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弁護士 堤 淳一

2017年02月14日

太平洋の覇権(25) ----- 膨張するアメリカ

(丸の内中央法律事務所報No.30, 2017.1.1)

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

西漸運動のはじまり

□ 1776年に独立が宣言され、その後8年にわたる独立戦争を経て1783年にパリ条約が締結された。これにもとづきイギリスはアメリカの独立を認め、ミシシッピ河以東の領土を割譲した。

 その頃のロンドンの「モーニングポスト」誌は、

「いま大西洋沿岸の13州に結集した連中は、けっして独立だけで満足しない。むしろ帝国の自負が目覚め、隣接国境地域に向けて征服が進むだろう。フロリダと、ミシシッピ沿いのスペイン領は、彼らの手に落ちるだろう」

と警鐘を鳴らした。

 フランスの外交筋も同じ見方だった。ミシシッピ河東部全域を獲得したいま、成り上がりのアメリカ人は「はるか先の子孫のため、太平洋との接触を図ろうとしている」とアメリカの膨張を予言した。

 スペイン総督もパリ講和条約から1年も経たぬうちに、この「新しい精力的な国民」の「計り知れぬ野心」がミシシッピからメキシコ、そして太平洋に至るスペイン領全域に、はなはだしい脅威を及ぼしている」とマドリードに警告した。

□ こうした予言は歴史のうえで現実となり、アメリカは1848年にはメキシコ(もとスペイン植民地であった地域が独立していた)からカリフォルニアの割譲を受け、遂に太平洋に達した。

 アメリカの西漸運動は、たとえ地図の上だけにとどまっていたにせよ、いくつもの国が領有を主張していた土地を征くものであったから、様々な外交的な駆け引きなしにはなしえなかった。因みに言うとアメリカが西へ向かう運動を示していた同じ時代にロシアは東へと運動していた。二つの動きは領土の帝国主義的膨張を目指した点でよく似ているけれども、アメリカの場合と異なりロシアのシベリアへの動きは無人の野を往くようなものであった。

ルイジアナ

□ ミシシッピ河より西に広がる広大な地域は各国が領有権を主張していた。まず、北米大陸の南東から西海岸に至る一帯の地域―現在フロリダ、テキサス、ニューメキシコ、カリフォルニア、オレゴン、ワシントンの各州になっている地域―はスペインとイギリスが領有権を主張し、北西部ではロシアがアラスカを支配し、南進の機を窺っていた。

 またミシシッピ西岸からロッキー山脈に至るノースダコタ、サウスダコタ、ネブラスカ、カンザス、オクラホマ、ルイジアナ、モンタナ、ワイオミング、コロラドに跨る広大な地域は"ルイジアナ"と一括して呼ばれており、その領有の歴史は複雑であった。 ルイジアナ地方の南東端にあってメキシコ湾に接するニューオーリンズの地は、アメリカが独立するずっと以前の1718年にフランスによって占領されていた。フランスはやがてルイジアナ全域にわたって領有権を主張するようになったが、7年戦争(イギリス対フランスの戦を軸として1756-63年にわたって戦われ、イギリスの1人勝ちのようにして終戦)の後、1762年にこの地をスペインへ譲渡していた

フランス革命

□ 1789年にフランス革命が起きた。アメリカは国を挙げて熱狂し、アメリカ人はアメリカの国家のデザインを与えてくれたフランスの思想家に喝采を送り、独立のための闘争を援助してくれたことに感謝し、そして自分たちの支援者が圧政者から解放されることを期待していた。1891年新憲法が成立し、立憲君主制に基づいた立法議会の成立をみたフランスの行方にアメリカはこぞって注目していた。

 しかし、フランス革命は決して穏やかなドラマではなかった。アメリカ人はフランス人民に心を寄せつつも、革命とその後国内にはびこった暴力行為、ラテン民族にみられる酷薄さや残虐性、民衆の暴力的なムードを組織化する過激な軍事政府のやり方は、次第にアメリカ人の嫌悪の対象となっていった。

