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弁護士 堤 淳一

2009年08月03日

太平洋の覇権(9) -----薔薇戦争とイギリス海軍の建設

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

戦争責任

 英仏百年戦争の結果イングランドはアキテーヌを失い、大陸に残る領土はカレーのみとなった。かくして1377年にエドワード3世がフランスに反旗を翻すことによって始まった英仏百年戦争はイングランドの敗退に終わったが、敗戦による大きな傷痕を残した。国内には不満と敗戦責任を問う声が充満し、和平派には非難が集中した。
 最も事態を憂慮したのは他ならぬヘンリー6世であった。1436年にパリがフランス軍に奪還された翌年ヘンリー6世は親政を宣言し、1439年に彼はグラリーヌ和平交渉(対談とも言われる)を行うが、ここにおいてフランス王位の返還宣言をしていれば引換にノルマンディとアキテーヌを維持できたのに、譲歩の途を選択しなかった。それがいまや大陸からの全面撤退である。
議会派から失政を追及され、1399年に逮捕・追放されたリチャード2世の前例もある(その結果ヘンリー6世の祖父ヘンリー4世が即位し、ランカスター朝が成立したのだが)。今度は自分が逐われるかもしれない。
 その予感は1450年に起きた一揆によって的中することになる。この年の5月、民衆の不満が爆発し(「ジャック・ケイドの乱」)、一時はロンドンに迫る勢いを示したが王家の譲歩で一時的に鎮静した。しかしこの動きを追い風にヨーク公リチャードやネヴィル家(ヨーク派)が台頭しヘンリー6世の宮廷派(ランカスター派)との間に軋轢を生じ、次第に対立が激化する。こうして1455年5月にセント・オールバーンズにおいて両派は武力衝突し、後に薔薇戦争と呼ばれる紛争が勃発した。赤い薔薇を徽章とするランカスター家と白い薔薇のヨーク家による争いであるため、薔薇戦争と呼ばれるのは、19世紀の作家のオルター・スコットの命名による。
 この戦争状態は二派による王位を争う戦争であったが、実際には広汎に多くの貴族たちを巻き込んだ。 その理由は百年戦争の結果にある。貴族たちは百年戦争のある時期においては大勝利の果実を得た。しかし今や敗戦により大陸から利益の上がる収入の途が閉ざされた以上、貴族たちはその分をイングランドで取り戻さなければならない。そのような思惑から、貴族たちは王位の承継の争いに乗って自らの命運を賭けて争ったのである。
 さまざまな陰謀や裏切りが行われた30年間に貴族の血筋を引く有力者は全て殺され、人々は古い貴族たちの信じ難い滅亡を目撃することになる。

第1時薔薇戦争

 第1次薔薇戦争は上記の通り1455年に始まり、1464年に終わる。薔薇戦争は全般を通じて、百年戦争の敗戦責任を問われたヘンリー6世をはじめとするランカスター朝の宮廷派に対抗しヨーク公が反旗を翻し、権力闘争から変化して王位をうかがった争いであるが、ランカスター王家もヨーク公の家系も、もとを辿れば百年戦争を始めたエドワード3世へ、更に遡ればプランダジネット朝の祖であるヘンリー2世へと行きつく家系の中にある。しかしヨーク公がエドワード3世の長男家であり、ランカスター公が4男家であって嫡流ではないことなど、血筋を論ずればヨーク公に分があった。
 1455年5月22日、ロンドンの北方にあるセント・オールバーンズの町なかにおいてヨーク公リチャードとその同盟者であるウオリック伯リチャード・ネヴィルの軍勢が、サマセット公エドムンド伯が率いるランカスター派の軍勢と激突し、ヨーク派が圧勝した。 戦いは両軍合わせて5,000人の規模、戦死者も300人程度で大規模な戦争とは言えないが、この戦いでヘンリー6世はとらわれ、サマーセット公も戦死するという結果となり、大きな政治的効果を生んだ。次いで1459年9月にブロアフィースの戦いに勝利したヨーク公リチャードは王位を目前にしたが、1460年12月のウエイクフィールドの戦いにおいて戦死を遂げる。しかしその嫡男エドワードはウオリック伯リチャード・ネヴィルらを収攬して最終的にはランカスター派に勝利し、ヘンリー6世を退位させ、自らは1461年11月、エドワード4世を称して即位した。

