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弁護士 堤 淳一

2017年09月06日

太平洋の覇権(26) ----- アメリカ、太平洋に達する

(丸の内中央法律事務所事務所報No.31,2017.7.1)

アパラチアからロッキーまで

□ 独立戦争(1775~1783年)を前にしていた頃、次第にまとまりをみせはじめていた植民地の西の境界を画していたのは、北はマサチューセッツから南はジョージアまで2000キロに及び、植民地の進展を妨げるように2500キロに及んでそびえているアパラチア山脈であった。その当時イギリス政府は、植民地人による交易の場と徴税の拠点を東海岸に留めておこうとして、アパラチアの西側に植民地人が定住することを禁じた。
□ 1800年代の初頭、多くの植民地人は、大西洋に張りついていた植民地との間に数千キロを隔ててアメリカ大陸が太平洋に面していることをまだ知らなかった。やがて多くの冒険家たちはアパラチア山脈を踏破してミシシッピ河に達したが、この大河の西側はニューオーリンズに至るまでフランス人が牛耳っており、現在のアメリカの中核である西部の広々とした大地(グレートプレーンズ)を交易の源泉としていた。
 しかし既述した通り1803年にアメリカ合衆国はこの広大な大地― ルイジアナをフランスから1500万ドルで買収し、かくしてアメリカ合衆国の広さはあっという間に2倍となり、世界最大の内陸水路(ミシシッピ河)を支配できるようになった。またメキシコ湾に面するニューオーリンズを獲得したことにより大西洋への途が開けた。こうしてアメリカはロッキー山脈の足下まで広大な領土を得ることができ、地政学上の「戦略的縦深(strategic depth)」を手に入れた。東から西へと道路が啓開され、北から南へと流れる水系が過疎地を結びつけてビジネスに必要な物流経路を提供し、こうしてアメリカが大国へと成長する後押しをした。
□ しかしロッキー山脈の向こう側にはオレゴンテリトリーと呼ばれる地域とカリフォルニアを含むスペイン領が広がり、ルイジアナの南西部も一帯がスペイン領であった。これらスペイン領を奪い、太平洋に面する領土を獲得することはアメリカにとって積年の願望であった。