 ヨーロッパ諸国もフランス革命に危機感を抱き、オーストリアとプロイセンが革命への干渉を宣言し(ピルニッツ宣言)、1792年、フランスはオーストリアに宣戦した。ウィーンへの逃亡に失敗したフランス国王ルイ16世(在位1774-92年)が1795年1月に処刑されると、イギリスの呼びかけにより、急進化したフランスに対する干渉が本格化し、第1次対仏同盟が結成される。

□ フランス革命が国際紛争になるとアメリカの立場が問われることになり、アメリカが1778年2月にフランスとの間に締結した米仏同盟の効力が問題となった。連邦派フェデラリスト (ハミルトンやその同調者)はルイ16世の死去に伴い同盟は消滅したと主張し、共和派リパブリカン (マディソンら)は国家間の条約は引続き効力を有するもの、と主張した。

 結局アメリカはこの戦争に対し中立を宣言する。ところがイギリスはアメリカの中立宣言にもかかわらず仏領西インド植民地との貿易に携わるアメリカの船舶を拿捕し始めた。米英両国は1794年11月に、この貿易を許すジェイ条約を締結するが、イギリス海軍によるアメリカ人の徴用権の廃止は条約に盛り込まれず不満を残す結果となった。

□ 1794年にテルミドールの反動が起きて、ロベスピエールが処刑され、総裁政府が成立していたフランスがイタリアからオーストリアを攻撃することになり、ナポレオンが司令官に任命されて勝利をおさめる。しかしナポレオンは政府に無断で講和(カンポ・フォルミオの和約)を結び、第1次対仏同盟を崩壊させる。

□ この間1796年フランス総裁政府はアメリカ船の拿捕を始める。アメリカのアダムズ大統領(第2代)は対仏関係改善を求めて特使を派遣したが、フランス総裁政府は多額の借款や賄賂を要求するなどして話に乗らなかったため、米仏関係は悪化し、宣戦布告のないまま徐々に戦争状態に入った。

ナポレオンによる覇権

□ 他方エジプト攻略に従事したナポレオン軍は1798年にイギリスのネルソン提督率いる艦隊に敗北する(アプラキールの海戦)。この機にイギリスの呼びかけで第2次対仏同盟が結成され、イタリアはオーストリアに奪還される。これにより威信を失墜した総裁政府に対しナポレオンはクーデターを起こし(ブリュメールの反乱)、1799年に統領政府を樹立した。ナポレオンは第1位統領となり事実上の軍事独裁者となった。

□ やがてヨーロッパの半分を領することになったナポレオンは、その後1801年にオーストリアからイタリアを奪還し、オーストリアと講和(リユネビルの和約)する一方、ローマ皇帝との関係も改善し、また1802年イギリスともアミアン講和条約(フランス、イギリスの双方が占領地を返還することを骨子とするみせかけの講和)を締結して第2次対仏同盟を崩壊させた。1802年ナポレオンは終身統領となった(その後1804年には皇帝位に就く)。

揺れるルイジアナ

□ こうした中、ナポレオンは、ルイジアナをスペインから奪還して、アメリカに第2帝国を築こうという壮大な夢をいだく。

 フランス革命戦争によって経済的に疲弊し、かつアメリカ植民地の経営に手を焼いていたスペインの首相マヌエル・デ・ゴドイはまもなくルイジアナの維持に嫌気がさす。植民地の維持には関税や交易から得られる利益の8倍もの経費がかかるからであった。そこでフランスが返還を求めるなら相応の代価と引き換えに返還に応じてもよいと考え始めた。

 しかしルイジアナはスペインの富の源泉であると同時に、進出する米国人ヤンキー を食い止めるという重要な役割があった。そうとすれば、ルイジアナをフランスに譲るにしても、ナポレオンから「第三者(アメリカ合衆国)には絶対譲渡しない」との合意を取りつけねばならない。

□ 他方アメリカはと言えば、ルイジアナがフランスに返還される噂が耳に届くと、世論は沸きたった。

 ルイジアナがスペイン人の手中にあるならまだしも、ナポレオンがミシシッピの隣人になると、話は別である。ミシシッピ川沿いの交易は息の根を止められ、合衆国の拡張は阻止されるだろう。さらにフランスはインディアンや辺境の不穏分子の反乱を使嗾し、アメリカの国境線をミシシッピの東に「押し戻そう」と画策しかねない。