ところがイングランド側が動いた。1428年10月、ベッドフォード伯の態度にいらだつ主戦派のウォリック伯とソールズベリ伯が強引に軍を動かしてオルレアンに包囲陣を敷いたのである。ノルマンディに強固な支配を築き、メーヌの制圧も進めたかったベッドフォード公としては、アンジュー、トゥーレーヌ、ポワトゥーへと面の支配を丁寧に拡大したいところだったが、他方一気にロワール河まで前線を押し上げて、彼方のブールジュに侵攻すべきであり、リスクはあるがそのほうが戦争の進展は早い、占領地行政はその後に整えればよい、いうのが、ウォリック伯とソールズベリ伯ら主戦派の意見だった。

こうしてロワール河の北岸にあるオルレアンの包囲作戦が強行されたのであるが、オルレアンはもし陥落すればアルマニャック派の命脈は尽きるというほどに重要戦略拠点であった。
 ところで後世になってクラウゼ・ヴィッツが言うように、また20世紀になっても通用するように、包囲作戦は敵の3倍から5倍の兵力を必要とし、現代では持久よりも大兵力の集中とその一挙投入による方法が好ましいとされるに至っている。イングランド軍はオルレアンを包囲して持久戦に持ち込みオルレアンの衰弱を待つという戦術を採ったが包囲網は薄く、結果として兵力が分散されてしまったため、今一歩のところでオルレアンを陥落させることはできなかった。

第2次薔薇戦争

 第2次薔薇戦争の火種は勝利したヨーク家の中に生まれた。エドワード4世の政権は同盟者ウオーリック伯リチャード・ネヴィルに依存していたが(そのためウオーリック伯はキング・メーカーと呼ばれた)、やがてウオーリック伯は政権内の主導権争いや外交上の問題をめぐって王と対立するようになる。1つにはエドワード4世が独断で愛人エリザベス・ウッドウィルと結婚し(そのため後に結婚の無効が主張される)、妻の縁戚を重用したこと、2つめは外交問題で自ら採用している親フランス政策にエドワード4世が対立し、親ブルゴーニュ政策を採ったことを巡って確執が生じたのである。そして遂に1470年、ウオーリック伯はフランス陣営に寝返り、フランス軍と共にイングランドに上陸、ロンドンを占拠してヘンリー6世を解放し、王の自由と王冠を奪還する。赤薔薇の復活である。
 しかし1471年からは状況は逆転する。フランスからエドワード4世の義弟シャルル公が率いる部隊が上陸してきた。パルナの戦いで両軍が激突し、戦いでウオーリック伯と皇太子は戦死。ヘンリー前王は精神に錯乱を来したうえ、1471年に死没する。王冠は再び白薔薇の上に輝く。

第3次薔薇戦争

エドワード4世をいただくヨーク家の治世はその在位中は安定した。1475年フランスのルイ11世との間にピキニー条約を締結してフランスと講和が成立し、エドワード4世がフランスからの撤退を命ずる(赤薔薇対策に注力するためにはフランスからの撤退もやむなし)。それゆえこの年をもって百年戦争が終結するものとする異説がある。
 いずれにせよ講和によって通商が復活してイングランドに財政的なゆとりがもたらされた。エドワード4世は多くの子にも恵まれ、王位の継承にも問題はなかったはずである。
 しかし王は1483年に急死する。王位を継承したのは僅か12歳のエドワード5世であったために摂政を必要とし、グロスター公リチャード(エドワード王の弟)が就任した。
 これに対し権力の奪回をはかるエドワード3世の母后エリザベス・グッドウィルの血族の者たちの企みで若き王の側近が毒殺され、リチャードはその首謀者たちを処刑する。これがランカスター家の陰謀であるとの噂も頻りで、ランカスター家の血筋を引くヘンリー・チューダーが影で操っているともいわれた。
 リチャードは野心からか、周囲からの慫慂を受けてか、最終的な決着をつけようとし、若き王をロンドンに幽閉し、先王エドワード4世の結婚は私婚により無効なるがゆえにエドワード5世の王位には正当性がないという世評を追い風にして王を名乗り、自らリチャード3世として1483年6月に即位する。そのあとエドワード5世とその弟が殺害されたことが知れわたったが、おそらくリチャード3世の命令によったものである。
 リチャードの王位簒奪への非難は勢いを増し、リッチモンド伯ヘンリー・チューダーがフランスからリチャードに挑戦する。ヘンリー・チューダーはその母方の祖先をたどればランカスター家と縁つづきで、また彼の祖母である王妃カトリーヌからみればフランスのカペー家とも縁つづき(カトリーヌは夫のヘンリー5世の死後、オウイン・チューダーと再婚していた)でもある。チューダーは上述の通り、エドワード若王の側近の謀殺事件への関与を疑われてフランスに亡命していたのである。チューダーは、1485年に兵を率いてイングランドに上陸して、ここに薔薇戦争の最後の火蓋が切って落とされた。1485年8月のボズワースの戦いでチューダーはリチャード軍を撃ち破り、リチャード3世は乱戦のさなかに戦死した。こうしてプランタジネット王家の家系は断絶する。
 ヘンリー・チューダーは暗殺されたエドワード5世の姉エリザベス・オブ・ヨークと結婚してヨーク家との和解を図り、1485年にヘンリー7世として即位した。チューダー朝の成立である。