大陸横断条約―南の国境線

□ 1815年にフランスにおいてナポレオン政権がついに崩壊した。アメリカにおいては新天地である西部へと向かおうとする人々の意欲がますます高まってくる。
 スペインにおいてはブルボン王家が復位したものの、中南米では反乱が相次いで軍隊の指揮系統は混乱し、どの部隊が正規の軍隊としてマドリードの統制に服しているかも判断がつかない有様を呈するようになった。スペインは、ルイジアナ購入地の境界線決定に際しても影響力を行使できず、やがてフロリダを手放すに至るが、それというのも王家の衰退が原因である。
 ブルボン家の権利を擁護するという無益な仕事はルイス・デ・オニス・イ・ゴンザレスに引き継がれた。オニスはアメリカ人が、スペインとの南の国境をリオ・グランデ川に定め、そこから西のスペイン領であるテキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアを盗みとりたいと考えていることを百も承知し、国境問題に対応しようとしていた。
 当面切迫していた問題はアメリカの開拓地の資産が、インディアンや逃亡奴隷、海賊に襲われる事件が続発していたフロリダの問題であった。アメリカ側は、スペインが治安を維持できないならフロリダを合衆国の手にゆだねるべきだと主張し、マドリード政府はこれを了承し、実際1817年にはフロリダをアメリカに譲渡するようオニスに指示した。しかし万事話には裏がある。その見返りとして、スペインはアメリカとの国境をミシシッピ川とし、ルイジアナ購入地をすべてスペインに返還させようとしたのである。
□ 1818年に交渉が開始されたときアメリカ側の代表として現れたのはジョン・クインシー・アダムズ(第2代大統領ジョン・アダムズの息子)であった。押し問答の末、アダムスが提案した最終案は、アメリカはテキサス全域をスペインに譲ってサビーン川以北にとどまるが、その代わりに北緯41度線沿いに太平洋岸までの領有をスペインに求めるものであった。
 アメリカ議会は、スペインがあくまでもフロリダをアメリカに譲り渡すことを認めないのではないかとやきもきしていたが、結局国境線は北緯42度に定められた(大陸横断条約)。1819年2月22日、アダムズは、次のように記している。「午前1時に近かった。1日の終わりにあたり、私はすべての善き賜物の授け主である神に熱い感謝の祈りをささげた」と。
 アメリカは遂に太平洋に達したのである。
 この協定は確かに勝利ではあったが、スペインの弱腰に照らすと期待したほど成果を上げたとはいえないとの評言もあり、直ちに満場一致でこの境界を定めた大陸横断条約を批准した上院決議に対し、ただ1人反論したのはヘンリー・クレイで、アダムズのおかげでアメリカは本来得ることができたテキサスまで失ってしまったと非難した。
□ 1819年の大陸横断条約により、スペインはフロリダを手放し、その見返りとしてアメリカは500万ドルを支払うとともに、テキサスの領有権の主張を全面的に放棄した。この条約によりヌエバエスパーニャとアメリカとの間の国境線が、メキシコ湾から北へ向かう国境線はサビーン川に沿って、そしてレッド川に沿って西へ向かう線が引かれ、更に北・西へとジグザグに折れ曲がって現在のワイオミング州を通り、北緯42度の線沿いに真西に向かって太平洋まで延びた(アダムス=オニス線)。その線は、現在では、ルイジアナ、テキサス、オクラホマ、カンザス、コロラド、ワイオミング、ユタ、ネヴァダ、アイダホ、オレゴン、カリフォルニア各州の境界線の一部となっている。
□ スペイン王フェルナンド7世は中南米で王制復古の反革命が起きるのを期待し、大陸横断条約の批准を先送りしていた。だが1820年にスペイン派遣軍の内部で反乱が起きたのに続いて本国でも革命が勃発し、キューバやプエルトリコその他の小さな島々を除いて、スペイン帝国の領土はアメリカから姿を消した。
 1821年にはメキシコはスペインとの長い戦争(1810年から1821年)を経て独立し、結果として、テキサスとカリフォルニアは宗主国を失い孤児となった。
 しかしヨーロッパではロシアのアレクサンドル1世の提唱により、ロシア、オーストリア、プロイセンの間に神聖同盟が締結され、その支配者たちはスペイン領アメリカ帝国という更に進んだ段階を思い描いていたという。そしてアレクサンドル1世はその目的達成のために―実現はしなかったけれども軍の派遣をもスペインに申し出、その見返りにロシアのアラスカ領を、遥か南のカリフォルニアまで拡張させることを提案したともいわれている。

テキサスの併合

□ メキシコは上記の通り1821年に独立を果たしたが、メキシコの勢力はカリフォルニア北部に及ぶ土地を支配し、やがて東へも領土を拡げて、テキサスを手中に収め、現在のルイジアナとの州境にまで達した。メキシコの領土となったテキサスに新天地を求めた入植者は1835年には3万5000人にのぼった。
□ テキサスへの住民の流入が続く一方で、1823年、アメリカ政府はアメリカとヨーロッパの相互不干渉を明らかにした「モンロー主義」(第5代大統領ジェームズ・モンローの名に因む)を宣言する。この宣言によってヨーロッパ列強は、もはや西半球で植民地をみつけることはできないと警告されたのである。
□ メキシコ政府の移民奨励策もあって、綿花栽培のための安い土地を求めた人々は5000人もの奴隷を連れて来ていた。当初歓迎された入植者もその数が増えると、メキシコ政府の警戒が始まる。やがてサンタアナ大統領が奴隷制の廃止政策を採用し、政府の権限を強化して、入植者をコントロールする中央集権的な政治運営へと変更を図ると、これに反発して住民が武装蜂起した(アラモの戦)。
 サンタアナはアラモを制圧するとテキサス全土の鎮圧に向かうが、テキサス独立軍は、サミュエル・ヒューストンによる奇襲攻撃でサンタアナ将軍を捕虜にする。独立軍は将軍にテキサスの独立を認める条約に署名させ、1836年4月テキサスは独立を果たした。こうしてテキサスは「テキサス共和国」となった。
□ テキサス共和国へは、スペインの統治が打倒される前から細々と移民が流入し、独立後、アメリカ南西部諸州から移民が続々と流れ込んだ。移民の中には英語を話す集団がいて、少数派ではあったが、政治的には支配者集団となった。
 テキサス人、なかんずく当初メキシコからの脱退を工作した支配者層の望みは、アメリカ連邦に加入することであり、おそらくその情熱はルイジアナへのフランス入植者よりも強かった。しかし、ワシントンの議会は、テキサス人を連邦に入れることに長い間躊躇していた。
□ その結果、テキサスは長期間にわたりテキサス州旗に残る「ひとつ星」Lone Starそのままに単立の州であり、メキシコからも合衆国からも独立した立場を余儀なくされていた。その理由は単純ではない。
 北部(中でもニューイングランド)の一部の人々は南部地域の強化につながるルイジアナの買収にも反対であったが、さらにテキサスが加われば、南部の勢力がより強くなることは明らかである。しかしテキサスの併合は南部の強化に対するブレーキを外すことに幾分か寄与することは確かであるとしても、大部分の北部人、特に北西部の新しい諸州では、地域的な嫉妬よりも、合衆国の拡大の方に関心があった。諸州には、テキサスが連邦に入るのを歓迎する用意が十分にできた。

