多くの委員会がおかれ、不完全ながら行政的な職務を分担した。しかし政府の財政基盤の脆弱さを補うための課税権を全州に課することについては州の同意が必要とされたため、実現しなかった。

旧北西部における改革

□ しかし連合会議はパリ条約の調印(1783年)・批准後、旧北西部における重要な改革を行った。 その一は、旧北西部の公有地の測量と売却に関する公有地条例の制定である。この条例は1785年に制定され、公有地を6マイル四方の正方形(タウンシップ)に分け、これを更に細分化して1エーカーあたり1ドルを最低価格とする競売に付することにしたのである。

 その二は、1787年の北西部条例である。この条例は連合会議が選任した知事らによる旧北西部の統治を定めるとともに、同地に奴隷制を禁じ、さらに自由成人男性の人口が5,000を超えるに至ると自治権を認め、その後も同じようにして一定の基準を満たした地域は準州から州へ昇格し、連邦に加わることができるものとする仕組みが作られた。この仕組みはやがて西部にも拡がっていった。

□ 後に合衆国が形成されたとき、連邦政府が引き継いだ独立戦争期の債務は、遅延利息も含めると、フランスその他の外国に対する対外債務が約1170万ドル、内国債務が約4440万ドルにのぼっていたと言われている。連合会議の負っていた債務もおして知るべしである。

大陸軍の解散

□ こうした多額の債務は連合政府を苦しめ、連合政府は窮乏にあった財政を補填するため1785年に海軍(Conventional Navy)に最後に残っていた艦船を売却し、陸軍も合衆国第1連隊(700人規模)1箇のみを残すほか、大陸軍を殆ど解体してしまった。

 13州連合はイギリスと戦うための軍事同盟であったが、独立宣言が公布されると、強力なイギリス政府の圧力から逃れるためにやっとのことで戦いとった独立を守るために別の強力な力を持つ政府は不要であり、平時に於ける軍備は安全保障上もはや無用であるという考えが背景にあったであろう。 

 しかし、海軍を欠き小さな陸軍のみに軍事力を依存する連合政府は内外に生ずる安全保障問題を解決することはできなかった。北西部においてはイギリスが、フロリダとルイジアナからスペインがアメリカに脅威を与えた。また強力な先住民たち(アメリカン・インディアン)もアメリカの西進を阻み、地中海においてはアフリカ北部の諸国の海賊がアメリカの商圏を荒らしていた。

taiheiyo24map.jpg

シェイズの反乱

□ 国内にあっていっそう困難な危機が生じた。即ち大陸会議には資金が払底していたため、戦いの終了によって解雇された大陸軍兵士の給与の未払が生じた。そのため銃を手にし、食糧を求めてさまよう男達による見境のない略奪が各地に頻発した。

 挙げ句の果てにニューイングランドに反乱が起きた。その反乱は大陸軍のダニエル・シェイズという老兵によって指導されたもので、独立戦争の経済不況により、負債を担保していた抵当権の実行や税の滞納のため、土地を没収されたり投獄されたりした小農民達が武器をとった反乱で、1786年から87年にかけてマサチューセッツで起こった。連合政府はこの危機を鎮静するに必要な軍隊も資金も調達することはできなかった。

 この反乱は結局はマサチューセッツの義勇軍によって鎮圧されたが、独立戦争を契機に台頭し、強力な中央政府を樹立することを目指す勢力(ナショナリスト)は、連合政府が反乱に対し為す術もない現実に屈辱感を募らせ、連合政府の無能力は早晩国家を無統制に陥いれるとして危惧し、強力な中央政府の樹立を求め、やがて合衆国憲法の制定を促進する勢力となる。

制憲会議

□ 1787年の5月からフィラデルフィア(大陸会議が開催された場所である)において合衆国憲法立案のための代表者会議が開かれた。いわゆる憲法制定会議(The Consititutional Convention)であり、4ヵ月を要する長丁場をかけて、憲法の制定について議論した。

□ 制憲会議は何を目的としていたのだろうか。政治的に独立していた州と州を条約によって結束させることだったのだろうか。

 それとも州という自治体を併合して、一つのまとまりのある政治的な団体にし、一つの国家を創立することだったのだろうか。

 制憲会議がまず目指したのは前者の条約の立案であり、大陸会議を改造し、誰が見ても追加すべき法的諸権限だけを追加しようとした。ところが、そのような計画では、内憂外患にとうてい対処できないことがすぐに判った。