絶対王政への道

ここに30年にわたる内乱は終結し、ヘンリー7世以降絶対王政(absolute monarchism)と呼ばれる政治体制がととのえられてゆく。何故、激しかった内乱が鎮まったのか。ヘンリー7世はランカスター家の嫡流というわけではない。王位が筋目の正しさだけで決められるとすればその資格を持つ遺族は他にも大勢いた筈である。しかし、様々な謀略や殺戮によって多くの名だたる貴族が殺され、もしくは長い戦いの結果王位を窺う貴族は疲弊し、武力を用いて「チューダー王朝」に立ち向かえるものはもはやいなくなってしまったからである。
 こうして歴史の僥倖というかどうか、イングランドはフランスに先駆けて絶対王政の色彩を濃くし、王家は次第に強固な国家のしくみをととのえ、ナショナリズムの後押しを受けて、「王の血筋に頓着しない」国民国家へと変貌してゆくのである。

封建制は王と諸侯による土地の支配に始まる。王は諸侯に土地を支配させ、そこから得られる利益を受け、諸侯の土地を安堵する。この関係は相互互恵的なもので諸侯は自らの土地が王によって保障される限度において王に従う。諸侯が支配する土地と人々は諸侯のものである。王との関係が悪くなれば面従腹背や反逆の態度をとることも屡々であった。
 しかし火砲(なかんずく攻城砲)の発達により戦争の仕方が大きく変化し、これを保有する者(多くの場合は王の常備軍に装備された)の力が強化され、火砲を擁する王軍がその意に反する諸侯の征討に乗り出すに従い、諸侯は自らの土地と人々を支配することがもはや出来なくなり、王に服従し、伺候するようになる。こうして諸侯は土地に対する支配権を失い、権力は王に集中するようになり、絶対王政という政治の形態が生まれた。この現象はフランスのブルボン朝、スウェーデンのヴァーサ朝の時代などにもみられるが、イングランドにおいては戦いにあけくれた貴族階級の殺し合いによってフランスよりもその到来の時期が早まったといえるのである。
 絶対王政の時期はヨーロッパにおいてはナショナリズムの揺籃期であり、市民革命への過渡期でもある。しかし文字通りの絶対王政が確立したというわけではない。王はその統治を支える貴族や特権商人の抵抗にも遭遇する。イングランドにおいてはマグナカルタ(1215年)以来、議会の課税承認権(略言すれば国王と貴族・諸侯との間の租税徴収契約の如きもの)による財政的掣肘に屡々悩まされた。

イングランド中世の海軍

中世歴代のイングランド王は戦闘専門の常備艦隊を持たなかった。しかし戦争は現に存在した。然らば海上における戦闘は如何にして行われたか。当時の戦争は2種のものがある。
 その1は国王が自らの意思で戦争を始める場合(例えば百年戦争におけるフランス侵攻)であり、この種の戦争は国王の私事とみなされ、国王が臣下の船を借り上げて自分の船と併せて艦隊を編成した。12世紀以降シンク・ポーツ(Cinque Ports)と呼ばれる港町(イングランド東部にあるヘイスティング、ロムニー、ハイス、ドーヴァー、サンドウィッチの5港。Cinqueとは"5"のことである。後にウインチェルシーとライが加わる)に在住する豪族や商人が国の要請に基づき自分の船を指揮官と乗組員付で一定期間に限って提供し、見返りに傭船料はもとより特許状に基づく特権および独自の司法権を与えられる制度が生まれた。
 その2は外敵の侵攻の如く国家の非常時において、国王が船を全土から強制的に徴用する方法であり、有名な事例として1588年にイングランドがスペインのアルマダ(無敵艦隊)に対抗するために編成した艦隊がある。この艦隊は臨時編成で、戦いが終われば解散された。