 かくて東部沿岸諸州に沿って戦争気分が高まり、イギリスと同盟し、フランスと戦おうという声が高まった。

 だがナポレオンは、1800年に外相タレーランにスペイン政府と交渉を開始するよう命じ、さらに英米が同盟し戦争を始める恐れを強調し、アングロサクソンとの戦争で領土を失うより、いまフランスにルイジアナを円満のうちに返還した方が賢明だという風にスペインを説得し、サンイルデフォンソ条約(第2次)を締結して成功を収めた。かくして、ナポレオンがイタリア征服で得た王国をスペイン王族の一員に与えるのと引き換えに、スペインはルイジアナ全域をフランスに譲渡することになる(1800年)。

ジェファソン大統領

□ 1801年、ジェファソンはかかる危機のさなかに大統領(第3代)となった。当初英仏戦争についてはフランス寄りであったが、フランス革命が恐怖、侵略、独裁へと変質し、その脅威がいよいよ合衆国におよぶと一転してフランスに対抗姿勢をとるようになる。しかしナポレオンと事を構えるのは得策とは言えぬだろう。

 ジェファソンは和戦両様の構えをとって、一方では連邦主義者と西部の主戦論者を抑えるかたわら、舞台裏ではジェイムズ・マディソン国務長官をして、ルイジアナをフランスが手放さなければ国交を断絶すると、フランス大使に圧力をかけさせた。

□ ナポレオンに対する自重論と主戦論との間の第三の道として特使派遣による交渉が構想される。180110月、ジェファソンはロバート・リヴィングストンを特使として、ナポレオンの真意を探りだし、「もしルイジアナが返還されたあかつきには、ニューオーリンズとフロリダと呼ばれる湾岸地域をアメリカが買ってもよい」旨の提案をするよう指示する。だがこの企ては失敗する。

 更にジェファソンの友人であるピエール・ド・ネムールを特使として送ってみても、ナポレオン政権の腐敗ぶりはまるでのれんに腕押しの有様で、一向に埒があかない。ニューオーリンズからの知らせもまた芳しくはなかった。ニューオーリンズでスペインの行政官、ファン・ベンチュラ・モラレスはアメリカ市民による商品と資本の寄託権を停止したため、アメリカは商売ができなくなった。アメリカにとってさらに悪いことに、180210月カルロス4世はニューオーリンズをフランスへ引き渡してしまった。

ふたたび主戦論者は「フランスがここを再強化する前に、ルイジアナに攻めこむべきだ」と主張した。

 また不満をもつ西部人が、連邦主義者と手を携えてジェファソン政権を倒したり、独自に戦争を起こしたり、さらには合衆国を脱退してナポレオンと直接交渉したりする可能性すらあった。フランスが軍隊を派遣し、先住民を巻きこんで、合衆国をミシシッピ東岸から駆逐しないとも限らなかった。

 一方、ジェファソンはルイジアナ問題解決のための新たな交渉を企図し、パリ特使として、ヴァージニアの友人、ジェイムズ・モンローを任命した。また議会の共和主義党の多数派を説得し、ニューオーリンズを武力制圧できる力を大統領に付与する決議を否決させる一方で、ナポレオンにニューオーリンズを売却する意思のあることが確認された場合、200万ドルを支出することを認めさせた。

ルイジアナの譲渡

□ ヨーロッパの動乱はルイジアナの行方に大きな影響を及ぼした。アメリカが表立って大陸間の動乱にくみしなかったことは上に述べた。

 このことは、ナポレオンがもしルイジアナをアメリカに引き渡さなければ、アメリカはイギリスと同盟するであろう。逆に言えばフランスがルイジアナをアメリカに譲渡すればアメリカの中立は守られるだろう。ルイジアナ問題はアメリカを中立に留めておく鍵であった。

 ナポレオンは遂に「アメリカ帝国」の夢を捨て、18033月下旬にルイジアナ売却を決意した。イギリスを前にして、植民地を新たに発展させるなどは愚挙であること、それより来るべき戦争に必要とされる戦費に充てるため、アメリカ・ドルを獲得しておいた方が得策であることに思い至ったのである。