 しかし彼らは、後者の国家創設論をあえて公然と採用するだけの勇気がなかった。諸州も敢えてそうしたくなかったのだろう。それでも彼らは連合を造り、それが発展して国家となることを望んだのである。国内外における無統制は切羽詰まっており、いかにしても対処しなければならなかったからである。

□ フィラデルフィアの会議にはロードアイランド州を除く12州の代表55名が集まった。代表者達の平均年齢は42歳と比較的若かった。

 強力な中央権力を組織することに熱心だったアレクサンダー・ハミルトン、最年長(81)で、大所高所から成り行きを見守る役割を担ったフランクリン、ニューイングランド出身で後に副大統領になるエルブリッジ・ゲリー、ヴァージニア州出身で制憲議論を主導して行く若きジェームズ・マディソン(後の第4代大統領)などがいた。

 この中にはトーマス・ジェファーソンの名前が抜けている。ジェファーソンは1785年から89年までフランスの公使を勤め、折柄フランスにいてフランス革命(1789年)というまたとないドラマを目のあたりにする機会に恵まれた。

 議長はその頃から半神格化され始めていたワシントンしか考えられなかった。彼は故郷のヴァージニアへ一時的に引退していたのだが、その引退先から呼び出され、再び祖国へ奉仕することになった。ワシントンを核心として、広く拡散した諸州の利害を調節し、有能な代表者達が召集され、論争と譲歩が行われ、諸州の統一を目指すことになった。

合衆国憲法の制定

□ マディソンが起案したヴァージニア案は、集権的政府を指向し、比較的大きな州に有利な案であったが、この案に対して、小規模な州の利害を酌み、各州平等の代表権を主張するニュージャージー案が提出され、議論の末、連邦議会の上院の議席数を各州につき平等、下院のそれを人口比とする妥協が成立した。また人口の計算には黒人奴隷を多く要する南部に有利にならないよう、黒人奴隷一人を白人の5分の3と数えることが決まった。

□ 最終的に採択された憲法案は全7条からなり、第1条に連邦議会、第2条に大統領、第3条に連邦最高裁などに関する規定が盛り込まれ、三権分立や抑制と均衡などのデザインを実体化させた。これらの思想はもともとはフランスの思想家の書斎で思索されたものであるが、アメリカ人によって政治の現場において開花するに至った。

□ 羊皮紙に清書された憲法には39名の代表者が署名し、憲法はただちに連合議会に送られ、受理されたのち、各州の批准に回付され、各州の憲法制定会議の議論に供された。

 全州が批准することを条件としていたがために、その発効が大幅に遅れたことの反省から、合衆国憲法第7条は、「この憲法は、9の州(邦)の憲法会議で承認されたとき、これを承認した州(邦)との間で成立し、その効力を生ずる」とと規定していた。

フェデラリストとアンチ・フェデラリスト

□ 憲法が各州の批准に回されている間、憲法の条章をめぐって様々な議論が起きた。この間批准推進派は、自らを連邦派(フェデラリスト)と称した。以前彼らはナショナリストと呼ばれていたがナショナリストの語感が刺激的に過ぎるとしたため改称したとされている。

 他方強力な中央政府を嫌う憲法の批准反対派は反連邦派(アンチ・フェデラリスト)と呼ばれた。両者の発生はやがて第一次政党制へと展開していくことになる。

□ 憲法案(制憲議会で採択された憲法が9つの州によって批准される以前のものを以下、憲法(草)案という)にはその言葉のわずかな解釈もついていなかった。それゆえ憲法案により提議された政治的権原と憲法の理論と正当性に関する議論がどうしても行われる必要があった。そのため草案を詳説し解釈するためいくつもの言説がなされた。その中でもっとも持続性を保っているのが「ザ・フェデラリスト」の著者たち(ハミルトン、マディソン、ジェイら)の解釈である。

□ フィラデルフィア会議において連邦憲法案が建議され、「ザ・フェデラリスト」なる文書がその解釈を示した時点で、政治の真空状態に一定の解決策が提示されたことを意味したのではなかった。