「テキサス共和国」国旗―紺地に黄色の単立の星(Lone Star)

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□ ところで1844年は大統領の選挙の年であった。11月の選挙は現職のタイラー(ホイッグ党=民主党に対抗して1834年頃に結成され、1856年に共和党が結成されたときにその核心となった)に対しジェームズ・ノックス・ポーク(民主党)が挑戦し、2000万票のうち4万票の僅差で勝利した。政権末期のタイラー大統領(第10代。南部のヴァージニア出身であった)は選挙戦においてテキサスを州とすべきであるとの政見を掲げていたポークが勝利したことの民意を重く受けとめ、議会を招集してその承認を求めた。

 しかし合衆国議会には奴隷制度を維持しているテキサスを併合することに根強い反対があり、併合条約批准に必要な上院の3分の2の賛成票を得ることは容易でなかった。そこでタイラー大統領は条約ではなく法案としてテキサスの併合案を再提出させ、単純過半数で無理やり併合に持ち込んだ(1845年3月1日)。タイラーの任期満了の3日前のことであり、結果として後任のポーク大統領への置き土産になった。
 1845年6月18日にテキサス議会も合衆国に州として加入することを議決した。

北の国境線―オレゴンテリトリー

□ 先に述べた通り、1812年に始まった米英戦争は1814年に終結したが、両国の国境はこの戦争で画定したわけではなかった。東部(スペリオル湖付近及びメーン州北部)にも、また西部にも国境をめぐる紛争が継続して起きている。

