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弁護士 堤 淳一

2018年08月31日

太平洋の覇権(28)-----太平洋の探検と植民

(丸の内中央法律事務所事務所報No.33,2018.8.1)

18世紀の探検家たち

□ 18世紀に入って、太平洋の探検が進み、前世紀にはほとんど手を触れられなかったポリネシアやメラネシアの島々も、少しずつその姿を現わしはじめた。しかし、18世紀半ばに至っても太平洋の全貌は、まだ明らかにされたとは到底言えなかった。

 南半球に巨大な大陸が存在するという考えがギリシャ時代から信じられており、大航海時代に至ってその考えは著しい勢いで復活し、16世紀の世界図には地球の南方に「未知の南方大陸(Terra Australis Incognia)」が描かれていた。しかし多くの探検家の努力によっていくつもの島が発見されるに従い、幻の南の大陸はいっそう南へ押しやられていった。
□ オランダの最も偉大な航海者で、後にタスマニア島と呼ばれる島の名になって残っているタスマンはオーストラリアの南を航海してタスマニアに至り、更に北西へ向かってトンガ諸島に達したが、「未知の大陸」を発見することはできなかった。しかしそれでもなお謎の大陸はいまだにその不存在が確認されたものとはされていなかった。また北アメリカ大陸の北西部の海岸や、アラスカ、東北アジアの海岸線は大部分が不明だった。
 シベリアを東進したロシア人たちは、1648年にシベリアの東北端のデジネフ岬にまで到着していながら、ベーリング海峡の存在には気づかず、北極海と太平洋の関係も依然として不明なままだったのである。
□ 30年戦争(1618-1648年)が終わって以降、世情の安定に伴い、ヨーロッパ各国の関心は次第に太平洋に向けられるようになってはいたが、オランダは引続きマラッカを拠点として香料貿易に関心を集中させていたし、スペインもマニラ/アカプルコ航路の維持に専念し、ポルトガルもマカオとゴアを守り、アジアの海の地域間貿易で生き延びることに懸命であった。
□ そうした背景もあって、主としてイギリスとフランスが太平洋に関心を持った。
 イギリスはまず北西航路の啓開に関心を払い、1764年にジョン・バイロンを出航させた。彼の任務はフォークランド諸島(南米大陸南端の東の海上にあって大西洋から太平洋に向けた航路を扼する位置にある)を確保し、そのまま太平洋に入って北上し、北極圏を通過して大西洋側のハドソン湾に出る航路を発見することにあった。
 ところがバイロンは、訓令に反し太平洋を北ではなく西に向かい、トゥアモトゥ諸島の北端をかすめて、ディンジャ諸島のプカプカ、マリアナ諸島のティニアンなどに接触し、バタヴィア(後のジャカルタ)経由で1766年5月にイギリスに帰国した。
□ 次いで同年8月、2隻から成る船隊が、イギリス海軍本部から与えられた南方大陸の発見の任務を帯びてプリマス湾を出港した。指揮官のサムエル・ウォリスとフィリップ・カータレットは翌年4月にようやくマゼラン海峡を通り抜け、また6月6日、ウォリスはトゥアモトゥ諸島東部の2つの島に到着し、同じ月の18日には、ヨーロッパ人として初めてタヒチに到着した。住民は友好的であり、さかんな交易が始まり、イギリス人たちは大量の豚、鶏、果物などを手に入れることができた。交換の具としては、釘がもっとも求められた。イギリス人たちはタヒチに1ヶ月と1週間滞在した。そして、翌年5月イギリスに帰国すると、この南海の楽園について喧伝したのはもちろんである。
□ フランス人ルイ・アントワヌ・ブーゲンヴィルの2隻の船隊が、ウォリスの10ヶ月後の1768年4月タヒチに到着した。ブーゲンヴィルは1769年3月フランスに帰着し、その航海記は1771年3月に公刊されて、好評であったが、とくにタヒチ滞在の部分がたちまち熱狂的な評判を呼んだ。さらに彼に同行した博物学者コメルソンも、文明に汚されない純朴自然なユートピアとして、熱狂的なタヒチ賛美の文章を書いたので、タヒチの名は「高貴な野蛮人」のユートピアとしてヨーロッパに流布された。