 既に「連合規約」にもとづく連合政府が存在しており、それがアメリカに於ける唯一の政治機構ではなかったとしても、その象徴的表現であった。そこには、連合を支えていたアメリカ的生活の政治構造がみられた。その政治構造は、州政府、地方自治体の様々な制度、陪審員制度、またその有用性に応じて現われては消えていった多種多様な自発的生活形態によって構成されていた。

 しかしてフィラデルフィア憲法は、その自発的な政治構造を全て無視したとはいわないまでも、アンチフェデラリストの眼からみると、以前には何も存在していなかったところに、中央政府、国民国家の諸制度の体系を打ち立てようとした、急進的な思考の所産であるかのように映じたにちがいない。

 フィラデルフィア憲法は、従来のアメリカの政治的手法や政治経験の蓄積に断絶をもたらした「革命的」な憲法であったとみなすことができるであろう。

 一般的にはアンチ・フェデラリストは不平等に反対し、市民参加に好意的な傾向を示し、新しい中央政府の権限拡大には強く反対する立場に立つといえた。かれらはまた、最初の憲法草案に権利章典が定められていないことを深く憂慮し、導入された体制が貴族制政府の導入を偽装したものではないかと疑っていた。

特権の廃止と宗教改革

□ ところでアメリカ13州連合はイングランドに対する勝利が確実となる前に既にジェファーソンが広めていた平等の思想にもとづいて種々の特権を廃止していた。それは全州でほぼ同時に行われた。

 まず最初に世襲の権利や特権が廃止された。端的な例としては、独立戦争に功労のあった将校たちによって結成された協会(「シンシナティ」という)の会員資格を世襲にすべきであるとの提案ですら拒否された。

 参政権は平等化され、どの州でもヨーロッパ人種の成人男子すべてに選挙権が与えられた。フランスの民法である「ナポレオン法典」の原理を通して土地所有制度の改革と整備が行われていった。

□ 他の重要な原則の一つは世俗国家における宗教改革等である。即ち自分が良心的であると思ってした行動が世俗的な法に合致しないとしても「それは宗教的な理由に基づくがゆえに、法律上の罪には問われないか」、というとそうではなく、その行為が市民間で間違っているとされた場合には罰せられるということである。換言すれば市民間における全体的合意には宗教問題は含まれておらず、このことは人々はどのような宗教観を持っていても市民が合意する一般的道徳性愛国心、社会秩序に対立しない限りにおいて自らの信ずるところに従って宗教観を持つことができるということである。(メリーランドにおけるこの種の実験については以前に述べた)。

 法の前における宗教の平等はすべての州で認められ、アメリカ憲法の本質的な部分となった。

法の支配とチェック・アンド・バランス

□ 独立宣言は、

「すべての人びとは生まれながらにして平等であること、すべての人びとは神より、侵されざるべき所定の権利を与えられていること、その権利の内には、生命、自由、そして幸福の追求があるものと信ずる。」

旨宣言し、

「これらの権利を保障するものとして、人びとのあいだに政府が打ち立てられ、その正当な権力は被統治者の同意に由来する。」

としており、これらの宣言は憲法の基礎に生きている。

 しかして自由を強調するあまり放縦に陥ることと、自由を抑圧して専制が行われることとは人々に対する二重の脅威であった。その脅威から自由を守るために「法による支配」が必要であり、そこから代表政府に対する信念が生まれた。

 上述のように市民の意識が国教や世襲に基づく階層制のような個人の行動に対する伝統的な束縛から解放された状況にも助けられ、この信念はアメリカに非統制的、非制約的、個人主義的、そして資本主義的な社会を育むもととなった。

 建国者たちは合衆国憲法を起草する際、専制政治をもたらした過度の権力から自由を保護しようとしたが、その一方で、自由が脆弱さや放縦さに陥るのを回避するための監視体制を憲法に盛り込もうと試み、合衆国憲法は権力分立および抑制と均衡体制を通じて、自由と権力のバランスの間に問題を解決した。