 またもう一つの理由があった。ナポレオンはハイチ革命を鎮圧できなかった。フランスは優良な砂糖産地であるサン・ドマング(スペイン語ではサン・ドミンゴ)を利用して植民地帝国を復活させようとしていたが、同地は18041月ハイチ共和国として独立してしまった。サン・ドマングがなくなってしまった以上ルイジアナの存在はフランスにとってもはや不要となったのである。

□ 411日タレーランはアメリカの駐仏公使に任命されたリヴィングストンと会い、ルイジアナ全域を購入するつもりはないかと尋ねる。リヴィングストンは、欲しいのはニューオーリンズとフロリダだけです、と答える。だがニューオーリンズがなくなると、フランスにとってルイジアナ全体が無用なものになる、とタレーランは言う。ルイジアナ全域にアメリカ側はどれくらい出すつもりなのか。2000万フランです、とリヴィングストン。それじゃだめだ、とタレーラン。応酬が続く。

 そこに新たな特使として任命されたモンローが到着した。鉄はまだ熱いうちに打つべきだと判断したアメリカ人は、指し値を6000万フランに上げ、その代わりに戦時の大西洋輸送においてフランスの妨害によりアメリカ市民が受けた損害を相殺することを求めた。総額はこれで差し引き1500万ドルとなった。これで決まりである。

 リヴィングストンがルイジアナの正確な範囲について尋ねると、タレーランは言った。「あなた方は正々堂々と取引をされた。精一杯取ればよいでしょう」と。

□ 18035月に条約が成立し、アメリカはフランスからルイジアナを取得する。ルイジアナ全域が1エーカー(約0.4ヘクタール)あたり3セントの値段でアメリカに譲渡されることになった。

 但しテキサスとオレゴンの境界についてはその領有権を主張するスペイン及びイギリスとの間に折り合いがついていなかった(その確定は1819年に条約が締結されるまで待たなければならなかった)。

□ この出来事はアメリカ史上、憲法の制定と並んで二大快挙ともいうべきものであると評価されている。 何といってもフランスからルイジアナを得たことによりアメリカはそれまでに有していた面積以上の領土を獲得することができたからである。

□ ルイジアナ問題は一体なんであったのか。もしヨーロッパの列強が結束してアメリカ封じ込め策をとっていたらアメリカの跳躍の基となる西部への進出は覚束なかったに違いないのである。

英米戦争(1812戦争)

□ 1803年にアミアンの講和が破れるとフランスとイギリスは再び戦争を始めた(ナポレオン戦争)。

 1806年ナポレオンは大陸封鎖令を出し、同盟国にイギリス製品の不買を強制したが、アメリカ商船は中立国の立場を利用して、引き続き英仏双方のカリブ海植民地と貿易を行っていた。これに対し英仏両国は中立国であるアメリカの通商を妨害するような経済戦争を行った。このような行動に対し、アメリカは海上通商を保護するに必要な海軍力を保持していなかったためなすすべがなかった。イギリスはより辛辣であった。1793年から1872年にかけてイギリスが約1万人アメリカ人水夫を強制徴用したしたことは、アメリカ政府に対する不信の種となった。

 国内においては1808年から1809年にかけてアメリカは不作であったため、アメリカ人にとってはイギリスが採っていた保護政策も非難の的となった。また1811年には旧西部において先住民との戦争が起き、アメリカは壊滅的打撃を受けたが、これはカナダにいるイギリス人が使嗾したことによるものであるとの疑惑から、イギリス人に対する非難が高まった。

□ ジェームズ・マディソン大統領(第4代)は18093月に就任するとすぐに連邦議会に開戦決議を要求した。18093月、通商禁止法が制定され、英仏両国との貿易のみが禁じられた。その後連邦会議は、ナポレオン戦争のもとにおける英仏いずれかの国が中立国アメリカの通商権を尊重すれば通商禁止を解除することを決議した。フランスはこの主張を受け入れたが、イギリスはこれを受け入れなかったため、両国の関係は緊張した。1812年になると多くのアメリカ人の眼には、もはや選択肢は国家の威信を放棄するか、戦争を起こすかのいずれかしかないように映った。