クックの第1回航海

□ そして愈々最大の航海者ジェームズ・クック(1728-1779)が登場する。クックはスコットランドからヨークシャーへ移住した農場労働者の子として生まれ、幼少の頃は雑貨屋で働いた。18歳の時地方の水夫に傭われ、石炭船の航海士になって徐々に専門的な航海技術を習得し、1755年にイギリス海軍に志願して下士官となった。
 クックは7年戦争(1756-1763年)に従軍し、セントローレンス湾(カナダが南東端において大西洋に接する湾)を正確に測量し、同海域においてイギリスの勝利に貢献するという手柄をたて、復員後はニューファウンドランドで日蝕の観測などに従事する。
□ 1768年クックは大尉に昇進し、海軍本部が企画したタヒチ遠征の指揮官に任命された。乗船は彼が見習いで乗り込んだ船と同じタイプの石炭船で、積載量は368トン、長さ98フィート、幅29フィート、堅牢な造りの船で「エンデヴァー」と名付けられた。
 クックの任務は翌年6月3日に見られる日蝕をタヒチ島で観測することにあった。たまたま計算によって金星が太陽面を横切ることが明らかとなり、地球上の各地でこの現象を観測すれば、地球と太陽の距離を正確に算出できるものと考えられたからである。
 しかし海軍本部がクックに与えた秘密の任務がほかにあった。即ち古くから南の海のどこかに存在しているとされていた「未知の大陸」を発見することであった。
□ かくしてクックのエンデヴァー号は乗員94名(その中には博物学者、植物学者、画家を含み、クックの遠征チームは科学調査団でもあった)を載せて1768年8月26日にプリマスを出港し、1769年4月10日にタヒチ島に到着した。クックは3ヶ月間この地に滞在して観測を行った後、南緯40°付近にあるとされていた謎の大陸を探して南へ、南西へと航海し、ニュージーランドに行きあたり、6ヶ月を費やして沿岸を測定しすぐれた海図を作成した。
□ クックが受けた訓令によれば、帰路は東か西のいずれをとるかは指定されてはいなかったので、彼は西路をとることにし、オランダ人が接触しなかったオーストラリアの東海岸を北上し、座礁などの危険に遭遇しながら航海を続け、オーストラリアが北のニューギニアに接していないことを確認して、1770年10月バタヴィアに到着した。バタヴィアにおいて、船長のクックも含めて全員が赤痢とマラリアにかかり、多数の死者を出した。その後喜望峰廻りで出航後2年11ヶ月を経て1771年7月12日にイギリスに帰った。クックは国王ジョージ3世に拝謁し、中佐に進級した。  