ヘンリー7世

チューダー王朝を通じて海軍は次第に近代化の様相を帯びるが、ヘンリー7世の海軍のあり方は前時代そのままであった。
 ヘンリー7世が即位したとき、その相続した艦船は6隻にしか過ぎなかったといわれているが、王はその後、大小4隻の船を新造する。
 ヘンリー7世は率先して富の獲得に邁進した。彼は私財を投じて商人の交易活動を奨励した。そして資源の乏しい国の生きる途は海しかないと考えた彼は王室船10隻を全て海外通商に投じ、自分で使わないときは商人に貸し出しもした。またポーツマス港(母港)に乾ドックを建設し、造船補助制度を創設し商船の建設を奨励し、かくして1509年には商船の船腹重量は即位当時の6倍に達した。1468年と1489年にイギリスからの商品の輸出を、イングランド人だけが乗り組んだイングランド船によるものに限定する条例(航海条例)を制定し、保護貿易政策を実効あらしめた。
 折りから"世界"は「地理上の発見の時代」に入っており、スペインとポルトガルが外海に乗り出して(1492年にコロンブスが新大陸を発見した)覇権を競っており、両国は1494年にトリデシリャス条約を締結し世界の海を二分していた。(塚本企業法実務研究会会誌"BAAB"№50号46頁参照)
 ヘンリー7世はこの体制に楔を打ち込むように1497年にジョン・ガボットを外洋に乗り出させた。ガボットはついに北アメリカに到達し、ニューファウンドランドを発見する。しかし意に反して鱈の漁場を得ることができたにとどまったが、後にイングランドはこの北アメリカに植民地を建設し、やがてその地を出発点としてアメリカ合衆国へと発展するのである。

ヘンリー8世

ヘンリー8世はイングランド史上最も峻厳かつ横暴な王として知られている(宰相トマス・モアをはじめとする50人の貴族や聖職者を処刑し、6人の王妃のうち2人を刎首した)。しかしその政策には周到な計画と閃きを窺うことができ、彼の4代後のエリザベス1世の治世下における海洋政策の下地を作ったといえる。
 イングランドの安全保障政策の特徴はヨーロッパの勢力均衡政策にあった。イングランドの人口はフランス、スペインに比して少なく、もし、両国のような大国が結束するか、いずれか一つの大国が超大国になるかしてイングランドに当たられたのではひとたまりもない。そこで両大国の勢力均衡に配慮し、常にイングランドに味方した方が優勢になるように立ち廻らなければならなかった。
 ところがローマ教皇が容喙した。それというのは、王妃キャサリンとの間に男児が生まれないことに我慢がならずヘンリー8世がキャサリン王妃との離婚を考えたからである。言うまでもなくカトリック教徒(彼はそうであった)に離婚は許されず、ローマ教皇が教義上これを許可するわけがないし、もし許可する場合にはキャサリン王妃の甥であった神聖ローマ皇帝カール5世との国際関係が悪化することに懸念したのかもしれない。教皇はヘンリー8世を破門にしただけでなく、フランスとスペイン両国に対して「異教徒ヘンリー」を討伐するための聖戦を慫慂したのである。
 ヘンリー8世は国家存亡のこのとき、一面ではこれを奇貨としてとらえたかもしれない。彼の父ヘンリー7世もローマの口出しには手を焼いたといわれている。ローマ教皇と断絶したヘンリー8世はイングランド国教会を創設し、国王至上法を制定し、イングランドにおいては国王こそが宗教的にも至上の存在として位置づけた。そして彼は直ちに王室艦隊の増強を指向する。
 その戦略目標はただ一つ、フランスとスペインの艦隊をイギリス海峡で撃滅することにあった。そのため、建艦計画は海上戦闘に適する艦を作ることのみに絞られた。建造費は国内のカトリック教会の財産を没収しこれをもって捻出することとし、1536年と1539年の両度にわたり、彼は国内のカトリック修道院573箇所を解散させその財産を貴族や大商人に売却し、売得金108,000ポンドを建艦費等に充てた。その結果1000トンから30トン級のガレオン船90隻、その他20トン級の補助艦13隻を保有することができた。 さしものローマ教皇も、フランス・スペインもその威容に圧倒され、イングランド侵攻の意図を挫かれたというわけである。
 ヘンリー8世は軍艦の性能の向上にもつとめた。砲金鋳造の大口径砲(攻城砲)が発明されたと聞いた彼はこれを軍艦に装備することを思いつき、直ちに実行に移し、1515年頃には苦心の末、砲門(ガンポート)を完成させた。舷側に砲口を開いて据え付けられた攻城砲は1545年フランス軍艦を一発で仕止める大戦果を挙げ、以後戦闘用の兵員を乗せて輸送するための武器であった軍艦は、砲台を運ぶ武器へと変貌を遂げる。
 また、ヘンリー8世は王権の容喙を寄せつけず陸にあって海上作戦を担任するのではなく海事司法機関の役割を果たすにとどまった"アドミラル"に艦隊任務を与えて(但し膨大な役得の剥奪には手がつかなかったが)、軍令を統括させ、かつそのオフィスである"ロード・アドミラルティ"を、国王と枢密院による政治的軍事統制の下に置く、という組織改革を行った。