 1818年10月21日、ロンドンで調印された協定で、ウッズ湖にあるマスケグ湾の湾口付近(西経95度17分)より西の国境を北緯49度線にすることが決まった。しかし北緯49度線を西に延ばすと、西経115度付近でロッキー山脈の分水嶺に突き当たる。両国は北緯49度線がロッキー山脈の分水嶺に達したところで国境の画定をいったん止め、そこから西は後日の調整に従うこととし、当面は米英の共同管理のもとに置くこととした。この共同管理地の北方は、北緯54度40分でロシアに接し(1824年)、南のメキシコ領カリフォルニアとの国境が北緯42度に定められていた(1819年のアダムス=オニス線)ことは既述の通りである。。
 北においてロシア、南においてメキシコと接し、東にロッキー山脈の分水嶺、西に太平洋に囲まれたこの広大な台形をなすこの地はオレゴンテリトリーと呼ばれた。現在のブリティッシュコロンビア州(カナダ)、ワシントン州、オレゴン州、アイダホ州を含み、面積は約74万㎡であり日本の面積の約2倍にあたる。1818年以来、この地域の米英への帰属はあえて曖昧なままにされていたのである。
□ この間、前述の通り南においてはテキサス併合の問題が動いていたが、オレゴンテリトリーに新たな問題が発生した。テキサスについては不熱心であった北部の拡張主義者たちの中から、オレゴンテリトリー問題を自分たちにとって有利な形で解決を求める大きな声が上がったのである。
 北緯54度40分(この線を以って北にロシアと接する)以南の土地―即ちオレゴンテリトリー全体はすべてアメリカの領土と認められなければならない。「さもなければ、紛争は戦争に持ち込まざるをえない」。北部と西部の民衆はそのように声高に発言し始めた。
□ タイラー大統領の国務長官であったカルフーンは、北部の対外的強硬主義者たちの主張に強く反対した。
 イギリス軍は2,3週間もあればインドから海軍をもってオレゴンに上陸できる。一方、そのイギリス軍を迎撃するために派遣されるアメリカの軍艦は、延々と大西洋を南下して南アメリカ大陸の南端をなすケープホーンを回り、反転して太平洋を北上してアメリカの西海岸に到達するか、さもなければ地図にも載っていないロッキー山脈の荒野を陸兵を以って踏破するしかなかったからである。
 しかし北部の拡大主義者たちはこの正論に納得しなかった。彼らは、国務長官が南部の拡張だけを考えていると言って、カルフーン(彼も南部の出身であった)を非難した。
□ 1844年の選挙で民主党がタイラーの再選を阻み、ジェームズ・ノックス・ポークを選んだこと、アメリカ議会は1845年3月1日にテキサス併合を決めたことは既述した。
 ポークはジャクソン時代(1830年代)の政治家で、余り有名ではないけれども活動家であり、アメリカこそが自由と民主主義に基づく道徳世界を築き上げる責務(明白なる宿命=マニフェスト・デスティニー)を神によって委ねられた国だと、強烈に主張していた。
 因みに、ジョニョン・オサリヴァン(1813-95)が1845年に雑誌「デモグラティック・レビュー」でテキサス併合について論じる中で、「マニフェスト・デスティニー」という言葉を用いている。オサリヴァンによれば、合衆国の市民が大陸に広がっていくのは神が定めた明白な運命である。
 「私たちには、アメリカ大陸をその全土にわたって所有するという「明白なる天命」がある。この大陸は神が与えたもうたものであり、私たちに託されたのは、この地に自由と連邦政府という大きな試みを展開することである。樹木は大空に枝を伸ばし大地に根をはって成長し、自らの使命を果たしていくが、それと同時に、私たちが託された使命をなすことは、私たちの権利なのである。」
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 「諸外国はわれわれの政策を阻み、われわれの力を押しとどめ、われわれの国土の広がりに制限を付すことを狙っており、年々増え続ける何百ものわが国民が、その自由な発展のために、神によって与えられた大陸に広がっていくという明白なる運命を実現させまいとしているのである」、
 として、アメリカ人の政策を妨げる勢力を非難している。
□ イギリス外務省のアバディーンは、長い間放っておかれた境界交渉を1843年に再開するようアメリカに求め、イギリスはコロンビア川(河口において概ね北緯46度20分)以北の領域をすべて保持するが、ピュージェット湾(太平洋からシアトルへ切れ込んでいる湾で北緯49度より少し南にある)に新たに「自由港」を設定し、アメリカ船の船積みを認めるという提案をした。
 新大統領となったポークは北緯49度を国境とするアメリカの昔からの提案をむし返したが(コロンビア川におけるイギリスの航行権には触れなかった)、駐米イギリス大使パケナムはアメリカの対案はとうてい呑めないと思い、外務省に報告もせずにこの提案を一蹴した。ポークは年次教書の中でこれを公然たる侮辱だと決めつけ、北西部沿岸全域に対するアメリカの権利を改めて確認し、議会を招集して従前の「共同管理」協定を停止する旨の議決を得た。英国がオレゴン全面領有のアメリカの主張を呑むはずがない。さりとてこの要求を軟化させることは、ポーク政権の基盤を揺るがすことになる。
□ アバディーン外相はパケナムに対し北緯49度線を太平洋岸まで延長することを指示し、それより以南の全地域をアメリカに引き渡させることにした。条約案の詳しい内容は6月3日にホワイトハウスに届く。イギリスは北緯49度での分割を受け入れる。その代わり、ハドソン湾会社(1670年に設立されたイングランドの勅許会社で北米大陸(特に現在のカナダ)においてビーバーなどの毛皮交易を行っていた)のコロンビア川航行権だけは認めよというものだった。ポークは、アメリカがコロンビア川とピュージェット湾の両岸を手に入れたことで満足した。問題は自党の強硬派をなだめることだった。ポークは条約の締結に先だってイギリスの条件を上院に提示して同意を求めた。そうしておけば、「北緯54度40分。受け容れられなければ戦争!」と叫ぶアメリカの多数意見から「引き下がった」のは議会であるということになるであろう。
□ こうする間、イギリスにおいてはピール首相が穀物法廃止の議会通過を強行しようとしたために、たちまち政権交代を余儀なくされた。まもなく政権は後任の首相としてパーマストンが就任するであろう。 パケナムは6月6日に条件を提示し、15日にはこれが調印の運びとなり、18日までに条約は批准された。アメリカとイギリスはこの30年というものオレゴンを巡っていがみ合ってきた。しかしそれが条約案がイギリスの駐米大使館に届いてからたったの12日間で決着がついたのである。
 1846年6月15日、ワシントンで「オレゴン協定」が調印され、アメリカの北辺における国境線はほぼ画定された。