第2回航海

□ 第2回目の航海は、2隻の帆船で、1772年7月から1775年7月まで、3年間にわたって行われた。クックは、新造された石炭船2隻(462トンの「レゾリューション」号と、340トンの「アドヴェンチャー」号)を用意したが、いずれにもすぐれた艤装がほどこされ、乗員も優秀だった。両艦に1名ずつ、経度委員会から派遣された天文学者が乗り組み、今回は前回の航海のときは装備されていなかった経度を測定するための4台のクロノメーターが装備された。今回のクックの計画は、もっぱら謎の南方大陸の存否を確かめることにしぼられていた。
□ クックは、1772年7月13日にプリマスから出港したが、結果として彼は7万マイルあまりも旅を続けることになり、これこそ帆船による最も長期間にわたる航海として記録されることになった。
 クックは、謎の大陸が存在するかとの問いに消極の終止符を打つことになるのであるが、それに加え、地球上のどこよりも荒涼たる地域に船を乗り入れ、かつて誰も目にしたことのない南極の海を目撃した。
□ クックは1776年11月13日にケープタウンを出航して、南緯60度の地点に2週間留った。南極の夏にあたる1月に南極圏に到着したクックとその一行は、頭上高くそびえる青と白の氷山の美しさに目を奪われた。一行は更に南下し続けたが、叢氷(パックアイス)に阻まれて前進できなくなった。そこで、クックは諦めて、進路を北に転じ、氷の海を出て東へ向かった。2隻の船は霧の中ではぐれてしまったが、かねての計画通りニュージーランド南西のダスキー湾で合流し、南半球の冬を越すことになった。
□ 極地で過ごす2度目の夏も航海を続けながら、東へ南へと針路をとり、何回か南極圏に入り込んだ。だが、何もかも前回と同じようだった。1774年1月30日、クックの一行はこれまでもっとも南の地点に達したが、またもや叢氷に行く手を阻まれた。こうしてクックはこの海域に留まることを諦め、引き返すことにする。引き返した地点は南緯71度10分、西経106度54分であった。
□ 翌年の冬は、南太平洋を調査し、クックはイースター島やトンガの地図をつくり、ニューカレドニアを発見し、喜望峰を目指して大西洋を横断する途中で、彼はサウス・サンドイッチ諸島とサウス・ジョージア島も発見した。イングランドに帰ったのは1775年7月30日で、出航してから3年と17日が過ぎていた。

第3回の航海

□ 第2次航海から帰って1年もしないうちに、クックは新たな任務を拝命する。
 喜望峰を経由してアジアに向かう航海も、ホーン岬経由のそれも、長い間ポルトガル/スペインに妨害されていたイギリスは、ユーラシア大陸の北の海域に、短距離でアジアに航行できるルートがありはしないか考え続けていた。イギリス政府は1774年北西航路(ヨーロッパから大西洋を北西に航海して北アメリカ北岸を経てアジアに至る航路)の発見者に懸賞金を与えることを議会で決め、イギリス海軍本部はこれに応じ、引退していたクックに北西航路の発見を依頼したのである。
 クックは1776年7月にレゾリューション号と新たにディスカバリー号の2隻を率いて喜望峰を東にまわってインド洋を横断し、ニュージーランドの南北の島を隔てる海峡(後にクック海峡)を通り、タヒチ、トンガ諸島などを再訪したのち、ハワイ諸島を訪れた。
□ その後クックはアメリカの北西海岸に到着し、海岸線に沿ってベーリング海から北極圏南端の氷の海までを探索したが、実りはなかった。北西航路は見つからなかった―少なくとも帆船が航行できる海路はなかったのである。クックはベーリング海峡を抜けて、北極海に入ったが、氷山に行く手を阻まれて、北緯70度6分の地点から引き返した。
□ いったん北極海探検を中断したクックは、ハワイに帰って補給を行い、休養した後再び北に向かう予定だった。しかし、1779年ハワイ諸島最大の島ハワイ島のケアラケクア湾で、住民と思わぬ衝突事件を起こし、圧倒的な数の原住民との争いに破れて殺害された。ちょうど250年程前にマゼランがフィリピンで非業の死を迎えたのとよく似ていた。

クック以降の探検

□ クックの死後行われた科学的調査の航海のうち、いくつかを紹介しておこう(以下括弧内の年号は航海の時期である)。
・フランスのラ・ペルーズ(1785-88)は、対馬海峡を抜け日本列島の北からカムチャッカ半島にかけて航海し、さらにメンダーニャの航海以後見失われていたソロモン諸島を再発見しようとしているうちに行方不明になった。
・スペインのマラスピーナ(1789-94)はスペイン政府に仕えるイタリア人だったが、南北アメリカ大陸の正確な海図を制作した業績が評価されている。
・イギリスのダントル・カストー(1791-94)は、ラ・ペルーズ捜索のためにフランス政府が派遣した船隊の1つを指揮し、ニューカレドニアからソロモン諸島を経て、アドミラルティ諸島までを詳細に調査した。
・イギリスのヴァンクーヴァは、クックの第2、第3回の航海に参加した経験を生かして、太平洋を広く航海した(1791-95)、とくに北アメリカ北西部からアラスカにかけての海域を綿密に調査し、ベーリング海峡の南には北西航路が存在しないことを確認した。現在、カナダに彼の名をとった島と都市があることは周知の通りである。