 マディソン大統領は、カナダのイギリス植民地を占領すればイギリスはナポレオン戦争に影響が及ぶことを避けて、アメリカの要求を呑むだろうと考えた。

ルイジアナ購入当時の状況resized.jpg

□ 第2次独立戦争と呼ばれる戦争が始まった。ハドソン川-シャンプレー湖-リシュー川-モントリオールを進撃路とする進攻路が最善のルートと考えられたが、カナダ進攻は、軍制の不備、派閥主義、通信手段の劣悪と経済的な弱体によって首尾よくはいかなかった。1812年から1814年にかけて北上の目的は達せられなかったのである

 主な戦域は上述のイギリス領カナダ国境付近、西南部、チェサピーク湾の各地であったが、アメリカ軍の脆弱さと、国家がこの戦争に統一的な意思を持っていなかったためアメリカは2年の間、絶えず敗報に接することになった。

□ 1814年にナポレオンが追放されると、イギリスはヨーロッパの戦争のくびき から解放され、ためにアメリカはフランス軍の拘束から解放されたイギリス軍の多正面からの攻撃にさらされるようになった。しかしイギリスの力はアメリカを屈服させることはできなかった。

 18141214日、戦争を終結させたガン条約はおよそ次のような意味を持っていた。その1はヨーロッパにおける戦争の終結によりアメリカの中立権の侵害という海上紛争はなくなったことである。またアメリカはイギリスの側にたって戦った先住民の指導者テカムセを殺害し、南西部のクリーク族を敗北させたことにより先住民の脅威から解放された。その2は領土を失うことなくして戦争を終わらせることができ、国家の独立と国家制度が堅牢であることを示す一方、フェデラリストが力を失った(フェデラリストたちはマディソンの考えに反し、自分たちで戦争講和を行い、ニューイングランド国家連合を樹立させようとする動きを示していた)ことである。その3は、イギリスとの通商が断絶したため、英国工業製品の流入に歯止めがかかり、一部の国内製造業、とくに繊維産業が成長を遂げるきっかけとなった。他方で商業や農業、漁業は大きな損失を被るなど、アメリカ経済に大きな影響を与えたことである。

□ イギリスはガン条約の交渉において「中立権」についてイギリスの原則が貫かれるべきこと、ニューファウンドランド沖における更なる漁業制限をアメリカが受け入れること、西部地域に難民による緩衝国家を樹立すること、イギリスによる五大湖とミシシッピ河の自由航行を承認すべきこと、ハリファックスからケベックに至る軍用道路を建設するための用地を割譲することなどを要求したが、悉く受け入れられなかった。

 こうしたことはアメリカ独立戦争のときに比べてイギリスが効果的な方法で戦争をする力をもはや失っていることを示していた。

 1812年戦争自体は、新領土の獲得が叶わぬどころか、首都への進攻を許すなど、アメリカにとっても軍事的失敗が多く、領土がイギリスによって蚕奪されなかったことをもってよしとしなければならない程であったけれども、アメリカの結束を高める等、社会に与えた影響は大きかった。

アメリカ発展の鍵

□ アメリカの発展はそもそも自然条件によって決定付けられていたというのは多くの経済学者が言うところである。肥沃で広大な原野、鉄の冶金に必要な鉱石、燃料用の木材や石炭、19世紀以後、灯火や潤滑油、とりわけ内燃機関用燃料として用いられるようになった石油、発電用モーターや送電線等に用いられる銅、―アメリカはこうした天然資源のいずれにも恵まれていた。

 産業の生産量を決める一要素である土地についてもアメリカは申し分のない条件を備えていた。当然のことであるがヨーロッパ人がアメリカにやって来たとき、その土地は空き地であったわけではない。先住民が文化を持ち、家畜を飼い、狩猟をして生活していた。しかし先住民たちは政治的にも技術的にも力が弱く無防備であったうえ、ヨーロッパから持ち込まれた病原菌が人口を減少させていた。