カリフォルニアの奪取

□ アメリカの発展に最も重要な土地はオレゴンというより、むしろカリフォルニアであった。アメリカ大陸とアジアを結ぶグレートサークル・ルート(大圏航路)に参入し、支那との交易を拡大するためには何としてもサンフランシスコをアメリカ領土として確保し、蒸気船による太平洋航路を構築したかった。
 フランスやイギリスはメキシコからカリフォルニアを奪取する意図を隠して、メキシコを支援するポーズをとっていた。
□ ポーク大統領は、就任から8か月後の1845年11月、既にメキシコとの間にカリフォルニア買収交渉を行う一方、テキサスが1836年にメキシコから独立し、その後1845年に住民の意思の発露として合衆国に参加したと同じように、カリフォルニアの住民にまず武装蜂起させ、独立国となったカリフォルニアをアメリカ合衆国へ参加させるという手法も画策した(「テキサス型解決策」(Texas Solution)と名付けられた)。
□ この動きが反映して1846年6月14日、サクラメント川流域のアメリカ人入植者およそ30人がカリフォルニアの独立を要求し、メキシコに反旗を翻し、叛乱軍はソノマにあるメキシコ軍の砦を落とし、ひとつ星とグリズリーベア(灰色熊)をあしらったベア・フラッグを掲げた。カリフォルニア共和国の誕生である。
「カリフォルニア共和国」国旗―1つの星にグリズリーベア(灰色熊)
をあしらった「ベアフラッグ」(文字は黒、絵柄は赤)
California_Republic.png