キリスト教の布教

□ 太平洋の島々が「発見」されるのに呼応してキリスト教の布教が行われる。
 まずはプロテスタントの布教について述べると、太平洋地域におけるプロテスタントの布教はピューリタニズムの伝統を受けた福音派に属するロンドン布教教会の福音伝道者たちが、1797年、タヒチにおいて開始した。やがて、教会はタヒチに堅い地歩を築いただけではなく、クック諸島やリーワード諸島(ソサイエティ諸島の西部の群島)にまで、影響力を伸ばした。1799年にはイングランドに教会伝道教会が設立され、オーストラリア東部とニュージーランドの布教が開始された。
□ 1820年にはニュージーランド、そして間もなくトンガ、フィージ、ロイヤルティ諸島においてウェスリ派(メソジスト)伝道教会による布教が行われた。また1820年に、ボストン伝道団が活発な活動を展開し、間もなくハワイ全島の住民を改宗させ、政治的にも現地人たちに強い支配力を持った。この伝道団は、のちマーシャル諸島、カロリン諸島、ギルバート諸島にまで活動を広げた。
□ カトリックについて述べれば、18世紀までに、マーシャル諸島やタヒチなどでスペインの修道会による布教が行われたが、19世紀に入って、フランスの宣教師たちが、タヒチを中心に布教を行い、そこからマルケサス諸島やトゥアモトゥ諸島にまで手を伸ばした。
□ 1827年にカトリックの宣教師たちがハワイにおいて布教活動を開始したが、それより7年前に入っていたボストン伝道団によって神父たちは追い出されてしまった。
 これとは逆のことが1836年にタヒチで起こった。タヒチでも、プロテスタントによる伝道が先行していたが、この年にフランス政府は軍艦を送って、島の政治を掌握し、プロテスタント勢力を一掃してしまった。タヒチはそれ以後カトリック布教の中心となり、それと並行して、フランス政府は現在仏領ポリネシアと呼ばれる地域の実権を手に入れた。
□ プロテスタントとカトリックの間には、布教方法に違いがあった。プロテスタントの伝道者たちは、現地人の中から牧師を養成して、現地人の教会を作らせることを好んだ。これに対してカトリックの布教者たちは、現地の言葉を学び、現地人と直接接触して布教を行うのを原則とした。
 布教者たちは、プロテスタントであるとカトリックであるとを問わず、現地の首長制社会の組織を利用して、まず首長たちを改宗させ、その後に一般人に布教を行った。すなわち、一旦首長を改宗させてしまえば、一般の改宗は容易だったからである。ハワイ、トンガ、タヒチなどのように、首長制が成立した島々では、この方法が積極的にとられ、大きな効果を上げた。