□ アメリカへの入植者には、労働力さえ確保できれば発展のチャンスがあった。そこで起業者たちは労働力確保のために様々な誘因を用意した。安い(あるいは無償の)土地、高賃金、社会的な身分、政治的な権利などであり、それでも人手を得るのが難しければ、奴隷商人を通じてこれを確保する方法をとった。

 広大な土地と希少な人口のアンバランスによって、労働力の確保が難しくなると、雇い主は賃金を値切らず、高い値段でも労働者を雇い入れることを余儀なくされた。

 高い賃金は労働者の生活を豊かにし、人口の増加を促し、土地は肥沃かつ安いので生産高は増加し、物が売れ、高賃金へと跳ね返るのである。

□ たとえ高賃金であっても、労働力が得られ、やがてそこにいる人の需要を上回る穀物や他の生産(タバコ、綿、小麦)を確保することできれば、これらの余剰生産物は貿易に用いることができる。そうした経済の流れにおいては、人々は輸出に適する作物(現金作物)を生産するようになり、金銭収入を指向することになる(例えばキューバにおいては砂糖、後の日本においては絹)。こうして現金作物を輸出することによって収益を上げ、この増収分で製造物の市場を拡大し、その一方で新規の需要のために投資を行う(但しこの場合、作物の生産者に適正な分配を行わないと生産高はあがらず、製造物の市場は小さくなる)。

□ しかしこのモデル(ステープル・セオリー)は当初から順調に発展していったわけではない。18世紀後半に産業革命の影響を受け、機械技術が発展するまで、アメリカにはスケールメリットに依存する経済(規模の経済。即ち生産規模が拡大したときに、その拡大以上に産出量が増大すること)はないに等しく、生命を維持するのがやっとであった。

自給自足と起業意欲

□ しかし多かれ少なかれ、富は均等に配分された。こうしたことが後のアメリカの発展のためには良かったと言えそうである。ヨーロッパにみるような土地や身分に由来する特権は容易に発生せず、平等主義が育まれ、次第に自作農が生まれる契機となった。ヨーロッパにみられる小作人は発生しなかった。

 自作農と給料のよい労働者たちは、民主主義と起業意欲(entrepreneurship)を生み出す素地となった。平等は自尊心や野心を育み、市場に参入し競争しようとする意欲を高め、個人主義の精神を培った。同時に自作農は技術面での自足性を高め、自分で工夫し修繕する精神が育まれた。

 一方、高い賃金は、労働に代わって資本を、人間に代わって機械を使用する誘因となった。その結果、産業革命で生まれた新しい科学技術(蒸気機関や電気の利用)は、アメリカ植民地と、後の合衆国において開花することになったと言っても過言ではない。

□ 自給自足に対する需要に応ずるため、すでに小規模ではあるが製造業が起こっていた。1681年に作成されたある報告書には、クエーカー教徒の移住者たちの中から桶屋、鍛冶屋、煉瓦職人、車大工、犂職人、製粉機職人、船大工などが生まれたこと、また生産できるものは自分で作っていること、イースト・ジャージーではすでに、鉄工場、溶鉱炉、鍛冶工場が建てられていること等を報告している。

 また、1698年の報告書では、パーリントンとセーラムのクエーカー教徒集落においては、サージ、ちりめん、ウール等の繊維製品が製造されていることも報告されている。

 製鉄は建国の父たちピルグリムファーザーズが上陸してからわずか20年後の1640年代には既にマサチューセッツにおいて始まっており、独立革命の頃である1770年代にはイギリス植民地には200程の鉄鍛冶工場があった。

 ニューイングランドとペンシルヴェニア、ニュージャージーの植民地はやがて新しいアメリカの産業中心地となって行く。

標準化と互換性

□ アメリカにおける技術革新のうちもっとも重要かつ特徴的なものは、後にアメリカ式の製造方法と呼ばれるようになる「標準化」である。それは、ヨーロッパのように社会階層や身分による相違や、地方・地域による消費性向に偏りが少ない普遍的な市場に適しており、また材料の豊かさに比べて労働力が足りないところに適していた。労働力の足りない経済(熟練労働者がいない、伝統的職人技術に乏しいなどの要因も含む)では、標準化は分業化の一方策である。そのおかげで作業は単純化され、反復的なものとなり、実質的に生産性が高まった。