第1回連邦会議

□ 17886月には9邦の批准を得て憲法が発効するが、引き続いて、地理的にも経済的にも重要なヴァージニアとニューヨークが批准し、17893月、第1回連邦会議がニューヨークで開催されることになった。当時、まだ合衆国憲法を批准していなかったノースカロライナとロードアイランドを除く11州の代表が参集した(ノースカロライナとロードアイランドも第1回連邦議会の発足後に憲法を批准して連邦に加わった)。ようやく4月に上下両院とも定足数に達すると、既に2月に投票が行われていた大統領選挙の開票が行われ、大統領には満場一致でジョージ・ワシントンが選出された。

 合衆国憲法には行政部についての具体的な規定がなかったため、外務(のちに国務)、陸軍、財務の3つの省を設ける法律を通過させた。

□ 今日から見た第1回連邦議会の最大の功績は、権利章典の制定である(憲法草案はいわゆる統治機構に関する規定のみで、言論、集会の自由のような条項を定めた権利章典は含まれていなかった。そのため憲法が各州の批准に回されたとき、州によっては権利章典を欠いていることに対する批判もあった)。

 権利章典はマディソンを中心に作成され、最終的に採択された12条からなる案が修正条項として付け加えられ、各州で批准されることになった。しかし、この12条項にわたる憲法修正案は10条項のみ批准され、最終的に179112月に権利章典として憲法修正第1条から第10条が成立した。

権力の牽制

□ 建国者たちは、憲法の草案にあたり、

われら合衆国の人民は、一層完全な連邦を形成し、正義を確立し、国内の平穏を保障し、国防に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫に自由のもたらす恵沢を確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、ここに、この憲法を制定する。

 と宣言したが、この理想を実現するにあたって自分たちが直面しなければならないディレンマやパラドックスに気づいていた。それゆえ専制政治をもたらした過度の権力から自由を保護しようとする一方で、自由や脆弱さや放逸さに陥るのを回避するための監視体制を憲法に盛り込もうとした。

 合衆国憲法は権力分立及び抑制と均衡体制を通じて、自由と権力のバランスの問題を解決した。また、この体制により、政府機構のあらゆる機関(州政府と連邦政府、連邦政府の三権、立法府の上下両院)の間に権力が分散された。

 憲法の軍事規定においても、権限の配分が具体化された。連邦政府と州政府との間で権限配分がなされたが、13州連合の規約とは異なり、連邦政府により強い権限が与えられた。特定の個人や一定の集団が過度の権力を握ることがないように、軍隊の統制権は連邦議会と大統領とに振り分けられた。

□ 連邦議会は「戦争を宣言し」、「陸軍を徴募し」、「海軍を創設し、これを維持する」ことができ、「その統制及び規律のための規則を定めること」、「反乱を鎮圧し、侵略を撃退するために、民兵(militia)の召集について定めること」、「民兵の編制、装備及び規律、並びに民兵のうち合衆国の軍務に服するものに対する統制について定めること。」などの権限を有した(憲法第1条第8節)。

 大統領は陸・海軍の最高司令官とされた。大統領は「合衆国の軍務に実際に就くために召集された」民兵の最高司令官でもあったため、連邦議会が専制政治に陥る可能性はほとんどなかった。更に大統領は、上院の助言および同意の下ではあったが、軍隊の司令官の任命権も持っていた。

 このように連邦議会と大統領との間に牽制が働いていたとはいうものの、大統領が議会と対立したとき、連邦議会は弾劾によるのほか大統領に不信任をつきつける術を欠いていた。

州と軍隊

□ 州に関していえば、連邦政府は州に対して共和制の政府を自立することを保証し、侵略や州内の暴動から保護することを約束する一方で(憲法第4条)、州の軍事的権限に制約を課していた(同第10条)。州は、連邦議会の同意なしに、平和時において民兵以外の軍隊内や軍艦を維持することができず、他の州や外国と同盟を結ぶこともできず、また非常時の場合を除き戦争に従事することもできなかった。

□ もっとも各州は民兵の指揮官を任命し、「連邦議会によって規定される規律に従って」民兵を訓練する権限を有したため(憲法 条)、この権限に内在する権利として、民兵を保有することが許された。

市民兵、志願兵、正規軍

□ アメリカには軍隊に関する2つの異なるイデオロギーがイギリスから伝来していた。殆どのアメリカ人は正規の常備軍の保有は専制的制度であり、自由に対して脅威を与えるものであるとする考え方を支持していた。その代わりに民兵という概念を作り出した。民兵は市民自らの自由を奪う動機を持たないがゆえ最も安全な国防体制であると考えられたのである。