捕鯨

□ 太平洋において捕鯨が盛んになる。北アメリカでは、1712年から、アメリカ人によるマッコウクジラの捕鯨が始まっていた。捕鯨の目的は、灯油や機械油として使う鯨油をとることにあり、日本における捕鯨の目的と趣を異にしている。
 太平洋に最初にイギリスの捕鯨船が現われたのは1776年であり、南アメリカ、ペルー、チリ沖におけるマッコウクジラ狩りのためだった。その後オーストラリア東部とニューギニアの間の海域、オセアニアの島々周辺、日本近海、アラスカ湾のコディアック島沖等、次々に良い猟場が発見され、各国の捕鯨船が殺到した。その先頭を切ったのは、アメリカ合衆国の船であり、彼らが大挙して太平洋に進出したのは、英米戦争(1812-15年)のとき、イギリス艦隊がアメリカの捕鯨船を大西洋から駆逐したからだ、と言われている。
□ 捕鯨船が太平洋に出現し始めたころ、いくつかの島々の島民たちは、すでにヨーロッパ人との接触による影響に曝されていた。18世紀末までに太平洋で最もヨーロッパ文化の衝撃を受けた島は、タヒチであろう。既述の通りここにはまずウォリス(1766年)とブーゲンヴィル(1768年)が、そしてその後クックが1769年、1776年など4回、期間にして合計6ヶ月にわたって滞在し、毎日のように島民と接触した。
 初期の捕鯨の最も重要な基地は、タヒチとハワイとマルケサス諸島だった。文化変容の波はまずこの諸島を襲った。捕鯨船員たちの大部分がスペイン領の港で拾われてきた連中とか、南海の野蛮な島々から引き抜いてきた連中であり、昔の奴隷船と同じで、彼らを治めるには鞭と鎖しかなく、捕鯨船の士官たちは短刀かピストルを所持せずに彼らの間に入っていくことは危険であった。
□ こうした連中を乗せた無数の捕鯨船が、長期間太平洋を往来していれば、その船員たちが、行く先々の島々で害悪を流すのは目に見えている。風紀の紊乱、性病の蔓延、結核、はしか、インフルエンザ等の病気、飲酒の流行などは、島々の頽廃と人口減少をもたらした。16世紀初めのアメリカ大陸で、スペインの征服者の侵入後に起こったのと同じ社会現象であった。

商人による交易

□ 捕鯨船は果物、野菜などを求めるため交換品として鉄製品、ラム酒、鉄砲などを持ち込んだが、ほぼ同時に商人もやって来た。まず、ロシア、イギリス、アメリカの毛皮商人たちが、北アメリカ大陸西海岸で、ラッコ、アーミン(オコジョ)、クマ、アザラシなどを捕獲し、母国その他の地域と毛皮の交易をはじめた。ロシア人は、このためロシア・アメリカ会社を作って、1780年頃までにアラスカ経由でカリフォルニアまで進出し、アメリカとの国境争いにも干渉した。イギリスの東インド会社も、1885年までに北米西岸に派船して、毛皮を中国(清国)に運んでいた。アメリカ人も中国との交易に参加し、アメリカ船は帰路には欧米で珍重される中国の陶磁器、絹、茶などを積んでアメリカの西海岸の港に運んだ。そうしたアメリカ船の一船員が、たまたま寄港したハワイで白檀の木を発見した。これが中国で珍重されると知るや濫伐が始まり、瞬く間にオセアニアから白檀の木が消え失せてしまった。その他の中国向けの出荷品としては、ナマコ、真珠、ベッコウ、クズウコンなどが挙げられる。
□ これに対しヨーロッパ諸国から太平洋の居住民が輸入したのは機械、衣料品、鉄(車両レール)、木材、肉などであった。
□ 19世紀前半において、イギリス商人はニュージーランドを、アメリカ人はハワイをそれぞれの根拠地として、後にフランスが進出するまでフィジー、サモア、およびタヒチの貿易を牛耳った。19世紀初めにおいては、フランス商人の出る幕はなく、その後フランスが政治的にポリネシアに進出したときも、商人はあまり目立った活躍は見せなかった。