□ しかしその時期には既にアメリカはメキシコに宣戦布告していたのである(米墨戦争)。カリフォルニア買収交渉の頓挫を受けて、ポーク大統領はメキシコ湾から軍事的威嚇を続けていたが、リオグランデ川付近に展開中のアメリカ偵察部隊(陸兵)が4月24日、メキシコ軍に襲撃された。それまで開戦に慎重だったアメリカ議会も、この事件を境に戦争やむなしの姿勢に傾き、1846年5月13日、下院では173対14、上院では40対2の票決を以って開戦に同意し、アメリカはメキシコに宣戦布告した。
 ポークはザカリー・テイラー将軍に命じてヌエセス川(英語読みではニューエシス川)から進攻し、リオグランデ川岸に達してメキシコと対峙した。
□ カリフォルニアへは陸、海から部隊が派遣され、7月の半ばにはモンテレイに到着したストックトン提督によりカリフォルニア共和国は泡沫のように消滅した。開戦により「テキサス型解決策」は不要になった。
 メキシコ軍のカリフォルニアの拠点は次々と陥落し、1847年1月13日、メキシコ軍指揮官アンドレ・ピコ将軍はカフエンガ峠近くで降伏し、将軍とフレモントの間にカフエンガ条約(Treaty of Chuenga)が締結された。
□ 1847年3月9日、カリブ海の軍港ヴェラクルーズにウィンフィールド・スコット将軍が迫った。アメリカ陸軍1万によって実施された初の上陸作戦であり、陸上部隊を援護したのはメキシコ艦隊司令のマシュー・ペリー提督(後に日本の開国使節となる)が指揮する蒸気戦艦「ミシシッピー」号の32ポンド砲であった。ペリーは従前から海軍陸戦隊が戦術上重要になることを主張したが、この戦いでその正しさを立証する。800ヤード(720メートル)の距離から行われた艦砲射撃に4300のメキシコ守備兵はたちまち戦意を喪失し、3月27日、ヴェラクルーズは陥落する。
 メキシコ本土でも激しい戦いが続いていた。アメリカ軍は進撃を続け、9月14日にはメキシコシティーが陥落する。
□ ところでテキサス併合以来アメリカとメキシコの関係は事実上断絶していたが、メキシコが敗北を認めたことにより、ポーク大統領は交渉相手を見つけた。ようやく外交交渉が始まることになり、ポークの特命全権大使ニコラス・トリストが交渉にあたった。
□ アメリカのメキシコ進攻に対しイギリスは一貫して中立を守った。既述の通りイギリスは自国の政権不安の時期にあって「メキシコ問題」に介入する余裕はなかった。イギリスの太平洋艦隊司令官シーモア提督はカリフォルニア有事の際の指示を本国政府に仰いだがピール政府からは何の返事も受け取っていなかった。
□ アメリカの戦争の真の狙いはカリフォルニアであり、もともとアメリカには正義のない戦争であり、軍事的に圧倒しているとはいえ、メキシコのアメリカに対する反撥は強く、カリフォルニア買収を含む終戦の交渉は年を越した1848年に入っても決着がつかなかった。
 1848年2月2日、ついに合意が成立する(グアダルーペ・イダルゴ条約)。アメリカはメキシコに領土割譲の補償として1500万ドルを支払い、かねてテキサス州民がメキシコ政府に補償要求していた300万ドルの債務を引き受けるという、都合1800万ドルの出捐をもって終戦の合意が成立した。
□ この金額と引き換えにメキシコが譲歩したのは、メキシコとテキサス州の国境をヌエセス川らさらに南のリオグランデ川とすること、及びカリフォルニア及びその周辺の土地をアメリカに譲渡することである。
 現在のカリフォルニア州、アリゾナ州、ニューメキシコ州、ユタ州、ネバダ州、ワイオミング州の一部、コロラド州の一部がアメリカの新たな領土となった。
□ その結果アメリカは太平洋側においてサンディエゴからヴァンクーバ―のピュージェット湾までの全域を支配するに至った。反面メキシコは国土のおよそ半分を失った。
 アメリカ上院は3月に38対14でこの条約を批准した。
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ゴールドラッシュ