 もっともこれに対する穏健的なウィッグ派は専制

状態に対する枷が予め憲法によって用意されていれば正規軍は自由と両立する問であると考えた。事実イギリスは小規模な常備軍を持っていた。

□ 植民地時代から独立に至る過程におけるアメリカには「市民兵」と「正規兵」という二種類の兵士がいるようにみえる。

 この「市民兵」という用語は、(1)共同民兵、(2)志願兵からなる民兵、(3)民兵に属さない志願兵という3種類の複雑な混合軍を表すものであった。

 植民地建設の初期には、国民皆兵制に基づく共同民兵制度が根付いていた。小規模であった植民地を襲う身近な侵略(例えば原住民による)に対処するため、短期ないし臨時的な地域防衛体制が急務であり、人的資源の不足と安全保障に対する不安感が蔓延した状況下にあっては、市民一人一人が銃を執る兵士であった。

 しかし、人口が増え、フロンティアからさらに西方へと拡大するにつれて、共同民兵制度は次第に廃れていったが、独立戦争の最中にこの共同民兵は劇的な復活を遂げ、イギリスを破るうえで重要な役割を果たした。しかして独立戦争後は共同民兵の軍事的有用性は実質的に消えていった。

 共同民兵制度の衰退にともない、志願兵からなる民兵隊が登場した。この特別な部隊は比較的裕福な志願兵によって構成され、彼らは独自の軍服、装備、編制、団結心を持った。18世紀には、これらの部隊の数は比較的少なかったが、19世紀前半において爆発的に増加し、南北戦争後には州兵へと進化してゆく。

□ 次に「民兵に属さない志願兵」部隊がある。通常の守備任務やフロンティアの警備、さらには先住民或いはヨーロッパの敵に対する軍事行動を実施するために、志願兵によって構成される「にわか仕立ての派遣部隊」が各植民地で召集された。この志願兵の多くは社会的身分の低い階層からの出身者であった。民兵の軍務期間が通常3ヶ月であったのに対して、彼らはそれよりも長期の軍務に服したため、やがて練度も高く、職業軍人化していった。

 独立戦争の際にワシントンが率いた大陸軍も各州から派遣された部隊によって構成された州連合の部隊であった。イギリス軍と互角に戦うほど熟練していたこの部隊は寄せ集めと言えば言えたがそこに属する猟師たちはライフル(銃腔に施条が切ってあるもの)を装備しており、滑腔銃を装備したイギリス軍を練度において凌駕する部隊もあったと伝えられる。

 しかし大陸軍はその高い練度にもかかわらず、戦争時および平和時に存在する常備軍ではなく、緊急事態の終了に伴って解散する志願兵からなる特別の派遣部隊として存在した。因みに1790年代前半から第一次世界大戦にいたるまで、人的資源を動員する主要な方法はこの志願兵を召集することであった。

□ 最後に「正規軍」の問題は頭を悩ませる問題であった。文民統制に厳格に服していた間は彼らは自由を擁護する存在といえたが、独立達成後、アメリカは日常的な警備や警護についてもはやイギリスの陸・海軍に頼ることはできず、独自の軍事編制が必要となった。独立戦争後、正規軍をどう扱うかの問題は19世紀を通じて繰り返し議論されることになった。

□ アメリカ合衆国憲法は、こうした軍事的遺産のすべての要素を受け継ぐことを認めた。州は共同民兵を維持し、そのなかから志願兵部隊を結成することができた。他方連邦政府は志願兵からなる派遣部隊を動員し、さらに平和時の軍隊を維持することもできた。

連邦議会と軍隊

□ 合衆国憲法はこうしてフェデラリストの圧倒的な勝利とみなされるような規定を備えた。 

 ワシントンは小規模な常備軍、予備軍として植民地時代にみられたような志願兵からなる民兵、独立戦争時の大陸軍のような改良された民兵組織という三層からなる軍を連邦政府に置こうと提案した。また彼は、この軍事編制を支えるために兵器庫、兵器工場、軍事研究施設、陸軍士官学校の設立を提案した。しかしアンチ・フェデラリストは、フェデラリストが専制政府を設置するために外国や先住民との戦争、無政府状態と言った脅威を無用に煽っているとして彼らを非難した。