□ 製造物の部品の標準化に最初に取り組んだのは、イーライ・ホイットニーとシメオン・ノースいう人物であり、彼は軍から1万挺のマスケット銃の生産を請け負うと、従来の職人仕事を排して、同一の型の部品を製造する工具を用いて大量に作る製造方法を開発した。彼らの後継者はジグ(jig)ゲージと呼ばれる工具の開発を通じ部品の標準化と互換方式を発展させ、その後、コルト銃、ライフル銃などの兵器のみならず、時計、農機具、ミシンなどの製造に取り入れられた。そしてこれは後にベルトコンベアによる「流れ作業」の基となったのである。

□ 次に建築を例にとってみよう。1830年代にバルーン・フレーム(通し柱の通った壁を持つ構造)が考案された。工場生産によるツーバーフォー式の壁が用いられ、釘(1830年代から大量生産が可能となった)でつないで骨組みを覆い、外壁を打ち付けた。

 この新しい建物は美しくもなければ田園風でもなかった。しかし廉価で、材料をふんだんに用いた実用本位のものだった。建築に必要な数々の機械が発明された。電動ノコギリ、旋盤、切削機(フライス盤)、カンナ盤といった機械類がそれである。

バルーンフレーム工法による建築resized.jpg

□ こうした生産方式は効率はよいが、そのため材料に無駄を生ずる。しかし、それでもいいのだ。アメリカには無駄に使う時間や人力はないが、木材ならいくらでもあるのである。この機械に裏付けられた標準化はアメリカ産業だけではなく人の考えをも似たような方向へと導いて行く。

□ アメリカ式製造方式の核心は、すべての部品を効率的に組み立てるために、部品をすべて交換可能なものにしておくこと(互換性)である。材料の切り出しから組立まで精密な工程が必要とされる。そのような作業には正確な反復のための精密な道具を必要とし、部品を集め、動かし、加工し、組立を効率よく行うための体系が求められた。

 家やその他の建物はほんの手始めだった。

 製粉や石油精製のように規模の大きい生産工程においては規模の経済の論理が働く。織物製造業界では機械を導入した当初から、設備を維持したり設置したり、建築の手筈を助けるための会社(システムエンジニアリングの類)が相次いで生まれた。そして、これらの会社は技術を組み合わせ交換する場であったから、当然のように他の種類の機械類にも手を染めることになった。たとえばスチーム・エンジン、炉やボイラー、機関車、機械用具の製造等である。

交通網の発達

□ 北アメリカ大陸にはおよそ交通に便利な環境がすべて揃っていた。何よりも広大な平野であり、ここにはどこまも続くような道路を造ることができた。大西洋とロッキー山脈の唯一の難所はアパラチア山脈であったが旅行にも交易にも不可能にする程ではなかった。対英戦争が終結するとアパラチア山脈以西の地へと人々の移住が急速に進み、1820年にはアパラチア以西の人々が200万人を超えた。最前線を意味するフロンティア(1平方マイル当たり2人以上6人以下の地域をいう)は日々西へ西へと移動した(西漸運動)。それに伴い、道路、運河、鉄道などの建設が進んだ(交通革命)。カンバーランドを始め国道の建設されたミシシッピ・オハイオ水系を利用した運河は、西部の農産物の多くはこの水系を下り、メキシコ湾へ出てヨーロッパへと送られた。ハドソン河はモントリオールで西にオンタリオ湖、エリー湖、東にはケベック(カナダ)へと通ずる水路に続いていた。アパラチア北部にはエリー運河(エリー湖とハドソン河を結ぶ)をはじめ(1817年頃)1830年以降は各地で運河の建設が進められた。1840年代には鉄道(ボルティモア・オハイオ線)を嚆矢として鉄道の建設が始められた。こうした中でサミュエル・モールスによって発明された電気を用いた通信手段がコミュニケーション革命をもたらした。