エリザベス1世

ヘンリー8世が1547年に歿し、1558年にエリザベス1世が即位するまでの11年間、イングランドは波乱の極みにあった。この期間にエドワード6世(1547-1553)、そして9日間だけ無理やり女王にさせられたグレイ、そしてメアリー1世(1553-1558)へと王位がめまぐるしく移り変わった。
 メアリ1世は周囲の反対を押し切ってスペインのフェリペ2世と結婚した(それによりカトリックを復活して国教派を弾圧した)ために、イングランドはスペインの属国扱いを受け、スペインとフランスの覇権争いに巻き込まれたあげく1558年に、大陸に残っていた唯一の領土であるカレーをも失った。
 エリザベスは父王ヘンリー8世がキャサリン王妃を離別してまで結婚を望んでいたアン・ブーリンとの間の娘である(1533年生)が、1536年アンは反逆罪によりロンドン塔において処刑されたため、私生児扱いを受ける。しかしその後キャサリンの嘆願により復権され、そのもとで養育された。彼女はヘンリー8世が死歿した(1547年)のち、メアリー女王によってロンドン塔に幽閉されるなどしたが、メアリー1世が死歿(1558)したあと1558年11月にエリザベス1世として即位する。

エリザベス1世は国王至上法を復活させ、再びイングランド国教会を国家の中心に置いた。そして、1569年にはカトリック信仰の北部諸侯によって起こされた反乱を鎮圧したため、ローマ教皇ピウス5世によって正式に破門された。
 ところで1568年、スコットランドに起きた内紛(失政のためといわれている)により、スコットランド女王、メアリー・スチュアートがイングランドに逃げ込んでいた。当初は賓客扱いされていたものの、メアリーはエリザベス4世の王妃の孫にあたり、イングランド王位の承継権を有していたことから、生かしておくには危険であるとの側近の意見により(エリザベスの暗殺計画に加担していたという説もある)エリザベス1世はメアリーを1586年に処刑する。
 メアリーはかつてフランス王フランソワ2世の妃でもあったことからこの処刑はフランスとの決別を意味し、イングランドが反カトリックの立場を鮮明にすることを意味した。

スペインとの戦争

ところで当時のイングランド海軍の実勢力はどうであったろうか。
 この時代にはヘンリー8世が創設した90隻の大艦隊はみる影もなく、エリザベスが相続した艦隊はわずか35隻にとどまった。
 ヘンリー8世の治世下においてロード・アドミラルの組織改革が行われたことは既述したが、ヘンリー8世の艦隊が大規模になり、各所に船渠が建設されると、これらの管理部門が必要になる。そのため1554年にヘンリーは艦船管理部門を創設してこれをロード・アドミラルの下に置いたうえネービーボードを財務卿の財政チェックを受けるものとした。かくしてロード・アドミラルをして軍令を、ネービーボードをして軍政(建艦を含む)にあたらしめることとしたのである。
 しかし、メアリー治世下においてネイビーボードは腐敗し、またエリザベスの場合は財政的逼迫により、艦艇の充実は思うにまかせなかったのである。