□ ・・・この偶然は神の如何なるいたずらなのであろうか。グアダルーペ=イダルゴ条約が調印されるちょうど1週間前サクラメント北東のサッターズミルで金鉱が発見された偶然のことである。
 もし10年か20年前に金鉱が発見されていたら、カリフォルニアはどうなっていただろうか。アメリカ人を中心にやはり移民は大挙して押し寄せただろうが、彼らがやってきた土地はアメリカの領土ではなく、彼らはスペイン総督の下に統治されたであろう。
 もしメキシコとの間にグアダルーペ=イダルゴ条約が成立する直前にでもメキシコが金鉱の発見を知ったならばどうであったろう。そのニュースはメキシコを勢いづかせ、それでなくとも難航していた交渉は打ち切りとなり、戦いが再開され、またピール内閣のあとを襲ったパーマストンが戦いを指導して、戦いはいっそう長引いたとも想像されるのである。
□ 偶然と言えば金が発見された事情そのものが偶然のようであった。
 1839年、アメリカン川とサクラメント川の合流点の周辺に4,800エーカー(約19,000h)をメキシコから払い下げを受け、砦にしてしまったスイス生まれのジョン・オーガスタ・サッター(ズッタとも読む)という男がいる。サッタ―は軍隊経験などないにもかかわらずこれが豊富であるように称するなど山師のようなところがある人物であるが、1848年頃サンフランシスコの木材需要を当て込んだニュービジネスとして、川の水力を利用して製材所を建築する準備を始めていた。その年の1月24日朝、放水路の浚渫を監督していたジェイムズ・W・マーシャルは川から堀り上げた土砂が無造作に放置されている中に光っている鉱石を発見した。現在のコロマの付近である。報告を受けて駆けつけたサッタ―もこれが金であることを確信した。
 2人はこの発見を秘密にしておこうとしたが、サッター砦のストアマネージャーをしていたミシェル・ブラウンといういかがわしい相場師が、「黄金だ!アメリカン川から金が出たぞ」とサンフランシスコ中に触れ回った。
□ その結果サッターの土地には何千人もの鉱夫と、アメリカの領土になったこの土地に対して所有権や土地の利用権を主張する夥しい請求が殺到した。
 近郊の職人は工事場を離れ、商人は商店を放りっぱなしにし、船が入港するや水夫は脱走し、出港するに必要な水夫を欠く有様となった。金鉱労働者は兵隊の給与の2か月分を1日で稼ぎ出すのであった。
 こうしてサンフランシスコの人口は一時減少したと思うとすぐにハワイや南アメリカからやってきた6,000人もの「48年組」(Forty-Eightyers)で膨れ上がり、先住民以外のカリフォルニアの人口は40%も増加した。その年の暮れにはメキシコから5,000人ほどの移民がやってきた。1852年頃にはカリフォルニアの人口は26万人(原住民を除く)に達すると思われた。
 ポーク大統領は議会で嬉しそうに黄金の発見を報告し、カリフォルニアの黄金でメキシコとの戦費の10倍をまかなえると述べた。
□ 1849年に入ってから、カリフォルニアへ至る3つの流入経路が啓開された。49年組(Forty-Niners)がとったその1は陸路である。「移住隊」を編成して旅費を節約しようとする企ては1849年に、ミズーリ州のインデペンデンスから「200ドルの料金で2か月以内に」サクラメントまで送り届けることを約束した旅行業者によって立てられたが(パイオニアラインと名付けられた)、旅客に多くの死者や壊血病者を生じて散々のていたらくであった。
 また、南のルートをとったサンドウォーキング・カンパニーは道案内人の誤判断で旅客の輸送に失敗し、地図に「死の谷」(Death Valley)の名を残す羽目になった。
 後の話になるが、太平洋沿岸と中西部とを定期的に往来できるようになったのは、結局のところ人力によってではなく、鉄道と電信のお蔭である(1869年に「大陸横断鉄道」が開通した。また1842年にワシントンからボルティモアまで60キロの電線が引かれたのを嚆矢(こうし)として電信はめざましい進歩を遂げる)。
□ 陸路が難儀であるならば昔から開かれているホーン岬を回る海路が、遠回りではあるが最も安全であった。この航路によって1849年に限っても50隻の老朽船に16,000人から40,000人の人々が乗ってボストン、セーレム、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルティモア等の港に押しかけて次々と船出した。
 カリフォルニアへ行く第3のルートはパナマ地峡を行くルートであった。移住者は東海岸から帆船、もしくはそろそろ実用化されていた蒸気船に乗り、8日か12日をかけてパナマ地峡のチャグレスに至る。1849年には6,489人が、また1850年代を通じて年平均20,000人がこのルートに乗ったと言われている。
 チャグレスからはカヌーと地元の船頭を1回の渡航に50ドルを費やして雇い、60キロの道のりを渡った。大陸へとつながるところで下船した移住者たちは、ここから荷物を担いで太平洋まで42キロの坂道を徒歩で、もしくはラバに揺られて下り、ようやく(運が良ければ、の話である)パナマへと辿り着くことができた。
 そして太平洋沿岸航路に就航している蒸気船に乗り(1か月以上の空きを待たなければならなかった)、3週間でカリフォルニアに到達するのであった。 

(未完)

《参考文献》
・C・チェスタトン「アメリカ史の真実―なぜ「情け容赦のない国」が生まれたのか」(祥伝社、2011)
・和田光弘(編著)「大学で学ぶアメリカ史」(ミネルヴァ書房、2014)
・宮崎正勝「モノの世界史―刻み込まれた人類の歩み」(原書房、2002)
・ウォルター・マクドゥーガル(訳:木村剛久)「太平洋世界」(上)(共同通信社、1996)
・T.マーシャル「恐怖の地政学―地図と地形でわかる戦争・紛争の構図」(さくら舎、2016)
・渡辺惣樹「日本開国―アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由」(草思社、2009)
・渡辺惣樹「日米衝突の根源―1858~1908」(草思社、2011)

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