資本の投下

□ 太平洋を船で往き来し、交易する商人の時代は白檀やナマコが採り尽くされてしまうと終わりを告げ、次に白人たちは、積極的に資本を現地に投下し利潤を上げる事業に乗り出した。19世紀のヨーロッパにおける産業社会の勃興は急速な人口の増加をもたらし、食料その他の嗜好品を外地に求める必要が生じていた。そのためコプラ、サトウキビ(南アジアから外来種でありハワイ、フィジ―、サイパン、テニアンに限定された)、コーヒー、ココア(ニューカレドニア、タヒチ、ニューヘブライズなど)、ヴァニラ、果実、ゴム等を栽培するため、広域にわたる土地を手に入れ、現地労働者を使った農園の開発を行った。
 コプラは乾燥させたココヤシ(サトウキビと違って汎太平洋種である)の実から取れる油であり、19世紀前半には世界市場向けの生活商品(マーガリン、料理油、サラダ油、石鹸、化粧品など)として用いられ、フィジーを筆頭とする太平洋諸島は世界生産の8分の1を産出した。綿花はヨーロッパにおける産業革命により勃興した繊維産業を支えていたが、原料を供給していたアメリカ南部が南北戦争(1861-65)により疲弊したため、その代替地としてフィジーやオーストラリアが選ばれた。
□ 太平洋地域間貿易も盛んに行われた。たとえばニュージーランドからは木材が建設用の資材として、またタヒチからは豚肉それぞれがオーストラリアに送られた。ハワイのジャガイモは、アメリカ西海岸に送られ金鉱職人や毛皮商人の食料需要に応えた。

太平洋諸島の王国

□ 白人が太平洋地域に進出しはじめる大航海時代以前に太平洋諸島地域には国家としてのまとまりのある機構を持っていたのはトンガ王国のみであった。そこには十数代にわたる「王国」が存在していた。もっともここに「王」と言った場合ヨーロッパが観念するそれとは異なって首長制社会の首長であり、一面では専制君主のようでありながら、絶えず地域や共同体からの規制を受けていた。 既述の通りこの地域に進出したキリスト教伝道者たちは布教や植民を容易にするために「王」を改宗させるのが最良の道であると考え、王に接触を図った。王もその権力を形成・維持させ、他の首長を打ち破るために必要な銃火器を白人から入手するためには改宗することをもって最良の方法であると察し、ここに両者の思惑が一致した。このような王とキリスト伝道者たちの互恵的行動様式は他の地域にも見られ、太平洋諸島地域でヨーロッパ人の影響なしに国家形成が行われたところはないと言ってよい。
 最も強固に国家が確立していたといわれるハワイでさえ、カメハメハ王朝が成立したのは1795年であり、タヒチのボアレ王朝(1791)、フィジーのサコンバウ王朝(1867)などが成立しているが、これらの国家的統一はいずれも白人の助力や彼らが提供した鉄砲、火薬などの近代兵器を使用して実現したものであった。そのため地域への密着度は薄く、島民の伝統として地元民に定着する以前に崩壊し、植民地へと移行してしまった。

帝国主義の波

□ 19世紀も70年代に入るとヨーロッパには蒸気機関を軸として発展した重工業が勃興し、生産力が増大すると共に企業の集中と寡占化が進み、銀行と大企業が結合して諸産業を支配するようになった。とくにアメリカやドイツが、これまで世界に覇をとなえていたイギリスに肩を並べる勢いを示しはじめた。
 列強は、市場と原料の獲得だけでなく、資本を投下し利潤を求めるため、競って海外に向かい、世界各地で軍事衝突をひきおこしながら自国の植民地や勢力圏を拡大していった。資本主義の高度な発展と共に列強による低(未)開発地域への侵掠は領土とともにそこに居住する人々を支配する、いわゆる帝国主義の時代を迎える。こうした歴史の渦の中に巻き込まれた太平洋諸地域はイギリス、フランス、アメリカ、ドイツらの列強により分割された。
□ 1860年以降の欧米列強の植民地獲得競争による太平洋の分割の結果は別図に示す通りであるが、まさにこの時期における植民地化、保護領化ないし領有の進み具合は「殺到」という言葉がふさわしい。詳細は地図に表した年号を「侵掠者」たちの国名と照らし合わせてご覧いただくこととして、列強の代表的な動きを紹介しておこう。