しかしスペインとの関係は冷戦状態からやがて対決の時を迎える。
 メアリ1世とスペイン王フェリペ2世との結婚により、イングランドとスペインとの関係は友好的であったどころかイングランドはスペインの属国扱いであったことは前に述べた。しかしイングランド商人がアフリカの黒人奴隷をスペインの植民地に廉価格で売り込み、スペインとの間に経済摩擦を引き起こす。次いでイングランドのフランシス・ドレイクらが大西洋を自在に往来し、スペインの財宝船を片端から狙い始めるようになった。
ドレイクは1540年の頃プリマス港の有名な造船一家の一族ホーキンス家に生まれ、一族の持船の一隻である「ジュディス」に乗ってアフリカの奴隷をスペイン植民地へ売りに行ったのが彼の初航海であったが、25歳を過ぎた頃、ドレイクは海賊稼業を始めSpanish Main(カリブ海の別称)の最も成功した襲撃者の1人となった。
 ドレイクは1577年から1580年までの間イングランド人として初めて世界一周航海を果たした。彼はゴールデン・ハインド(黄金の雌鹿)に乗り組み、5隻の船と164人の乗員を率いて、マジェラン海峡から太平洋に入り、スペイン船の襲撃に明け暮れつつ船を進めた。その後彼は今日のカリフォルニア沖合に達し、太平洋を横断して、香料諸島やモルッカ諸島のテルナーテ島に到達した。そこで船倉に6トンの丁字(グローブ)を積載して、1580年プリマス港に帰還し、女王によってナイトに叙任され、正式にイングランド海軍の一員となった。
 彼がプリマス港に帰るまでに得た収益はそれに要した経費の400%を超えたと言われている。

ドレイクによるこの行為を海賊行為と呼ぶのは自由であるが、当時の法制度では私掠行為privatingと呼ばれる。私掠行為は海賊行為piracyとは区別され、前者は自国の国王から特許状の付与を受けた国家公認の行為とされた。私掠行為は暴力を伴うが、私掠船は交戦国(もしくはそのように措定された国)の船しか襲わないから、当時の国際慣習に従った戦争行為であり、武力の行使が兵士によるのではなく、私人によるという差があるのみであると解された。これをおかしいといってしまえばそれまでである。
 エリザベス1世はドレイクの私掠行為に資金と船舶を提供していたから、女王も「私人として」スペインと戦っていたことになる。フェリペ2世は激怒したろうが、公然と非難はできなかった。
 1585年4月にドレイクは王室所有のボナヴェンチャーを旗艦とする21隻の艦艇と8隻の補助船艇をもって艦隊を編成してプリマス港を出港し、カリブ海に出撃して、サンチャゴ・プエルト・プラヤ、ドミニカ、セント・キツツカルタヘ等のスペイン植民地において私掠をほしいままにした。エリザベス1世はこの襲撃に大型艇4隻と船艇2隻を提供している。

この前後、両国の緊張は次第に高まったが、両国は公式な宣戦布告をしてはいなかった。しかし前述の通り1586年にスコットランドのメアリーを処刑したことにより、フェリペ2世は愈々戦いの決意を固める。
 このときエリザベスはトルコにあった艦隊を地中海において陽動させ、フェリペを牽制したが、ドレイクによる「スペイン国王の髭焦がし事件」が発生したことをきっかけにフェリペ2世は遂に最終的に開戦を決意する。ドレイクはこのとき海軍中将に累進していた。

1588年5月にスペインの無敵艦隊(アルマダ)とイギリス艦隊がイギリス海峡において激突した。エリザベスは所有する艦船34隻と民間から徴発した163隻をもって迎撃した。対するアルマダはガレオン船65隻を含む127隻の大艦隊であった。スペインは海上戦闘と帰還途次に遭遇した悪天候によりアルマダの多くの艦船を失った。このことについては本誌№11及びBAAB誌№52に書いたので参照たまわりたい。