□ 他方フェデラリストはこうした主張に強く反発した。フェデラリストによれば海軍と常備陸軍、そして民兵に対する統轄は不可欠であった。

 アメリカは広大な領土を持ち、ヨーロッパから遠隔の地にあること、そして略奪行為に没頭するヨーロッパ諸国間の勢力均衡が維持されていること等の本来的な条件があることにより、平和時には小規模な軍備を整えるだけで事足りるものと考えられた。しかしアメリカは経済的に弱く、列強の利害と衝突するような海外での通商利益に依存しており、また北アメリカにおいてさえ当面ヨーロッパ諸国の植民地と隣接していたため、戦争に備えてく必要があった。

 確かに合衆国憲法は連邦政府に対して、軍隊の召集と課税に関し理論上は無制限の権限を与えたが、果たしてこれ以外の方法、即ち、国防上の力に掣肘を加えることは正しい選択でありえたであろうか。「国民の安全を脅かすような事情は限りなく存在する。それゆえ、国民の安全の任にあたるべく委ねられている権能に、憲法上の拘束を設けることは、賢明なやり方とはいえない」(「フェデラリスト」の記述)。

□ その後「有能な民兵」の創設のための努力がなされ、1792年に連邦政府は統一民兵法を制定したが、この法律は武装、規律、編制に関する統一基準を設けておらず、州に対しては兵役免除の余地が与えられていた。また他方において志願兵からなる民兵部隊(先述参照)には特別扱いされ、相変わらず彼らは精兵の地位にあり続けた。

常備軍の創設

□ こうした事情から、信頼に足る民兵の創設に失敗したことにより常備軍の創設が不可避となり、連邦政府はこの目的に向けて注力し始める。既述した通り大陸軍の解体の際に残した第1連隊、と砲兵大隊を常備軍に編入、第1連隊に4箇の中隊を加えた。その後17901月の北西部における先住民との戦いに苦戦した様子を見て連邦議会は第2連隊を創設し、2,000人規模の「連邦志願兵」を初めて登用した。ところがこの混成部隊の戦績は芳しいとは言えず、政府はさらに3箇の正規兵連隊を承認して合衆国軍に編入、これに1,500人を増強した。

□ 1794年には「ウィスキー反乱」と呼ばれる課税反対運動に対し、ワシントン大統領は4つの州に12,500名の民兵を供出し、連邦の統制の下に参加させるよう命じ、この民兵は反乱の鎮圧に裨益した。

 増大した正規軍と、国家の統制におかれる民兵からなる二種類の軍隊は、フェデラリストとアンチフェデラリストの間に物議をかもした。

 1796年、連邦議会は平時においても常備軍を設置することを認めるが、その一方で、その規模は縮小されたものとする法律を通過させた。フェデラリストとアンチフェデラリストとの妥協の産物であった。

 1794年に海事法が制定され、海軍が創設されたが、海軍の創設も政治の火種となった。リパブリカン(アンチフェデラリスト)は海軍が侵略を誘発することになること、アメリカを帝国主義へと向かわせ、ヨーロッパ諸国の権謀術数の渦中に捲き込むものとして危惧を募らせた。

□ 1797年、ワシントンは大統領の職を辞する。フェデラリストたちは思うように軍事的活力をアメリカにもたらしたとは言えないけれども、少なくとも平時においても永続的に存在する包括的な軍事体制を作り出すことには成功したと言えよう。

 しかし、フェデラリストは十分な軍事力を持つアメリカを作り出しただろうか。この時期に引続き、アメリカはフランス革命によって始まった大変革期を迎えることになるのである。 

<参考文献>

・猿谷要「物語アメリカの歴史―超大国の行方」(中央公論新社(中公新書)、1991

・C・チェスタトン「アメリカ史の真実―なぜ「情け容赦のない国」が生まれたのか」(祥伝社、2011

・和田光弘(編著)「大学で学ぶアメリカ史」(ミネルヴァ書房、2014

・シェルドン・S・ワォリン(千葉眞外訳)「アメリカ憲法の呪縛」(みすず書房、2006

・高橋和之(編)「[新版]世界憲法集」(岩波文庫、2007

ページトップ