【修正版】堤・太平洋の覇権「地図」.jpg

□ イギリスはつとに18世紀も終わりの1791年にチャタム島等を獲得していたが、タスマニア島(1824年)、ニュージーランド(1840年)、ノーフォーク島(1853年)に達した。これらの諸島は南緯30°あたりにあるが、次いで北上し、1874年にはフィジー諸島の領有を宣言した。つまり東ポリネシアから西進しメラネシアに達したのである。そして1888年から1889年にかけてクック諸島、クリスマス島をはじめとするいくつかの島々を、1892年にはギルバート諸島、1899年にはトンガ諸島を領有するに至った。この時期にイギリスの勢力範囲は東ポリネシアの広い範囲に拡がった。
□ フランスは1836年に東ポリネシアのタヒチを領有したことは既述の通りである。1840年に西経140°
にあるマルケーサス諸島を領有したのをはじめ、1853年には西に躍進してニューカレドニアに達した。
こうしてイギリスが南から東ポリネシアを北上し、メラネシアへと進んだのに対し、フランスは東ポリネシアを、イギリス領有地の間を縫うように東から西へと進んだ。
□ アメリカ
 アメリカは1867年にアラスカとアリューシャン列島(アレウト列島)を、またミッドウェー島を領有し、1897年には赤道付近のパルミラ島を領有した。
 1898年にスペイン領であったキューバの首都ハバナで起きた暴動と、2月に起きたアメリカの戦艦メイン号爆破事件をきっかけとして同年4月25日、アメリカはスペインとの間に戦争を始めた。4月30日にはアメリカ海軍はマニラ湾においてスペイン海軍を壊滅させた。アメリカはフィリピン(1571年にスペインによって植民地化されていた)の独立派と結び、各地でスペイン軍に勝利し、同年8月に終戦となった。
 この戦争は太平洋上のスペイン領土(グアム島など)に及び、米国内に太平洋に恒久的軍事基地を獲得すべしとする主張が巻き起こった。アメリカはすでにハワイ王国から真珠湾の独占使用権を得ていたが、紆余曲折を続けていたハワイ併合論に弾みがつき、遂に1898年7月、ハワイの主権はアメリカに譲与された。
 米西戦争に勝利したアメリカは、カリブ海域ではプエルトリコを、太平洋においてはフィリピン、グアムをスペインから獲得した。
□ ドイツ帝国
 ドイツはヴィルヘルム2世(1859-1894)のもと世界帝国を夢見ていた。すなわちドイツ帝国は、スペインが太平洋に保有するフィリピン及びミクロネシアにあるカロリン群島、マリアナ諸島らを獲得したい考えていた。これらの島々と中国の山東半島にある租借地(青島(チンタオ))を結べば、中西部太平洋を覆うドイツ太平洋帝国が形成されるのである。こうした構想に基づき、17世紀にスペインが領有を宣言したまま放置していたマーシャル群島を1885年に保護領とした。
 こうした折、米西戦争におけるスペインの敗北はドイツの眼からすると格好の材料として映った。
 ドイツはスペインに働きかけ、アメリカがグアムを得た後、アメリカが取得し損なったカロリン諸島とマリアナ諸島を1899年にスペインから4500万ドルで買収することに成功した。カロリン、マリアナ及び既に取得していたマーシャル群島、この3つの島嶼群が単一の政治的領域にまとめられドイツの勢力下に置かれることになった。

<参考文献>
・宮崎正勝「海図の世界史―『海上の道』が歴史を変えた」(新潮社、2012)
・ダニエル・ブアスティン、鈴木主税・野中邦子訳「地図はなぜ四角になったのか 大発見②」(集英社文庫、1991)
・増田義郎「太平洋―開かれた海の歴史」(集英社新書、2004)
・等松春夫「日本帝国と委任統治―南洋群島をめぐる国際政治1914-1947」(名古屋大学出版会、2011)
・佐藤幸男(編)「世界史のなかの太平洋」(国際書院、1998)
<地図>高橋亜希子

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