砲と艦船

小船艇が多く劣勢にあったスペインとの戦争においてイングランドが勝利を得た要因はドレイクなど将兵の技倆と戦術もさることながら、勝利に貢献したハードな要素も見逃しえない。即ち砲と艦船(帆船)である。
 14世紀頃までのイングランドは大陸諸国に比して技術的には後進国であった。この技術ギャップを埋めたのは様々な形で大陸から渡来した職人たちによる技術移転であり、既に1331年にはエドワード3世が英国臣民にも毛織物の技術指導を行うことを条件にフランドルの繊維技術者に対し特許状を発行した。現在の特許権に近いこの仕組みは大陸諸国の技術者が国境を越えて技術を移転するのに大いに役立った。
 15世紀の終わりにヘンリー7世はフランスの鍛冶職人を招き、鉄製武器の生産を始め、1543年(余談ながらこの年に日本へ初めて鉄砲がが伝来している)にはフランスの鉄砲師とオランダの鉄砲鍛冶がイングランドに招聘され、鉄砲、臼砲、弾丸の製法を伝え、1544年には40人以上のフランス人鋳物師がサセックスのウィールド地方で就業していた。この村で生産された大量の鋳鉄砲と砲弾が連日の戦いにぶっ続けで性能を発揮し、アルマダを撃滅する力となった。

帆船のデザインも大きく変わった。
15世紀末の船は截り立ったように、ほとんど垂直の、髙い船首と高く丸みのある船尾を持ち、中央部の船体のラインは直線に近く、腰部外板(ウエイルズ)は水線と平行していたから、全体の印象としては乾舷の高い、ずんぐりとしたものであった。16世紀初期になると、平らで採光窓のある船尾形式が導入され、次いで船首斜檣(バウ・スプリツト)を持つ、長く前方へ傾斜したものへと発展する。船体は船首と船尾が上向きに反った甲板(舷弧)を持つ船が造られ始め、一方砲門(ガンポート)の採用と砲列甲板の制式化は、舷縁に近づくにつれて船殻が内側へ彎曲(内方傾斜)するタンブル・ホーム(挿画参照)を発達させることになる。これは上部にすぼまった形をとることにより搭載砲の重量に対して船体強度と安定性を高めるために工夫された特徴であり、しばしば船の威容を実体以上に見せる効果を持っていた。

東インド会社

エリザベス治世下における海洋政策はスペイン・ポルトガルの勢力圏の隙間を縫って行われた。
 エリザベス1世の祖父ヘンリー7世の興した海運事業はスペイン王への気兼ねからさしたる発展をみなかったが、その蒔いた種は商人たちの手で着実に育てられた。貿易の取引先は従来のネーデルランドから東洋へ更に北米やアフリカへと伸びて行った。貴族と商人たちが共同で船や金銭を出資して合資会社を設立し、航海を通じて貿易を行う仕組みが生まれた。この仕組みは現在の会社に比べると資本の結合が弱く、むしろ「組合」のようなもので、航海が終わると目的の到達により解散した。女王はこの組合に特許状を下付し、かつ持船や資金を提供して配当を得た。ほんの少し後の話になるがその規模と組織が拡大した東インド会社The Governor and Company of Merchants of East Indiesが1600年12月31日に発足する(この会社は1709年にThe United Company of England Trading into the East Indiesと改称され、1874年の解散まで存続する)。
 この会社は以後スペイン・ポルトガルというカトリック教国家とのあいだに熾烈な競争のうちにインド大陸の西側へ、後に東インド側へと通商活動を拡げてゆく。

(未完)

〈訳者のことば〉

 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。いまや我々は西欧人である。
しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。なお挿画は丸の内中央法律事務所事務局の高橋亜希子さんを煩わせた。

〈参考文献〉(今回参考にしたもの)
  • ボイス・ベンローズ(荒尾克己訳)「大航海時代―旅と発見の二世紀」(筑摩書房、1985)
  • アンリ・ルゴエレル(福本秀子役)「プランダジネット家の人々」(白水社・文庫クセジュ843、2000)
  • 中岡哲郎「技術を考える7―産業革命を準備した科学と技術の体制」(朝日新聞社「一冊の本」2008.1、77頁以下)
  • アッティリオ・クカーリ、エンツォ・アンジェルッチ(堀元美訳)「船の歴史事典」(原書房、2002)

〈挿画製作〉高橋亜希子(丸の内中央法律事務所)

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