テキサスの併合

□ 上掲の地図(「ルイジアナ購入時の状況」)を見れば判るように、ルイジアナの隣は外国領であった。西へ向かえばロッキー山脈に行き当たり、その先は太平洋へと傾斜するオレゴンと呼ばれる広大な地方であり、この地はイギリス、ロシア、スペインが国境を巡って競ぎ合っていた。また南にはスペイン領のテキサスがあった。テキサスはメキシコ(もとスペイン植民地だった)の一部であり、人口も疎らな僻地であった。メキシコはスペインとの独立戦争を経て、1821年に独立を果たしたが、メキシコの領土となったテキサスに新天地を求めた入植者は1835年には35000人にのぼった。メキシコ政府の移民奨励策もあって、綿花栽培のための安い土地を求めた人々は5000人もの奴隷も連れて来ていた。当初歓迎された入植者もその数が増えると、メキシコ政府の警戒が始まる。やがてサンタアナ大統領が奴隷制の廃止政策を採用し、政府の権限を強化して、入植者をコントロールする中央集権的な政治運営へと変更を図ると、これに反発して住民が武装蜂起する(アラモの戦)。

 サンタアナはアラモを制圧するとテキサス全土の鎮圧に向かうが、東進するメキシコ軍は、サミュエル・ヒューストンによる奇襲攻撃でサンタアナ将軍を捕虜にする。反乱軍は将軍に独立を認める条約に署名させ、18364月テキサスは独立を果たした。こうしてテキサスは「テキサス共和国」となった。

□ テキサス共和国へは、スペインの統治が打倒される前から、細々と移民の流入があり、独立後アメリカ南西部諸州から移民が続々と流れ込んだ。移民の中には英語を話す集団がいて、少数派ではあったが、政治では支配者集団となった。

 テキサス人、少なくとも当初メキシコからの脱退を工作した支配者層の望みは、アメリカ連邦に加入することであり、おそらくその情熱はルイジアナのフランス入植者よりも強かった。しかし、ワシントンでは、テキサス人を連邦に入れることに長い間躊躇していた。その結果、テキサスは長期間にわたりテキサス州旗に残る「ひとつ星」Lone Starそのままに単立の州であり、メキシコからも合衆国からも独立した立場を余儀なくされていた。その理由は単純ではない。

 北部(中でもニューイングランド)の一部の人々は南部地域の強化につながるルイジアナの買収にもともと反対であったが、さらにテキサスが加われば、南部の勢力がより強くなることは明らかである。しかしテキサスの併合は南部の強化に対するブレーキを外すことに幾分か寄与することは確かであるとしても、大部分の北部人、特に北西部の新しい諸州では、地域的な嫉妬よりも、合衆国の拡大の方に関心があった。諸州には、テキサスが連邦に入るのを歓迎する用意が十分にあった。

 しかし合衆国議会には奴隷制度を維持しているテキサスを併合することには根強い反対があり、併合条約批准に必要な上院の3分の2の賛成票は望み薄であったので、タイラー大統領(第10代)は条約ではなく法案として再提出させ、単純過半数で無理やり併合に持ち込んだ(18453月)。

《参考文献》

・C・チェスタトン「アメリカ史の真実―なぜ「情け容赦のない国」が生まれたのか」(祥伝社、2011

・和田光弘(編著)「大学で学ぶアメリカ史」(ミネルヴァ書房、2014

・宮崎正勝「モノの世界史―刻み込まれた人類の歩み」(原書房、2002

・ウォルター・マクドゥーガル(訳:木村剛久)「太平洋世界」(上)(共同通信社、1996

・ウィリアムソン・マーレー外編著(石津朋之外監訳)「戦略の形成―支配者、国家、戦争」(上)(中央公論新社、2007

・D.S.ランデス(竹中平蔵訳)「強国論―富と覇権の世界史」(三笠書房、2000

・橋本毅彦『「ものづくり」の科学誌―世界を変えた《標準革命》』講談社学術文庫(2015)

・渡辺惣樹「日本開国―アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由」(草思社、2009

・渡辺惣樹「日米衝突の根源 1858-1908」(草思社、2011

<挿絵・地図>高橋亜希子

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